恩田町5丁目の生活道

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記事作成日:2015/1/27
恩田町5丁目は国道190号の南側にあり、かつての字長沢、字中長沢、字野原を含む地域である。後述するようにこの地は個人的関わりが極めて強く掲載すべき生活道が多いので、全体を3つに分割したマップを作成した。一連のマップに掲載されない生活道も若干収録している。★印は記事作成時において存在していない生活道ないしは通路を示す。
なお、このマップは同町内に存在していた店舗や商店なども一部書き込んでおり、建物カテゴリに作成された「恩田町5丁目の建物」からも参照されている。緋色の表記は昭和期において、赤色の表記は平成期において閉店したりオーナーが変わった店舗類を示す。
《 第1区画 》
第1区画は国道190号の現在の恩田東交差点の南側の領域で、東側は市道神原町草江線および市道長沢源山線、西側は松尾水路に挟まれた領域にある生活道を対象としている。昔の表記では長沢と呼ばれる地域が主体である。


地勢的に特に言及すべきことは、マップで記載された区域において東が高く西に幅の広い沢が存在する点である。現在の市道神原町草江線から分岐する市道長沢源山線は丘陵部の西側斜面を南へ向かって下っている。このため市道の東側は概ね道路面より高く、西側へ向かう生活道路はどれも下り坂を持つ。市道と沢地との高低差はほぼ家屋一軒分である。
この沢の端はQ地点を通る水路に沿って存在し、ここより西は再び丘陵部になる。明白に幅の広い沢地を形成しており、かつての小字である長沢の所以となっている。

マップに現れている認定市道については、以下の記事を参照されたい。
派生記事: 市道長沢源山線
以下、マップの記号に沿って現存する里道(一部既に廃用されているかも知れない)およびかつて存在した里道を記述する。
旧道(A→B→C→D) 】
この区間は現在の市道神原町草江線において国道190号以南に古くからあった区間の一部である。
写真はA地点付近。


小学校時代はこの道を通って国道190号まで出てそこからは歩道を通って登校した。中学時代はここで横断歩道を渡って野球場方面へ歩いている。現在この道の東側にある対面交通+自歩道付きの広い道ができたのは昭和60年代初頭である。
新しい道が造られてからはこの旧道区間の両端にバリカーが設置され沿線にある民家や駐車場を利用する車のみが通れるようになった。この区間は現在も市道神原町草江線の枝線として市道路河川管理課の管理となっている。
それ故に項目を旧道とのみしておく
旧農道(B→H) 】
後述する新しい農道が造られるまでは通ることができていた道である。
写真はH地点からの撮影。


長沢の田畑へ向かう昔からの農道で、後述するC〜Hの道と交換する形で私有地となった模様。それ故にこの場所はB地点とH地点に柵がされ一般の通行はできなくなっている。ただし昔は通行できたとは言ってもH地点より先は個人所有の田ないしは荒れ地で何処にも出られる道はなかった。
新農道(C→H)】
前述の農道が通行禁止になったことの代替ルートとして造られたと思われる農道。
写真はC地点に向かって撮影。


この場所はかつて隣接する田んぼの一部で、水路一杯まで田だったので道どころかまったく接近不可能な場所だった。現在は舗装され溝に面する部分には転落防止柵が設置されている。前述の旧道部分との取り付けは以前は2m近い高低差があり、土砂を投入することでスロープにしている。この道ができた正確な時期は分からないが、平成期に入ってからかも知れない。
ぐにゃんぐにゃん道(M→J→K→D)】
松尾水路の上流端付近から離れて沢を斜めに登る道。
写真は道中での撮影。
現在は割れたコンクリートは取り除かれアスファルト舗装済み


ぐにゃんぐにゃん道は私の勝手呼称ではなく、兄や友達もそう呼んでいた。地図では一箇所きついカーブがあるように記述されているが、実際にはもう少し複雑に曲がっている。割れて散乱していたコンクリート片が取り除かれアスファルト舗装に変わった以外、この生活道は記事を作成する現時点でも昔の線形を保っている。異常な屈曲の理由はよく分からない。最初期に沢から丘陵部へ登るとき勾配を緩くするための意図的なものかも知れない。
沢へ下る道(N'→P→L→E)】
市道長沢源山線から真っ直ぐ沢へ下っていく道が存在する。
正面に見えているのは見初変電所


現在は沢へ下る道と言うか沢そのものがあまり意識されないのだが、かつては長沢の沢地を低い位置で横切るのはこの先に繋がる農道のみだった。現在はN地点で幅の広いグリーンタウンの道に交わるようになっているが、学童期はマップに灰色の線で記載しているように一本道のまま右カーブしてぐにゃんぐにゃん道の登り坂手前まで下っていた。
したがって本項目としてはP→Mの区間は既にかつての状態ではない

