コンセプト

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記事作成日:2013/12/24
記事編集日:2019/12/9

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子どもというものは、身の回りに普通に観られるものに対して時に奇妙な反応を示すものだ。

山の中腹にある電波塔を指差して突然「あそこに行ってみたい」などと言い出したり、巨大な配水塔の近くを通ったときいつまでも自分を追いかけて来ると本気で怖がったり、道路の端に立っている電信柱を教科書のページの端に書き込んだりなど…似た経験をお持ちの方が少なからずいらっしゃるのではなかろうか。あるいは平成時代の子どもも同様ではないかと思う。
私は今話したどれも幼少期に経験していた

しかし年を経るにつれて誰もがその殆どを意識しなくなってしまう。忘れたわけではない。親があなたの幼少期のことを語れば、ああそんなこともあったものだねと思い出す。しかし再び同じ行動を取ることはない。端的に言って「大人になった」からなのだが、一連の想い出を紡いでいくより先に成長するにつれ別の価値あることによって上書きされるからだ。

幼少期にあっては庇護してくれる親の存在がすべてだが、一般社会に帰属する大人の世界では自立して社会の構成員としての役割を果たしつつ暮らしていくことが求められる。生活の糧を得る手段としての仕事、親として課せられた育児や教育などが行動様式の中核を占めるようになると、次第にそれ以外の価値が薄い部分に目が届かなくなってしまいがちになる。

この過程で私たちは幼少期には普遍的に持ち合わせていた筈の好奇心が鈍り、いつの間にか感動の閾値が高くなってしまってはいないだろうか?
幼少期に怖がった「奇妙な配水塔の恐怖」を克服するのは雑作ないこととしても、どうして自分はそれを怖がっていたのか、そして詰まるところその正体は何だったのかという点について頓着しなくなる。理由は明白で、その知識の有無が現在の自分の生活に影を落とさないからだ。簡単に言えば次のフレーズですべて片付く:「知らないからと言って別に何も困ることはない。」

もしかすると少し目を向けるだけで興味を掻き立てられ、日常生活のスパイスとなり、接したことのない新しい世界が開けているかも知れない。我々はもっと身の回りに転がっている一見ありふれた物の姿や存在をしげしげと眺め、慈しむことができるのではないだろうか。確かにその観察対象について特に追求しなくても暮らしていくのに困らないが、ややもすれば私たちはあまりにも短絡的に「生活する上での有用性」という秤でのみ物事を判断しているように感じる。

このホームページは、大人にありがちなそういった思考形式に反旗を翻すことを意図している。早い話、子どもじみた視点の観察記事が極めて多い。ただし単純なそれらの寄せ集めだけでは全くの子どもの戯言に終わってしまうので、曲がりなりにも考察や出典を交えて「それらしいスタイルを保持させている」のである。[1]そのような化粧を引っ剥がせば、実質は子どもの集めたガラクタに近いものがある。
実際、ここに掲載されている「物件たち」のいくつかは郷土史としての研究価値に乏しく、観賞に値せず、写真撮影し記事化する理由を探すのも困難なものが多い。良く言って合理的な知性人、悪く言えばドライで冷淡な大人なら「くだらない」の一言で片付けるだろう。
郷土史研究と言わず「ニュー郷土史」ないしは「テーマ踏査」という別の語を用いる所以である

幼少期は正体を知りたがり、あるいは真剣に怖がった同じ対象が、大人の視点ではすべてが単純にくだらないものに成り下がるのだろうか?
正体のないお化けとか子ども特有の妄想じみて実態のないものなら、理知的な大人の目で「そんなものに頓着するのは無意味」と言い切れるだろう。しかし観察される対象は私たちの足元にあり、恐らく幼少期から姿形を変えていない同一物件である。紛れもなく実態をもちそこに存在する。くだらないのではなく大人特有の価値判断でその思考形式に浸り、抜け出せないように思えるのである。

議論が正当化に託けての防戦一方に思えるなら、今度は私の方から形勢をひっくり返す質問を投げ掛けよう。もし大人の価値判断を「生活する上での必要性」のみに置くなら、我々の営んでいる行為すべてが「くだらなくはない(重要な)」ものばかりだろうか?

生活する上で完全に必須となることだけに頓着するなら、人は食べて寝れば良い。そして(貨幣経済を否定しなければ)それを可能とするだけの仕事をすれば足り、あとは全部放棄すればよいではないか。それはヒトが生命体を維持する上での最適化になっているかも知れないが、およそ理知的なヒトの暮らしの最適化にはほど遠いと言わざるを得ないのではないだろうか。生物や環境の多様性が重視され、失われそうな種が保護されるのと同様、ただちに生きていく上に必須とは思えない経験や思考の多様性もまた重要なのである。単相な思考形式はそのまま発想の貧困に繋がり、他の考えへの無理解を産む。理解の外にあるものを疎ましく感じ、蔑み、最後には排除しようと攻撃するのは過去の世界の歴史が証明している。現代社会の視点で言うなら、私なら「それは野蛮な世界だ」と断じるのを躊躇しない。

そうならないために我々には何が必要なのか?
必須とは言えない「遊び」の要素を取り入れること。
何の種の遊びであってもよいが、気軽に手がけられて持続性があり、できればローコストでしかも先々で潜在的に役立つものであればなおよい。その条件を満たしそうなものの一つとして、私は「テーマ踏査」なる概念を導入しようとしているのである。即ち、
身の回りにあって興味を惹かれる対象まで足を運び、画像や動画などで記録し、自分の脳内で翻訳した言葉で結び付けられたドキュメントを遺す活動。(「テーマ踏査」の定義)
幼少期に誰もが普通に身の回りにあるものへ向けていたのと等しい視点で対象を再観察し、大人として既に獲得した知識や経験と結合させて新たな仮説や分析を試みよう、そのプロセスを娯楽として愉しもうという提唱である。

