宇部紡績工場

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記事作成日:2019/4/29
最終編集日:2023/7/22
宇部紡績工場とは、琴芝町1丁目にある宇部市立図書館を含む周辺にかつて存在していた工場である。
画像は昭和39年度版と昭和49年度版の国土地理院による航空映像。


周辺の道路とは違う形で東西南北に伸びる塀で仕切られた領域が宇部紡績工場である。後述するように戦時中の宇部大空襲で破壊され工場の建物としては既に存在しないが、当時の工場を構成していた壁の一部が図書館の建物や外壁に流用されている。
《 歴史 》
戦前の建物であり、当サイトでは何の独自情報も持ち合わせていない。当然ながら版権を所有する当時の写真も手元にはない。以下の記述は概ね[1]に依拠する。それらを元にした個人的な考察による記述も含まれるので、誤謬があるかも知れない。
【 設立と背景 】
大正6年3月に宇部紡織所として発足したのが始まりである。匿名組合による設立で、大正初期より建設計画が練られていたが、当時の経済界の不況により発足が遅れていた。

紡織所としての設立背景には、渡邊祐策翁による女性の労働機会提供の発案があった。当時は石炭の採掘が少しずつ効率化され、労働力の提供から宇部に人々が集まり始めた頃である。重労働である石炭の採掘は主に男性の仕事で、女性は選別などの補助的な作業が多かった。女性の労働職種として製糸業が選定されたのは、明治初期から大正期にかけて生糸製造が輸出の主力産業であったことに依る。祐策翁は炭鉱での就労よりは相対的に負担が少ない業種で女性の働く場を提供することを考えていたことが窺える。

設立の翌年には株式会社化され、宇部紡績工場は国内で見ても屈指の生産量を誇っていた。昭和初期には男女の就労者数を合わせると千人を優に超えていた。ただし女性向け労働の場が提供されたとは言っても仕事はそれほど楽なものでもなく、低賃金ということもあって辞めていく労働者が多かった。足りない人材を沖縄方面から募集することもあった。

工場の設立に関して渡邊祐策と紀藤閑之介との有名なやり取りがある。紀藤閑之介は産業に関して実効的な考えをもっており、人海戦術といった人件費の嵩む人手に頼るのではなく機械化を念頭においていた。他方、渡邊祐策は仕事が無い郷土の人々に労働機会を提供したいと考えていた。「米寿紀藤閑之介翁」にはこのときのやり取りが記されている。[2]
(略)それより前に翁が宇部に紡績工場を作ったらどうだろうかと相談された。わたしは前述の如く人を沢山使う仕事はいけないという考えだし、大阪方面でもなかなかむつかしいことを聞いていたので、賛成しなかったところ、翁は「新川の街をごろうじ、女共がほうたらまえで、たくさんぶらぶらしておろうがの。あれらあに仕事をこさえてやらんにゃあ」といわれた。「ああそうですか。わたしは儲かる会社を作ろうというのだが、あなたは社会事業のために会社をつくられるのであれば、これは根本が異なるので何とも申し上げようがない」といった。
このやり取りは、郷土の発展における取り組み方として両者が念頭においている部分が異なっていることが如実に現れていることでしばしば引き合いにされる。
【 宇部紡績工場歌 】
殆ど知られていないが、宇部紡績工場の歌が存在する。歌詞は以下の通り。[3]作詞作曲が誰であるかは不明であり、楽譜も知られていない。
一、厚東の峰を背に負いて
  波も静けき周防灘
  心豊かの宇部の里 [*]
  之ぞ吾等が天地なる

二、炭の光に生れ出で
  二州に高くそそり立つ
  その名もしるき宇部紡は
  吾等が働く住家なり

三、大正六とせ末つかた
  ゆるがぬ礎固められ
  愛と恩とに糸引くは
  吾等の受けし使命なり

四、長幼節度序にかない
  協同一致の一筋に
  流れ真締の川ほとり
  吾等の工場守らなむ

五、紡げる糸に霊宿り
  織りなす布に魂こもる
  声価は日々にあがり行く
  吾等が汗の尊さよ

六、世相の波風荒くとも
  常盤の水の色清く
  松に千歳の操もて
  共に八千代に励まなむ
  共に八千代に栄えなむ
* 「心豊かの」という下りは、当社の事務長藤田豊氏の名を詠み込まんとしたるか という注釈が付けられている。
【 軍事転用と戦争による被災後 】
当初は紡績工場として出発したものの、戦時色が強くなってくると少しずつ変遷を見るようになる。大正後期頃は綿糸の製造を行っていたが、やがて綿の材料が入りにくくなるにつれて人造絹糸(レーヨン)製造に転化する。

