読書について

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項目記述日:2019/8/30
最終編集日:2022/2/24
ここでは読書について主に個人的趣向についてまとめている。
《 概要 》
一定以上の分量がある記述情報を受け手が視覚的・音読的に取得し、情報理解を深めること。その手段としては現在においても紙媒体に記述されたものを受け手が目で追っていくことが多いが、別の人が受け手に内容を音読する場合もある。また、近年のデジタル化推移により紙ではなくネットを介して配信される記述情報を利用する行為も多くなった。

ここでは、個人的な習慣も含めて読書全般に関する記述をまとめている。これは2019年に開催されたUBE読書のまちづくりネットワーク会議からの仮転載であり、別のカテゴリへ移動する可能性がある。
【 読書習慣の低迷について 】
とかく「現代人は本を読まない」と言われる。その傾向は客観的にかなり明らかなのは書籍の売上げや図書館での借り出し書籍の絶対数推移によって示されている。そのことから将来的に「長文読解の能力が低下してしまうのでは」「想像を膨らませて理解する力が欠けてしまうのでは」「語彙が低下し長文を構成できる絶対者数も下がってしまうのでは」といった懸念がある。もっと本を読むべきだと主張する論者は、以上の点を根拠に読書環境の整備と推進を考えている。

客観データが明白に提示されているなら、いわゆる本離れは誰も否定できないし懸念されている事項も肯定的に考える。しかしだからもっと長文を元にした紙媒体の本を読むことを推進できるのは、精々これから手持ちにない基礎知識や概念を取得していく初期段階の人(つまり幼児や学童)に限定されると考えている。その時期を過ぎて大人になってから長文主体の重厚な本を読む習慣をつけようとしても遺憾ながら手遅れである。まず、時間をかけて長文を追っていく習慣がついていない。仮に何とかそれを実行しても、書かれている内容や表現の文字情報から受け手が想像を膨らませるだけの語彙を持っていなければ共感・同感が得られない。つまり読んでいて面白くない筈である。それでなくとも現代人は忙しいのに、そんな面白くもなく価値が見出しづらい作業へ義務的に時間を割くわけがない。

大人になってから多種多様なジャンルの本に接し、あるいは能動的に探していって読む人は殆ど居ない。大抵は推理小説や科学、歴史といったいくつかのジャンルに限定して興味ある本を探す。何故なら”それ以前がある”からと言える。その人固有の本の接し方や愉しみ方が以前から出来ているからである。”それ以前”の状況を新たに作り出すのが有効に働くのは、未だ充分な知識や経験を持ち合わせない幼児や学童である。大人に対しては、興味の範囲や考え方の特性を知って巧く誘導することができた場合に限られる。
【 読書と呼べるものの範囲について 】
デジタル化が進んだとは言え、記録されているすべての情報の殆どを未だ紙媒体の書籍が占めている。デジタル社会以後になって書籍として世に現れた情報の一部は、デジタル化された状態でも提供されている。当サイトではその比率が逆転する例外的な状況である。調べ事をするとき参照されるサイトに多く、その多くが無料かあるいは登録のみで利用できる。そして無料だからと言って信頼性に欠けたり誤った情報ばかりのサイトは少ない。紙媒体の書籍では困難なある一定の情報を異なるサイトで参照し比較可能だからである。信頼性に乏しかったり分量が極端に少ないページは検索上位に位置することができない。この意味でネット上に置かれる情報は、信頼度獲得の点で紙媒体よりもはるかに厳しい競争に置かれている。

そうでありながらネット上のドキュメントに関してはどのような読まれ方をされようが、読書と呼ばれることは殆どない。ネット上の好きな作品を購入してモバイル機器にダウンロード後読むといった行為は(私が実態を把握していないだけで)普通に行われていると思われるが、そのことに対してすら読書という呼ばれ方はされていない。元々、読書という熟語そのものが「書籍を読む」の語義であるから紙媒体の本に限定されてしまうのは言葉の問題である。

一般にはまとまった情報量を継続的に求める場合に紙媒体の書籍を、単一の調べ事に対してネット上の検索を経由して個別のサイトのドキュメントといった棲み分けがなされているようである。先述のように絶対量としては未だ紙媒体の書籍が圧倒的であるのだが、どういう訳か後発者であるネット上の媒体は批判の対象とされやすい。検索一発で辿り着けて必要な情報のみを読んで終了する態度に対して利便性よりも薄っぺらさが強調される。そのような情報ばかり接する態度が非難され、場合によっては従来の紙媒体の書籍の良さを葬り去る害悪のようにさえ語られる。

