コンセプト

記事編集日:2014/1/13

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子どもというものは、身の回りに普通に観られるものに対して時に奇妙な反応を示すものだ。

山の中腹にある電波塔を指差して突然「あそこに行ってみたい」などと言い出したり、巨大な配水塔の近くを通ったときいつまでも自分を追いかけて来ると本気で怖がったり、道路の端に立っている電信柱を教科書のページの端に書き込んだりなど…似た経験をお持ちの方が少なからずいらっしゃるのではなかろうか。あるいは平成時代の子どもも同様ではないかと思う。
私は今話したどれも幼少期に経験していた

しかし年を経るにつれて殆ど誰もがいつの間にか意識しなくなってしまう。忘れたわけではない。親があなたの幼少期のことを語れば、ああそんなこともあったものだねと思い出すものの、同じ行動を取ることは殆どない。端的に言って「大人になった」からなのだが、一連の想い出を紡いでいくより先に成長するにつれて別の価値あることによって上書きされるからだ。

幼少期にあっては庇護してくれる親の存在がすべてだが、一般社会に帰属する大人の世界では自立して社会の構成員としての役割を果たしつつ暮らしていくことが求められる。生活の糧を得る手段としての仕事、親として課せられた育児や教育などが行動様式の中核を占めるようになると、次第にそれ以外の価値が薄い部分に目が届かなくなってしまいがちになる。

この過程で私たちは幼少期には普遍的に持ち合わせていた筈の好奇心が鈍り、いつの間にか感動の閾値が高くなってしまってはいないだろうか?
幼少期に怖がった「奇妙な配水塔の恐怖」を克服するのは雑作ないこととしても、どうして自分はそれを怖がっていたのか、そして詰まるところその正体は何だったのかという点について殆ど頓着しなくなる。理由は明白で、その知識の有無が現在の自分の生活に影を落とさないからだ。簡単に言えば次のフレーズですべて片付いてしまう:”知らないからと言って何も困ることはない。”

もしかすると少し目を向けるだけで興味を掻き立てられ、日常生活のスパイスとなり、接したことのない新しい世界が開けているかも知れない。我々はもっと身の回りに転がっている一見ありふれた物の姿や存在をしげしげと眺め、慈しむことができるのではないだろうか。確かにその観察対象について特に追求しなくても生活は困らないが、ややもすればあまりにも短絡的に「生活する上での有用性」という秤でのみ物事を判断しているようにも感じられる。

このホームページは、大人にありがちなそういう思考形式に反旗を翻すことも意図している。早い話、子どもじみた視点での観察記事が極めて多い。ただしそれだけでは全くの子どもの戯言に終始してしまうので、曲がりなりにも考察や出典を交えて「それらしいスタイルを保持させている」のである。そのような化粧を引っ剥がせば実質は子どもの集めたガラクタに近いだろう。
実際、掲載されている「物件たち」のいくつかは郷土史としての研究価値に乏しく、観賞に値せず、写真撮影し記事化する理由を探すのも困難なものが目立つ。良く言えば合理的な知性人、悪く言えばドライで冷淡な大人なら「くだらない」の一言で片付けるだろう。
郷土史研究と言わず「ニュー郷土史」ないしは「テーマ踏査」という別の語を用いている所以である

幼少期は正体を知りたがり、あるいは真剣に怖がった同じ対象が大人の視点では単純にくだらないで有り得るものだろうか?
正体のないお化けとか子ども特有の妄想じみて実態のないものなら、理知的な大人の目で「そんなものに頓着するのは無意味」と言い切れるだろう。しかし観察される対象は私たちの足元にあり、恐らく幼少期から姿形を変えていない同一物件である。紛れもなく実態をもちそこに存在する。くだらないのではなく大人特有の価値判断でその思考形式に浸り、抜け出せない場合も在りそうな気がする。

議論が正当化に託けての防戦一方に思えるから、更に形勢をひっくり返すことを試みよう。もし大人の価値判断を「生活する上での必要性」のみに置くなら、我々の営んでいる行為のすべてが「くだらなくはない」ものばかりだろうか?
生活する上で必須となることだけ頓着するなら、人は食べて寝て仕事するに係る以外のすべてを放棄する筈だ。それは暮らして行く上での最適化にはなっていても人生の最適化にはほど遠いと言わざるを得ない。生物や環境の多様性が重視され、失われそうな種が保護されるのと同様、経験や思考の多様性もまた重要である。単相な思考形式はそのまま発想の貧困に繋がり、他様式の考えの無理解を産む。

そうならないために我々には何が必要なのか?
必須とは言えない「遊び」の要素を取り入れること。
何の種の遊びであってもよいが、気軽に手がけられて持続性があり、できればローコストでしかも先々で潜在的に役立つものであればなおよい。その条件を満たしそうなものの一つとして、私は「テーマ踏査」なる概念を導入しようとしているのである。即ち、
身の回りにあって興味を惹かれる対象まで足を運び、画像や動画などで記録し、自分の脳内で翻訳した言葉で結び付けられたドキュメントを遺す活動。(「テーマ踏査」の定義)
より簡単に言い換えるなら、幼少期に誰もが普通に身の回りにあるものへ向けていたのと等しい視点で対象を再観察し、大人として既に獲得した知識や経験と結合させて新たな仮説や分析を試みよう、そのプロセスを娯楽として愉しもうという提唱である。
ちっとも簡単に言い換えたことになっていないよね…^^;