昭和17年には紡績工場の整理統合の過程で他会社と合併し、その翌年には材料不足により紡績工場としては解散した。そして工場は呉海軍工廠宇部分工場として戦争に使う武器製造を行うようになった。出征によりこの頃には女性も貴重な労働力であり、エンジンなどの製造作業に携わっている。

昭和20年の宇部大空襲にあっては工場群や市街部の民家に至るまで仮借なき焼夷弾攻撃で壊滅的被害を受けたが、戦争に係る部品を製造していたこの工場も例外ではなかった。工場の壁など堅牢な部分のみを遺す形で破壊され敗戦後は米軍に接収された。

被災後工場として再建されることはなかったが、設備が良いことから多くの工場からの引き合いがあったようである。戦後に市の車輌課が敷地を利用していた。破壊された工場の外壁などは片付けられることなく放置され、産業道路からもノコギリの刃を思わせる特徴的な壁部分が見えていたのを知っている市民は多い。島の市立図書館の老朽化と利用者増に伴い手狭になったことから、市制施行60周年記念事業として平成3年に規模を拡大してこの場所に市立図書館が建設されることとなった。その裏には市役所に近い立地もさることながら、戦後までに市有地となっていたことも大きいと思われる。
【 タイムライン 】
殆どの情報は[3]から主なものを抜粋している。
時期項目
大正6年3月資本金百万円で匿名組合宇部紡織所を設立する。
大正7年1月3日織機の運転を開始する。
大正7年6月宇部紡織株式会社に組織変更する。
大正13年5月ドブソン式紡織機を296台まで増設する。
大正15年12月宇部紡績株式会社に改め織布業を全廃する。
昭和5年経済情勢と輸出不振により操業を短縮する。
昭和9年9月資本金を倍増し300万円とする。
昭和10年最新式紡機138台を追加。
昭和12年12月15日大日本紡績聯合会加盟会社により棉花共同購入組合が設立される。
昭和13年国内の重要産業に対する統制が実施され、原棉の輸入を制限するなど戦時下の統制経済に向かう。
昭和14年混紡製品の内地消費が禁止される。
昭和14年7月18日明治紡績合資会社と事業提携する。
昭和16年政府による経営最小単位の引き上げにより企業合同の命を受けて福島紡績ブロックへ編入される。
昭和16年7月10日本社内に私立女子青年学校を設立することが認可される。
昭和17年6月19日福島紡績株式会社と提携する。
昭和18年6月1日政府による企業統合が更に強化され親会社の福島紡績自体も合併しなければ独立会社の資格を喪失することとなる。
このため本社は呉海軍工廠宇部分工場に改変、宇部紡績工場としての歴史を終える。
《 工場関連の遺構 》
宇部紡績工場としては一つであったが、作業場をはじめ寮などの建物が広範囲に展開していた。後年それらは市立図書館をはじめとした複数の所有者に分割された敷地となっている。

先述の通り宇部紡績工場は戦時中に破壊されたため、遺構としてはレンガ壁を始めとする建物の外壁が殆どである。宇部紡績工場に直接の関連性があるか不明なものも含めて記述する。なお、宇部市立図書館の外構にも関連する写真がある。
【 図書館の建物内部 】
一般書庫の壁にそのまま組み入れられている。


宇部紡績工場に関する説明と戦後の航空映像によるパネルが設置されている。屋内にあるレンガ壁は雨で洗い流されないせいか灰分が滲み出ている部分もある。一部のレンガ壁はガラス壁で隔てられた屋外にある。
【 図書館の駐車場 】
後年、市道真締川東通り線からの出入りを可能にするための通路が造られた。このとき除去されることとなったレンガ壁は、かつての位置が分かるように路面へ新しいレンガを埋め込んでいる。


駐車場の南の端にあたる場所には、図書館建設時に造ったコンクリートブロック塀とは別に古めかしいコンクリート柱がいくつか観察される。


コンクリート柱には鉄のフックが埋め込まれている。このような造りの壁は他の場所ではみられず宇部紡績工場時代のものではないかと思われている。
【 産業道路側 】
コンクリートの高い壁がみられる。出入口は後年建築ブロックで塞いだようである。


コンクリート壁には蝶番の部材や鉄筋、扉の一部と思われる木製部材が付着したままになっている。
【 琴芝県営住宅 】
図書館の進入路に隣接した部分も含めて広範囲にレンガ壁が遺っている。
県営住宅の中に琴芝れんが広場と称した一角がある。


