小羽山(おばやま)

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記事作成日:2019/12/26
最終編集日:2021/10/21
情報この記事は主に校区名としての小羽山(おばやま)について記述しています。
小字名としての小羽山(こばやま)については こちら を参照してください。

小羽山(おばやま)地区とは、市街部より北にある地域名の一つである。広範囲においては小羽山校区が該当する。
写真は県道琴芝際波線沿いにある小羽山団地を案内する標識。


標識には小羽山団地という書き方になっている。これは昭和40年代後半から市が広域造成を行い誕生した小羽山ニュータウンを含む呼称である。かつては一般的な呼称だった小羽山ニュータウンは、人々が住み着き始めた後に公募によって決定した名称である。ローマ字表記で obayama と書かれているように、現在では「おばやま」以外の読みは存在しない。

後述するように小羽山は造成後に住居表示が与えられた領域が中心であるが、そうでない地域も含まれる。小羽山を指すもっとも包括的なエリアは小羽山校区であるので、以下では特段の断りない限り、小羽山校区内に関する事項を中心的に記述する。
《 歴史 》
小羽山は市内に24ある小学校区のうちでも比較的歴史が新しい校区である。これより後に設定された校区として常盤、川上、黒石がある。開発造成前は居住者が疎らな里山であった。土地利用は専ら畑であり、ミカンの栽培が行われていたようである。それより前の時代では、薪の採取地であったり焼畑が営まれていたりしていた可能性は、小羽山の昔の呼称「こばやま」から推察されている。(→地名としての小羽山

造成の行われた領域は地形が大きく改変されていて、現地で造成前の痕跡を知ることは不可能である。小羽山団地内では造成の縁にあたる居住区や蛇瀬池、小羽山墓地などに造成前の地形や遺構などがみられる。居住区にあっては人為的に持ち込まれたものを除外して、道路や建物、植生や転がっている礫石なども含めて造成時代以前の古いものは何もない。

ただし造成から外れたエリアでは、むしろ他の地域よりも古いものが観察される。当初の造成計画地であった広田地区は庚申塚や石碑がよく保存されている。西山地区の一部にある桜ヶ谷は、中世より住み着き稲作を営んでいたことが豪農藤本大八の畑地および末裔が葬られているひんがん寺跡にある墓地で理解される。桜ヶ谷は、宇部の地名が歴史上初めて現れることで知られる持世寺文書において、厚東氏が寄進した地名として知られる。
蛇瀬池
【 小羽山墓地 】
小羽山地区の西側に市営の小羽山墓地がある。この墓地は戦前から現在の宇部新川駅の近くにあった墓地を、市街地開発に伴い移転させたものである。正確な時期は明らかではないが移転自体は戦後に行われている。後述する小羽山ニュータウン造成以前は、現在の小羽山地区において人工物らしきものはこの墓地程度だった。入口近くに最初の本格的な海底採炭を行った潟炭鉱の遭難者碑がある。

六地蔵の台座には江戸期の年号がみられるものがある。元からこの近辺にあったのか潟炭鉱関連のあった墓地から移転されたのかは分かっていない。県道琴芝際波線沿いのまこも池手前に上人塚という字名があるので、周辺にあった塚も合わせて移転されているかも知れない。
【 ニュータウン建設 】
昭和40年代後半に人口増加への対応から市街部へのアクセスが良いこの地にベッドタウンを建設したことに始まる。ベッドタウン建設の必要性が早くから認識され、候補地が模索されていた。当初は真締川の川添地区の対岸側、広田の山あいに建設が計画されていたが、地区の反対があって現在の場所が選定されている。

このベッドタウン建設は宇部市(都市開発公社)の着手したうちで最大規模の宅地整備であった。当初から蛇瀬池を挟んだ東西地区の双方を広範囲に造成し宅盤整備されている。特に西エリアには個別の住宅地だけでなく集合住宅が多数建設されている。市営住宅・県営住宅・雇用促進住宅を合わせて20棟を超える。造成の規模も深さ20m近い谷地を丸ごと造成の押土で埋めている場所もある。これにより広範囲な宅地整備を可能にしたが、他方で末信方面との往来があった古道や昔の地勢、若干の史跡が喪われた。

