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市道田の小野車地線の起点、国道490号との分岐に参道があり、その傍らにひっそりと石碑が設置されている。
田ノ小野橋架設記念とだけ記されている。
制作年月などを知ろうと石碑の後ろを観察したのだが…尋常で無い状態になっていた。
何も刻まれていない。いや、文字を刻むのではなく何かのプレートを貼り付けてあったように見える。
それというのも背面には前面と同様長方形状に削った部分がありながら表面は異様にザラザラになっていたからである。
これは元々はめ込まれていたプレートを留めていた接着剤のように見える。四隅にはプレートを固定するためと思われる釘の跡も遺っていた。
普通に考えれば詳細を記録した銅板なりを貼り付けたように見える。表面が荒れているのは剥がし取られたからだろう。あるいは…まさかとは思うが、元々は表面と同様に文字が刻まれていたものの何かの問題があってモルタルで塗り潰されたのだろうか。
いずれにしても本来あるべき記録が意図的に取り除かれていることに変わりはない。
これは一体、どういうことだろうか?
田の小野橋の架橋については歴史的にみて瓜生野側の猛烈な反対があったことが知られる。総括でも書いたように初代の架橋では竣工式の餅撒きに瓜生野区民が誰一人として餅を拾いに行かなかったという記録がある。[1]本来なら架橋は祝福されることであり、瓜生野区民としては歓迎していないという総意の現れだった。架橋記念碑は厚東川からやや離れた田の小野地区にある。田の小野側では組合を組織して架橋に係る必要な費用を調達し、県の助言と補助も得て工事に漕ぎ着けた。もしかすると瓜生野側の意向を聞かずに田の小野側独自で架橋運動を展開したために遺恨を招いたのだろうか。そのため田の小野側に架橋記念碑を設置したものの、その内容を快しとしない人によって銘板を剥がされたとか背面に刻まれていた内容を塗りつぶされたのだろうか…いずれにしろ石碑の現状は尋常ではない。
思えば現在の田の小野橋の親柱も一対が失われている。経年変化や往来する車の衝突で剥がれた可能性はあるが、石盤そのものが存在せず壊れたまま放置されていることも普通にあることとは思えない。[2]
現在架かっている田の小野橋は昭和38年の2代目である。これは初代の橋から30年程度経っている。30年は短くはない期間だが子どもが親の言明を耳にして次世代へ伝えられる程度の年月である。もしかするとあまり公にされるのは宜しくない遺恨が今もあるのだろうか。
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出典および編集追記:
1.「二俣瀬小学校百年史」p.75
2. 2代目の橋も既に50年が経過している。3代目の架橋計画があるか国道490号の拡幅計画もあるため追加費用を投入してまで補修していないということも考えられる。
1.「二俣瀬小学校百年史」p.75
2. 2代目の橋も既に50年が経過している。3代目の架橋計画があるか国道490号の拡幅計画もあるため追加費用を投入してまで補修していないということも考えられる。