スパンキー

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記事作成日:2018/8/29
最終編集日:2018/10/18
ここでは、昭和中期に宇部市内および近隣地域においてスナックフードとして一世を風靡したフランチャイズチェーン店舗のスパンキーについて記述する。
写真はこの総括記事作成時点において、市内で唯一スパンキーを明示し当該商品を販売している昭和町の個人店舗。


なお、以下の記述は上記店舗の経営者から聞き取った情報に私の記憶および当時の情報を寄せて下さった方々のものを統合している。
《 歴史 》
商品としてのスパンキーで認識されているものは、ソーセージに衣を着けて油で揚げた現代でいうアメリカンドッグ[1]である。しかしかなり早い時期から中心のタネとなるものをソーセージに限定せず、卵やチーズといった具材が用いられてきた。写真は昭和町店舗で提供されているスパンキー3種。


現在、昭和町店舗で提供されているソーセージは、具材が粗挽きウィンナーに変更されている。最初期は現代で言う魚肉ソーセージであった。

店舗では客の注文を受けて油で揚げ、まだ熱い状態のものが提供される。店内にある丸椅子に座って食べても良いし、テイクアウトして屋外や車の中で食べることもできた。スティック部分を手で持ち、辛子かケチャップを外側の皮へ載せてからしゃぶり着くのが標準的な食スタイルであった。当時の正確な価格は分からないが、概ね100〜200円だったと思う。
【 発祥の背景 】
スパンキーの第一号店は大沢住宅がある国道190号の道路沿いであったことから、宇部市内より市外へ拡がっていったことがほぼ確実視されている。店舗設立の時期などは明らかではないが、昭和中期に上京した宇部出身者が現地でアメリカンドッグの存在を知り、その利便性と味を評価して宇部でも広めたいと考えて製法などの知識を得て持ち帰ったことによる。第一号店舗が大沢にあったので、西岐波区在住者か近隣地区に関わりのある方と思われる。

スパンキーはアメリカンドッグであり、名称として存在することからまったく新種のスナックとは言えない。同等のものは新川市祭りなどで沿道に並ぶ出店で食することができた。しかし現在のような電子レンジで温めるだけで食べられる調理済みのアメリカンドッグは未だスーパーでも売られておらず、どちらかと言えば祭りに付随する食文化だった。スパンキーは祭り限定であった特別な軽食を日常生活へ提案することで大きな成功を収めたと言える。
【 スパンキーという名称 】
スパンキーとは、現在で言うアメリカンドッグに最も近い中食系スナックである。当時はその商品自体と店舗の双方をスパンキーと呼んでいた。発音通りに綴れば spanky となる。英単語の spank には「軽食する、つまむ」という意味があるので、軽くつまむものといったネーミングであろうか。一般には殆ど常に「スパンキー」と片仮名表記される。
山口市内の1970年代ゼンリン地図に表記されたNo.12「スパキー」は恐らく誤記と思われる
【 店舗数の拡大 】
アメリカンドッグは祭りの定番商品で、棒の部分を持ってしばしば歩きながら食される。スパンキーは店内で食べるよりもテイクアウトして外で食べる方が多く、公園で食べたりドライブがてら食することもできた。

昭和中期には既にご飯や丼物といった和食、ラーメンやカレーなどの洋食を提供する店舗は存在していたが、店舗を訪問しそこで座して食する形式の食事が殆どであり、それ以外はおやつか喫茶店での軽食しかなかった。揚げたての香りと味、おやつ以上の腹持ちの良さ、レストランの食事のように一定の場所で時間を縛られることもなく移動しながら食べることができるメリットがあった。