自宅があった場所から交通の拠点である恩田交差点方面への最短経路だった。恩田バス停や幼少期夢中になっていたくじ屋への往来で頻繁に歩いた道で、上の写真の如く正面に見初変電所が見える眺めは当時と同じである。個人的には恩田町5丁目の中でもっとも回数多く往還した生活道である。グリーンタウンから先は原形を喪っているもののN地点まではアスファルト舗装されただけで道の幅や隣接する民家は幼少期から変わっていない。
衝立の道(F→P)】
地図には記載されていないがこの区間には現在でもごく細い生活道が存在する。


両側に民家があるためブロック塀が両側へ衝立のように聳え立っている。ただし「衝立の道」は記事作成上の便宜名で当時からそのように呼んでいたわけではない。
この道はL地点とK地点の両端が高く中央付近に一番低い地点をもつ。このため雨水は経路の中央付近にある雨水溜め桝により民家の敷地の下を通って沢地方向へ流れるイレギュラーな状況になっている。後述する住宅地が出来る以前から管渠化されていた模様。
なお、マップではF地点付近より屈曲して数軒在る住宅地へ向かう道があるが、グリーンタウンの住宅地にみられるような所属民家による共同管理の道で先は行き止まりとなっているため記事化はしていない。
【 小路(K→L)】
ぐにゃんぐにゃん道の上端から市道長沢源山線の起点へ出る小路1とその間の生活道を連絡する直線部分としての小路2がある。
写真はL地点からK地点を見通した様子。
一枚の写真で足りるのでK→L区間は記事化していない


これらの道は自宅のあった場所と目的地に対して距離を縮めないためあまり通った記憶がない。ぐにゃんぐにゃん道を含めて自転車に乗って遊びで通っていた。D地点へ出ることが多くK〜L区間を通ることは更に少なかった。これらの生活道も以前は未舗装路だった。
水路沿いの道(M→Q)】
松尾水路の上流部に沿って沢地を横断する道。
写真はかつての沢へ下る道を降りたところとぐにゃんぐにゃん道の開始地点の合流点。


この区間は長沢と呼ばれる沢地を横切る部分でマップに掲載されているすべての路線のうちもっとも標高が低い。しかしグリーンタウン造成時にこの辺りまで盛土されたようで現在の通路は昔の沢地より2m近く高い。
M地点で松尾水路の先端部分にまみえて水路沿いに進む。くじ屋街道は整理上の勝手呼称で当時からそう呼んでいたわけではない。[1]しかし市道恩田八王子線沿いにある高橋のくじ屋への往還路としての通行が最も多く、次いで恩田バス停までの往還、現在の恩田交差点への徒歩による通行で頻繁に通っていた。

線形は現在も昔のものを踏襲しているが周囲の景観は一変していて昔を偲ばせるものが殆ど何も残っていない。道は現在よりやや狭い粘土真砂土系の農道で、周囲は一面田んぼで松尾水路は土手をねぶり着けただけの小川だった。

この旧道の状態を知るには恩田町5丁目付近の昭和49年代に撮影された航空映像が参考になる。
松尾水路の合流地点を中心に設定している。
十字カーソルは非表示にしている


航空映像では中央部分に田が写っていて水路の状況がハッキリ分かる。北の方から南下する水路とこの区間の中ほどで合流していた。
ここからは先述の旧農道・新農道が近いのだが、以前は松尾水路に分断されていて私設の橋もなく土手の溝をジャンプしなければ反対側へ移動できなかった。農家の人も必要に応じて自宅から渡り板を運んで水路に架けて一輪車を通していたようである。
ついでながら上の航空映像で沢地の下流部にあたる南側には盛土状に一段高くなった荒れ地が確認できる。これは昔沢尻にあった長澤炭鉱で掘り出されたボタ土と考えられている。[2]
グリーンタウンの道(G→N→M)】
市道長沢源山線の宇部興産長沢独身寮の横から沢地へ下っていく道。
写真は市道に向かって撮影。


地図ではG地点を省略している。この場所は第1区画にある宅内道路へ降りるI地点から数十メートル南に寄った場所で、昭和60年代に入って長沢の沢地が造成されグリーンタウンと呼ばれる住宅地になったときできた地元管理道である。幼少期は市道より西側は一面キャベツ畑でこの道の角に家もなかった。恩田に生活拠点を置いていた時代は買い物への往来や駐車の件において間接的にこの生活道からメリットを享受してきた以上、本件について言及しておかなければならないことが多い。古い道ではないが項目を作って記事化する。
出典および編集追記:

1. 特別な名前で呼ぶことなく単に農道と呼んでいた。

2. 母親からの指摘による。母自体は人からの伝承でそのことを知っていたようだ。私の学童期は当時は酒屋の社有地となっていて木枠の箱に一升瓶が入れられたものが置かれていた。遊びで兄貴と数回入り込んだことがあり、下地の土は確かに濃い茶色であった。詳細は市道笹山岬台線の記述を参照。現在の宇部興産恩田長沢寮の前身だった鉄工所社宅も更にその前は長澤炭鉱での労働者向けの炭鉱住宅だったと思われる。
《 第2区画 》
第2区画は国道190号以南で第1区画の西側、松尾水路から市道恩田八王子線の間の恩田交差点までの領域を割り当てた。松尾水路より西側は中長沢である。


先述の通りQ地点を排水路が通じている。この水路は字長沢と字中長沢の境となっていて、Q地点を過ぎるとR地点に向かって登り坂になる。この勾配はR地点からS地点へ向かう最初のレンガ坂部分でもっともきつくなる。R地点からT地点は沢地の上流部に向かうので、道自体はフラットだが沢地との高低差が少しずつ小さくなっていた。この地勢の変化は敦煌恩田店の建物ができたとき周囲の土地に合わせて地上げしたため現在では痕跡は分からない。
また、現在ではR地点から見初変電所裏へ向かうあぜ道がみられるが、恩田在住期は畑の畝の一部で現在のように通行できる状況ではなかった。
見初線No.31引き込み鉄塔までの写真は採取済み
くじ屋街道(Q→R→S)】
くじ屋への往還によく通った道である。 写真は市道恩田八王子線側のS地点付近。


Q地点で松尾水路を横切ってからは字中長沢となりやや登りになる。現在はコンクリート床版で横切っているが、グリーンタウン造成が始まるまでは石橋が架かっていた。
石材は周囲には見当たらず処分されてしまった模様

レンガ坂を登ったところに民家がありそこまでは市道恩田八王子線から車で入れるだけの道幅があった。なおこの民家とは恩田在住期も個人的付き合いはなかった。R地点までの線形はほぼ同じで下地の赤土も同様である。
恩田バス停道(R→T)】
くじ屋街道の途中、松尾水路を横切って少し登ったところにある十字路より国道方面に向かう道である。
写真は国道190号側のT地点からの撮影。


この道は現在もほぼ変わらず遺っている。マップに記載されている通りかつてR地点の角には屋根付きの肥溜めがあった。国道取り付け部付近には現在焼肉店が入っているが、この敷地は1m程度地盤を嵩上げしている。かつてバス停がある国道歩道のすぐ後ろは低い遊休地だった。
なお、R〜T区間の途中に市道恩田八王子線へ出る生活道が存在するが、この道は恩田在住中には通った記憶がない。ただし古くからある道のようだ。
一応写真は採取している
レンガ坂★ 】
恩田バス停に向かう十字路から市道恩田八王子線へ向かうもっとも勾配のきつい部分。かつてここには使い古しのレンガが一面に敷き詰められていた。
写真は恩田バス停道分岐点からの撮影。


このレンガ坂は既に存在しない。2013年のはじめに一部が失われ、更に夏頃当初の半分程度にまで縮まった。2014年に入ってこの角地にあった家屋が建て替えられた際にレンガ敷き部分がすべて土間コンクリートに打ち換えられ失われた。
《 第3区画 》
第3区画は恩田町5丁目の国道と市道神原町草江線に挟まれた領域付近を割り当てた。独立した生活道ばかりなので記号は記載していない。市道神原町草江線以南は長沢、鋭角三角形領域は下野原になる。[1]
手書きマップに差し替え作業中…一部不完全ですがご了承ください


南北に通じている中川の排水路が長沢と赤岸の境である。現在アルク恩田店が建つ場所は長沢よりは幅の狭い沢地であった。[2]
この区域は丸信恩田店が最もメインな建物だっただけに、買い物関連での通行用途が多い。東西には平成期に入って拡幅された市道神原町草江線が通っている。拡幅以前の道幅は現在の自歩道相当部分しかなく、線形は概ね上のマップに書き込まれた通りである。
この区域を通る認定市道については以下を参照されたい。
派生記事: 市道神原町草江線【3】市道恩田2号線
以下、個人的関わりのある通路を生活道以外も含めて解説する。
薬局のオオサワのショートカット路★ 】
前もって断っておくことにこの経路は生活道ではない。私有地通り抜けである。当該店舗利用以外の通行は推奨されないので留意されたい。


薬局のオオサワがある立地は国道190号と現在の市道神原町草江線に挟まれた鋭角三角形領域だった。このため恩田在住時代は店舗の敷地をショートカット路とみなして勝手に通っていた。この勝手通行は前身のグランプリ時代から行われていた。[3]
草江1丁目の生活道|丸信恩田店の買い物道
現在のアルク恩田店のすぐ横、中川水路に沿う細い道は買い物の往路としてしばしば自転車で通った。この通路は草江1丁目に属するがマップに記載しているのでここで案内している。写真は駐車場付近。


