アルコール飲料と飲酒

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項目記述日:2020/2/6
最終編集日:2022/5/21
ここでは、当サイトの管理者視点におけるアルコール飲料と飲酒について記述する。
《 アルコール飲料とは 》
エチルアルコールを含有する娯楽的な飲み物で総括的にはお酒と呼ばれ、摂取する行為が飲酒である。 写真はかつて気分次第で飲んでいた時期にストックしていたアルコール飲料の一つである缶チューハイ。


アルコール飲料も飲酒も用語自体は自明なものであり解説は不要だろう。ここに総括記事を設けて記述するのは、当サイトの管理人が些か飲酒に対して(喫煙ほどではないが)厳しい見方をしている点にある。即ちこの項目を作成する現時点はもちろん、既に十数年以上にわたって飲酒の習慣がない。ただし摂取量がまったくゼロというのではなく、毎年の忘年会で仲間と一緒のとき雰囲気に合わせて飲むだけである。それも甘い系乳飲料の項目でみられたような甘い物好きに呼応して、忘年会でのアルコール飲料は大抵がカシスオレンジのような甘いアルコール飲料であることが多い。
《 現在の状況 》
独り暮らしということもあり、晩酌はいっさいやらない。即ちアルコール飲料を摂取する習慣がまったくない。現時点でうちにストックされているアルコールは、飲用にならない消毒用アルコールのみである。どんなアルコール飲料も少量なら物理的に飲むことはできるが、飲酒自体に関心がない。何故ならアルコール飲料を摂取すると酔ってしまうからである。お酒好きのどなたに訊いても「あの感覚が心地良いのに」と言われるのだが、平素はアルコール飲料を摂取したことで起きるあの身体的変化が苦痛である。身体がだるくて何もしたくなくなるため、デスクに向かって記事を書こうという気も起こらない。過去に冷蔵庫へストックしていた缶チューハイは、そういった自爆的な行為に走りたいと思ったときのためのものだった。現在ではそのような気持ちになることは殆どない。

殊に数年前から指湿疹のようなアレルギー性疾患との関係か、缶チューハイを飲んだとき体調によっては全身に痒みが走ることがあった。この種の痒みは飲酒に伴い一時的に血行が良くなることが原因である。体質的にアルコールの代謝が遅いらしく、この影響は永く続く。飲酒頻度が少ないために身体が順応していないものと思われる。これは牛乳を飲み続けることによって乳糖耐性を獲得しているのと正反対の現象と言える。2017年の塾旅では鹿児島で立ち寄ったさつま無双で(ある女性の勧めもあって)「しろくまのお酒」を買って帰り、少しずつ飲んだのが最後の飲酒習慣となった。同じものをもう1本買っていたので野山に届けている。[1]

昭和後期から平成初期にかけて些か寛容だった飲酒運転への風当たりが厳しくなってからは、宴会や忘年会で飲んだ後にそのまま自分で車を運転することなど論外となった。この変化は酒を嗜む人々や酒を提供する側にとっては面白くないけれども渋々守らざるを得ない状況に追い込まれたが、個人的には(ときに不便を感じることはあっても)歓迎すべき厳格化だった。それまでの会社の忘年会や新年会では、みんな飲んでいるのだからという名目で最初の乾杯はビールが暗黙の常識とされた。前述のようにビールを飲むことは可能だが、苦いし臭いので個人的には嫌いである。どうしてあんな奇妙な飲み物をお金出して飲もうとするのか私には理解できない。

飲酒運転の厳罰化が効いて、現在ではどんな会合でも車を運転するならノンアルコール飲料やウーロン茶が容認される。車で帰らなければならない状況と知りつつビールを勧めるのは、現在では飲酒運転への教唆である。このため宿泊を伴わない忘年会でない限り出先で飲酒することはまったく無くなった。宿泊時には飲酒する理由は、純粋に参加メンバーと同じものを摂取することで一体感を共有し雰囲気を愉しむためである。このときに摂取するアルコール飲料も一体感優先なら皆に合わせてビールを飲むが、各自が選択可能なら甘いチューハイ類を選ぶ。2019年の忘年会ではおんにゃの子と一緒にカシスオレンジを3杯も飲んだが、自宅で一人で飲みたいとは全然思わない。
《 習慣的な飲酒に対する考え方 》
以下の記述は手厳しい内容を含むので、お酒をこよなく愛する方は(自らの認識を変えようとするのでない限り)お読みにならないことをお勧めする。