昭和中期の食事作法としては、屋外で気軽に食事するのは祭りや遠足のような特別なイベント限定であった。普段の生活では一般の食べ物を電車の中など公共の場で食べるのは行儀が悪いことであり、まして歩きながら食べるなど論外であった。このため一部の世代からは行儀作法の悪さを指摘する声もあったが、スパンキーの味や利便性に魅了された若い世代を中心に爆発的な人気を呼んだ。旺盛な需要に応じて、市内でもいくつもの店舗が営業していた。
【 支店について 】
同種系列の店が複数造られる場合、現在では店舗の存在する町名や地域名を冠してアルク琴芝店のように呼ばれる。この点でスパンキーは特異で、営業開始した店から番号で呼ばれていた。したがってナンバーだけでは何処にあるスパンキーの店か分からなかったが、これには地域名を元にした支店名にしなくとも事足りる背景があったと考えられる。

後述するように一号店である No.1 は大沢付近にあった。スパンキーが認知度をあげて同種の店が市街部へ求められるようになって、各地域で自前の喫茶店などを改造してスパンキーも提供できるようにした支店が現れた。その地域でなおも足りないとなると、一定の需要がある地で新しい支店が出来るといった状況なので、次第に遠くの店へ行くことなく最寄りの店でスパンキーを買えるようになった。

こうして順次できた支店は、完全フランチャイズ制に見られるような画一的店舗ではなく、元からあった喫茶店などの改造なので場所によって仕様がまちまちであった。例えば No.1 では遠方からの客も車で訪れるため店舗の面積も広かったが、専らテイクアウト重視の店ではチケットの窓口販売の如く小窓を介してやり取りするだけで店内に座椅子が極めて少ない店もあった。既に喫茶店などを経営しているオーナーは、一から店舗を造るという大きな初期投資をせず手持ちの設備を拡張するだけでスパンキーを取り扱うことができたのも市内外に支店数を伸ばす要因になった。

元となるお店がバラバラでも、スパンキーという商品そのものは店によって味などに大差があってはならないため、フライヤーなどの調理器具を導入する時に一食あたりの重量や製法などについて創業者側からの指導があった筈である。また、売上げに対して一定のライセンス料支払いもあったと想像されるが、この辺りについてはまだよく調べられていない。
【 衰退の理由 】
最盛期は市内外に多くの支店を有し、多くの若者によって支持されてきたスパンキーも次第に支店数を減らしていった。個人的にはよく利用していた No.1 店も昭和50年代に入る頃から行かなくなっている。

スパンキーの店が減っていった理由はいくつか考えられるが、最大の要因はスーパーマーケットの増加ではないかと思われる。買い物スタイルは個人経営の食料品店での対面販売から豊富な品物を陳列して欲しいものをカゴへ入れて会計を通すスーパーマーケットに移行した。この過程で多くの食品、特にスナック類も納入され店頭に並んだ。スパンキーと同種の商品が存在していたわけではないが、おやつ以上3食の食事以下の「中食」となる対象がスパンキー以外にも出現した可能性がある。

車社会へのシフトも遠因として考えられる。昭和40年代後半から増え始めたスーパーマーケットでは、自家用車で乗り付けて買い物するスタイルから自前の駐車場を備えたものが一般化した。この裏で徒歩やバスで買い物に訪れる以外ない個人経営の食料品店が軒並み姿を消した。

スパンキーも元々は個人経営の喫茶店から始めている事例が比較的多く、殆どの支店では駐車場がなかった。車社会の到来に対応できていない店舗が劣勢を強いられるのは、ジャンルこそ異なるもののかつてはスパンキー以上の認知度と支店を持っていた「小僧寿し本舗」にも当てはまる。
【 意義 】
後述するようにスパンキーの支店は減り続け、この総括記事を編集している現時点では市内には一支店しか残っていない。支店の場所が判明しているところでも当時の看板などが遺っている場所は皆無で、建物自体もリノベーションで外部構造がまるで変わっていたり取り壊されたりしている。現在営業している No.14 支店がなくなれば、市内からスパンキーが完全に消滅する。