昭和48年12月15日配信の広報宇部で新しく誕生するこのベッドタウンの名称が一般公募された。この時点では小羽山住宅団地と呼ばれていた。翌年1月31日締切で応募資格は宇部市民、命名の採用者には賞金2万円が贈られることとなっていた。[1]この公募には315人により210種類の応募があった。2月12日の審査会で小羽山ニュータウンが正式に採用され、この呼称で応募していた4名から抽選で西岐波区小路在住者に賞金が贈呈されている。[2] なお、この名称には特に振り仮名か記載されていないが、恐らく当時から「おばやまニュータウン」と読まれていたのではないかと思われる。
【 住居表示 】
昭和54年8月1日の第7次住居表示で造成により新たな居住区画となったエリアに新しい町名が与えられた。[4]蛇瀬池より東エリアは東小羽山町1〜5丁目、蛇瀬池の西に隣接するエリアに北小羽山町1〜4丁目、高台の小羽山墓地とその南側斜面が南小羽山町1〜3丁目となっている。このうち北小羽山町4丁目は蛇瀬池が、南小羽山町3丁目は小羽山墓地がエリアの大半を占めるため面積の割に居住者数は少ない。

造成エリアにかからなかった旧来の居住地域は、現在も大字名+番地という住居表示である。この大字は中宇部、上宇部が該当する。ただし自治会の通称名として西山、広田、維新山、鳴水が現在も使われており、大字+番地のみでは特定しづらい場合に大字の後ろに通称名を表記する居住者もある。
《 地勢 》
最初期の地勢については、江戸期に製作された地下上申絵図に描かれている。後年広範囲に造成されたり(小羽山ニュータウン)良質の石材が得られることで山を切り崩して採石されたような場所を除き、手が加わっていない山野は概ね当時と変わっていないと考えられる。

地域を蛇瀬川が貫流し、江戸期に鵜の島開作の水源確保のために造られた蛇瀬池がある。現在こそ蛇瀬橋で東西が連結され容易に往来できるが、かつて地域の東西は蛇瀬川により刻まれた深い谷地で隔てられていた。西側は広大な山野、東側には地今坊と呼ばれる小村があり、畑やミカン園があったとされる。このミカン栽培は市内において初期の事例であり、後に西岐波上の原地区で導入されている。
上の原が先だったかも知れずこの経緯については詳細な調査を要する

小羽山ニュータウン造成で地勢が読みづらくなっているが、ほぼ全域で至る所に硬い岩質がみられる。蛇瀬川が刈川墓地の下で大きく曲がっているのは、往年の水流でも削りきれなかった硬い岩の存在が示唆される。これより護国神社から維新山にかけては表面に風化した土を纏っているだけで、地下は硬い岩盤が存在しそうである。護国神社の南側斜面にみられる石積みは、その殆どが同種の石材である。近隣の山を切り崩して石材を調達したことが考えられる。地名の維新山は「石ノ山」の転訛が考えられるし、西側に隣接する崩(くずし)および初期の護国神社の呼称でもあった崩招魂社は、山を切り崩して石材を得ていたのではないかと思われる。
《 基盤整備 》
【 幹線道路 】
小羽山ニュータウンのほぼ全体を市が造成し施工しているため、市の施工に係るエリアに存在する道の殆どすべてが認定市道となっている。

初期には県道琴芝際波線(当時は市道崩中山線)の小串台より小羽山入口となる道路を整備した。昭和49年度版の地理院地図航空映像では南地区・東地区の造成が同時進行していて蛇瀬橋の橋脚もみえるため、はじめから東小羽山地区までの造成が計画されている。ただし地域を縦貫する市道小羽山中央線は、当初は現在の小羽山5丁目まででありそこに造られたバスの転回場で折り返していた。


昭和50年代に入ると中山観音下から東へ伸びる市道高嶺中山線(いわゆるテクノロード)が建設され、東小羽山5丁目からテクノロードまで抜けられるよう追加整備されている。

現在の南小羽山町より小羽山墓園の西側を通り、高台を周回した上で小羽山中央公園前に降りてくる準幹線(市道南小羽山線)沿いに住宅地や団地が転回しており、現在もバス路線となっている。準幹線沿いに団地を配置し、その内側に住宅地が配置され碁盤目状の宅内道路が整備されている。ただし後年には宅内道路の通り抜け問題に対処するために、十字路部分を相互にクランク状へ変更している。このため不慣れな来訪者は目的の街区へ車で到達するとき迷う場合がある。


車社会がごく一般的な現在では、沿線の民家に付随する車庫には車の出入りを容易にするためにはじめから自歩道を切り下げ施工する。しかしこの辺りの見通しが当初はあまり考えられていなかったからか、切り下げ構造がなく路側に段差を解消するための乗り入れブロックが並べられていることが多い。一般にはこの種の補助具を公道に設置することは(往来の危険上と雨水排除の困難性から)認められていないのだが、市の責任施工であった背景もあって黙認されている。
他地区では市道沿線在住者がこのような補助具を路上に置くと除去するよう指導される
【 雨水排水 】
一定のエリアにある樹木を伐採して造成を行い宅地化した場合、その区域の雨水涵養度は著しく下がる。このため雨が降るとアスファルト路面上などを伝って雨水が一気に流れ下るため、それらを雨水管に集めて一箇所に集めて勢いを弱め土砂を沈澱させた上で最寄りの河川や溜め池に放流する設備が求められる。小羽山地区では小羽山小学校手前(東小羽山沈澱池)と南小羽山地区の下(南小羽山沈澱池)の2箇所に沈澱地が造られている。

