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《 開立問題 》
項目記述日:2019/6/16
最終編集日:2022/4/21
大字小串字開立にまつわるある種の問題。開立は「かいだて」と読み、現在の桃山配水池がある辺りの字名である。写真は字開立付近の風景。
写真に写っている前方の建物や敷地は本件とは無関係


開立問題とは当サイトの管理人による勝手呼称である。開立は一般名詞では「かいりゅう」と読まれ、ある数値の立方根を求める操作を意味するが、ここでは全く関係がない。

何に関する問題か当初は詳細な記述を避けていたが、関係者の会合に立ち会い行政側が誠意有る対応をみせたとは言い難いので、問題提起と告発の意味を兼ねて事実関係を以下にまとめた。なお、私は当事者ではないので事実誤認が含まれている可能性もある。
【 渡邊祐策翁の土地が逸失されたまま課税だけ行われ続けている件 】
開立問題とは、宇部の街の基礎を築いた渡邊祐策翁の土地に関するものである。具体的には大字小串字開立のある番地に渡邊祐策翁名義の1ヘクタール近い土地が存在していながら、その正確な場所が分からなくなってしまっている上に固定資産税のみを賦課し続けている問題である。

場所が分からなくなった理由は、周辺の所有者が次々と変わったのが原因かも知れない。土地が存在することは渡邊家に伝わる台帳で周辺の赤線などを含めた絵図で明記され、その地番から推察されている。現在宇部市上下水道局の所管する桃山3号配水池にかなり近いため、工事の過程で境界が分からなくなったのではと思われた。地番が連続していれば物理的な場所も近接していると考えたくなるのだが、このことは必ずしも真ではないという。後で空いた地番を適当に割り振る事例があるからと説明されている。

この件に関して2019年6月2日に市上下水道局で市民税課の担当者も交えた状況説明が行われた。詳細を把握するために私も渡邊塾メンバーとして説明を聞いた。市上下水道局は地図などの客観データを提示し、税関係からは市民税課の女性が説明に来た。問題の土地が記載された周辺の赤道や水路を含めた絵図も提示された。これらの資料を元に、税賦課に関する説明がされた。

結論として手元の資料だけでは該当する地番が何処であるかを突き止める手段がないこと、今後も最低水準の税賦課が行われ続けるのは回避できないことだけが示された。説明は確かに当を得たものであったが、所有地が何処にあるか分からない状況に放置され、税賦課され続けている事実に関する謝罪はいっさいなく、最後まで自らの立場と部署を擁護する発言に終始した。同席し説明を聞いていた私ですら、若い女性ながらまあ随分と高飛車な物言いだなと感じていた。私より辛口批評を旨とする局長はこの対応に激怒した。「部署を代表して来ているだけなのに目上の人間に対してあんな物言いはないだろう。役職に就いているからと言って偉いわけでもなく人としてどうかと思う。あれではオンナの癖にといった見方をされても仕方のない応対」と扱き下ろされた。

充分な資料が整い、この方面の問題がクローズアップされたならば「宇部市は郷土の基礎を築いた渡邊祐策の土地を行方不明にさせてしまった挙げ句に固定資産税だけはキッチリ賦課し続けている」という事実をもっと分かりやすい場所へ公表することに吝かでは無い。ちなみに固定資産税は最低水準の年間数百円程度であるが、既に一世紀以上払い込み続けられている。この税収は市の不法原因利得とも言える。

市の対応は、郷土の発展を願い自らの財産を市のインフラ整備に差し出した渡邊祐策翁への恩を仇で返すに等しい怠慢である。金額が問題なのではない。一世紀以上も解決する努力を放棄している今の態度をお役所仕事と言わずして何と言うべきだろうか。まったく恥ずかしいことである。地面の下で渡邊祐策翁が嘆き悲しんでいる。
【 市当局による不適切な徴税事例 】
2022年4月19日、宇部市は約6年半にわたって同姓同名の別人から誤って税金を引き落とし続けていたことを明かし、会見で謝罪した。この事件はYahoo!ニュースとして全国にネット配信されている。[1]

記事では当局の謝罪の様子が流れているが、過誤により引き落とされた別人の納税分を全額還付し、本来支払うべき人の税金は時効に掛からない分の納付を依頼するという。本件についての経緯が明かされただけで、関係者の処分などについてはいっさい明示されていない。

このような状況にあれば、該当部署は徴税手法などにおいて組織的に不適切な手法を援用しているのではないかといった疑義が生じる。

先述の固定資産税の課金問題は依然として解決しておらず、渡邊塾では逸失した1,510m2の土地の所在場所はおそらくこの辺りであろうという推定が成されているのみである。[2]
出典および編集追記:

1.「同姓同名の別人から約6年半“税金”徴収か 発端は口座振替の申請? 山口・宇部市|Yahoo!ニュース(2022/4/20)

2.「FBタイムライン|一度ガサ入れしてもらった方が良いのでは
《 外部依存の問題 》
項目記述日:2020/6/4
最終編集日:2022/12/31
地図や動画などを記事本文中へ埋め込み表示するサービスを提供しているサイトに関して、当該サービスが仕様変更されたり終了することによって記事が毀損される問題をいう。ブログやホームページで所定のタグをコピーすることで外部サイトのコンテンツが記事内にフレーム表示されるような場合、当該サイトがサーバダウンしたりサービス終了することで表示が欠落する。その表示を前提に記事が構成されていれば、記事自体がまったく意味をなさなくなる。

当サイトで実際に問題となった例として、Yahoo!サービスにおける2019年のブログ終了、2020年のルートラボ終了が代表的である。この問題は民間企業のみならず、公的機関である国土地理院でも発生した。初期に電子国土としてリリースされたときのタグを用いたものは、地理院地図に統合されたときタグが軒並み無効となった。そこで一つ一つタグを再生成させて書き直したところ、今度はセキュアなサイト構築によってプロトコルが変更された(http:// → https://)ため再び全部が無効になってしまった。

この問題を完全に回避する方法は存在しない。およそ公的機関のサイトですら「たった数年」程度でアドレスが変更されてしまうのである。現状、すべてのブラウザはURLを構成する1文字が書き換わっても受け付けなくなるし、エラーが発生した後にまったく同じサイトが別アドレスに移動されていないか自動的に検索し遷移するような機能も備わっていない。ましてグレードアップや改訂と称して頻繁にURLを変更するようなサービスは、導入した当時は機能しても早晩記事の毀損を招いてしまう。

当サイトでは少しでもこの影響を回避する方法として、当面は以下の方針で臨んでいる。
(1) 可能な限り外部サービスに依存しない記事構成法を検討する。
(2) 継続性に疑義のあるサービスを記事の構成要素に利用しない。
(3) 外部サイトの参照をテキストベースのリンクに限定する。
【 外部サービスに依存しない記事構成法 】
容量の問題から、当サイトの初期の記事は OneDrive に画像を置いてリモート参照する方法で作成されていた。後に OneDrive は画像参照リンクをパーマネントな性質でないものに変更したためこの方法が採れなくなった。現在正常に表示されている記事も OneDrive が過去の画像に対処しなくなったら、記事は一つも画像が表示されなくなりまるで無意味となる。現在は有償だが安価で画像などを置けるホームページスペースを確保しているため、画像を記事がある絶対位置と同じサーバおよび階層に置いて参照する形式に変更している。

動画は YouTube にアップロードしてリンクを埋め込んでいる。十年以上変更されておらず後方互換性が保たれているが、将来的に続くという保証はない。このような動画も画像と同様に実ファイルを置いて参照すべきだが、今のところ掲載記事に埋め込まれた動画自体が少ないので現状維持されている。

地図は位置だけ示すものなら再生成は容易だが、文字や線を書き込んだ状態での表示が必要な場合は画像に変換してドキュメントと同一階層に置く方が確実である。このように対処すれば元のドキュメントが表示される限り画像などの構成要素も正しく表示される。仮に公開先がサービス提供を終了すれば全サイトが見えなくなるが、その場合はPCに保管されているコンテンツを再度別のサーバへアップロードするだけで復旧できる。
【 継続疑義のあるサービスの利用廃止 】
不採算部門を次々と廃止している Yahoo! による悪影響があまりにも顕著であったことから、今後は当サイトの構成要素に Yahoo!すべてのサービスを使用しないことを宣言している。具体的には経路を提供するルートラボ、Yahoo!ブログの廃止と地図リンクの恣意的なリンク仕様変更などが理由である。各記事を編集追記する折りに随時別のサービスに置き換えているが、数があまりにも多く完全に対処できていない。
【 テキストベースのリンク限定 】
フレーム表示は可読性が良く所定のタグをソースへ貼り付けるだけで即座に使えるので便利だが、正しく動作しなくなったときの記事の毀損度が激しい。外部参照が必要な場合は、記事に埋め込むのではなく関連テキストにリンクを張る方法に変更された。これらの外部参照には、閲覧可能範囲を明示するものとしてリンクテキストの末尾にが添えられる。前者は誰でも無条件に閲覧できる外部リンク、後者はSNSなど閲覧範囲が限定されている外部リンクを示す。(→補助アイコン
一部のSNSでは、リンクを含んだ記事を投稿するとき、自動でリンク先のコンテンツの一部を表示するような機能が備わっている。例えば FB のタイムラインに当サイトの記事リンクを投稿する場合である。当サイトでも過去には geocities にコンテンツを収録しており、現在はロリポップ!の有償ホームページスペースに掲載している。記事リンクを恣意的に変更すると当サイト内でのリンク切れが発生するだけでなく、外部サービスから当サイトの記事を閲覧するとき支障が出てしまう。

このため過去に恣意的にリンクを修正したり記事を移動してしまったものは当面そのままとして、一旦当サイトへ掲載した記事リンクは元記事を移動した場合でもリダイレクトの形で残す方針としている。サイト内での”迷子”を発生させないためである。現在の基準にそぐわない総括記事を作り替えた場合は新しい総括記事に当該リンクを割り当てると共に、旧総括記事はファイル名を変更して新しい総括記事よりリンクで紐付ける。

この措置を援用しても、将来的に当サイトを独自ドメインへ移行した場合には被リンクがすべて切断されてしまう問題が起きる。一般的なブラウザで、閲覧者のリクエストしたURLが完全に一致しない限り 404 エラーを吐き出す仕様を変更し、エラーが発生した都度自動検索を実行して同じサイトが別の場所へアップロードされていることの認証が取れる場合は遷移するなどの機能追加を待つところである。
《 確率の問題 》
項目記述日:2019/3/13
最終編集日:2021/10/19
当サイトの管理者が用いる分についてはある事象が発生するか否かを理知的に考えるなら、当該事象の起きる確率とその事象に出会う回数だけを元に判断すべきという主張を意味する。ここでの問題とは、数学的に提供される確率を題材にした課題という意味でなく一般によく用いられる「時間の問題」と同様の用法である。以前から認識はされていたが用い始めたのは比較的最近のことである。

発生する確率はゼロではないが、極めて低いと考えられる単発事象に対して無用に心配したり過大な期待を寄せたりしないようすること、その極めて低い確率でしか起こり得ない事象も反復回数が充分大きければ、無視できないほどに高い発生確率になり得るというのが骨子である。発生することが望まれる期待的事象から発生すれば一大事と考えられる自然的大災害まで包括的に適用される概念である。
【 事故や災害への対処について 】
事故や災害といった起きて欲しくない事象についてどれほどの対処が必要であるかの判断は、当該事象が起きる確率と、それによって被る損失の大きさとの積によって吟味されるべきである。飛行機が墜落する確率は他の交通機関に比べて格段に低いのだが、乗員乗客数が多い上に事故が発生すれば高い確率で殆どすべての生命が失われるが故に、その確率を少しでも低くする努力が払われている。それでもなお飛行機を忌避して車や電車のような陸路を選択する人は多い。事故の発生確率からすれば車と飛行機では数桁のオーダーで異なると思われるが、事故の起きやすい車などを選択するのを強ち不合理であるとも言えない。