このエリアのレンガ壁には天井を支える金具が遺り、レンガ壁の一部には隧道ポータルによく見られる要石を伴ったレンガアーチが数ヶ所遺っている。
【 防長商事 】
かつて市立図書館の南側、防長商事の管理する敷地に大きなレンガ塀の倉庫があった。
この倉庫は会社方針により2016年11月に取り壊されて既に存在しない。


レンガ塀は宇部紡績工場と同じ従来型のレンガが使われていたこと、航空映像でも同位置に倉庫が見られることから宇部紡績工場関連の建物か、あるいは無関係としても同期の建造物であったと思われる。取り壊された後2017年入りするまでに更地となり、2018年にかけてオーヴィジョン宇部医大前の高層マンションが建てられた。
【 その他の領域 】
現在の県宇部総合庁舎の場所も宇部紡績工場の敷地内の一部だったのだが、庁舎の市立図書館寄り側はアスファルト舗装と倉庫となっており遺構は恐らくない。総合庁舎の建設は昭和55年(1980年)であったため、宇部紡績工場の遺構そのものを残すといった考えはなかったと思われる。外壁がレンガ壁主体で設計されているのは、宇部紡績工場のレンガ壁を偲ぶ意味合いと考えられる。

南側にあるカトリック宇部教会も宇部紡績工場関連の敷地内にある。カトリック宇部教会は当初現在の小百合幼稚園の場所にあったが、信者が増えて手狭になったため別の教会用地を探していた。戦時中はカトリック宇部教会は敵国の宗教と目の敵にされ、特高警察の監視対象になっていた。しかし敗戦により状況は一変した。軍需工場と化していた元宇部紡績工場は米軍の管轄地になっていたが、米軍はキリスト教に好意的であったため新しい教会を建てる地として取得できたと言われる。

この土地を取得後、信者たちは未だ瓦礫が散乱していた紡績工場からレンガのセメントを剥がして新しい教会の敷石に使ったと伝えられる。[1] 当時のレンガが遺っているかは調べられていない。
《 考察 》
以下は現時点で入手可能な客観資料に基づいた推測である。
【 建物の向きが現在の道路に対して捻れている理由 】
紡績工場の壁を主体とする遺構は、現在の産業道路と真締川が成す軸に沿わず約45度捻れている。後年多くの道路や敷地がこの軸に追随したため、紡績工場の外壁は地図でも目立つ存在となっている。

この捻れの理由は、宇部紡績工場建設前の地勢や開作地の土地利用の方向によるものと思われる。現在では北側を除いてこの周辺はほぼフラットであり、現状からかつての地形を推察するのは困難である。一つの情報源となるのは、図書館の産業道路側入口の北側に伸びている市道樋ノ口琴芝線の道路方向である。

宇部市新地図で宇部紡績工場周辺を調べると、既に市道樋ノ口琴芝線に相当する道が存在し、その西側は宇部紡績工場の北側を掠める形で南西まで伸びていたことが分かる。当時まだ現在の産業道路は存在しておらず、この中に宇部紡績工場の概形を落とし込んだとしても捻れて建っているといった違和感はまったくない。
画像出典:大正十年市政實施記念 宇部市新地圖


もう一つは、工場の向きを南北に合わせる意図があったことが考えられる。市道樋ノ口琴芝線から新川(真締川)まで至る道に沿って工場の北側の壁を合わせたようである。冒頭の航空映像を眺めると工場の南北の壁は、実際の真北よりやや西にずれている。これは磁北を基準として建設したように思われる。紡織工事を建設するにあたって先行例となる長野へ視察に行っており、南北を向くように建設されているのを踏襲したと考えられている。[要出典]

市役所の東側より北進する現在の市道栄町線は、現在の産業道路に至る慶進校のところまで直線路で続いているが、戦後までは産業道路まで繋がっておらずその手前でYの字に分岐していたことが分かっている。現在の合同庁舎前T字路のところまで南側へ張り出した尾根があったためで、宇部紡績工場の東側はこのY字路に沿う形で外壁を築いたようである。昭和12年調製の宇部市街図では、現在の栄町線と産業道路が繋がっていない状態で記載されている。
画像出典:昭和十三年度版 宇部市街圖


このY字形に分岐している道のうち左側(西側)は現在も里道として遺っている。
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」p.60〜61, 66〜67

2.「米寿紀藤閑之介翁」p.90

3.「宇部戦前史 一九三一年以後」(山田亀之介編)p.18〜22

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