恩田町5丁目の建物【1】

建物インデックスに戻る

ここでは、恩田町5丁目に現存するか過去に存在した店舗や事業所などにおいて、個人的関わりのある(あった)ものを収録している。店舗ガイドを意図した記事ではないので、恩田を去った後に新規オープンしたり個人的に利用履歴のない店舗など掲載していない。掲載の有無と当該店舗の評価にはまったく関係がないのでご留意いただきたい。

各店舗の所在地を示す地図を載せると読み込みが遅くなるので、恩田町5丁目の生活道の総括記事向けに作成した上載せマップを流用する。各区画マップのリンクをクリックすると別ウィンドウでマップが展開される。
掲載順は単純に記事化された順となっている。記述する建物が限られているので、一通りの記載が出そろった後で再配置するかも知れない。記述後に思い出した事柄があれば随時編集追記する。また、項目掲載を希望されない方の個別案件の削除についてはいつでも応じる。

生活道の記事と同様に昔語りの要素を含んでいるので、特段の理由がない限り個人的関わりの項目を分離せずそのまま本文に記載している。★印は当該店舗の建物自体が完全に喪われたり改変されたりしたもの、☆印は建物を部分的に改築して別オーナーの経営となっているものを示す。
《 床波石油商会のガソリンスタンド★ 》
現地撮影日:2009/6/24
記事公開日:2015/1/22
国道190号恩田東交差点(市道神原町草江線との交点)の南西側、市道と旧道路敷に挟まれた三角形領域にはかつてガソリンスタンドが存在した。第1区画マップ
写真は当該スタンドが撤収して更地になったときの現地の様子。


支店名までこの通りかは分からないが、(有)床波石油商会による恩田の店舗であった。床波石油商会はその名の通り西岐波区の床波に営業所がある。[1]

店舗の構成は、三角形領域の国道寄りが給油を行う場所、中ほどに客の待機所およびレジが置かれていたコンクリート建屋、最も細い部分はオイル交換などを行うエンジニアリングスペースだった。店員は恐らく男性2名と女性1名で構成され、赤か青のスタジアムジャンパーを羽織っていた。女性店員は50代手前くらいの愛想が良い人で、レジはもちろん給油もこなした。短時間で済むメンテナンスをしてもらっているときの待機用としてレジのある一角に長椅子が設置されていて、その横に遊戯用のスロットマシーンが置かれていた。

実のところこのガソリンスタンドがいつ開店したのか覚えていない。旧道部分を歩いて小学校へ通っていた頃に存在していたかは分からない。[2]
ガソリンスタンドとしてはここより200m程度西側の恩田交差点にエッソのスタンドがある。開店時期はエッソの方が先だった。平成初期には揮発油系の販売店における些か過当競争気味な風潮があり、それほど距離をおかずに複数のスタンドが並ぶことは珍しくなかった。しかし時代は昭和50年代であり、当時としてはかなり近接して営業しているという印象はあった。

私が会社勤めを始めて車を運転するようになった当時はガソリンの給油先はエッソに指定されていた。もっともうちの母は免許を取ってからずっと家に近いこのスタンドで給油していた。そして私が退職した後は同様にここを利用するようになった。
当然ながら退職後はガソリンはすべて自腹だが、ガソリンの値段に関してはそれほど頓着しなかった。平成20年代に入るまではセルフスタンドはまだ世に存在しなかったし、まだいくら退職して手取り金額が激減しようが1円でも安いスタンドを求めて探し回る世相でもなかった。

母のときほど懇意ではなかったにしろ、よく話をする店員さんの顔は覚えている。車なんて機嫌良く走っていてくれればそれでいいと考えロクに自分でメンテナンスしなかったので、給油はもちろん冷却水の点検やワックス洗車まで全部この店に任せていた。オイル交換をすると、頼んでいなくても掃除機での車内清掃をサービスでやってくれるのは大変有り難かった。家から近い距離なので時間のかかるオイル交換を頼むときは車を預けて歩いて家に帰り、仕上がったら電話してもらっていた。

私たちが恩田を去った後も母はセルフスタンドが登場するまでずっとこの店舗まで来て給油していたようである。私自身がこの店へ最後に立ち寄ったのがいつかは分からないが、ワイパーのブレード交換をお願いしたときだったのは覚えている。ブレード交換はカーショップで買って自分でやれば安く済むのだが、面倒だし少々高くても久し振りだからちょっと恩田の店へ寄ってみようという気持ちもあった。
恩田に居た頃ずっと顔なじみだったおばちゃんが応対して、このとき店を閉めることになったという話を聞かされた。そしてこのワイパーブレード交換が馴染みのおばちゃんとこのスタンドを目にした最後だった。

冒頭の写真は、3年前初めて「勇気を出して」7年振り位に恩田のこの地を訪れたとき撮られたものである。馴染みのガソリンスタンドが跡形もなく壊され更地に戻っていたことに衝撃を覚えた。したがって残念ながら店舗営業時代の写真は一枚もない。閉店は恐らく平成10年代の後半だろう。
なお、現在では同じ場所に保険取次店舗が営業している。
出典および編集追記:

1.「Bing検索の結果 - 床波石油商会

2. 昭和40年代後半の航空映像では鋭角三角形領域に建物が見えている。記憶は不確かだが、この航空映像を眺める限りでは当初は国道と市道に挟まれた鋭角三角形領域の内側にスタンドがあったようにも思える。則貞方面から家に帰るとき、親父の運転する車で日曜日などスタンドが閉まっているときにズルをしてこの三角形領域へ入り込んで曲がっていたような記憶がある。(当時はまだ市道との交点に信号はなくスタンドが営業していない日も縄張りなどはされていなかった)また、スタンドの背面となる部分にはコンクリート壁があってその後ろを松尾水路の上流端の続きが流れていたようにも思う。もしそうだとしたら改装かオーナー変更などがあったのかも知れない。真偽は現地の検証かうちの親を含む在住者に聞き取りを要する。(2015/2/9)
《 武末釣り具店★ 》
現地撮影日:2011/6/26
記事公開日:2015/1/22
現在は一般の民家となっているこの場所には、昭和50年代まで個人の釣り具店があった。第1区画マップ
民家は当時のものではない


入口は確かガラスの引き戸で、ガラス部分に「本虫」とか「ケビ」など釣り餌の名称を書いた札が貼ってあった。後述するように釣りとはあまり縁がなく店へ入った回数は少ないが、微かな記憶をたどれば入ってすぐ左にアイスを収納するような形の冷凍ケースがあった。中には冷凍オキアミのような撒き餌として使うものが入っていた。冷蔵を兼ねているので一般のアイスクリームなども売っていたかも知れない。

もっとも私がこの店を訪れる用事は釣りとは全く無縁で、汲み取り券の買い出しだった。汚水管布設の遅れた私たちの班は平成期に入るまで屎尿は汲み取りだったので、券を買う必要があった。どういう訳かこの釣り具店に買いに訪れていた。[1]親父について行ってソーダ岸壁でチヌ釣りをしたことを中学2年生時代に日記に記述しているので、昭和50年代はじめ頃までは営業していたと思う。班が異なるため個人的な付き合いはなかった。
出典および編集追記:

1. 汲み取り券は市役所や市民センターおよび一部の限られた店舗で取り扱っていた。当時の住まいからはこの釣り具店がもっとも近かった。
《 恩田長沢寮 》
現地撮影日:2012/4/29
記事公開日:2015/1/31
恩田長沢寮は、宇部興産(株)の管理する社員向けの寮である。
写真は正門からの映像。
特段の関わりがないため建物を避けて門柱を主体に写している


この建物は平成期のはじめに造られ、関連会社で働く従業員の単身向け寮であるため専ら「宇部興産独身寮」ないしは簡単に「独身寮」と呼ばれている。独身寮ができる以前は木造平屋が整然と並ぶ鉄工所社宅で、それらを全て撤去した跡地に建てられた。

この場所は私たちが恩田へ越して来た当時から鉄工所社宅だったので、この丘陵地帯全体がかなり早くから宇部興産の社有地だったと思われる。だから景観がどう変わろうと異を唱えるべくもないのだが、この独身寮が建つことによって敷地外も含めて昭和期からあった多くの景観や風習にまで影響を与えたのは確かだった。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

《 敦煌恩田店☆ 》
ユニクロの店舗が清水川交差点に移動した後、敦煌恩田店となった。ユニクロ時代の建屋をそのまま継承していた。第2区画マップ
敦煌の利用頻度は自分としてそれほど低くはない。例えば常盤公園前の店舗はしばしば担々麺セットを食べに行っている。しかし個人的に恩田店を利用したのは常盤バドミントンクラブの忘年会での一度だけである。

家族での利用は新年のお節セットを注文していた時期がある。これは恩田在住期よりもむしろ恩田を去ってからの方が長かった。お節セットは注文して商品を取りに行くのはどの店舗でも良かったので、恩田店や鵜ノ島店で受け取ったことがある。店舗の性格上お節の内容は中華カテゴリが多く、えびチリや肉類はなかなか美味しくて納得のいく味だった。初期に注文したお節は総菜ごとに数段の重箱に分けられていた。六角形をした重箱の意匠が面白く現在も古銭や退蔵貨幣の収納箱として保存されている。
しかし価格は据え置きながら年々内容量が減っていく実質値上げを感じ、割高感が否めなくなった時点で注文をやめている。独立系会社パオ(株)が買収されたのはほぼ同時期だったと思う。

現在はカルビ大陸宇部店となっており、業態が同じなので店舗そのものを継承していると思われる。交替時期は不明だが、以前国道沿いの恩田地区を撮影した写真には敦煌が写っているのでここ数年の間のことのようだ。

(「恩田5丁目の建物【2】」へ続く)

ホームに戻る