子どもによって興味を示す対象がまちまちであるように、ここでは個人的に馴染み、興味を抱き、ドキュメントに仕立ててみたいものを寄せ集めている。工業用水など水利関連のジャンルは非常に多い代わりに、マニアと称される人々によって熱烈に追われがちな鉄道分野が少ないのも全く個人的な理由で、そのものの持つ価値や重要性ではない。
手がけている人々が多い案件やジャンルにはあまり目を向けないという傾向は確かにある

掲載されたジャンルは多岐に渡るものの、淡々とした写真と動画の列挙が多いことに気付くかも知れない。そうかと思えばいきなり一般の方が知っていても殆ど何の役にも立たない専門用語や考察が長々と交えてあったりする。他方、その「物件」がいつ誰によって造られたかなどの基本的な情報に触れていない場合もある。
このことから理解して頂きたいのだが、このサイトは観光ガイドを意図して制作されたものではない。むしろその対極にある。ダムやトンネル、橋りょうなどの諸元を明示しリストにした総論的情報を望むなら、専門のサイトや Wikipedia がある。そこには複数人の編集と査読を経て動かしようのない客観的事実が提示される。私が目指すのは主観を元にした各論である。その物件にまみえて特に興味を惹かれ、カメラによって切り取られた映像と私の脳内を経て変換された言葉で紡ぎたい…そうでなければこのサイトは唯一無二の存在にならない。

ここに掲げた夥しいドキュメントに接して、たまさかあなたの琴線に触れる物件があり、写真と動画だけでは満足しなくなって現地に向かいたくてウズウズしてしまった…そういう記事作りができればと考えている。もしあなたが記事を読んで真に現地まで行ってしまわれたのなら、私の完全勝利だ。いや…あなたが当サイトに留まり、現にこの長きに及ぶコンセプトをここまで熟読してしまったという事実だけで4割方勝利宣言したい^^;

一部の人々に対して、この世界は中毒的に作用する。どっぷり嵌った暁には、私が「物件」と呼んでいる踏査対象が極めて広く、発展性があり、非常に低コストで長く愉しめる趣味の一つとして認識されることに気付くかも知れない。
この意味で、私は近場で足元にある物件の観察と再発見を伴う娯楽をやや自虐的に「貧乏な暇人の旅行」とも称している。足元の地域になり独特な景観を愛でるなら相応に離れた地域へ赴くことが必要だが、非日常的体験を味わうことが主な目的なら、視点を変えれば題材は足元にいくらでも転がっているからだ。そこまで自力で感動の閾値を下げられるなら、非日常的体験の取得に関してだけは確かに”小さな旅行”たり得る。

残念ながら今の時代を生きる若者には現世離れした体験かも知れないが、一定の世代から上であれば以下のような描写は共有体験可能なものだろう。
僕たちが子どもの頃いつも遊んでいた広場の裏側は深い草むらになっていて、そこに得体の知れないコンクリートの塊みたいなものが放置されていた…周囲は杭が打ってあって黄と黒のロープが張られていた…母親も近所の大人も「危ないからあそこに行ってはいけない」と言っていた…しかし僕は幼稚園の頃からそこにあるものが気になって仕方なかった…
近所の友だちとたまたま広場の話をしたとき、僕は思いきって言ってみた。「あれが何なのかもの凄く気になっている」
きっと笑われるだろうと思っていたのだが、意外なことに彼も同じことを口にした:「俺も同じことを思っていた」
ある日僕たちは家からそっと鎌を持ち出した…内緒でロープをくぐって目の前の草を刈り払いながら進行した…遂にそこへ到達したが、そこには本当にわけの分からないサイコロ形のコンクリートの塊が2つ置かれていただけだった。その正体は分からなかったし、入ってはいけないと言われていた手前親に尋ねるわけにもいかなかった…
僕たちがそこへ行ったのは一度きりだった。その後、杭とロープで囲まれていたその空き地にプレハブ小屋のようなものが建ち、ヘルメットを被った大人たちが出入りするようになった。次に訪れたときにはコンクリートの塊どころかあれほどの酷い草むらも全部刈り取られて広い駐車場となっていた…でも僕たち二人はそこで見てきたものをしっかり覚えている。
Einsteinは諸々の分野の研究に対して根底となる要素として「聖なる好奇心」という言葉を使った。
聖なる好奇心を研ぎ澄ませるのに特別なコストを払う必要はない。私たちが今住んでいる足元を観察することで足りる。「その存在は何のために?」「何故これがそこにあるのか?」の答を知りたいと願う人々は自分独りだけではない筈だ。

私はここに遺した膨大な「落書き」のうちの殆どが役に立たず、しかし若干のものは後世で重要な資料になり得る玉石混淆な存在であることを認識している。プロフィールの末尾でも語った通り、これは私が此岸に遺していく置き土産の積もりだ。僅かながらでも役に立つ部分があれば後世の財産になるし、役に立たない記述でも精々、平成中期に生きた人間が使いこなしていた日本語で書かれた読み物という位置づけはできるだろう。

愉しんでいただけただろうか?
それとも…
これから愉しもうとする途上だろうか?

私は、そのいずれも大いに歓迎する。

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