現在ではアメリカンドッグは最寄りのコンビニやスーパーで購入できる。しかしいずれも保温器に入れられたものか自分で電子レンジで温め直すタイプであり、揚げたてが供されるのは祭りの出店でしかない。再び爆発的な人気再来となる可能性は薄いが、当時のブランド名と製法を保って製造販売すれば、立地よりも車でのアクセスの良さと広域への情報伝播さえ克服できるなら、スパンキーのみに絞ったとしても営業成立する余地は充分にあるように思う。
《 営業している店舗 》
【 昭和町2丁目(No.14) 】
市道芝中通り線沿いに存在する。冒頭の写真のようにスパンキーの名称を掲げているがナンバーは表示していない。専門店ではなく一個人による喫茶焼きそばの併設営業である。後に店舗番号はNo.14であることが判明している。


初めて店舗を訪れたときのことを派生記事としてレポートしている。詳細は以下を参照。
派生記事: 市道芝中通り線|スパンキー
現在は常連客などを相手に営業している個人喫茶店という形態であり、当時のスパンキーのメニューは揃っていて現地で食べることもテイクアウトも可能であるが、専門店ではないが故に相応な駐車場が整備されておらず材料も充分ではない。記事などで人気に火が着き昔を懐かしむ市民が大勢押し寄せた場合、長く待たされたり材料が底をついて提供できなくなる可能性がある。店主さんもそのことを理由に、メディアへの露出や宣伝についてむしろ自重して欲しいとのことだった。スパンキーを食したいと願って店舗へ行かれる方は、以上のような背景を熟慮されたい。
【 市外の店舗 】
前項のNo.14は宇部市内において現存する最後のスパンキーの店である。市外では山口市、萩市領域に存在していたようであるが、現在営業している店があるかは調査されていない。
《 かつて存在した店舗 》
現在ではフランチャイズ契約で運営されている店舗は、それぞれ立地に呼応した支店名で呼ばれる。しかしスパンキーは1号店があった場所の江頭や大沢といった地名は支店名にまったく用いられず、専ら No.1 と呼ばれていた。そして以降の店舗も同様にナンバーで呼ばれ、商品を提供する袋などにも支店名はナンバーによるもののみだった。
当時からあった筈のナンバーで分類することは、番号がまるで分からなくなった現在では困難である。当面は店舗が存在していた場所を項目名としてナンバーが判明次第追記する。
【 西岐波区大沢(No.1) 】
国道190号沿いの大沢にあった店舗。この店がNo.1店であったことが後日No.14店舗へ訪問したときの聴き取りで判明している。

店舗は1階部分が来訪者向けの駐車スペースになっていて2階が店舗だった。車を降りて建物左端にある階段を上がって2階店舗のドアを開けて入店していた。ラーメン屋と同様のカウンターと個別の椅子が置かれていて、注文してその場で食べることもできた。丸椅子は十脚程度は並んでいたので、スパンキーのお店としては知っている中で最大だったと思う。カウンターで食べるときは他にドリンクやアイスなどのサイドメニューも用意されていたかも知れない。

2010年以前にこの付近を自転車で訪れて当時の建物を探している。しかし記憶にあるような建物はみられなかったことから、市営大沢住宅を取り壊して県営住宅を造るときに除却されたように思われる。昭和49年度版の地図を見ると、現在の県営住宅の国道側入口付近に屋根の色が異なる建物がみられる。
過去のゼンリン地図による位置特定情報を元に修正しています


ここがNo.1店舗であったことから、創設者が西岐波区在住者であった可能性もある。
【 新天町アーケード街 】
新天町アーケード街の現在のレッドキャベツに隣接する形でスパンキーの店が存在していた。
この店舗は大沢の店よりも随分と小さく、アーケード街側からはガラス窓を通して店の内部が見えていたように思う。当時の丸信宇部店側からも入店できたかも知れない。丸信宇部店は恩田へ引っ越してからも丸信恩田店ができるまでは母のお供でバスでよく買い物について行っていたので、荷物持ちの駄賃代わりに買って貰った位のことはあった。

現在の様子。スパンキーがあったと思われるほぼ同じ場所を写しているが、支店が偲ばれるものは見当たらない。丸信宇部店は平成期の火事で再建されたので、そのときの改修工事で消滅したと思われる。