例えば車の場合、見通しが悪い交差点や自転車による学生の登下校が多い路線は、精密に観測されていないだけで日々多くのヒヤリハットが発生しているだろう。そのうちのいくつかが軽微な接触まで至っているものの、それだけでは事故確率を下げるための対策すら払われないのが普通である。このような”確率の高い地点”を通過する頻度が多くなればなるほど、自分も事故に巻き込まれてしまう確率は当然ながら上昇する。

どの場所がどの程度の確率値を持っているかは、正確に分析する術がない。過去の事故事例などからの経験則に頼ることになる。ただしこの数値は曜日や時間帯によって変動することが知られており、更には行政が推進するコンパクトシティーのような市街地集中誘導によって高くなることはかなり明らかである。実際、市街部の交通量が増大していることは体感され、少なくとも以前の状況に比べて確率値が上昇している。事故から我が身を防衛して確率値を下げたいのなら、一時的に値が高まっていると思われる時間帯や場所を避ける以外ない。2018年に引っ越しを行い、それ以降は市街部をあまり自転車で走らなくなった一つの理由である。自転車で走る頻度が高いと事故に巻き込まれる確率も上昇すると判断したからである。

平成29年度第4回インターネット市民モニターでは、防災アンケートとして大陸からの弾道ミサイルが発射されたときの緊急メールから避難訓練に至るまで延々4項目も質問事項が設定されていたが、この問題について確率の問題から考えても真剣に論ずるに値しないと一蹴している。確かに起きれば大災害にはなるが、大陸間弾道ミサイル発射は国家的な対処が必要な問題であり、地方の一自治体が国を飛び越えてすべきことではなく、市の予算を割いてミサイル着弾に備えた防災訓練を行うこと自体に反対すると回答した。[1] そもそも真面目な防災を論じるにあたって4項目も割いてモニターに問うべき問題ですらなく、設問のされ方が恰も宇部大空襲を前にした戦時中を思わせる。弾道ミサイル問題は決して解決したわけではなく継続している筈なのだが、この項目を記述する2019年ではとんと話を聞かない。一種の流行であったとも言える。

起きる確率の高い災害から優先順位をつけるべきは言うまでもない。この観点から言えば、自由回答でもあるように台風や高潮、大雨の重なったことに起因する水害が今後もっとも心配される。アンケートの自由回答は記録に残るのであまりなことは書けないが、この先5年以内に昭和開作や厚南地区といった絶対高度の低い開作地に深刻な台風高潮大雨に起因する水害が起きることを予想する。台風や降雨の気候上下変動は明白に大きくなっているのに、新開作などより標高が低く海に近い開作地まで宅地化が進んでいる。このような場所へ居住する人々は、すべて生活の利便性と災害リスクのトレードオフを勘案した結果とみなされる。現在ある護岸や設備はどれも数十年前のものであり、近年の変動が激しくなった気候に充分対処できているとは言い難い。市と県と国の如く避難などの命令系統が巧く連携できなかったために、本来容易に防げたであろう災害に対処しきれず被害が拡がる事象も予想される。
【 人々との繋がりに関して 】
自分を基準点として考えた場合の他人との出会い方に関しては、語録でも書かれているように一般的には「過去に面識がある人物に出会う可能性を考えた場合、ある特定の人に街中でばったり出会う確率は極めて低い半面、知っている誰かに出会う確率は思いの外高い」ことが知られている。

ただしこれはランダムな行動を前提としていて、各人の行動パターンに沿って動くことによって確率を超えた出会い頻度をもたらすことがあり得る。買い物先で常に同じ人と顔を合わせる現象がそうで、これは「多くの人は概ね同じ曜日や時間帯に買い物をする」という隠された要因があるためで、この前提を見落とすと”確率的にあり得ないほどの頻度で出会った二人”という判断に陥ってしまう。その前提条件がなければ、一般には特定の二人が顔を合わせる確率はきわめて低い。

能動的にその確率を上げたい場合は、先述の行動パターンを分析して振る舞うか、外出の回数を増やすかによる。後者はもっとも素朴な方法であり、顔を合わせたい人が誰であろうが外を動き回っていると仮定するなら、同じ場所へ留まり続けているよりは自分も動き回った方が確率は上昇する。転じて、家に引きこもってばかりでは新しい発見や出来事は起こらないという自明な命題に行き着く。

人との出会いを確率の問題で考えるなら、好ましくない作用も存在する。巷を行き交う人々のすべてが良識ある人間とは限らないので、なべて好意的に受け止めてくれる人が多くても中にはそうでない人も確実に存在し、それは行動する時間が長くなるほど出会ってしまう確率が上昇してしまう。
【 数値的なパラドックスについて 】
面倒なので以下は細かな説明などすべて端折って書き殴っている。

ドレイクの方程式の妥当性を認めるなら、宇宙全体で地球以外に同様の生命体を持つ確率は殆ど1であり、地球外文明の総数は10程度の正の整数を示すことが示唆されている。もしそうなら何故有史以来宇宙人が地球へ到来したという明確な記録も証拠もないのかというのがフェルミのパラドックスである。壮大な問題であるので細部の考察や定義付けが必要だが、個人的にはこのパラドックスは確率の問題によるものと考えている。平たく言えば「想定している生命体が確実に存在するとしても地球とその生命体がある場所は広大な宇宙の夥しい個数ある場所の2つに過ぎず相互に繋がる確率が極めて低いため」である。

生命体や文明については、厳密に定義する必要がある。地球上の人間と似たような手足を持ち呼吸をし思考する生命体ではなく、より過酷な環境でも存在する可能性が相対的に高い細菌やプリオン(現時点でタンパク質の一形態であり生命体とはみなされていない)まで外枠を拡げれば、人間に限定した存在よりも存在確率は上昇する。それでも恐らく存否の確率は数十桁分の1のオーダーにしか変動しないだろう。実際に存在する確率はそれの例えば更に累乗分の1程度までゼロに近いと思われるが、宇宙に存在する「文明がありそうな候補数」はもの凄く大きな数値であるため、その個数と存在確率の積によって地球外文明の総数が10程度におさまっていると想像される。むしろ仮定されている数値のオーダーにより、結果が10程度の「有りそうな正の整数」におさまるよう調整されているに過ぎないのかも知れない。したがって「確実に存在するのだが相互に観測する術がない」ため、実質的にゼロとも言える確率数値に押し込められている。地球上の極めて多くの人が、極めて長い年月をかけて、様々な場所で多彩に観測を重ねてきても遭遇確率の総和をとったとして殆どゼロに近いオーダーにしかならないため、現時点まで観測されていない。そして同様の手法に甘んじる限り将来どれほど長きに渡っても状況は同じであろう。

「実際は確実に存在するのだが観測できていないだけ」という主張は、本当は元から存在していないのに観測不可能である事実を逆手に取った逃げ口上のようにも解釈できる。この種の論理は、猿がタイプライターを十分に長い期間ランダムに叩くという前提があるなら、打ち出される膨大で殆ど意味を成さないと思える文字列の中に、どんな意味ある文章をも含まれ得るという議論に通じるものがある。猿のタイプライター叩きは実際に演習されたようだが、猿が(実のところ猿でなく人間でも)すべてのキーを偏りなくランダムに打つことは不可能なので、ランダム性の蓄積としてあまり良い喩えではない。

もう少し現実的な例を挙げるなら、円周率πの小数点部分から意味のある情報を取り出す問題がある。πは無理数かつ超越数であるので小数点以下は無限かつ規則性なく延々と続く。更に小数点以下を十進展開したときNを正の整数として0を含めたN桁の数値がいずれも同じ確率で出現するような無理数は十進基数において「正規である」と言われる。πは正規な数であるか未だ知られていないが、真であると確証させる兆候がみられる。[2]特に基数を変換しても同じ性質を満たすものが強い意味での正規な数である。

πが真に正規な数であるなら、数値とアルファベットなども表現できるように64進ないしは256進展開で表現すると、無限に続く文字列中に意味のある文章がかならず含まれるということである。日本語では全角でひらかな、カタカナ、漢字など雑多なキャラクタを扱うが、それでも216 = 65536 の基底があればすべてのキャラクタを一意に表せる。そしてπの小数点以下をこの基底で表現するなら、その中には今、ここまで書いてきた【 数値的なパラドックスについて 】の項目以下の文章が100%かならず現れるということを意味する。πという超越数の正規性を前提に、このことは如何なる文章についても同様にあてはまる。

以上の議論は「恐らくそうである」ではなく「絶対にそうである」のレベルである。存在確率は1というだけでなく、しかもπの小数点以下を変換した文字列中に該当する文章は無限回現れる。しかし実際やってみれば分かるように、πの小数点以下をそのように変換して観察しても殆どは日本語としてまるで意味をなさないランダムな文字列である。確実に存在するとしても、実際にそれが小数点以下の何桁目で検出されるかは前もって決して知ることができない。もう少し短い文章や単語なら可能性は高まるにしても、小数点以下を日本語キャラクタに変換された文字列を延々と辿っていかなければならない。それも先のような文章をπの65536進展開された小数点以下から検出するまでに要する時間は人間の一生とか人類の文明期間とか宇宙創造から現在までといった「とてつもなく短い時間」では到底成し得ない。即ち確かに存在すると言えるが、どんな効率的な探索方法をもってしてもあまりにも多くの時間がかかり過ぎて「観測できない」状態なのである。

広く知られている起こりそうで起きない事象や、存在していそうで未だ見つかっていない対象物や現象は著名な未解決問題の特徴である。その理由は
(1) 明白に起こり得ない(存在しない)のだが、その決定論的証明を欠いている
(2) 実際は起こり得る(存在している)のだが、実例を提示するまでに要する時間があまりにもかかり過ぎるため誰も観測できていない
のいずれかであろうと考えている。このうち (2) に属する未解明な自然現象などのいくつかは、膨大な処理に耐える手法の援用や検出確率を有意に上げる方法の検討によって、今後「初めて観測された」という現象が起きるようになるだろう。
出典および編集追記:

1.「インターネット市民モニター」p.14 の自由回答で以下のように記述している部分。
弾道ミサイルの発射自体起きる可能性が低く、ましてそれが我々の都市へ落下して広範囲な災害が起きる確率など真剣に論ずるに値しない。弾道ミサイル問題は国家として取り組む問題であり、地方自治体が防災の範疇として扱うべきものではない。必要なのは基礎情報の提供までで、弾道ミサイルの落下を想定した避難訓練などを市が予算を割いて行うこと自体に反対する。
宇部市は開作地が多く地震や高波に対して脆弱である。過去100年以内に浸水で多数の死者が出ている。今後高い確率で起きる同種の自然災害へ早めの対策を行っておくべきでは。
2. よく知られているのは、十進展開されたπの小数点以下に 7777777 といった同じ数字が並ぶ部分である。πの値そのものである 314159265 などといった並びが小数点以下の遙か先の方にも見つかっている。先述の日本語の文章を見出すのは日本語に用いられるキャラクタの種類を内包する基底なら何でもよく、十進法の特定の数字の並びを見つけることと本質的には同じである。
《 カズーサ 》
項目記述日:2019/2/27
情報この記事は検証不十分な情報を元に記述されており、内容の信頼性に疑義が差し挟まれます。誤謬が明らかとなった場合は本記事は撤収されます。

断り書きの通り、この項目の記述は慎重を要する。それが示すものは未だ明確ではないものの些か差別的・侮蔑的な呼称だからである。ただしこれは勝手呼称ではなく、この語の意味するところを知っている市民はかなり多い。認知度は概ね60歳代から上の世代であり、それより下の世代は専ら親の話すところを聞いて知る程度であろう。当サイトの管理人も後者であり、以下では知っている範囲のことを記述している。