個人的にはこの種の批判はまったくの的外れと考えている。そういう考えを説きネット上のドキュメントを全否定する人は、よほど信頼性を欠くどころか嘘っぱちや故意の虚偽情報による思想誘導などネット上の悪い部分ばかりに遭遇したのだろう。見せ方によって受け手に与える印象が異なるのは必然だが、そもそも同じ事実に関する情報を与えるのに紙媒体で書かれたものとネット上に提示されたものとで事実が変わる筈がないのである。更に言えば、近年発刊される紙媒体の書籍でさえ誤った情報や思想誘導を行っているものがある。過去に出版された書籍なら、当時は正しかったもののその後の調査研究により否定された事例は無数にある。しかし古い書籍を参照することで誤った理解がもたらされる弊害について語られることは殆どない。「当時はこのような考えだった」と誤りを知りつつ歴史的観点から参照する場合を除いて、そのような書籍を読むことは時間の無駄どころか害悪である。

また、紙媒体であっても写真集を眺めることや挿し絵主体のマンガ本を読み漁ることは一般に読書とは考えられていない。それもまたおかしな話である。今なおテキスト主体で相応なページ数のある書籍を目で追うことのみが崇高な読書という行為で、写真や挿し絵ばかりでテキスト量の少ないものを読書とみなさない偏見がある。逆にいくら長文が主体であってもネット上のドキュメントは読書とは見做されていないのだから、まったくおかしな話と言わざるを得ない。
【 何が必要なのか? 】
個人的見解であるが、何処までを読書という範囲に含めるのかという議論そのものが無意味である。本を読む人の絶対数を増やすことに執心するのではなく、紙媒体の書籍と始めとして提供される多種多様な情報に接する機会を増やすことが本質である。当該情報の提供のされ方については、受け手が自分のペースで取得することができさえするなら手段は問わない。たまたま現時点で未だ紙媒体の書籍が主流というだけであり、ネット上であろうが人づてであろうが構わない。スタイルもテキストオンリーのものだけでなく、写真やイラストをいくらでも含んでいて良い。誰もが問題なくテキストや写真を視認して理解できるとは限らないので、音響や動画といった伝達手段も当然含まれる。

紙媒体の書籍が主流であるうちは、それを受け手が目で追ったり音読したりすることで理解を深めるための総論的な教育も必要である。これは先にも書いたように幼少期など早い時期でなければ恐らく困難である。そもそもテキスト主体の文章から受け手に一定の情景を思い浮かばせるには、テキストを構成する個別のキーワードが与える言葉では容易に説明できない主観的に感じるもの(クオリア)が受け手に備わっていなければならない。

まとまった文章に含まれる個別のキーワードは、受け手に脳内想起させるスイッチである。キーワードに対して抱くクオリアの細部は受け手によって異なるので、与える情報量(テキスト分量)が少ないと、人によって異なった受け取り方をされるかも知れない。分量のある物語では充分に長いテキストと構成によってこのギャップを埋めることが可能だが、それでもなお著者が意図したものとは異なる理解がなされることがある。ある一文に込めた著者の真意が大人になって読み返すことで理解されたり、あるいは最後まで(誰にも)分からないといったことも起こる。受け手により異なった解釈や理解のされ方が起きるのは、テキスト主体で想像を膨らませる余地の多い随筆や長文小説を読む一つの魅力にもなっている。

このため、幼児など年少者向けにはまず想像力をかきたてる機会の多い環境に置いて標準的なスイッチを整備してあげること、本を読むことに慣れたより上の世代には、さまざまなジャンルの知的好奇心を刺激する情報源のありかを提供することが重要である。この見地から図書館の司書は水先案内人であり、適切なナビゲートを行うことで素晴らしい書籍との出会いがあり得る。

提供する方法の容易さと気軽さから言えば、今なお紙媒体の書籍に軍配が上がる。最近の事例では、丸喜常盤通り店の建物2階にの一角に設けられたブックコーナーには絶対数こそ少ないものの興味を惹きそうな様々なジャンルの書籍が提示されている。