何号店であったかはまだ判明していない。支店の存在も私の他にお一方しか裏付けが得られておらず、勘違いか場所が異なる可能性もある。
【 東新川町(No.20) 】
市道恩田通り線沿いに存在していた。位置的には交差点の角にある建物である。現在は2階建ての会社事務所となっている。


建物が当時のままかは分からないが、道路に面して販売用の窓口があり、ガラス戸を通してやり取りしていた。この店舗を利用したことがあるかは分からないが、自転車で恩田と市街部を往来するときかならず通る道で、それ故にこの場所にあったことを正確に覚えていた。No.14オーナーによれば、市内でいくつも存在していたスパンキーのお店のうちもっとも近年に閉店されたという。

この建物が面する市道恩田通り線は、昭和40年半ばに新規に造られた道路である。したがってこの場所にあった支店もナンバーが不明ながら少なくとも同時期以降の後発の店だったことが窺える。支店の存在証言は比較的多く、実際に利用したことがあるという人の話も得られている。後にFBメンバーによりこの支店がNo.20であったことがゼンリン地図の提示により示されている。
【 末広町(No.10) 】
末広町の市道恩田八王子線沿いに存在していた。現在は同じ場所に鉄筋コンクリート4階建てのビルが建ち、1階がカーショップとなっている。


この支店は8月31日に出版された「宇部・山陽小野田の昭和」写真集により No.10 であったことが判明し、その資料を元に山口ケーブルビジョンのディレクターが(当該番組の収録終了後に独自で)取材を行っている。スパンキーとしての営業は既に行っていないが、当時の盛況ぶりが語られるなど番組の中でも対談により多くが明らかになっている。

永らく恩田に在住していながら、この支店の存在はまったく知らなかった。昭和52〜55年頃までこの建物の隣りにある駄菓子屋へくじを引きに行っていたことが分かっている。スパンキーが存在していれば(東新川の場合のように)たとえ利用しなくても記憶に残っている筈なので、それ以前に店を閉められたようである。
【 中央町 】
中央町にも支店が存在していたという報告を受けている。殊に銀天街界隈は昭和後期まで市街部の中核的存在であり、支店の存在はかなり確からしい。しかし支店ナンバーや正確な位置はまだ把握できていない。

現在のところ市内でかつてスパンキーの店があった大方の場所が判明しているだけで、それらのナンバーがいくつであったかは分かっていない。
《 マスコットキャラクター 》
公式にアナウンスされていたものかは分からないが、スパンキーにはカンガルー親子のマスコットキャラクターが存在した。商品をテイクアウトするときマスコットキャラクターの印刷されている紙袋に入れられていた。
紙袋は概ね厚さ10cm×幅20cm×高さ30cm程度で、薄いクリーム色ないしは黄色系の紙だった。その片面ないしは両面に母さんカンガルーが揚げたてのスパンキーを手にしてニコニコし、母カンガルーの袋の中に居る子どもも同じような仕草をしているといったイラストだったと記憶されている。カンガルーに名前は与えられていなかったと思う。また、キャラクターとは言っても関連グッズの販売や縫いぐるみの存在はされていなかった。店舗の看板に描かれていたかどうかも今となっては分からない。

記憶はかなり明瞭なのだが、その紙袋の写真などは未だネットで見つからない。それ故に後述するスパンキーの放映に合わせて記憶を頼りに当時のイラストを描いてみた。


この映像は、後述する番組制作においてマスコットキャラクターのカンガルーが存在していた旨を話したとき、紙袋に描かれていたイラストの提供を求められて学生時代に5段階評価で3から上をもらったことがない程度に描画ド下手だった私がネット上に提示されているカンガルーのイラストと脳内記憶を無理やり統合してアウトプットした結果である。[2]このイラストをスパンキーを知る同世代の方何人かに見てもらったが、概ねこんな感じだったという回答だった。昭和後期あたりまで営業していた店舗であり、関連するアイテムがまったく消え去っているとは思えない。資料の出現が待たれる。
《 その他 》
東新川町に存在していたスパンキーがNo.20であったことから、少なくとも十数店舗(殆ど確実にそれ以上)の支店が市内県内に存在していたことになる。しかし No.1 は判明していても No.2 以降は殆ど何も分かっていない。支店ナンバー順の一覧を作成するという作業にかなり興味を持たれているが、リストを埋めるのは非常に困難である。銀天街アーケードに入っていた店舗一覧をマップに落とし込む山内静香園のような地道な取り組みが必要になるだろう。

