蛇瀬池

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記事作成日:2021/6/25
最終編集日:2021/10/3
情報この総括記事は内容が古くなった旧版をコピーして再構成されました。旧版は こちら を参照してください。旧版の編集追記は行わず将来的に削除します。

蛇瀬(じゃぜ)池は小羽山地区にある人工の溜め池である。
写真は小羽山市営住宅7号棟からの標準水位時での撮影。


位置を以下の地図に示す。


蛇瀬池の水は北側にある馬の背下池より蛇瀬川を経て供給される。池の南側からは半島状に突き出た部分があり、半島部より北西側は蛇瀬川から運ばれる砂塵のため極めて浅い。水位が下がればその大半が干潟状になる。
《 概要 》
以下、蛇瀬池の主要な構造物などを観察するもっとも一般的な経路を元に概説する。

小羽山郵便局の横、市道北小羽山4号線から堰堤部を通る道の入口がある。
現在では周囲に樹木が伸びて分かりづらいが、郵便局の裏側は人為的に土を盛って造られた堰堤部である。


郵便局駐車場の横にこのようなフェンスと看板があり、堤に向かって降りていく道がある。
入口のネットフェンス門扉は開放されていて誰でも自由に入ることができる。


堰堤入口の看板には釣りや遊泳を禁止する看板が掲示されている。他の溜め池と同様、危険なため学童には水際に接近しないよう言い渡されている。外来種が棲息しているらしく釣りをする学生の姿がたまに見られる。

堰堤の低い部分に、昭和14年に改修された樋門小屋と記念碑がある。
ただし現在は操作されておらず、常時最低水位となるように設定されている。


記念碑は近年土台が傾いて危険な状態になったため、周囲にロープが張られて立入禁止となっている。

堰堤上は雑木が茂っていて眺めはあまり利かない。樋門小屋を過ぎた先から樹木を避けて池側が見られる場所がいくつかある。
北小羽山町にある市営住宅が湖面に映る様子は、蛇瀬池に特徴的である。


水位が若干下がったとき、池の中央近くに露岩の島が現れる。


この小島は北小羽山側から伸びる半島の一部で、更に水位が下がると陸繋島となる。ただしそこまで水位が下がることは稀である。

堰堤上は散歩道になっており、古い石材を再利用したベンチが据えられている。
これは昭和初期に花崗岩を合わせて造った樋管をコンクリート製に更新したとき、一部を堰堤まで引き上げて据えたものである。先の改修記念碑も樋管の花崗岩を再使用している。

水が溜まり過ぎたとき余剰水を排出する水路(荒手)は樋門の東側にあり、岩場を切り崩すことで水路を造っている。
荒手には当時造られた石橋が架かっている。
ただし後述するように荒手を補強したとき石橋は一度外して組み直している


石橋を渡ると常盤用水路に突き当たる。これより常盤用水路に沿って蛇瀬池の外周を辿る道が途中まであるが、常盤用水路の架樋が施錠され通れないので蛇瀬池を歩いて一周することは不可能である。
《 歴史 》
元禄元年(1688年)に完成した鵜ノ島開作への用水供給を目的に、享保17年(1732年)に造られた人工の溜め池である。[1]築堤責任者は常盤池の築堤を手掛けた椋梨権左衛門俊平である。常盤池の完成は元禄11年(1698年)頃であり、現在の真締川(当時は宇部本川)の東側を灌漑していたが、西側は真締川の水量が不安定で二反田堤などの補助池では賄いきれないため主要水源地として造られたと考えられる。

近年(2021年6月)提出された客観資料により従来唱えられていた説に誤りが見つかったので、旧来の総括記事をコピーした上で内容を全面的に書き換えた。永らく旧版で公開されていた誤った記述部分は消去せず抹消線を引くことで対応しているので注意されたい。
【 初期 】
宇部の領域地形や土地利用状況などを記した地下上申絵図を参照すると、現在の蛇瀬池があったと思われる場所に「じゃで田」という筆書きがみられる。
出典: 地下上申絵図(山口県文書館所蔵)


常盤池やまこも池は既に溜め池としての記載があり水色で彩色されているので、蛇瀬池はそれらの溜め池より後年造られたことが分かる。[2]

一部の書籍やかつて存在していた現地説明板には「椋梨権左衛門が蛇瀬池を築堤した後、このときの技術と知見を活かして常盤池を築堤した」のような記述があり、当サイトもこれを根拠に総括記事に同様の記述を行っていたが、前掲の時系列とは矛盾しており誤りである。蛇瀬池の荒手にみられる堰堤部を護る機構も、この知見を常盤池築堤に活かしたのではなく、むしろ逆に常盤池の本土手樋門を参考にしたと考えられる。