この方法が有効なのは、皮肉なことかも知れないが、読書離れを加速させる元ともなったテレビや動画配信が視覚に訴えるからである。テキスト情報のみではイメージを膨らませるのが難しい。画像情報のみでは視覚的にすぐ訴えかけてくるものの固定化されてしまう。まず視覚的に興味を惹き、次に本を手にとって開くことでその先へ進んでいける良い環境がブックコーナーにはできている。

推理小説などのように元々読み手が個別にイメージを膨らませるジャンルは別として、大抵の書籍はツボを押さえた画像情報で提起してテキストで補足したり読者自身にイメージを膨らませてもらうスタイルが多い。そして本の著者を含めた発信者側もそのような情報を供給していくことが重要になるだろう。
《 個人的な読書の趣向 》
以下は幼少期からを含めた当サイト管理人の読書に関する記述である。
【 幼少期から社会人までの読書習慣 】
幼稚園児から小学校低学年にかけての通知表を見ると、教諭の所見に本ばかり読んでいるといった記録がみられる。親に読書習慣があったことが理由で、恐らく読み聞かせもされていたと思う。絵本を読んでイメージを膨らませることはあったらしい。自己分析すると、これは本好きに育て上げられたというよりも内向的な性格に依るものが大きい。

幼稚園では友達と一緒に積み木で家を作ったりままごとする幼児が多いが、しばしば喧嘩になって泣いていたようである。再び教諭の所見を参照すると「一旦泣き始めるととても長いです」と書かれている。思うようにならないとか不快な感情の発露として泣くわけなので、それを避けるように行動したようである。読書は友達との協調を必要とせず実行可能であるため、一人で本を読むことで自分なりの満足を得ていたと思われる。

小学校中学年時の教諭は読書ばかりでなく文章を書くことも重要と考えてその方面の教育を推進した。この過程で後年大きな影響を与えることとなったのが勉強日記である。また、この時の教諭は(現在では明白な著作権法違反であるが)良い作文を書くための学童向けの指南書から抜粋したものをガリ版で作成し配布した。それは小学4年生向けの教材として使われたので平易な言葉で書かれているが、その内容は現代の文章作りにも充分に通じる高度なものであった。したがって現代の長文好きで書くことをまったく苦にしないという異様な性癖の基礎は、このときに培われたものであることは私の親も認めている。

一般的にも昭和中後期の子ども部屋にはかならず本棚があり、古典的な童話の全巻がしばしば並んでいた。それらは量産され、あるいは小学校へ販売にも来ていた。このため多くの家庭で同じ童話全集がみられた。初期にはニルスの不思議な旅、後期には十五少年漂流記は何度か読んでいる。
写真はアクトビレッジ小野で見つけた当時読んでいたのと同じ全巻


冒険ものは次の展開がどうなるだろうかという気持ちが読み進めるモチベーションとなるからか、他にもいくつか読んでいる。しかし本棚にあった全集を読んでいるわけではなく、タイトルだけ覚えていながらまったく手を着けなかった冊子もある。何故それを読もうとしなかったのかは当時の自分に尋ねなければ分からない。最初の数ページをパラパラとめくったときの引き込まれ方にも依るのだろう。

小学校高学年(5〜6年次)になると教諭が替わったが、勉強日記は日々の学習帳という形で引き継がれた。自主勉強内容を自分なりにまとめて報告するもので文章作りからはやや離れた。しかし学童の間で図書館の本を読み漁る競争のような状況が起きており、作文についても長文を書きこなすバトルのような環境があった。国語の作文授業のとき、何かテーマを決めて文章を書く。黒板前の教諭台の上には400字詰め原稿用紙が置かれていた。書き足りない場合は用紙を取りに行くのだが、何度も教諭台まで歩いて用紙を取りに行くことで長文をサラサラ書いていることが間接的に分かり、学童間の競争のようになっていた。

読書習慣は中学生に入っても続いた。小学校時代にどんな本を読んでいたかの記憶は殆どないが、中学校時代はダムやトンネルといった構造物関連の本が目立つ。黒部ダム物語は何度か借りて読んでいるし、堀江謙一氏による「太平洋ひとりぼっち」は、後に日記を書き続ける決定的なきっかけを与える本となった。この本を借りてすぐに日記を付け始めた5月28日は執筆記念日として現在でも毎年この日になると自然に思い出される。
この辺りは筆記の内容になるので該当項目を作成した折には移動する