表記や呼称は「かずうさん」や「かずうさ」など揺れが多い。しかし示すものはかつて宇部市内に住んでいた伝説的な人物であることで一致する。現在で俗に言うバッタ屋のような感じで、リヤカーを牽き空き缶やゴミなどを拾い換金していたという。身なりは酷い状態だったらしく、卑語ではあるが乞食そのものである。実際、幼児期や学童期はものもらいのことを指して「かずうさん」と呼ぶのを聞いたことがある。

本項目の表記ではカズーサとしている。これは、かつて仕事上での交流があった年配男性(現在は退職している)が市内の歴史に結構詳しく、昭和初期から中期にかけてのことをよく話していたことによる。彼はもっぱらカズーサと呼んでいたが、どういう人物であったかについては私の親や学童期に話を聞いていた内容とほぼ一致していた。殆ど有名人のような存在であったという。

今まで聞いた話によれば実在の人物であるが、具体的に何処へ住み何という名前であったかなどはまるで分からない。何処を徘徊しどんなことをしていたか、どういう性格の人物であったかも殆ど語られることがない。そもそもカズーサについて語ることは非常に品の無いことと考えられていて、よほど気心の知れた人々の間で憚られながら話されるのが常だった。もしかするとここでも項目として掲載してはならない闇の要素を内包しているのかも知れない。

侮蔑的な内容であるため、言うまでもなく公的文書は元より入手可能な書籍や資料などにもまったく言及はされていない。ただし、ある郷土書籍では大柄な体格をした按摩氏についてこれと似た呼称で紹介されている。同一人物であるかどうかは分からない。
《 カスタマイズツアー 》
項目記述日:2022/9/4
最終編集日:2022/12/31
顧客の要望に合わせて、観たい物件や訪れてみたい場所のコース設定を考えて現地エスコートする種の小旅行。恐らく一般的に行われているものであり勝手呼称とは考えていない。

狭義には、2022年9月1日に渡辺ゼミのメンバーを交えて行われたものを指す。
写真は六角堂を訪れたときの撮影。


このときのカスタマイズツアーは、宇部という街について代表的な建築物や歴史的遺産などを解説つきで巡ってみたいという要望を受けて計画されていた。渡辺ゼミメンバーによってエスコートされたため、渡辺翁記念会館松巖園を訪れている。

宇部マニアックス単独で個別物件の案内を行った事例はいくつかあるが、報酬を頂いて実施したことはまだ一度もない。業務として行う用意はあるものの、一個人が対価を支払ってアテンダントを求める需要がどれほどあるか分からないので宣伝はしていない。
《 勝手呼称 》
項目記述日:2019/2/3
最終編集日:2022/9/18
主として特定の場所において、それを指し示す公的呼称がない場合、説明の便宜上当サイトの管理人によって恣意的に与えられた名称を指す。勝手命名とも言える。

主要な道路の交差点に設置された信号機には、交差点名を記したプレートが設置されている。しかしこれを欠いていたり同名のものが複数存在するとき、その場所を説明するために勝手呼称が与えられる。勝手とは言っても近隣住民によって慣習的に唱えられていたり、地名などから妥当なものを与えることが多い。清水川交差点野中五差路などは公称されていないものの勝手呼称により明確にその場所が特定可能である。当サイトでは主要な交差点や歩道橋は場所を特定するときの基準となるランドマークであり、公共性の強いランドマークには本来キチンとした公称が必要と考える。歩道橋ではネーミングライツ制度により命名されている場合があるが、宣伝的意味合いが強いため往々にして名称が長く、場所の特定性も薄いため一般に定着しているとは言い難い。

記事の説明上必要となる地区道や認定市道の特定の場所などにも勝手呼称が与えられる。公称名と間違われそうな場合には勝手呼称の後に(仮称)と付記されるが、明らかに勝手呼称と分かるような例(局長カーブ吉田三連発など)はそのまま表記される。
【 素材の勝手呼称 】
場所だけでなく一定の共通項がある有形物に対しても勝手呼称の付与が試みられる。例えば空き地などにこのようなコンクリート製の円筒形をしたものがしばしばみられる。


それは最近あまり手が加わっていない空き地や山野などでごく普通にみられるものの、その名称どころか正体が何であるかさえも分かっていない。これを説明するとなれば、正式名称が判明していないうちは「昔からある空き地によく転がっているコンクリート製の円筒形をしたもの」などと表現するしかない。現在のところその用途をよく理解していないので特定の勝手呼称の付与は見送っている。

市内でいくつかの場所において共通的にみられる岩質や地質は、しばしばそれが最初に観測された場所を冠した勝手呼称が与えられる。霜降山系と呼んでいる岩などが該当する。これは地質学的な分類として不適切かも知れないが、共通性を捉える概念としては充分である。
【 概念の勝手呼称 】
勝手呼称は有形物のみならず、ある概念を表現するときにも用いられる。まさに「物件」という語も勝手呼称である。概念に対しての勝手呼称は有形物と異なり視覚的にすぐ分かるものではないので、厳密な定義付けが与えられることが多い。そして当サイトでは概念に対しての勝手呼称が好んで行われる。対象が目に見えないだけに具体的な呼称を与えることで他の雑多なものから抽出され、分類や位置づけを行う上で見通しが良くなる。これは数学の証明で用語の定義づけを行ったり、その上に補題を設けて既知のものとの関連づけを行うのと同じである。

後で広く認知された専門用語などが存在することが判明したなら、勝手呼称は一般的な呼称に置き換えられる。勝手呼称の一歩手前にある暫定的な呼称は、概ね助詞の「の」を伴う。野中五差路は勝手呼称だが「野中の五差路」は暫定的呼称である。記事などで暫定的呼称が頻出するとしばしば勝手呼称に移行する。この過程は、現在の芝中という地名がかつて「芝ノ中」と呼ばれていたものが移行したのと同じである。「建国記念日」と呼べば一般呼称だが「建国記念日」と言えば暫定的呼称であるのと同様とも言える。
そして現在なおそのどちらが正当なものであるかを問おうとする論者もある

不必要に勝手呼称が増殖する事態は、正式名称が判明したり公称されることで避けられる。むしろ認知された語がまったく与えられておらず説明が困難であるならば、有形無形を問わず勝手呼称は必要なものと考えている。
《 カテゴリ 》
項目記述日:2022/2/13
最終編集日:2024/2/16
当サイトに関しては、夥しい量が存在する物件および非物件について、それらを適切に分類し探しやすくするために設定された大枠組みである。ただし現状では関連するドキュメントを保存分類するホームページ上のカテゴリと、画像(動画を含む)を保存分類するカテゴリでは一部が異なっている。

過去にはカテゴリを指してセクションという呼び方を用いているところもあり、厳格な定義がされていなかった。これは活動の初期では物件という概念自体がなく、扱う対象もダムや工業用水に限定されていたからである。活動範囲を市内に限定する代わりに物件を定義して撮影対象を増やしていったのはホームページの設立から後のことであり、更にカテゴリを厳格に定義し分類を始めたのはこの項目記述日近辺のことだった。
【 当サイトにおける記事分類上のカテゴリ 】
当サイトで公開(一部限定公開も含む)されている記事の属するカテゴリは、扱う範囲を後から増やしていくことで順次追加されている。これはサイトを構築するディレクトリやサブフォルダにほぼ一致する。特に初期ではカテゴリのみならずファイル命名規則も稚拙で、後に何度か変更されたため非常に雑然となっている。道路カテゴリのように早い段階から大量の記事を作成してしまったため、容易に変更することができず現状を追認する以外ないものから、文化カテゴリのように物件・非物件の再定義に沿ってサブディレクトリを作り直して現在も確定していないものもある。

現在の方針としては、物件を扱う記事は後述する写真分類上のカテゴリに準拠した配下に置き、非物件を扱う記事は文化カテゴリの下へサブカテゴリを作成して置くように変更している。サブフォルダが決まらないと非物件の記述を保存する場所が定まらないので、暫定的に現在ある用語集に書き溜めておき、適切なサブフォルダを作成した後に移動して用語集にはリンクのみ置く手法を採っている。

既に大量の記事を作成してしまった履歴や当サイトに係る方針を記述したドキュメントは、例外的に個別のディレクトリに保存されている。これらを妥当な場所へ移動するとドキュメントのリンク変更作業が煩雑になるため実施されていない。
【 画像分類上のカテゴリ 】
採取された画像は近年、厳格に分類されるよう変更された。こちらも当初は扱う対象がほぼ工業用水関連に限定されていたものを、後に道路や河川などを順次追加している。ある程度カテゴリが固まってきて数年間運用し大きな改定を必要としなくなったため、このほど物件カテゴリを10個と定め、非物件を含む画像は物件カテゴリ外のフォルダに再分類した。これは画像検索を容易にするための区分であり、非物件の画像の重要性が低いというわけではない。

物件を収録する10のカテゴリは以下の通りである。カテゴリ名の配列はJIS区分に準拠している。
名称カラーサブフォルダ
海岸港湾、島嶼、浜辺、埋立地
建物アーケード街、学校、企業、病院など
公園県管理、市管理、地元管理
山野山岳、造成地、里山など
史跡寺、神社、御堂、祠、墓地など
水系河川、池沼、調整池、排水路
鉄道引込線、各種路線、廃線など
電気鉄塔、電波塔、配電線、発電所、変電所
道路国道、県道、市道、その他の車道、里道
利水ダム、堰、工業用水、上水、常盤用水、用水路など
カラーは将来的に一連の物件に沿ったドキュメントをマップ上で案内したり記事をカテゴリ分類したとき視覚的に分かりやすくするための取り決めである。サブフォルダは現在でも追加設置されているが、10個のカテゴリを変更すると整理が大変になることから見送られている。すべての画像が均等に分布しているわけではなく、より妥当なカテゴリ分類があり得るものの慣習的に運用してきたのを追認している状況である。

非物件とされる画像のうち、ホームページの文化カテゴリに相当する部分を別ロケーションに保存している。セクション名は複数あるが、総括的に文化カテゴリのシンボルを与えている。

名称カラーサブフォルダ
文化2010年以前の撮影、アクション、イベント、映像化記録、会合、個人記録
これ以外で自己撮影された画像のうち、個人情報を含むものや書籍など他者に著作権がある物品を近接撮影した画像(接写画像)は、更に別のフォルダへ移動した。公称されている撮影枚数は、上記の物件・非物件カテゴリにある画像に限定されている。
《 亀浦系 》
項目記述日:2021/4/25
市内の亀浦付近の海岸に見られるような石質を表現した語。地質学的にみた厳密な分類ではなく素人判断による勝手呼称である。
写真は亀浦漁港近くの岩場。


色調は灰緑色から黒で、ミルフィーユのように薄い層が重なったような特徴的な外観をもつ。脆くて層に沿ってぽろぽろと剥がれ落ちる。割れた断面には金属的光沢がみられる。薄く割れるので石磨きには適さない。

亀浦から常盤の海岸にかけて極めて目立ち、海岸の写真を見せるだけでこの辺りの海岸と特定できる人は多い。同種の岩質は黒崎より東側では殆どみられない半面、亀浦や常盤の内陸部にかけての岩場にも部分的に観察される。常盤池の本土手付近にもあることから、常盤系の岩とも言えそうである。
《 カメラ 》
項目記述日:2019/8/31
最終編集日:2023/12/31
ここでは、当サイトに掲載される画像の採取に用いているカメラに限定して記述する。当サイト構築以前のフィルム式カメラについては別途記述する。
写真は現在サブとして保有しているカメラ。
これと同じ型式のものを実際に使っているカメラで撮影している