椋梨権左衛門が溜め池を造るために堰堤をここに定めたのは、蛇瀬川(当時は苅川)の上流で岩場により両岸が狭まっている場所だったという一般的な観察によるものであろう。更に下流の鳴水や刈川にも両岸が迫っている場所があるが、その場所を築堤場所の候補として検討したかどうかは明らかではない。
もしそこに堰堤を築いた場合どうなったかをお遊びとして蛇瀬川ダム建設シミュレーションで行っている

常盤池と同様、蛇瀬池の築堤もある程度の年月を要したであろう。堰堤付近では硬い岩場は東小羽山町側に集中しており、概ね郵便局の裏手から荒手付近までが盛土と思われる。盛土材を何処から調達したかは、他の溜め池と同様に堰堤より上流側にある湛水域から岩場が現れるまでの沢地であろう。一般的な溜め池では木の枝と粘土を交互に積み重ねるが、蛇瀬池では石灰と粘土を固めて強度をあげる当時最先端の技術を用いている。[要出典]

完成直後の蛇瀬池の広さは約1ヘクタールとされている。[4]後年、湛水量をあげるために拡張された。
【 改修 】
蛇瀬池は湛水効率の向上を目的に、築堤後数回改修されている。最初期の堰堤の高さがどれほどであったかは推測の域を出ないが、余水吐から下の荒手が下限である。余剰水をここから排出する機構は築堤当初から変わっていないので、築堤高がこれより低くなることはない。

明治42年の増築改修[8]で、従来あった竪樋から花崗岩を削って造った樋管に更新された。これは花崗岩を棒状に加工して中心部を半円状に削ったものを合わせた構造である。この石材は岩瀬戸で産出したものを使ったと言われる。[5] 改修前の樋門の構造は明らかではないが、常盤池のような竪樋に木の栓を開閉して調節していたと思われる。

昭和14年11月の改修時にこの樋管を取り除いてコンクリート製に更新し、セメントレンガを積んで造った樋門小屋に斜樋の穴を開閉するハンドルを設けている。現在ある樋門小屋や斜樋、溜め池に降りる石段はこのときのものであろう。


花崗岩製の樋管は一部が堰堤に引き揚げられ、堰堤の改修記念碑として流用されている。もう一つの石材は堰堤上にベンチとして据えられている。樋管は花崗岩製であり、すべてを引き揚げるのは大変だったせいか取り除かれた石材はそのまま池の中程に放置された。現在でも蛇瀬池の水位が下がったとき北小羽山町側の汀にみられる。


また、湛水量を増やすために余水吐の高さを上げている。現在の余水吐は、溜め池側の斜面と石橋までの流水路をコンクリート張りにしている。石橋の脚の下もコンクリート補強されているので、築堤当時からあったとされるこの石橋は一旦解体し組み直されている。堰堤側にも補強目的として施されたコンクリート部分がみられる。これらの施工は昭和初期の樋管改修時よりも後かも知れない。

蛇瀬池の東岸に沿って常盤用水路が通っており、東小羽山町の下側に常盤用水から蛇瀬池に供給する取り出し口が存在する。
写真は溜め池の岸辺からの撮影。


このコンクリート部分は常盤用水路本体のコンクリートと同質なので、当初設計から蛇瀬池へ用水を供給できる機構を造っていたようである。常盤用水路は昭和13年に起工し昭和18年に完成しているので、あるいは水源対策事業の一環として常盤用水路の建設にあわせて蛇瀬池の増強を行ったのかも知れない。

これと同じ取り出し口が風呂ヶ迫池にも存在する。これらの樋門は切り捨て口側が塞がれており既に使われていない。
【 小羽山団地造成時の改変 】
昭和40年代後半から宇部市土地開発公社によって進められた小羽山団地の造成により、蛇瀬池の汀の一部や用水の取り出し口が改変されている。特に堰堤のほぼ真上を通る市道小羽山中央線の蛇瀬橋の橋脚建設は、樋管からの出水口にかかるため当初のものは遺っていない。石橋を渡って北側へ向かう里道は、道路建設と造成により完全に喪われた。