高校生や大学生になっても書籍を読む習慣はあったが、ジャンルは次第に狭くなっていった。新たな知的好奇心をかきたててくれる書籍以外は興味を持たなかった。代わりに図書館にない種の本は書店で立ち読みしてすぐ買って帰っていた時期があった。NHKのテレビ番組で山川静夫アナウンサー率いる「ウルトラアイ」は書籍化されたので、新しい巻が出る都度買いに行っていた。
これらの書籍は後に図書館へ寄贈したのか一冊も手元にない

社会人になってからは暫く読書そのものから離れていた。仕事が忙しかったこともあり読書の習慣自体から離れていたのである。少し余裕が出てくると高卒から大学生時代まで手掛けていたレクリエーション数学的活動の流れで再び関連する図書を借りて読むようになった。Let's 09一階の直営書店で見つけた数学のエッセイとの出会いは、その後のレクリエーション数学活動に甚大な影響を与えた。


そして現在のような郷土関連の活動を行うようになってからは、借りる書籍は関連ジャンルばかりになった。しかし重要な書籍も含めてすべてを読んでいるわけではない。殊に宇部市主体で物件の記述を行うのなら「宇部市史」や「素行渡邊祐策」は必読書籍なのだが、ページ数が膨大な上に貸し出し禁止書籍なためまだ充分に参照していない。相応なページ数のある書籍は全部を読みきるには時間がかかるし、現代人は昔と比べてそこへ時間を費やせるほど暇でもない。郷土関連で書籍を読むのは大抵が調べ事や調査済みの物件について詳細な情報を得るためなので、全ページを読まないこともある。小中学校の創立X周年記念誌のような書籍は語り伝えるために郷土関連の記述が含まれながら、当該学校で起きた主なイベントの年表のような参照するあてのない情報も含まれるので、必要な部分だけ図書館のコピーサービスで複写を得ることもある。

現在は郷土関連の書籍を図書館で借りに行くこと自体がとても少なくなった。当たり前のことだが借りた本は返しに行かなければならない。各ジャンルで総括記事を作成するとき、出典として用いるなら不定期にいつでも参照したいので永らく手元にないと活用できないのである。特に重要な記述のある書籍は、その場でページ数と記述内容をメモして持ち帰るようになった。
【 読書に関する最近の動向 】
covid19に伴う自宅での仕事や娯楽推奨の流れで、お気に入りの本や影響を受けた書籍を紹介する「ブックカバーチャレンジ」なるものが展開されている。私もFB上の友達からバトンを託されて一週間ほど連続で書籍紹介をしている。詳細は外部リンクを参照。

2020年9月より宇部市立図書館リニューアルに係る第2弾のワークショップが始まった。covid19 感染拡大の第二波が意識されていた時期でもあり、初回は正規の第一回目開催ではなく第ゼロ回として zoom によるオンライン限定で開催された。その後感染警戒ステージが緩い方向へ移行した後、正規の第一回会合が開かれた。

このことにより再び読書という行為の意義や形態を考え直すようになった。特に自分自身やっているような郷土資料の出典探しが主体となる場合、書籍を一から読み通すようなことがなく必要な部分をピンポイントで参照することが殆どである。これはデータアクセス理論のランダムアクセスに相当する。第一ページ目から読み進める従来の方法はシーケンシャルアクセスである。

換言すれば、一冊の書籍をとってきてその第一ページ目から読み進めるシーケンシャルアクセスのみを読書と限定するなら、本を読むという行為は非常に堅苦しくて狭い世界となってしまう。例えば通常の用途で紙に印刷された辞書を参照する場合は完全にランダムアクセスであるが、その前後に並ぶ無関係な内容や関連する離れた項目を読むことで、数多くのランダムアクセスを経てシーケンシャルアクセスに近い結果が得られるようになる。

これはいわゆる「本の斜め読み」を容認するものである。最初から最後まで時系列と因果の連鎖を記録している小説類でなければ、シーケンシャルアクセスに限定されない書籍との付き合い方を拡げる。特に現代のような市内中心の郷土関連に特化した活動を営むようになってからは、郷土関連の書籍を手にしたときシーケンシャルアクセス方式で読むことは殆どない。自分にとって当面欲しい情報が記載されているページ部分のみ熟読し、その比率が特に高い書籍のみ手元に置くようにする。比率の低い書籍は市立図書館で借り出したり必要な情報がある該当箇所をコピーサービスで取得している。
出典および編集追記:

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