市内多くの物件を含めて採取された画像は、最終編集日時点で既に38万枚を上回っている。画像はカテゴリ別に整然と分類されすぐ取り出せるようになっている。しかしその画像を採取する大元となっているカメラは業務用のハイスペックなものではなく、 市販のメジャーなコンパクトデジタルカメラを使用している。現在では Canon IXY 650 を使用中で、将来的に買い換えるにしても(以前に使用していた充電器や互換バッテリーをそのまま使えるように)上位互換機種を選定するよう決めている。

このカメラを採用した理由は安価で入手も容易なため、壊れてもすぐ同機種が手に入ることと、暗い場所での撮影に強いイメージセンサを搭載しているためである。2010年代半ばまで使っていた他機種のカメラは暗い場所ではフラッシュが必須だったが、現在ではトンネルの内部など真っ暗な場所以外では殆どフラッシュを必要としない。新川歴史研究会のメンバーである博士も同じカメラを使っているが、過去に私が「安くて使い出が良いから」と勧めたのを参考に購入したという。
【 高性能の大型カメラを所持しない理由 】
今や市内の物件の撮影は、道楽や趣味を超えて完全に業務の範疇である。かつて「写っていさえすれば良い」とばかり適当に撮影していた画像も、可能なものは条件の良い日に分かりやすいアングルでの再撮影が行われている。業務として撮影を行うなら、相応の機材を使用するのが普通だろう。

そうでありながら重要な物件の撮影においても未だに安価なカメラを使っているのは、以下の理由に依る。
(1) 大きいと携行に不便である。
(2) 高価な機材でなくても間に合う。
(3) 拡大印刷が必要な撮影対象が殆どない。
物件を含めた題材の撮影は、今でも自転車や徒歩が主要な移動手段である。自転車だとショルダーバッグに入るサイズでなければ携行に不便だし、短い距離であればポケットに突っ込んだり徒歩だと手に持ったまま移動するのが常である。このとき重いと持ち運びに疲れるし、大きいと素早く取りだして機敏に撮影するのに不向きである。

最近の物件再撮影では、既知の場所までサッと車で乗り付けて撮影することが多い。この用途ならカメラは大きい物が持てる。しかし現在の当サイトのような活動では、カメラによる映像が大きなウェイトを占めているとは言っても完全な主役ではない。画像を見ただけでその凄さや壮大さが分かるものは稀少であり、説明を加えなければ撮影の意図さえ分からないものが大多数である。このような題材を撮影するのに超高解像度のカメラは不要で「大体何が写っているか分かる程度」で足りる。

目で見えているままに可能な限り近い状態で撮れることが重要であり、その他のエフェクトや画像加工アイテムは必要がない。実際、現在使っている安価なデジタルカメラでも様々なエフェクトが備わっているが、カメラをどういう設定において撮影するかは統一的基準を用いているのでまったく使うことがない。解像度に関しても撮ったものをA0くらいの大判でカラー印刷したいのならその方面に特化したカメラや編集ツールが要るが、現在のデジタルカメラの設定では、解像度は下から2番目の低い設定にしている。これでもなお原典ファイルでは大き過ぎるので、当サイトでの掲載は 640×480 pixel を標準としている。[2]

この設定では、書籍にカラーで写真を掲載したときジャギーが目立つなどして問題が起きるのではないかと懸念されたこともあった。これについては、写真をA4版程度の書籍に載せるくらいならまったく心配するに値しない。これは被写体が遠景や物件の記録などが主体であって、細部までの繊細な再現が必要な題材でないことも理由である。
【 高解像度対応への問題 】
ネットの転送速度が飛躍的に向上してきた今、動画は先行して高解像度化が進んでいる。十数年前は静止画よりも解像度を落とさなければ転送どころか保存が困難だったのが、今や一個人でも解像度が高く違和感のない動画を撮影し配信する環境が整ってきている。前項とは相反するが、将来的な用途を見越して現在の静止画撮影の解像度を高くした方が良いのではという懸念もある。

今後なくなることが確実視される昔の路地を連続的に撮影した画像を元にVRを構築する場合、等身大に拡大しても品位が落ちない画質が必要になる。大画面のディスプレイで閲覧したり、あるいは更に大きい投影環境で放映するとなると、元画像の解像度が低いと拡大すれば見るに堪えない品位になってしまう。

今のところこの問題に関して特に対処していない。安易に設定を変更するとそれ以前の画像との品位に連続性が保てなくなることと、解像度を上げれば必然的にストレージ領域を圧迫するからである。真に原典画像の解像度を上げる必要性に迫られたときに考慮する。撮影の99%以上が静止画で動画を殆ど撮影しないことにも依る。むしろ解像度云々よりもそれぞれ主要な物件に関して静止画だけでなく動画でも採取しておくことを考える方が現実的だろう。

形から入るという意味では、周囲の目を考慮するなら大きなカメラを持った方が断然評価は高い。三脚を拡げて大きなカメラを据え付け、交換用レンズなど他のアイテムを入れた袋を持っているなら、趣味と言っても殆ど専門化並みに凝った人か、撮影を業務として行っているプロのカメラマンという目で見る筈である。そこまで行かなくても三日坊主に終わらず長く趣味として楽しむなら、初心者だからと言って安価な道具を求めるのではなく高価でも一定の評価がある道具を使うのは道理である。

それをしないのは、物件の調査や素性に関する専門家であるにしても撮影の専門化ではないからとも言える。高価で良いカメラを持つなら相応な扱いの基礎を知っておかなければ、変な取り扱い方をしていれば笑いものである。高そうなカメラを持ち歩けば、このような活動はやはり撮影のプロでなければ…という先入観を抱かせてしまう。街中の映像記録が身近なものになるには、最初は写りさえすれば足りるカメラを持てば始められる活動なのである。
出典および編集追記:

1. ただし毎月掲載されるコラムや山口ケーブルビジョン「にんげんのGO!」で掲載される画像は編成側で任意に解像度を落とせるように原典画像を提出している。
《 観光ファディズム 》
項目記述日:2019/2/3
最終編集日:2023/12/27
話題性のみが極度に増幅し広まった観光地などに短期間で大勢の人が押しかけ、現地および周辺地域にマイナスの影響を与えている事象である。名称の根拠はフードファディズムの郷土ツーリズム版で、言うまでもなく勝手呼称である。

近年では2018年に開催された山口ゆめ花博で沿線道路が連日酷い渋滞に見舞われ、花博とは関係のない通勤者や沿線住民が難渋する事態となった。そして花博自体でも天気の良い土日は人々が殺到したため、お目当ての場所へ行くにも数時間待ちという状況であった。もっとも主催者側は入場数が多ければそれだけ賑わいが創出される上に経済効果も大きいことから、負の局面に目を向ける様子はない。花博が終わったことで周辺地域はかつての静寂を取り戻し、沿線道路を通勤路に使っていた人々からは「やっと終わってくれた」という本音の意見もみられた。

特定の観光地に対する来訪者の時期的な分散、観光箇所それ自体の地域的な分散を行えば緩和されるのだが、いずれも非常に困難である。現代社会は未だ土日祝日が休みとなる会社勤めの人が圧倒的多数であり、平日昼間は殆ど仕事を持たない高齢者や時間的融通の利く自営業に限定されてしまう。
写真は常盤公園の湖水ホールに向かう車列…駅伝などイベントのたびにこの渋滞が繰り広げられる


地域的な分散は一定地域にいくつかある観光資源へ誘導することで可能となるものの、未だ現代人においての余暇の愉しみ方がそこまで多様化していない。子どもがいる家庭で我が子を退屈させずに自分たちも愉しめる観光先となればどうしても行き先が限られてしまう現状がある。

近年、インバウンド(海外来訪者に対する積極的な観光地アピールと誘導)やDMO(Destination Management/Marketing Organization,観光地経営)といった概念が重要視され、行政は賑わい創出と経済効果を狙って手放しで強力に推進しようとしている。その裏で来訪者が特定の観光地へ集中し過ぎることに対する負の影響については、殆どまったく考慮されていない。価値観の多様化した日本人の中ですら大勢が押し寄せれば一定数で許容度を越えた振る舞いをする観光客が現れるなら、会話による意思疎通が困難であるのが明白な海外来訪者を無節操に観光地誘導するならどんな負の影響が起きるかは想像できなければならない。この点で行政によるメリット部分にしか目を向けていない近年のインバウンド信奉に懸念を表明する。

特定の観光地への極端な集中が問題視されるが、その他にもマイナーとされる史跡や名所、ごく小さな面白スポットに至るまで同種の現象が起こり得る。地元在住民も特段の注意を払っていない場所に何故か人々が集まり、現地にあるものを愛でたり写真を撮ったりすることは各地で起きている。その背景にはSNSによる情報伝播が大きな影を落としている。その現象がメディアによって報道されることで更なる現地来訪の傾向が強まることが多い。黙っていても人が押しかける有力な観光資源を持たない自治体にとっては地元への興味をもってもらい経済効果を生むメリットがある半面、登山道が荒れたりゴミを投棄されるなどの負の影響も起き始めている。人気化と観光ファディズムは紙一重と言える。
【 娯楽ファディズム 】
溜め池やダム湖で釣りを愉しむ人は思いの外急増している。中には釣り糸を捨てて周辺住民が歩くとき脚に絡まり事故の原因を造ったり、行き止まりの狭い道へ入り込んで地区道を荒らしたり、車を転回するのに民家の庭先まで入り込む事例が報告されている。小規模な娯楽ファディズムとも言える状況で、例えば小野湖でバス釣りを愉しむ来訪者が過度に増えたことと一部のマナーを欠く人々のせいで、小野区一の坂地区の住民は(行き止まりであり実質的に地元在住者の地区道のように機能している市道一の坂黒瀬線へ入り込み民家の庭先で転回するため)迷惑を被っている。

一連の事象は「行き止まり地点での釣り客による駐車問題について」で派生記事化しているが、何か大きな事件でも起きない限りこのような負の局面が表に出てくることはない。即ち、観光地であれ面白スポットであれ来訪者が愉しんでいる裏で、大勢の人が短期に押し寄せることで日常的な不利益を受けている地域在住者の問題はもっと重視されるべきである。
【 近年の状況 】
covid19 の蔓延により感染対策防止として密集を避けることの重要性が説かれた。感染拡大期には不特定多数が集う祭りやイベントが中止されるだけでなく、通常時でも映画館など一定人数が換気の行き届かない空間に集まることも忌避された。しかし2023年春に漸く感染症ランクの引き下げによって殆ど経済活動が元に戻ったことにより、結局元とあまり変わりのない状況に戻りつつある。

ただし過度の観光客集中に伴う弊害は、マスコミによってオーバーツーリズムという語で表現し直されている。特に同年夏の富士登山に顕著で、弾丸登山を始めとする強引かつ過度の登山客による問題がクローズアップされた。観光地へ過度に人々が集まり過ぎることは結局旅行の企画会社や一部の現地営業者が潤うだけであり、訪問者にとっては何一つメリットがないことが認識されていながらも未だ観光の在り方を見直す風潮にはなっていない。

観光地と言うほど特筆すべき物件はないものの、特定のジャンルを設定したりストーリーを付加することによっていくつかの微細な物件を合わせて訪れる種の観光が台頭してきている。散歩系題材はその代表格であり、魅せ方を工夫することで全国何処でも小さな観光地を掘り起こすことが可能である。当サイトは(covid19が起きるより遙か以前から)この方面に特化した題材発掘を継続しており、今後は訪問者向けの情報提供を推進するステージにある。
《 奇跡のスイセン 》
項目記述日:2019/4/3
最終編集日:2019/12/22
園内に棄てられていた未知の球根を拾って鉢へ植えていたところ芽吹き、初セミナー開催を前にして開花したスイセンを指す。
写真はセミナー開催日の少し前に満開となったスイセン。