蛇瀬池に流入する沢地も堀溝と地今坊の2ヶ所が埋め潰され、沢尻に練積ブロック積みがみられる。北小羽山側も沢だった部分をブロック積みに変更し、周辺の雨水を溜め池に戻すコンクリート管に置き換えられた。
《 利用 》
蛇瀬池は灌漑用水確保のために造られた人工の溜め池であり、鵜の島開作の重要な水源であった。現在も用水を必要とする田は存在する。しかし利用方法については今後灌漑用水から後述する景観面に変わりつつある。
【 灌漑用水として 】
蛇瀬池より先に造られた常盤池では、本土手と切貫の2ヶ所に用水を取り出す樋門があり、東西2系列の灌漑用水路が造られ現在も機能している。一方、蛇瀬池では灌漑用水を貯留する機能のみである。即ち用水の需要期に溜め池の水を調整しつつ一旦蛇瀬川に流し、真締川の合流地点より下流側にある鎌田堰から水を取り込んで尾崎用水路を介して供給するようになっている。少なくとも蛇瀬池から直接取りだして灌漑用水を送る用水路は、現在では存在しない。
ただし鎌田堰を介さない水路の痕跡が知られており過去に存在していた可能性はある

現在も昭和期に改修された樋門小屋はあるが、水利組合は解散しており樋門は一切操作されていない。近年では溜め池の破堤による危険性が認識されていることから、水が溜まり過ぎないように樋門は下まで開栓されている。それでも大雨が続いたとき樋門からの排水が追い付かず余水吐を越えて水が流れることは今でも起きている。[6]
【 景観や遊び場として 】
広範囲に水を湛えた常盤池は、古くから景観地となっていた。漏水防止と補強のために本土手をはじめとした池の周辺に松が植えられている。同様の取り組みは蛇瀬池でも行われていて、近年まで堰堤部に夫婦松と呼ばれる松が存在していたことが分かっている。その後の植生の変化で現在では松が殆どなく、夫婦松も除去され既に標識柱も存在しない。

蛇瀬池に限らず山間部にある溜め池は、夏場に学童の水遊び場になっていた。鯉や鮒が採取されていたが、ニュータウン造成以降は水質の悪化が酷くなった。遊泳は現在も禁止されている。湛水域がそれほど広くなく水深もないからか、ボート遊びをしたという話も聞いていない。

常盤池とは異なり現在の蛇瀬池は景観地の対象となっていない。前述のように堰堤上には昔からの道があり地元在住者が散歩に利用している程度である。溜め池や用水路は危険が予測されるため、学童は近づかないよう指導されている。釣りも禁止されているが、たまに中高生が外来魚を狙っている姿がみられる。

このような状況のため、子どもは元より地元在住者も蛇瀬池の成り立ちはもちろん存在自体にまったく関心を持たれていない。危険だからという理由だけで遠ざけるのではなく、むしろ足元の郷土を見つめ直す題材に活用することを目的に、2020年のこと小羽山地区限定で取り組まれたのが小羽山ものしり博士づくり計画である。当サイトはその情報提供役として参画している。

covid19 以降、観光の概念が少しずつ変わりつつある。遠出が忌避される中、足元の郷土を見つめ直す動きが加速している。当サイトではこの動きは covid19 がなくとも起こりうる自然な変化と認識していたため、郷土素材および観光資源としての活用について情報提供している。
《 取り組むべき課題 》
ここでは、蛇瀬池に関する内容で安全面や観光面について対策が必要と思われるものを列挙している。
すべての溜め池に共通するフェンスなどの安全対策については優先順位が高くないこと、かならずしもそれが有用なものとは言えないため省略している。

・樋門小屋の横にある溜め池改修記念碑の台座の補修。基礎下の土砂が流れたせいか台座が傾いて倒壊しそうな状況となっている。子どもが頻繁に近づく場所ではなく危険告知の縄張りもしてあるため事故に繋がる危険性は低いが、倒れると起こすのが大変である。倒れ方によっては石碑が折損する可能性もあり、そうなれば復元は極めて困難である。応急措置としては台座ごとウインチで引き揚げながら台座下の基礎にコンクリート等を充填する方法が考えられる。恒久的に行うなら基礎全体をやり替えるべきである。その際、現在の設置場所は溜め池の斜面で再び傾くかも知れないため、堰堤上の別の場所へ据え替える方が良いかも知れない。

蛇瀬池を周回散歩できるコースの整備。現状は堰堤上を通って常盤用水路に達し、それより北側は水路の管理道があるものの常盤用水路の No.4 架樋は扉が施錠されているため先に進めず引き返さざるを得ない状況となっている。更に北側は個人所有の田畑に隣接し、野生動物による作物食害を防ぐために管理道に鉄柵が設置されている。架樋の開放および管理道の通行は常盤用水の水利組合および宇部興産(株)の承諾を要する。鉄柵は元通りに閉じることを前提に、通行者が自由に開閉して通ることを容認する掲示が必要である。当面は安全快適な散歩道ではなく、物理的に通行可能にすることで足りる。