中川の用水路に沿う道は、市道神原町草江線と国道を連絡する区間は自転車でよく通っていた。また、空き地に分岐する部分は幼少期に近くの友達と基地ごっこをしたときの場所である。
市道を挟んで中川用水路の下流側も辿ったことはあるが、言及すべき想い出はない。

この他、市道恩田2号線のすぐ西側に車の通れない生活道があることは知っていたが通ったことは殆どない。早くから市道恩田2号線が通れていたこと、市道に比べて狭く途中に起伏部を越えていく区間があるからだった。この付近では後述する墓場へ至る道の取り付け付近が最高地点で、そこから市道神原町草江線に沿って東西どちらも下り坂になる。私たちが恩田へ訪れたときからこの周辺は既に家が散在していたが、地勢的には恩田運動公園の方から南へ延びている尾根の一つである。現在の国道190号はこの尾根を浅い堀割で通過している。
【 山形商店への近道 】
殆どショートカットの役目を果たさないのだが幼少期に山形商店へ買い物に行くとき鉄工所社宅に隣接する住宅地の中を歩いていた記憶がある。
写真は市道長沢源山線に面する接続部。


この住宅地は恐らくかつての鉄工所社宅とは別と思われるが恩田へ越してきたときには既に存在していた。市道長沢源山線に接続される東西の経路は軽四を通す幅があるが、南北の経路はいずれも民家の玄関先を通るような細い道のみである。住宅地において私自身との繋がりがあった方はないが、兄貴の友達がこの近くに住んでいた。
2015年のはじめに東西の経路を調査したとき後述する墓地への道へ出られることが明らかになった。この途中に先の”衝立の道”よりも更に狭いブロック塀の道が見つかった。
【 鉄工所社宅に至る道★ 】
現在の宇部興産(株)長沢独身寮の正門よりやや南側にかつて鉄工所社宅へ入る正面入口が存在した。
入口部分の間口は6m程度、市道長沢源山線沿いにある水路横断部分はヒューム管が布設されコンクリート舗装によるスロープが造られていた。このスロープを上がったすぐ先右側に鉄工所社宅向けの売店があった。この売店は私が小学校へ上がる頃には閉店したので昭和40年代半ば頃と思われる。
鉄工所社宅内部は碁盤目状に砂利道が造られていた。この道は既に痕跡も存在しない。鉄工所社宅の解体時にすべて喪われている。
【 鉄工所社宅グラウンドに至る道★ 】
上記の鉄工所社宅進入路より更に市道長沢源山線に沿って南側50m程度のところに同様の進入路が存在した。入口の間口などの規格は社宅入口のものと同等であった。この道も独身寮建設時に喪われた。
墓地に至る道
市道神原町草江線が下り坂に差し掛かる途中から分岐している道。昔あった鉄工所社宅の中を近道したとき通った覚えがある。
写真は墓地の祠がある付近からの撮影。


この墓地の名称は分からない。鉄工所社宅時代はグラウンドの裏側に通じていてブロック塀や柵などはなく丘陵部の東側斜面に墓石が点在するのが見えた。肝試しで学童期に訪れたことがある地元民がある模様。

複雑に枝分かれする生活道の位置関係を言葉のみで説明するのは困難なので、各記事では上記のマップおよび地点記号を元に説明している。分岐点などの位置はマップ上の記号に対応する。各記事の冒頭に関連するマップの別ウィンドウリンクを掲示するので、参照しつつ読み進めることをお勧めする。
出典および編集追記:

1. 中川水路より東は草江1丁目になる。しかしこの部分以外に生活道として収録するあてがないので、草江地区の生活道の項目を立てずに恩田町5丁目へ組み入れている。草江1丁目の項目を作成し移動しました。

2. 2014年4月からのアルク恩田店全面改装工事では現地に流用土が搬入され低い沢地を若干地上げして新たな建屋が造られている。

3. グランプリ時代から続いていたこの建物は取り壊され跡地には新規にコンビニエンスストア(恐らくセブンイレブン)が建設中である。(2015/11/4)
コンビニが建設される折に国道と市道神原町草江線の間にあった鋭角三角形状に残っていた畑地は全て買い上げられコンビニの駐車場となっている。(2017/5/12)
《 個人的関わり 》
恩田町5丁目は私の幼少期から成人に至るまでもっとも長きにわたって過ごした想い出の地である。幼稚園2回生のとき松山町から恩田へ移り住み、大学生時代における2度の断続的な山口市の下宿期間を除き平成初期に恩田を去るまでの生活拠点であった。
現在のところ他に記述可能なカテゴリが存在しないので以下に移り住み始めた頃から去りゆく時までと、一連の経過を記録に遺そうと思いたった経緯を記録している。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

なお、上記の情報は文化カテゴリ配下に生活セクションを作成した折には移動される予定である。

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