子どもによって興味を示す対象がまちまちであるように、ここでは個人的に馴染み、興味を抱き、ドキュメントに仕立ててみたいものを寄せ集めている。工業用水など水利関連のジャンルは非常に多い代わりに、マニアと称される人々によって熱烈に追われがちな鉄道分野が少ないのも全く個人的な理由で、そのものの持つ価値や重要性ではない。
手がけている人々が多い案件やジャンルにはあまり目を向けない傾向は確かにある

掲載されたジャンルは多岐に渡るものの、多数枚の写真に淡々とした記述が多いことに気付くかも知れない。そうかと思えばいきなり一般の方が知っていても殆ど何の役にも立たない専門用語や考察が長々と交えてあったりする。他方、その「物件」がいつ誰によって造られたかなどの基本的な情報に触れていない場合もある。

このことから理解して頂きたいのだが、このサイトは観光ガイドを意図して制作されたものではない。むしろその対極にある。ダムやトンネル、橋りょうなどの諸元を明示しリストにした総論的情報を望むなら、専門のサイトや Wikipedia がある。そこには複数人の編集と査読を経て動かしようのない客観的事実が提示される。私が目指すのは主観を元にした各論である。その物件にまみえて特に興味を惹かれ、カメラによって切り取られた映像と私の脳内を経て変換された言葉で紡ぎたい…そうでなければこのサイトは唯一無二の存在にならない。

ここに掲げた夥しいドキュメントに接して、たまさかあなたの琴線に触れる物件があり、写真と動画だけでは満足しなくなって現地に向かいたくてウズウズしてしまった…そういう記事作りができればと考えている。もしあなたが検索なりでうちのホームページのどれかの記事にたどり着き、読んだ挙げ句に現地へ行きたい衝動に駆られたなら(更に言えば実際に行って仕舞われたのなら)私の完全勝利だ。いや…あなたが当サイトに留まり、現にこの長きに及ぶコンセプトをここまで熟読してしまった事実だけで4割方勝利宣言しても良いだろう。

即ち一部の人々に対して、この世界は中毒的に作用する。どっぷり嵌った暁には、私が「物件」と呼んでいる踏査対象が極めて広く、発展性があり、非常に低コストで長く愉しめる趣味の一つとして認識されることに気付くだろう。観光と呼ぶにはちょっと違うと感じるかも知れないが、定義を押し広げればこれは「足元の郷土を舞台とした小さな観光」である。

この意味で、私は近場の物件の探索と観察、再発見を伴う娯楽をやや自虐的に「貧乏な暇人の旅行」とも称している。地元の郷土にない特異な景観を愛でるなら相応に離れた地域へ出かけることが必要だが、非日常的体験を味わうことが主な目的なら、視点を変えるだけで題材は足元にいくらでも転がっているからだ。自力で感動の閾値を下げることが出来るなら、非日常的体験の取得に関してだけは確かに「小さな旅行」たり得る。

今の時代を生きる若者には現世離れした体験かも知れないが、一定の世代から上なら例えば以下のような描写は共有体験可能だろう。
僕たちが子どもの頃いつも遊んでいた広場の裏側は深い草むらになっていて、そこに得体の知れないコンクリートの塊みたいなものが放置されていた…周囲は杭が打ってあって黄と黒のロープが張られていた…母親も近所の大人も「危ないからあそこに行ってはいけない」と言っていた…しかし僕は幼稚園の頃からそこにあるものが気になって仕方なかった…
近所の友だちとたまたま広場の話がでたとき、僕は思いきって言ってみた。「広場に大きなコンクリートの塊があるよね。僕はあれが何なのかもの凄く気になって仕方ないんだ。」
きっと笑われるだろうと思っていたのだが、意外なことに彼も同じことを口にした。「俺も同じことを思っていた。」

ある日僕たちは家からそっと鎌を持ち出した…内緒でロープをくぐって目の前の草を刈り払いながら進行した…遂にそこへ到達したが、そこには本当にわけの分からないサイコロ形のコンクリートの塊が2つ置かれていた。その正体は分からなかったし、入ってはいけないと言われていた手前親に尋ねるわけにもいかなかった…

僕たちがそこへ行ったのは一度きりだった。その後、杭とロープで囲まれていたその空き地にプレハブ小屋のようなものが建ち、ヘルメットを被った大人と重機が休み無く動く工事現場となった。次にそこを訪れたときにはコンクリートの塊どころかあれほどの酷い草むらも全部刈り取られて広い駐車場となっていた…でも僕たち二人はそこで見てきたものをしっかり覚えている。
Ablert Einsteinは諸々の分野の研究に対して根底となる要素に「聖なる好奇心」という言葉を使った。聖なる好奇心を研ぎ澄ませるのに特別なコストを払う必要はない。私たちが今住んでいる足元を観察することで足りる。「その存在は何のために?」「何故これがそこにあるのか?」の答を知りたいと願う人々は自分独りだけではない筈だ。

私はここに遺した膨大な「落書き」のうちの殆どが役に立たず、しかし若干のものは後世で重要な資料になり得る玉石混淆な存在であることを認識している。プロフィールの末尾でも語った通り、これは私が此岸に遺していく置き土産の積もりだ。僅かながらでも役に立つ部分があれば後世の財産になるし、役に立たない記述でも精々、平成中期に生きた人間が使いこなしていた日本語で書かれた読み物という位置づけはできるだろう。

愉しんでいただけただろうか?
それとも…
正にこれから愉しもうとする途上だろうか?

私は、そのいずれも大いに歓迎する。
出典および編集追記:

1.「FBタイムライン|子どもに構われるくらいがちょうどいい(2017/11/1)

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