建設されて40年以上経過しているため、既に双方の沈澱地ともに土砂が相当堆積している。ダムと同様、百年に一度の大洪水を想定して余剰水を排出する構造がみられるが、小羽山ニュータウンが誕生してから余水吐より水が越えて流れる事態は一度も起きていないと思われる。
南小羽山沈澱地の堰堤は巨大で、側面から見ると排出口の配置や形状からロボットの顔のように見える。
【 上下水道 】
昭和40年代後半までには市街部は上下水道が整備されていた。これに倣い小羽山ニュータウンでも最初から上下水道が整備された。したがって小羽山校区内で井戸のある民家はニュータウン以前からの居住者に限定される。

上水は東小羽山の高台にある中継配水池から引いた。初期にはおそらく桃山配水池からポンプアップし、後年に霜降山配水池が完成してからは高低差のみで給水している。

汚水は道路下の幹線を経て最初期は南小羽山下の中継ポンプ所に集められ圧送されていた。この中継ポンプ所はそれほど長く使われることもなく後に撤去されている。市道真締川南小羽山線の最初の直角カーブ外側にあるフェンスで囲まれた長方形の余剰地は、この中継ポンプ所の跡地である。
【 都市ガス 】
小羽山郵便局の真向かいに事務所があり、ガス貯蔵庫が現在も存在する。事務所は早くに閉鎖されているが、ガス事業が民間移行した後の比較的近年に導入された地域がある。
【 小羽山郵便局 】
《 取り組むべき課題 》
ここでは、小羽山校区の抱える諸問題についてまとめている。
【 人口減少と高齢化 】
小羽山ニュータウン造成後の初期は極めて人気が高く、宇部市民は競って入居したがっていた。居住需要に呼応して市土地開発公社の造成後に県営住宅、市営住宅、雇用促進住宅に個別の住宅地が次々と造られている。当時競って入居した世代は現在ではなべて高齢者世代であり、独居者がかなり多い。昭和50年代に建てられた北小羽山町にある市営住宅もエレベーターがなく個別の一室も狭いために不人気であり、かなりの部屋が空き家のままとなっている。

個別住宅も同様であり、山の斜面へ雛壇を造って家を建てたため当初は宇部市街部を一望できて人気があったが、その傾斜故に車がなければ生活が困難となる裏目に出ている。車を停めるスペースも今では一人に一台が常識だが、造成当時は精々一家に一台であり、当初設計で車庫を欠く区画も普通にあった。

学童の減少も著しい。小羽山小学校の児童数は最盛期の半分以下まで落ち込んでいる。ただし小羽山ニュータウン造成地区の外周部に近年新興住宅地が増えているせいか、学童数の減少に歯止めがかかっている。他方、高齢化は着実に進行しており、表沙汰にならないだけで高齢者の孤独死が他の校区と同様に発生している。
【 インフラの老朽化 】
小羽山校区の人口の大半が小羽山ニュータウンで占められる。小羽山地区を貫通する市道小羽山中央線は当初、居住者の日常的な往来のために造られた道路だった。最初期から東小羽山地区まで造成されたものの、現在の東小羽山5丁目バス停がニュータウンの一番奥で、それより北側へ車で進む道がなかった。後に瀬戸原工業団地の建設に合わせて県道琴芝際波線の中山観音から東進し、白石を経て工業団地までの道がテクノロードとして整備された。東小羽山5丁目からテクノロードまでは数百メートル道路を建設すれば接続される距離だったため、往来需要の高まりから後年市道小羽山中央線が東小羽山5丁目バス停からテクノロードまで延伸接続された。

これに伴い交通の便が飛躍的に高まった。特に市内西区から瀬戸原や厚東方面に向かうには、一旦参宮通りに出るよりも小羽山ニュータウン内を通過する方がずっと近かった。このため当初は小羽山ニュータウンの居住者を主体とした道路であったのが、南北の往来を目的とする通り抜け需要が増大した。