映像記録がないため確証は持てないが、この球根は恐らく常盤公園のロックガーデン付近で拾ったものと思われる。帰り際に園内を歩いていて球根が数個落ちているのを見つけていた。その場所は周辺から掃き集められた落ち葉などが溜まっている場所だったので、運ぶ途中に落下したか棄てられたものと考えた。外観は異常がなさそうだったので、ポケットへ入れて持ち帰っている。

球根を植え付けて育てるのは、小学校低学年のチューリップ以来のことで知見が何もなかった。そこで使い古しの皿へ置いてドラセナの鉢から土を少し採って浅く植えておいた。ところがいつまで経っても芽が出て来ないため、やはり不良品とみなされ棄てられていたのだろうと考えた。皿は暫く部屋の中へそのまま置いていたが、掃除のとき邪魔になるので冬場の寒いベランダへ出してしまった。

ある日、部屋の掃き掃除で埃をベランダへ掃き出そうと窓を開けたところ、ベランダの上にある鉢で未知の球根から少しばかり芽が出ているのを見つけた。皿に入れていた3個の球根すべてから芽が出ていたのである。これは全く意外なことで、そのままにすると冬場の寒さで枯れると思ってすぐに部屋の中へ入れた。それから根腐れしない程度に少しずつ水を与えた。

未知の球根は見るみる茎を伸ばし立ち上がった。この時点ではまだ何の球根か分からなかった。背丈が伸びて倒れそうになったので初めのうちはPCの筐体にもたれかからせていたが、根も張ってきたので普通の鉢を買ってきて植え替えた。2月に入ると、長く伸びたうちの一つから先っぽが膨らみ始め、つぼみになることを予感させた。それは更に膨らみ始め、その形状からスイセンではないかと推察されるようになった。

このスイセンは少しずつ花開き、初セミナーが開催される13日に満開状態となっている。初セミナーの出来映えはかならずしも成功とは言えなかったが、思いがけないタイミングで成果が訪れることの示唆となった。

翌月にはアパートから引っ越すことが確定していたので、奇跡のスイセンはそのまま新居へ運ばれた。そして実地に植え付けるのが相応しいと考えて、引っ越し先にも生えているスイセンの群生の間にそっと植えられた。このスイセンは他の個体と共に夏場は一旦枯れて姿を消したが、2019年の冬場には再生し伸び始めた。しかし植え付けが浅かったため花を開かせることはなかった。これはスイセンの持つ特性であることが後に分かった。

まだ若いからかそれとも栄養不足なのか、奇跡のスイセンは周辺に植えられているスイセンよりも勢いが弱い。しかし植え付けられることによって大地から水分と栄養を補給し、秋口以降も球根で越冬することで翌年再び伸びてくるようである。そして実際、2019年の11月中旬になると私が植え付けた場所からそのまま3株ほどのスイセンが葉を伸ばし始めているのを観測した。

野良生えしているスイセンが多いことから分かるように、生命力が非常に強い植物のようである。他方、植え付けが浅いと花を開かない特性も併せ持つ。よく言われる「置かれた場所で咲け」という語と共に、花開かせるためにはただ単に植え付けるだけではダメで植え付けを深くするなどスイセンの持つ特性を理解する必要があることは実生活にも象徴的である。
《 ギフテッド 》
項目記述日:2022/12/31
最終編集日:2023/1/14
平均的水準よりも非常に高い知的能力をもつ人の呼称である。一般的に成人よりも子どもに対して用いられることが多い。近年公にされ始めた概念であり、その特性が漸く理解されて教育においてもその特異な能力を伸ばす方向に進んでいる。

ギフテッドとは gifted であり、天性として付与された特性を意味している。努力によって獲得されるものではなく、むしろその素地を支える部分である。HSPに些か相通じる部分があり、ある狭い対象に鋭く深い洞察を得る半面、本人が価値を感じないと考える対象には殆ど頓着せず、標準以下の知識や学習意欲しか持たないことが多い。

このことは昭和期はもちろん平成期に入っても正しく理解されず、問題児扱いされたり変な子どもといった目で扱われた。少なくとも国内ではまともに認知されていなかったのは、このカテゴリに入る子どもたちに対する呼称がギフテッドと命名され、和語や熟語として存在していないという事実で充分である。[1]
【 個人的関わり 】
自分自身を振り返ってみるに、学童期ギフテッドあるいはそれに近いことを言われた記憶は何もない。ただし近年 HSP という語と形態について明らかになってきて自分がその素地を持っていたことを認知している。他の子どもが普通にするようなことに関心を示さず、おかしなものに興味を示していた。例えば道路沿いにある電柱に異常な関心を示し、教科書などいろいろなものに街中で見てきた電柱を鉛筆で書いていたのを覚えている。

普通の子どもが当たり前に出来ることができなかったり、努力すら放棄することで仲間はずれにされた。狭い範囲で知的好奇心をくすぐるものに関心を示し、本はよく読んで早くから大人の中に入って育ったせいか体育と美術以外の教科の成績は良かった。このことは余計にでも同級生からの反感を買う原因となった。

昭和期の男児は並べてやんちゃで、時代柄流行っていた野球で遊ぶのが普通だった。身体を動かすことより机にかじりついて勉強するのを好む学童は、同年代の子どもたちの中では完全に浮いた存在であり、格好のいじめの対象だった。現在なら何かの特性があるならそれを伸ばすように仕向けるものだが、あいにく昭和中後期の教育はその点に関して理解を示すどころか、積極的に潰しにかかっていた。

これは戦後多くのものが劇的に転換したものの、肝心の教育者が戦争直後の影響を受けていることと、子どもの数が今より比べものにならないほど多く個別の学童をケアできる環境になかったからである。個性を尊重するという考えは皆無で、大人も子どもも足並みを揃えて行動することが暗黙に求められた。ひとクラスに40名もの学童がひしめき合う状況では、何よりも統制を最優先しなければ収拾がつかなかったのも原因にあるだろう。

この過程で「すべての教科を平均的に修得」することが重視され、平均以上のものは一応評価するものの平均以下の達成度しかない分野は悪い評価を与えて改善する努力が求められた。悪い方はもちろん良いことでも極端に突出した学童は、大人になって社会に出たとき困るという共通理解から積極的に矯正された。何でもそつなくこなせる人並みな大人になることを暗に推奨する教育背景があった。

近年、ギフテッド教育の重要性が漸く認知され始め、文科省から予算配分されるようになった。これは gifted への正しい理解と共に、特異な才能を伸ばす方が国家全体の利益に適うと判断されたからだろう。今まで殆ど何もできなかったのは、このカテゴリの子どもたちへの無理解の他に、子どもの数が相対的に減ったことも理由である。
出典および編集追記:

1.「FBタイムライン|異端児扱いからギフテッドに
《 客観資料 》
項目記述日:2019/5/14
存在の事実やその位置が確定していない物件や推論に基づく仮説に対して、その正当性を裏付ける証拠となる信頼性の高い資料を指す。もっとも一般的なものは写真や公開された地図や航空映像であり、狭義にはこれらを指すことが多い。これらの資料が書籍や言い伝えと一線を画するのは、誰でも容易に検証可能であることと誤った結論へ誘導する作為性が極めて低いからである。

例えば印画紙に焼き付けられた写真は、その撮影者が誰であろうと客観資料である。心霊写真やUFO(ここでは「空飛ぶ円盤」としてのUFO)の写真のように、存在の裏付けという目的をもって作為的になされたものがあるが、一般には今から数十年前に撮影された印画紙の写真において、撮影者がその写真を資料として用いることを欺く目的で意図的に撮影することなどおよそ考え難いことだからである。

現代においてデジタル的に処理された画像ファイルも客観資料と言えるが、前出の印画紙の写真よりは信頼度が低いかも知れない。何故なら紙媒体の写真とは異なり、撮影前に物体を投擲して撮影しUFOのように見せかけるのみならず、撮影後のデジタル処理で本来被写界に存在しなかったものを「移し込む」ことが可能だからである。即ち改ざんに対して印画紙の写真よりも脆弱であり、特に重要な画像データでは将来的に撮影後いっさいの改変が行われていない電子署名が必要となるかも知れない。

公開されている航空映像も客観資料である。それは公開前の検閲で問題部分を改ざんしたり、現代版でも精密な映像を提供することに問題があるために不鮮明化処理されている場合はあるが、殆どの映像において作為的な部分がみとめられない上に十分多くの利用者によって閲覧されている事実による。ただし、後述するようにそれを土台に何かの仮説を補強する場合、解釈の方法によっては完全な裏付け資料とは言えない場合もある。

現に存在していて移動したり改変したりが殆ど不可能とみなされるものや、別の裏付け資料により補強されているものは、人工物・自然物を問わず客観資料となり得る。竣工年や名称が刻まれた扁額が嵌め込まれている隧道全体や、庭先に殆ど埋もれていて僅かに上部のみ現れている蛇紋岩の大岩もそうである。即ち「それが現地に存在して誰でも検証可能であること」をもって客観資料となるのである。
【 仮説の補強材料としての客観資料 】
航空映像や写真などが客観資料であっても、そこに展開される情報の解釈の仕方によっては何かの主張を裏付ける確たる証拠とはなり難い場合がある。古いモノクロの航空映像で何か塔のようなものが写っていることから、かつてその場所に何かの監視塔があったのではと主張することはできても裏付け資料とはならない。焼き付け時に紛れ込んだゴミなどの可能性が捨てきれないからである。別の年代や角度から撮影した同じ場所の航空映像が存在し、そこでも同種のものが写っていれば初めて「何かが存在していたのでは」という推論が可能となる。別のアングルから撮影され別処理された航空映像に対して同じ位置にゴミが写り込むことは確率の問題として考え難いからである。
《 牛乳 》
項目記述日:2022/5/21
最終編集日:2022/5/22
この国にあっては、成分を調整されていない牛による乳と定義されている。
写真は一般的にみられる紙パック入りの牛乳。


一昔はガラス瓶に充填されていたが、現代では外食で提供される場合以外は殆どが紙パック入りで販売されている。ロングライフ牛乳など特殊な容器に入っているもの以外は要冷蔵商品なので、一般家庭では冷蔵庫で保存する。冷蔵庫を開いたときのドアポケットの最下段は1,000ml入り紙パックや大容量のペットボトル飲料がストックできる設計になっている。

牛乳それ自体に特筆すべきことは何もない。しかし上の写真でも分かるように、うちの冷蔵庫では常時1,000ml入り紙パックの牛乳が2〜3本ストックされている。それも大家族ならまだしも私一人で消費する。消費量は一週間に2本程度で、寒い冬場でもあまり減らない。実のところこれはかなり異常である。何故なら現代人は、成人になれば牛乳を一定量以上飲むとお腹が緩くなる(乳糖不耐症と呼ばれる)のが普通だからである。詳細はラクターゼ活性持続症の項目を参照。
《 局長 》
項目記述日:2019/5/26
最終編集日:2023/6/17
渡邊塾のメンバーの一人、SAKI-DORI代表者真部氏の呼称。
写真は2018年に渡辺翁記念会館2階ロビーで開催された音楽祭での撮影。


渡邊ゼミ創立者である塾長より隊長や博士と共に命名された。命名の由来としては何かの局を担当しているからではなく、行政をはじめとした各種団体などの円滑な交渉や調整に長け、自らもSAKI-DORI(咲夢と表記される)の統括であることに依る。渡邊塾の定例会を開くときは局長オフィスが集合場所となることが多い。