蛇瀬池由来の説明板の復活。当初は市道側に設置されていたが、2010年頃までには撤去されている。大まかな歴史などが分かる説明板を設置し、QRコードを印刷して蛇瀬池の詳細が分かるサイトへ誘導する。このサイトは先々で変更されることが多いため、更新可能な仕様にするのが望ましい。また、説明板の設置場所は蛇瀬池に向かうときもっとも来訪者が通りやすい小羽山郵便局裏の入口近くが良い。
《 地名としての蛇瀬について 》
蛇瀬(じゃぜ)とは現在の蛇瀬池に相当する周辺に存在していた小字名である。
写真は堰堤の上を通過する市道小羽山中央線の蛇瀬橋の名称プレート。


先述のように地下上申絵図では溜め池の記述がなく「じゃで田」と墨書きされている。したがって溜め池のある場所の地名は、最初期は「じゃで」であったことが確実である。溜め池となった後も同様に呼ばれていたようで、蛇出の堤と表記した資料がみられる。[1]

地名明細書では中宇部村の中村小村にある鳶ヶ巣(とびがす)という小字配下にある小名の一つとして蛇瀬が収録されている。小字絵図では、現在の蛇瀬池すべてと下流側の田畑の一部が字蛇瀬となっている。
【 由来について 】
地名表記から率直に考えるなら、蛇(へび)に関するものが想像される。大蛇の居着く瀬だとか蛇のよく出る地といったものであるが、この由来に関して個人的にはやや懐疑的である。一般に地名の由来となるものについて、植生や地勢が反映されることが多い半面、動物名の分布が元となる事例が少ないからである。

蛇が特異的に多かった地は他にも考えられるのだが、蛇の表記を含む地名の例は厚東区にある蛇方(じゃほう)くらいであり、蛇の分布に由来すると考えられる地名として丸尾の蝮ヶ迫(はみがさこ)が知られるのみである。

小動物ながら毒を持ち人を倒すこともできるヘビは昔から畏怖の対象で、神話や伝説にもよく登場する。蛇瀬池の築堤から水が溜まるようにと水の神であるミツハノメ(罔象女)を祀ったであろうが、先述のように蛇瀬の原形となる地名が溜め池以前から存在していたことから、ここに由来を求めることはできない。

仮説の一つに過ぎないが、個人的には蛇瀬という地名は土砂崩れなどによる災害由来地名ではないかと考えている。2014年8月に広島市で大規模な土砂災害が起きたとき、かつての地名である「蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」がクローズアップされている。[7] 山崩れは昔は大蛇の仕業と考えられていた。大蛇を意味する「オロチ」と颪(おろし)の関連性も疑われる。

蛇瀬池のある字蛇瀬で過去にそういった災害があったかどうかは記録がない。築堤以前は現在の東小羽山町にあたる北側の地今坊は高い山であり、江戸期から「じゃで田」はしばしば土砂崩れが起きていたのではないだろうか。山側の傾斜が急で土砂崩れが多く耕作に不適だったこと、両側の山が迫っていて堰堤を築くのに好適だったことが蛇瀬池築堤の地として選定された理由ではという些か穿った見方もできる。蛇瀬からはやや離れているが、蛇瀬川の上流西側にある中山観音廣福寺近辺は過去に土砂崩れが起きており、現在も急傾斜地に指定されている。
出典および編集追記:

1.「筆のしづく」(高良宗七 昭和8年)にみられる。なお、この小冊子は非売品で、関係者限定で配布されたようである。

2.「古書にみる藤山」(田中信久著)p.27 には地下上申絵図の上申時期は享保19年(1734年)とされている。蛇瀬池の築堤が享保17年であるならば、これより2年後の享保19年に築堤された二反田堤が地下上申絵図に記載されていながら蛇瀬池が溜め池として記載されていないのは不自然に思われるが、これは絵図が長期に渡って制作されたことから上申までに生じたタイムラグによるものと考えられている。[3]にも「地下上申の絵図には”じゃで田”となっているが、この時には池は完成しているはずである」と記述されている。

3.「宇部ふるさと歴史散歩」(黒木甫)p.111

4.「防長風土注進案」には水面壹町五反の記述がみられる。

5.「小羽山小学校十周年記念誌」p.12

6.「宇部市ため池ハザードマップ」にはかつて危険溜め池として記載されていたが、現在は外されている。

7.検索による結果

8.「本稿宇部五十年志」p.33

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