小羽山中央線は当初からセンターラインを持つ対面交通で両側に自歩道を備えてはいたが、交差点や信号による交通整備が当時のままでかなり通りづらい。殊に右折車がある場合に右折レーンがないので後続車の流れを悪くしている。蛇瀬橋を渡って東小羽山に向かう道も非常にきつい坂で、道路の高さは変えられないため改良は絶望的である。平成期に入って宇部市交通局が常藤町から善和字牛明に移転したため、現在では市営バスの多くが拠点に戻るためこの坂を登ることを余儀なくされている。
【 自治会の離脱問題 】
小羽山校区の自治会区は1〜24区があり、派生して3−1区と17−1区が存在する。5〜6区と8〜10区は存在しない。空き区があるのは該当地域で後に区が生じることを見越して空けておいたものが実際には結成されなかったことなどによる。他の校区と同様、自治会の運営は住民の納付する自治会費(区費)により賄われている。数年前より負担する自治会費ほどの恩恵を受けていないことや役員の煩わしさなどを理由に、自治会に加入しない住民が増えている。このことにより校区内のイベントが開催されるとき問題が生じている。

2020年に開催された地域イベントでは、小羽山ふれあいセンターを介してイベント案内が配布された。そのチラシにはくじが付属しており、切り取ってイベントに持って行けば参加できるようになっていた。ところが自治会費を納めていない区の子どもたちがくじを持って参加したもののくじに参加できない問題が起きている。
《 地名としての小羽山について 》
ここまで述べてきた小羽山(おばやま)は住居表示された町名および小学校の校区名であり、字名としては小羽山(こばやま)である。そして由来を理解すれば特に驚くほどでもないのだが、小羽山(こばやま)という小字名は市内でも複数箇所存在する。詳細は該当項目を参照。(→小羽山#「こばやま」は何に由来するのか

小羽山校区のある地は現在「おばやま」以外の読みは与えられたことがない。しかし小字名としては「こばやま」と読まれていたことがいくつかの資料から確認されている。[3]したがって歴史上の何処かで読みが変わったことになる。

蛇瀬池のある西側の字小羽山や東側の字地今坊を含めて広域な造成を行ったのは昭和40年代後半であり、新しい地域名として小羽山ニュータウンが公募により選出された。このとき既に読みは「おばやまニュータウン」である。造成前の関連しそうな構造物となると、南小羽山の高台に小羽山墓地がある。この墓地は見初や新川など市街部にあった墓地から移転されている。現在は素直に「おばやまぼち」と読まれているが、移転時当初からそうであったかは確認を要する。
【 姨捨伝説との関係について 】
現在ではまず唱えられることはないが、小羽山ニュータウンの初期には殆どの人が訪れたこともない里山にベッドタウンが造られたことと「おばやま」の呼称から姨捨山伝説と関係あるのではという声があった。少なくとも私自身が学童のとき(即ちまだ小羽山ニュータウンの名がなく造成が行われていた時期)に姨捨山だった場所ではないかという話を耳にしたことがある。

もしも現在なおその懸念を抱く向きがあるとしたなら、地名の由来として人々の所作が大元となる事例が極めて少ないこと、何よりも元々は「こばやま」と読まれていたことから明確に否定される。字名としての小羽山(こばやま)であっても人を棄てた地どころか災害由来地名との関連すら見いだせない。
ただし古代に人を棄てた地に由来すると思われる葬送由来地名はいくつか市内にも存在する
《 近年の変化 》
・2020年3月8日に開催される「小羽山ものしり博士づくり計画」イベントに際して、小羽山に関する項目を書き溜められるようにこの総括記事を作成した。参加者向けに配布するマップで宇部マニアックスのプロフィールに合わせて小羽山校区のプロフィール作成が求められたので、ここに素案を下書きする。
蛇瀬池を擁する自然豊かな小羽山(おばやま)…造成が始まる前の昭和中期頃まで「こばやま」と呼ばれていたことは殆ど知られていません。人口増加への対応から市街部へのアクセスが良いこの地の開発が始まったのは昭和40年代後半でした。宇部市都市開発公社が手掛け、建設当時は小羽山住宅団地と呼ばれていました。新しい街の名前は市民から公募され、昭和49年に小羽山ニュータウンという名称が選ばれました。昭和54年の住居表示で現在の東小羽山町、北小羽山町、南小羽山町が誕生しています。そして小羽山ふれあいセンターができたのは…分かりやすい場所に答がありますから探してみましょう!
なお、宇部マニアックスのプロフィールについては以前より独立記事として作成中である。
出典および編集追記:

1.「広報宇部(昭和48年12月15日)」p.6

2.「広報宇部(昭和48年3月1日)」

3.「宇部市|防災マップ」(小羽山校区PDFファイル

4.「宇部市|第7次住居表示
《 個人的関わり 》
小羽山校区が誕生したのは昭和50年代のことであり、まだ半世紀経過していない。小羽山ニュータウン以前の姿はまったく知らないどころか、ニュータウン誕生後も暫くは殆ど情報がなかった。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

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