専門を自称しているわけではないが、郷土を造った歴史的人物像に造詣が極めて深い。隊長である私が誰かに説明するときは、当該歴史的人物がどの時代を生きたかにかかわらず「ついさっき会って話をしてきたかのように語る」と表現している。特に寒村に過ぎなかった不毛の地宇部の基礎を造った福原家からの人物に詳しく、福原越後公、福原芳山に関する論考を宇部地方史研究会に寄稿している。宇部市が毎年渡辺翁記念会館で行っている成人式は、この10年以上をSAKI-DORIが企画運営している。宇部市制施行100周年市民委員会にあっては第6グループのプロジェクトリーダーを務め、「人の流れを作る」をテーマに要望事項をまとめ上げた。最終的に市長へ手渡される提言書の前文を作成している。

地図マニアと読書嫌いを自称している。地図はマニアというよりも気違いに近いと自称しているのは、国土地理院による地図を元に宇部市全図の可能な限り精度の高いバイナリデータを作成したことで立証される。数百パーツによる地図を手作業で接ぎ合わせ、実際に印刷すると縦4m×横3mものサイズになるという。単純な手作業でも根を詰めて長く続けて居られるのは、日頃はクリエイティヴな作業に終始している所以であろうか。

読書嫌いというのは書籍そのものが嫌いというのではなく、延々と活字を追って読まされざるを得ない状況を嫌っているようである。興味のある分野ではどれほど長文であろうが丹念に読みこなしている。情報を伝えるのには活字だけに依存するのではなく、視覚聴覚も活用したマルチメディア志向で考えるべきというのが本質部分であろう。マルチメディア関連では音楽分野、殊に宇部を造った名士たちがお金を出しあって購入し寄贈されたスタインウェイのピアノに関して、満足に音を出せる楽器として甦らせるプロジェクトを手掛けて世界的な賛同を集めている。

地図の解析とそこから仮説を導くところが興味の重なる部分があり、私の小字から地勢を推察する得意分野と巧みに噛み合い多くの成果が導かされている。当サイトでも勝手呼称されている「局長カーブ」は、最初に局長が現地の不自然さを指摘しそれが何に由来するものかの仮説をたてたことで命名された。
【 近年の動向 】
2020年4月に予定されていた「小羽山ものしり博士づくり計画」が実行直前になって蔓延した covid19 により中止を余儀なくされた後、新しい生活様式にも準拠した同種のイベントを「小羽山ふるさとまつりDX計画」として再度立ち上げた。市の予算承認後、10月より再び小羽山校区内の題材採取活動が活発となった。宇部マニアックスは校区内の題材提供者として参画している。コアメンバーを含めて既に2度ほど解説を交えたコース設定と下見を行っている。

素材や動画採取の必要性があり、撮影には好適な時期ということもあって前述のコース案内とは別に局長と3度ほど素材撮影活動を行っている。後に一連の計画における架空の設定を元にコアメンバーは「ルパンファミリーの一味」と称されることとなった。前述の渡邊塾では局長オフィスと書いたが、一味が同じ場に集結するときは「ルパンファミリーのアジト」と呼ばれることになっている。
《 クオリア 》
項目記述日:2019/7/3
最終編集日:2019/7/8
主観的に知覚されるさまざまな様相をあらわした包括的な概念。比較的最近になって初めて知った語であり、多くの根幹を成す概念であることに気付いている。

用語はまったく耳慣れないものだが、指し示すものは誰でも間違いなく理解できる。言葉で説明するのは容易だが、実際それがどの程度のものであるかとか観測者以外の誰でも等しく認識されているかの検証が非常に困難か不可能な存在である。平たく言えば「〜な感じ」と表現される。[1]五感で現に体得されるものと「何となく感じられる」ものまで含まれる。

いずれも観測者主体で認識される存在なので、自分以外の他者や他の生命体にも同じものが同じ程度で観測されているか否かを検証することはおろか、伝達することすら難しい。それがどのようにして起きるかを考え、何かの手段をもって他者に「この程度に感じている」を伝えることが可能か問題となっているものもある。
【 人によって観測されるもの 】
自分が今、五感をもって知覚される諸々の刺激は、自分以外の他の人にとっても「同じ」であろうか?。現在のところまでは五感のうちのいくつかについて、それがどういう機序で生じて知覚されるのかの説明がついている。机の横に置かれている観葉植物の葉が緑に見えるのは、色調の元となる光が雑多に混ざり合って結果透明であるものが、葉の中に特定の波長の光のみを取り込む物質があり、間引かれた残りが反射され視認された結果である。その色合いを日本語では概ね「みどり」と言い表している。

このとき我々は、恐らく子どものとき同種の色合いをもつ様々なものを指し示されて「みどり」と表現されているのを知って「葉っぱのあの色合い」と「みどり」を結びつけているに過ぎない。緑にも様々な色合いがあるが、それを私とあなたがまったく同じく評価できている保証はない。殊に日本語ではかつての硬化ガラスで覆われた信号機のように、青に近い色彩も「みどり」と慣習的に呼ぶことがあった。実際の色調は「あお」「みどり」の単純な用語で決まるものではなく、数万種あるいはそれ以上の色調を厳密に見比べることが可能であるから、言葉によって表現されるより遙かに多いクオリアが存在していることになる。
【 人の痛みは分からない問題 】
ここに言う「人の痛み」とは比喩的・説話的なものではなく、人が体感する実際の刺激評価に関するものである。心の痛みは忖度できるが、頭痛持ちの人が低気圧の通過時にしばしばもたらされる鈍い痛みは他者に生活に伝えることができない。精々、言葉でもって「ズーンとした」「漬け物石を載せられたような」「脈打つような」などと表現する程度である。形容される言葉で痛みが起こす大まかな性質はそれとなく示されようが、実際どの程度の痛さであるかは分からない。

痛みが代表的な症状となる典型的な疾病では、もしかするとそれが発生したときに特有の脳波が起きるなど区別可能な信号が出ているかも知れない。例えば何かの端末を人体へ取り付け、その信号の強度から痛みの強さを客観評価するとか、あるいは同じ信号を別の人体に入力して「同程度な痛み」を一時的に発生させることができるなら、リスクはあるがよく効く鎮痛剤の使用が正当化される。仮病で頭が痛いなどと嘯いているズル休み常習犯の学生を看破できるだろう。現状はどこかの部位が痛いからと言って何処の医院でも容易に使えるほどの機器は普及していない。
そこで痛みの大きさが解析できたからと言って処置が決定付けられる訳ではないからかも知れない

形容する言葉を充分に持ち合わせない幼児にとってはもっと深刻である。「ポンポンが痛い」と顔をしかめて泣き出しお腹を押さえることで、少なくともへそ周りの痛みを察知できる。しかしどの程度奥から来る痛みなのか、絞られるようなものか転げ回りそうな位なのかは状況判断しかできない。日頃からちょっとのことでもすぐ痛いと泣くことから閾値が低いのか、それとも真にもっと深刻な現象が体内で起きているのかは、他の数値検査などから間接的に知ることとなる。大人とて同様であり、痛みの度合いを十段階で数値表現する感覚的な評価にとどまっている。腹痛の原因となる行動に心当たりがなければ、初期診断では対処法を切り分けるのに時間がかかることがある。

激しい傷みはそのまま生命を脅かすサインであることが多いので、その様態について比較的よく分析されている。痒みも伝達不能なクオリアであるが、生命を脅かす原因とはならないものが殆どであるせいか対処が十分に進んでいない。そもそも痒みという現象の存在意義や機序についても詳しくは分かっていない。これは哲学的な問題を越えて医療の取り組むべき問題となる。
【 クオリアの共有 】
五感で主観的に伝達されるものの他に感情や、更にそれを超えて「何となく知覚される」といった感覚もクオリアを伴うと考えられている。

ある会合で、主催者が壇上で多くの聴衆者を前に演説しているとしよう。ちょっと気の利いたウィットを放ったとき会場から笑いが漏れることがある。しかもそれは全員ではないにしても、殆ど同じタイミングである。主催者が伝達を意図はしていないながら同時期に類似するクオリアが聴衆間に共有されて笑いを引き起こしている。

もう少し微妙なものは、主催者が何かのNGワードを発してしまったとしよう。そして主催者自身言葉が滑ったことに気付いて僅かばかりの無言のひとときが生じる。このとき聴衆の誰もが「それ言い過ぎじゃないですか?」となじらなくても、言い過ぎた言葉を確かに耳にした聴衆は、今の瞬間他の人も自分と同じことを感じているのではと思うだろう。いわゆる「気まずい空気や雰囲気」という存在であり、笑いという現象に現れなくても共有されているのではと感じる。
会合の後下駄箱で「あの言葉は酷いよね」「でしょ?私もそう思った」等の会話で共有が確認されることが多い

人間は社会的生物であるので、一人では社会は成り立たず自分以外のもう一人と出会って社会となる。自分の肉親や兄弟との関係は社会とは呼ばないが、他の人に比べて観測期間が長く、いろいろなクオリアに対する反応を知っていて相応に振る舞っているから意識しないだけである。

まったく初めての人との出会いは、それぞれが持ち合わせるクオリアの擦り合わせである。それは往々にして言葉よりも先行して伝達する。まだ自己紹介もしていないうちからこの同僚とは馬が合わなさそうだと感じたり、この人が私の伴侶となるべき異性なのではと感じたりする。会った瞬間好きで好きでたまらなくなる感情を誘発する異性があるのは、しばしば波長の一致として表現される。ただし説明付けが不可能なものだけとは限らず、それ以前の経験に理由が求められるものも存在する。

この直感的判断はしばしば後で覆されるが、判断した印象は肯定的・否定的のいずれの場合も相手に伝達し、逆に相手が自分を判断する影響を及ぼす。双方が適齢期であったりたまたま心寂しい心理状態であったときには、しばしば相互のクオリアは増幅して自分の中で膨らみ、その影響を及ぼし合うことがよく起きる。
【 幼少期から認識していた現象 】
あまりやり過ぎると思考回路が壊れそうになるので程ほどにすべきだが、幼少期の頃から認識していて誰でも同じ現象を観測できるのだろうかと不思議に思っていたことがある。

目をつむると、それまで目の前に見えていた景色は隠される。その代わりに「何も見えなくなる」のではなく濃い色のついた暗幕を被せられているのと同じ状況が視認されるだろう。夜寝るとき室内灯を消して目を瞑れば真っ黒な暗幕が視認され、逆に天気の良い日に目を瞑ってから太陽へ顔を向けると、明るい茶色から朱色に近い暗幕が視認される筈である。瞼は薄い膜状なので、太陽へ顔を向ければ瞼を通して光が入ってくるのが認識されるために明るい色が刺激として伝達される。

ここまでは割と容易に説明がつく現象である。では、目を瞑ったまま暫く暗幕状態を凝視し続けてみよう。眠ってしまってはいけないが、何かの瞑想に耽る必要はない。ただ無心に瞼の裏側に写る暗幕を凝視するのである。このとき顔に浴びる光の量が変わると余計な刺激となってしまうので、なるべく顔を動かさないようにする。また、直前に蛍光灯などの強い光を見てしまうと残像が邪魔するので、それらの影響がなくなってから行う。両手で軽く瞼の上を覆って光をできるだけ遮断すると巧く行くことが多い。暗幕の中に何かが見えて来ないだろうか?