未だここに掲載されていないスパンキーに関する情報提供を求めている。モノクロ写真や紙袋のような客観資料の存在は強い裏付けとなるが、曖昧かも知れない個人的な記憶も大きな情報源である。いくつかの証言を集めて一致する内容があれば確からしいものとなる。情報の皆無なところからは何も生まれず、不確かながらも無いよりはあった方が良い。寄せられた情報は下記項目に一旦溜めて整理した後に編集追記する。
《 近年の変化 》
以下の項目は仮置きである。ある程度まとまってきたら別途項目を作成して移動する予定。

・山口ケーブルビジョンの自社製作番組である「にんげんのGO!」において、2018年9月第一週より一日4回20分番組の中の訪問箇所としてスパンキーNo.14が放映された。第1弾で風景印の候補地を宇部マニアックスによる題材提供で配信された後、風景印を離れて市内の題材提供を求められたとき、ディレクターから「宇部のソウルフードのようなものは何かありますか?」と尋ねられてスパンキーを思い付いたことによる。プレ調査が行われ、市内最後の店舗でもあることと相俟って高い関心を示され、番組題材化に至っている。
なお、現地での撮影は5月11日に行われており、店舗の所在地や店内などの撮影を番組上で控えることを条件に取材の承諾を頂いている。これはスパンキー No.14 の屋号は継承しているものの現在は喫茶店経営の傍ら独りでお店を切り盛りしており、番組を視て現地へ大勢が押し寄せられると注文に応じきれなかったり駐車場に困るなどの事態が起きることを懸念された上での応対であったことを理解頂きたい。

・8月31日に出版された「宇部・山陽小野田の昭和」写真集により、末広町に No.10 店舗が存在していたことがモノクロ写真により判明している。幼稚園の頃より恩田に住んでいながら支店の存在をまったく知らなかったが故に驚きだった。

・9月3日の放映開始日にあたり、山口ケーブルビジョンのディレクターから山口市内に No.12 の店舗が存在していたことが過去のゼンリンR地図の提示により示された。また、後日の No.10 取材においてスパンキーの創業者が明らかになった。ただしスパンキーが大流行したのは数十年前のことであり、創業者ご自身は当時を回顧して語ることを望んでおられず直接の聴き取りは困難と聞いている。個人情報の兼ね合いもあるためここでは市内に在住なさっているという以上の記述は差し控える。

・10月上旬のこと、FBメンバーにより最近ずっとNo.14店のシャッターが降りているという指摘があった。この状況は中旬に入ってもずっと続き、私が15日に現地を訪れたときも同様だった。[3]店に貼り紙などはなく状況は不明である。半月もシャッターが降りた状況は個人店と言っても尋常ではなく、閉店してしまった可能性がある。本件は変化があったら続報を追記する。
初めて店舗を訪れたときの聴き取りを行ったときの状況をFBタイムラインに揚げたレポート。リンク情報を元に公開時以後も追加の詳細情報が読者から寄せられている。
外部サイト: FBタイムライン|スパンキーなくして宇部の昭和ファストフードは語れない【上巻】(2015/1/21)
FBタイムライン|スパンキーなくして宇部の昭和ファストフードは語れない【下巻】(2015/1/21)
出典および編集追記:

1. 但し現存する最後の No.14 店舗では看板にはアメリカンドッグではなく「フレンチドッグ」と記載されている。

2.「FB|2018/8/29のタイムライン

3.「FB|スパンキーNo.14の火が消えたかも知れない(2018/10/15)
《 個人的関わり 》
個人的関わりについては前項の派生記事で殆ど書いているのだが、市内にいくつもあった店舗のうち関わりのあったものについて記述する。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

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