この反応は人それぞれ異なるかも知れない。私の場合、最初は均質な茶色い幕と視認されていたところに色調が異なるぼんやりしたものが見える。やや明るみを帯びた棒状のものだったり、暗幕に薄い虹色がオーバーラップしたような感じに映る。更にその暗幕の中に無数の虹色の丸い粒がいくつも現れランダムに移動する。あるいは小さな碁盤目状に並ぶ黄色い点々が動いていくのも見える。特に後者の現象は、遙か遠くに見えているビルディングの夜景が大気の影響で揺らぐようである。碁盤目状の黄色い点々が恰もビルの窓から漏れる明かりに思えたからで、この奇妙な現象は間違いなく小学生の頃から気付いていた。

この「蠢くビルディングの明かり現象」については、今ここに書いたのが初めてであってこれまで書いたことも誰かに話したこともない。何故ならそれは「トマトが赤い」とか「砂糖は甘い」という程度に一般的に認知されたクオリアではなく、もしかすると自分以外の誰もそんな奇妙な現象が起きないかも知れないと感じたからである。

普段寝るときは認識する以前に眠りに落ちてしまうのだが、風邪を引いて学校を休みベッドで一日じゅう寝ていなければならないとき、目を瞑ってももう眠れない。そういったときは目を閉じた暗幕状態を長いこと視認し続けていながら意識が落ちないので、やがてそれらの現象に注意が向くようになる。昔の家は天井が板張りだったので、二段ベッドで寝ていて寝付けず天井の板を眺めているうちに自分を睨んでいるように思えてきた…という部類に似るものもある。

今やっても全く同じ現象が起きる。そしてこの現象は自分だけでなく誰にでも起きるものなのだろうか。見え方は異なれど恐らく普遍的なものだろうと信じる。さもなければ自分自身心配である。

何故暗幕以外のものが視認されるようになるのか自分なりに説明を与えると、ラジオが何処の有意な電波もキャッチできていないとき「ザーッ」とノイズが走るのと同じと思う。人の目は暗闇ですぐ見えるようにはならないが、時間が経つにつれて暗順応が起きて微細な明かりでも察知できるようになる。それでもなお有意な信号が視認できないとき、更に閾値を下げて信号をキャッチしようとする。この結果、本来なら目の奥や脳で処理される過程で、血流などの微細な影響で発生するノイズを増幅させてしまうからではないかと思う。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - クオリア
《 ケーブルカー 》
項目記述日:2020/2/19
最終編集日:2023/12/26
通常は急勾配の軌道上を牽引されることで進む輸送機関を指すのだが、当サイトなどでは殆どが山口ケーブルビジョン所有の営業車という意味で用いられる。
写真はロケ中の小休止としてコンビニに立ち寄ったとき撮影されたケーブルカー。


この奇妙だが全く妥当な呼称は初出が判明している。隧道どうでしょうの初回(当時はまだシーズンという語は使われていなかった)ロケにあたって参加メンバーに当日のスケジュール表が配布された。この回では「にんげんのGO!」レギュラーメンバーに加えて私とカメラマンの冨永氏と他に2名が加わっていたため全員が一台車に乗り合わせることができなかった。そこでスケジュール案では2台の車へ分乗することとなり、その説明として「2台に分乗/ケーブルcarと冨永carと記載されていたことによる。

ロケスケを作成した松田氏によれば笑わせるためにわざとではなく、ごく普通に書いたものと思われる。「ケーブルの車」であるからケーブルカーという呼称は(一般的な想像から大いに乖離するものの)妥当であるところが面白い。そのため当サイトでも敢えて読者のミスリードを誘うこの語を用いることとした。もっとも当社従業員や関係者が自社の営業車両をそのように呼んでいるかはまったく分からない。

私が観察した限りケーブルカーはボディーがシルバーとホワイトが存在する。側面にブルーで山口ケーブルビジョン C-able の文字があり、後部ドアから背面のガラス部分にかけてピンクとイエローの2本の上向きな直線が描かれている。背面にはフリーダイヤルの番号(0120-374936)と語呂合わせの読み(フリーダイヤル ミナヨクミル)の白いシールが貼られている。
【 近年の状況 】
時期は不明だが、近年営業車両の側面や背後のフリーダイヤルなどの表示が外され一般車両と変わらない外観になった。スタジオ収録などで本社に早朝足を運ぶことがあるものの、駐車場に停まっているのを見かけない。この意味で”ケーブルカーは絶滅した”と考えられている。
《 継続監視物件 》
項目記述日:2019/5/11
最終編集日:2019/7/2
現に変化が進行していたり、将来的に大きな変化が起きることが確実で、定期的な映像記録を採取する方針が決定している物件である。継続観察物件継続監視対象などとも呼んでいる。

継続監視対象となる代表格は、市街部における再開発である。既存の建物が取り壊され更地にされた後にすぐ駐車場となったり別の建物が建設されるので、短期間に大きな景観的変化が起きやすい。

2019年現在においてもっとも規模の大きい継続監視対象物件は宇部市役所新庁舎建設に係るもので、元警察署の建物があった場所のゲート付き駐車場が閉鎖されたときから記録をとり続けている。特に立体駐車場工事が始まってからは、工事の進捗度が視覚的に分かりやすくなるように定点観察も行われるようになった。写真は3月下旬の様子。


変化が観察しやすく進行も早い物件はどれも対象にはなるが、俵田翁記念体育館改修工事のように工事期間が長いものの全体が防音幕に覆われて外部から変化を窺うことが困難なものは観察頻度が間引かれる。厚東川水路橋のサイフォン建設工事のように、現地を頻繁に訪れることが難しいものも随時撮影となる。

宅地造成や道路改良工事も目に見えて大きな変化が現れやすい対象であり、近くを通りかかったとき明白な変化が起きていれば撮影することも多い。ごく小規模なものとしては、護岸の改修工事のように数回の訪問で竣工し終了するものもある。

ジャンルとしては、家屋新築工事のような個人的なものを除外して多岐に亘る。明白な変化を伴うもの全てであると言っても良い。完全な記録を残しきれず、気付いて現地を訪れたときには変化が終了(撤去工事では完全撤去、建設工事では竣工)していることもある。
《 検証可能性 》
項目記述日:2021/10/29
最終編集日:2022/4/23
主に当サイトで物件と定義づけている対象に求められている属性で、誰でも現地を訪れることによってその存在や外観を観察することが可能である特性を指す。物件の検証可能性とも呼んでいるが、広義には物件以外で現地にある素材、非物件の資料や伝承の真実性についても考慮される。

当サイトでは、物件が普遍的なものであるためには検証可能性が必要条件と考えている。平たく言えば「いつ誰が現地を訪れても観察することができる」ことである。干潮時のみ見える景観や特定の日時や観察位置を考慮することによって成り立つものは、やや弱められた条件付き検証可能性を持つと言える。

これに対して社有地や一般の立入が制限されているエリアに存在する物件は、どれほど著名な遺構や未知の構造体などであっても検証可能性を満たしているとは言えない。代表的なものとしては宇部興産(株)社有地にある沖ノ山電車竪坑遺構がそうで、一般の自由な来訪が制限されている現状があるうちは検証可能性を欠き、したがってその価値は低められる。同社敷地内にある牛岩神社も関係者以外立入禁止となっているため、歴史的価値は非常に高いものの物件としての価値は著しく低い。

当サイトでは些か極端ではあるが「検証可能性を欠く物件は存在していないに等しい」というスタンスをとっている。いずれも許可を得て入場し現地で撮影した写真もあるが、検証可能性を満たすまで総括記事を作成する予定はない。特に私有地または社有地に存在する物件で、関係者以外の立ち入りが容認されていないものは誰にでも見える場所へ写真や記事などを置くべきではないという考えに依る。精々、公的機関が公開した写真つき記事へのリンクを掲載するまでだろう。

公的機関の物件や付随する対象物にも検証可能性を欠くものがある。厚東川ダムの監査廊内部は森と湖に親しむ旬間における見学会が始まって以来、一度も一般来訪者に公開されたことはない。関係者同伴でも見学は認められない。古いダムであり安全な見学を行うのが困難であるというのが非公開の理由だが、情報に乏しければどうしても穿ったマイナス面の憶測が生まれがちである。ダム建設の時期柄、他のダムでも行われた事実がある強制労働の実態を裏付けるものが現地に遺っている可能性が疑われるし、老朽化が想像以上に深刻でダム本体が安全な状態になっていないのではという懸念もある。
《 小字 》
項目記述日:2019/5/16
最終編集日:2019/7/15
現在においては、個別の土地や一定区画に与えられた最小単位の識別用呼称。「こあざ」と読まれる。あるいは単に「字(あざ・あざな)」とも表記されるが、この場合「字(じ)」と誤読される恐れがあるので、当サイトの管理人は全体を問うときには小字または字名(あざな・あざめい)と表記し、個別の字を厳密に表記する場合は「字××」のように書いている。一般論としての小字については[1]を参照。

かつてはすべての土地の場所に与えられた一般的な表記であったが、現在では郵便物の配達先など日常生活で用いられる表現法としては殆ど用いられない。行政による住居表示改訂が施行済みのエリアでは間違いなくそれを使うし、導入されていない地域でも所在地を表現するには宇部市の後にかつての村や大字名を書き、自治会の通称名と番地のみで済ませることが殆どである。大字(おおあざ)から書かれることすら少なくなり、本来は「宇部市大字川上xx番地」であるべきところが「宇部市川上〜」の如く書かれることも多くなった。このため現在では字(あざ)という概念そのものがあまり意識されなくなっている。
【 小字表記のみられる場所 】
表に現れる頻度が減っただけであって字名そのものがなくなってしまっているわけではない。登記簿や開発許可など当該地点の厳密性が問われる場面では、現在でも小字を交えた表記がなされる。例えば市公園緑地課の管理する公園一覧において住居表示改訂エリア外にある公園の所在地にみられる。[2]当サイトでは「字〜」の如く小字であることを明確に示す字の文字を前置した表記法を字表記(あざひょうき)と呼んでいる。

住居表示改訂エリア外で小字の担当する範囲が相応に広い場合、一般に使用されている所在地の表現法は一定していない。例えばときわ公園の湖水ホール付近にある公園緑地課の公園維持管理事務所の所在地を字表記すれば「宇部市大字沖宇部字中論瀬233番地1」であり、現在もその表記を採用しているページも存在する[3]が、湖水ホールそのものの所在地は「宇部市大字沖宇部254番地」と案内されている。大字名の下位に書かれた地名は概ね小字名であり、通称名を兼ねていることが多いせいか大字・字の表記を外して「宇部市船木中市230-2」(船木郵便局の所在地)のように書くこともある。この場合の中市は小字名であるが、船木中市という自治会の通称名となっている。

実地に字表記を観察する場合、住居表示改訂エリア外にあって厳密性を要する看板類を探せば比較的容易に字表記された事例を見ることができる。先述のような開発行為許可済標識をはじめ、採石や採土場の表示、携帯電話の基地局設置における山林の使用許可標識などがある。このうち開発行為許可済標識は造成工事に付随して設置され、当該工種が終了した時点で撤去されるので旬ネタ的な期間限定素材を与えている。

住居表示改訂エリアでは現役の構造物や看板類に小字名が現れることは、自治会の通称名に採用されていなければ殆ど皆無である。稀に住居表示改訂施行から日が浅い場合、当該エリアに設置された開発行為許可済標識で、住居表示改訂以前の小字名が現れる事例が一例知られている。また、国道190号のアルク恩田店前に設置された押しボタン式信号機に併設されている地名表示板は「宇部市赤岸」と表記されており、アルファベットによる読みまで記載されている。


ここに現れる赤岸は小字名で、自治会の通称名としては使われていない。現地は草江1丁目・則貞1丁目・恩田町4丁目の如く住居表示改訂済みエリアなので、それ以前からの在住者でなければまず知らない地名である。住居表示改訂エリアで公的な表示板に字名が表記されるのは極めて稀であり、今のところこの一例しか知られていない。
【 小字の歴史的意義 】
字名の起こりは土地の識別区分に遡れる。山林では薪を採取する入会地として重要であるが、それ以前に生きていくための食糧を生産する田が最重要地であったことは想像に難くない。その範囲や境界を厳密に決めることは大きな意義があり、このことより田の境界たる畔(あぜ)が字(あざ)の原義ではないかといった説が存在する。[1]

自分の管理地である田だからと言ってすべて一枚ものに仕立てたわけではない。畑は起伏があっても問題ないが田は水を張る以上、水平面に仕上げられなければならない。このため起伏のあるエリアでは自前の田であってもそれぞれを畦畔で区切り、高低差のある田を造ってきた。特に傾斜の目立つ地においては棚田として存在していた。多くの田が休耕田を経て荒れ地となり自然に還っていく現状がある中、現在も耕作されている棚田は絶滅危惧種である。

このようにして造られた個別の田には、しばしば固有名が与えられた。昔は田植えは「手植え」であったから作業範囲が広く、日を改めて個別の田に植えていった。そのとき「今日はどこそこの田に取り掛かろう」と言うとき識別名がなければ混乱する。実際、うちの親元でもかつて田植えを行っていたとき「五畝町(ごせまち)」「蔵下(くらじた)」「柿ノ木田(かきのきだ)」といった名前を与えていたことが証言されている。この命名規則は実に素朴で、五畝の広さを持つ田、蔵があった下にある田、柿の木がある場所の田…といった塩梅である。

この命名規則はそのまま個人の管理する山野などにも及び、それらが小字として伝承されていったのはほぼ確実である。小字絵図を見ると実に細々としたエリアに異なる字名が与えられているのは、それが昔の管理単位であったからである。更に時代を遡れば小名(こな)と呼ばれる小字の下位区分が存在した。現在では字表記そのものが一部の分野にのみ残されているため、小名も小字名に含めて論じられているように思える。

字名は当該土地の履歴簿である。当該地域で起きた事件や地勢とまったく無関係に小字が与えられることはおよそあり得ないからである。ただし後年の住居表示改訂では小字と縁もゆかりも無い名称が付与されることは一般的だし、小字時代でも誤記や誤読が反復された結果元の意味を喪っているものが多い。この場合は一般的な揺らぎの法則を適用して最初期に近い読みを推定することで土地の履歴分析が可能となる。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 小字

2.「宇部市の都市公園一覧|宇部市

3.「都市公園内占用・行為(変更)許可申請書|宇部市におけるお問い合わせ先の所在地に字表記がみられる。
小字絵図
一般には、ある特定の地域に存在する(存在していた)小字の位置関係を明瞭に記載した地図である。字名による分類は普遍的なものであるため、ほぼ全国にわたって存在すると思われる。宇部市内(船木万倉吉部地区を除く)に関するものについてはリンク先を参照。
《 校区 》
項目記述日:2021/10/19
最終編集日:2022/5/1
一定レベル以上の人口密度を持つ自治体における地域分類手法の一つで、地域内に散在する小学校へ通う子どもの居住地をエリア毎に区切ったものを指す。学校区とも呼ばれる。

街区の住居表示の有無にかかわらず居住者目線で区割りされるため、現在においても地図など一定地域を分割する場合に有力な区分法である。以下、宇部市における状況において記述する。

歴史的背景から大字や旧村の区分を継承する場合が多い(東岐波や小野など)が、住居団地の建設と共に新規に作られる小羽山校区や、居住者の増加で小学校が建設された後で既存の校区境界を変更して作られる黒石校区のような事例もある。

かつての村界や大字境界は地勢を考慮して設定されるが、当該地域に存在する町内や班、居住者の意向が考慮されるので、校区の境界線は民家に重ならない人為的な設定となっている。
【 校区という呼称の廃止 】
近年(おそらく2021年の初頭)宇部市は行政レベルで校区という呼称を止めて地区と言い換えるようになった。子どもの減少に伴う将来に向けての学校区の統廃合が視野にある。校区境に近い居住者は、学童を通わせる小学校を選択可能であり、後年造られた住宅地では町内すべてが実際とは異なる校区へ編入されている事例もある。[1]

これを受けて、当サイトで新規作成されるドキュメントでは説明など特段の理由がある場合を除いて校区ではなく地区と表記している。ただし既に作成されたドキュメントにある校区の用語置換は行わない。また、混乱を避けるためこの項目内では旧来の校区という呼称のまま記述している。
【 妥当な校区配列 】
校区という呼称が廃止されるだけで、市内に散在している物件を場所ごとに区分し整理する場合、多くの市民に馴染んでいる校区分類は重要である。特に既存の郷土マップ、散歩マップは校区にある市民センター(ふれあいセンター)単位で作成されているため、過去の資料を継承できる。

現時点で市内には24の校区があり、例えば宇部市防災マップでは東から西へ、北から南の順で、かつ後年できた校区や楠町地区の編入による校区を並べる形で順序付けられている。

単純に校区をフォルダ名にすると、漢字のJISコード順となり位置関係が考慮されずバラバラになってしまう。そこで前掲の配列を元に、校区の位置関係を重視した配列を考えてみた。
東岐波
西岐波
---
常盤
恩田

見初
---
川上
上宇部
小羽山
---
琴芝
神原
新川
鵜の島
藤山
---
小野
二俣瀬
厚東
---
西宇部
厚南
黒石

---
吉部
万倉
船木
この配列は認定市道の番号順を北から南へ、東から西へ向けて設定する手法に準拠している。

区切り線は旧村や大字境界に基づいている。純粋に整理上の問題であり、校区の序列とはまったく無関係であることに注意を要する。
出典および編集追記:

1. 県道西岐波吉見線沿いにある牛明(うしあけ)地区は二俣瀬校区に所属し現住所も大字善和字牛明であるが、新興住宅地を建設する当初から川上校区への編入が陳情されていた。
《 コードネーム 》
項目記述日:2021/3/29
最終編集日:2023/12/27
小羽山地区に在住するLFの一味の総称。今のところ3名が確認されている。
【 コードネームM 】
ファミリーの中で一番の食いしん坊ということが自称されている。コードネームは元よりLFなる呼称やファミリーの創設者とも考えられているようだ。
【 コードネームS 】
ファミリーの一味で、多忙なためあまり姿を現していない。小羽山地区のみならず隣接する新川地区に繋がりを持っている。
【 コードネームY 】
小羽山地区を徘徊し、題材などの情報を収集している謎の人物。コードネームYは自称であり本名は明かされていない。
写真は2021年3月号の小羽山だよりに、全く唐突に「怪盗ルパンファミリー情報」として出現したコラム。


末尾に小さく書かれているように、怪盗ルパンファミリーとは2020年度から始まった小羽山ものしり博士づくり計画から関与し続けている謎の組織であり、コラムはその後の動向を報告する内容となっている。

小羽山だよりにLF関連のコラムを掲載する案は以前より示唆されていたが、新年度入りする4月からではなく3月号より開催することが内々に決定された。このとき先発のコラム執筆者として唐突にコードネームYが指名されている。この決定はある週の木曜日の午後で、週明けの月曜日には印刷にかけるスケジュールだった。このため小羽山ふれあいセンターの開館している金曜日夕方までに提出して欲しいと要請され、コードネームYは窮地に追い込まれた。

この唐突な要求に対し、コードネームYはメンバーの遂行能力を誇示する意図も含めて、題材と写真の選定からコラム執筆までを”たった15分で”仕上げて提出したと言われている。コラムの冒頭部分にある「地区内を散策している…」は、当初「校区内を徘徊している…」だった。現在は学校区の呼称が地区と呼ばれる傾向にあること、徘徊という語は独居老人の徘徊を連想させるため編集部の意向を受けて散策と置き換えられている。

こういったプランはLFの構成員である他のコードネームたちによって支えられている。この組織の全体像は不明であり、謎に包まれている。いや…実際はそんなに謎には包まれていないのだが、コードネームYがそうだと言えば常にすべてがそうなるのである。
コラム
一般には文字数を制限した特定の話題に関する論述文であるが、特段の前置きなく書かれた場合には(株)宇部日報社へ毎月掲載されている当サイト管理者によるコラムを指す。2017年6月より掲載が開始されている。詳細情報はリンク先を参照。
《 コワーキングスペース 》
項目記述日:2022/7/23
最終編集日:2022/7/24
一般には集中してあるタスクをこなしたい人のために提供される共同作業場である。集まる人々に相互の関連がない場合もある。写真は局長宅のコワーキングスペース。


以下ではこのワーキングスペースに限定して記述する。

この場所に集結して作業を行うこと自体は以前から行われていた。LFの会合の場となったこともある。小羽山ものしり博士作り計画の拠点であり、他にはスマホ教室関連の会合や zoom 会議の場にもなった。zoom 会議は自前のノートPCで出席したことはないが、隠れキャラとして顔を出したことはある。
【 2022年夏の状況 】
小羽山ものしり博士作り計画の第2号小冊子の発刊にあたって、夏休みが始まるまでに印刷する都合が生じたとき局長によってコワーキングスペースとしての活動が提案された。このときまでに Google document による作業を始めており、インターネットに接続できる環境さえあればノートPC一台で何処でも作業できることからコワーキングを開始した。

小冊子は7月19日に完成品が届いたので小羽山小や新川小に送達している。一連のタスクが終わった後、マップ制作が必要なことからノートPCはそのままコワーキングスペースに置いている。宇部マニさんはコワーキングスペースを「怖ぁーっ!KingSpace!」と呼んでいる。23日は午後10時過ぎまで会合が続き、帰宅したとき勝手口まで歩くのが怖かったのも確かである。
コンビニ
項目記述日:2021/4/14
最終編集日:2021/4/15
コンビニエンスストアの略で、説明するまでもなく日本全国津々浦々に存在している長時間営業を旨と為す大手小規模店舗のことである。
写真はセブンイレブン宇部中山店。


殆どのコンビニが交通の便の良い幹線道路沿いに立地するため、車が移動手段である現代人にとって必須な存在である。まったく利用することなく暮らしている現代人は殆ど居ない。それにも関わらず当サイトの管理人はコンビニが嫌いで、公共料金の振り込みなど必須な操作を除いて利用しない。理由はコンビニが社会的責務を充分に果たしていないと考えているからであり、現状が改善されないなら店舗自体無くなって欲しいとすら考えている。この理由など詳細はリンク先を参照。
【 コンビニ自治体 】
店舗や公共設備の充実で街が暮らしに便利な姿に進化する一方、街並みが画一化し独自性が薄れていく現象を指す勝手呼称である。コンビニ嫌いに擬えた勝手呼称ではあるが、必ずしも否定的なイメージだけを付与しているのではない。

具体的にはその街に固有の商店街や地場の小規模企業が減少し、全国展開する大企業のチェーン店に置き換わっていく点に顕著である。ジャンルでは小売や飲食店が極めて目立つ。地場の商店は既に壊滅的状況であり、大手スーパーやドラッグストアに置き換わっている。ドラッグストアに至っては飽和状態の中から、ライバル企業間で客の引き抜き合いという次のステージに入っている。

飲食関連ではコメダやスターバックスといった大手が参入する裏で、個人営業の喫茶店は既に数えるほどしかなく、現在の店主が店を閉じればそのまま消滅する状況でなおも自然減少に向かっている。市街部の目抜き通りや中心地は上場企業のような資力のある会社の店舗で占められ、古い建物は軒並み取り壊されてほぼ例外なく高層階のマンションに変わっている。この変遷は全国で同時進行している。この結果、日本全国何処の自治体も街並みの風景が画一化し、何処にでもあるような個性がなく地域性も感じられない景観となっている。

この流れが自治体すべてのエリアに向かうなら、何処かで待ったをかけなければならない。幸いそこまでには至らず、市街部は利便性と居住性を重視したエリアに進化させ、郊外部には緑が多く寛げる空間がむしろ従来よりも充実させていく動きが目立つ。宇部市でも市街部をブロック区分して行政エリアや親水エリアといった棲み分けを前提とした再構成を推進している。

したがって将来的に何処の街へ行っても中心部が「何処にでも見られる風景」になってしまうのは致し方ないことである。ただしその他のエリアを充実させることと、そこに暮らす住民の感性から行政からコンビニ自治体的意識に陥ってしまわないことが重要である。

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