人体は一定量までのアルコールなら、酔いという有用な作用を提供しつつもそれを問題なく処理(代謝)することができる。このことはすべての化学物質に対する「摂取量と有用性(毒性)」のバランスの問題である。毒性どころか人体に必須な塩や水でも短時間に大量を摂取すれば明白な中毒症状が起きる。失明すると恐れられてきた代用アルコールの代表格メタノールも、代用甘味料アスパルテームを摂取すれば代謝の過程でいくらか発生する。しかしメタノールは果物や生野菜にも微量含まれており、アスパルテームの代謝で生じるメタノールはそれより更に微量であるため問題視されていない。

アルコール飲料は酔いの主因となるエタノールを含有するが、濃度が強くなければそれほど問題視されなかった。極度に強いお酒を日常的に飲み続けるとかなり明白な障害が起きるが、市中に供される数パーセントの濃度のアルコール飲料なら、適度に嗜む限り旨さと酔いと満足感という好ましい効能だけを享受できると考えられてきたからである。その裏で量が少しだから、アルコール濃度が低いから大丈夫といった理由で毎日の習慣的な飲酒をもたらした。「酒は百薬の長」という酒飲みにありがちな言い訳によって容認されてきたとも言える。
【 飲酒が発がんの深刻な要素であり脳を萎縮させる件 】
アルコール飲料は、IARC(国際がん研究機関)の作成した発がん性リスク一覧でグループ1(ヒトに対する発癌性が認められる混合物)に分類されている。ハムやベーコンといった加工肉の摂取、タバコの喫煙と同じグループであるが、これは摂取によりただちにがんを誘発するというのではない。しかしその摂取量によっては紛れもなくリスク要素になり得る。その他飲酒がもたらす悪影響について以前から推察はされていたものの、過小評価されていたことが近年になって判明している。

アルコール中毒や肝硬変といった一般によく知られている病状は、もはや飲酒量が明白に過剰となり中毒が進んだ上での末期的症状である。遺憾ながら悪影響はそれよりも遙かに手前の段階で起こり得る。例えば脳の萎縮については、ごく少量のアルコール摂取によっても発生し、その意味で「(アルコール飲料摂取の)適量は存在しない」とすら言われている。[2]しかしこの点について現代社会では未だまったく真剣な議論に到達していない。

飲食品でありながら発がんリスクが高い意味では加工肉も同罪である。これほどアルコール飲料が問題視されるのは、摂取に伴う本人の疾病問題に加えて社会的な問題行動を惹起している現実があるからである。ハムやベーコンを日常的に摂取する人が公衆の場で人に絡んで迷惑をかけたり自動車運転による事故の確率を高めたりはしない。飲酒に伴う不適切な行為に法律は対処してきたが、一般の認識はまだ甘いと言わざるを得ない。

習慣化した飲酒に対する世間の目も甚だ甘いものがある。そこには「適量なら(毎日でも)大丈夫」という甘えも同然な誤解があり、もし本人がつい酒瓶に手が出てしまい自制が効かない状態であれば、既にアルコール依存症である。同量のメタノールを呷ればただちに深刻な危機に晒されるが、アルコール飲料ではそこまでならずむしろ酔いという快感が発生するだけに習慣化する。その快感を得ることの代償として、緩慢な自殺行為に向かっているのは否めない。
【 飲酒が身体の老化を加速させるのではないかという仮説 】
以下はまったく個人的な仮説であり、実際そうであるかは検証を要することに注意が必要である。

人間誰しも歳を取ると顔つきや素肌が年相応になる。即ち肌から水分が失われるだけでなく褐色に変色する。老斑と呼ばれるシミも目立つ始める。この素肌の老化の一因として飲酒の習慣が関与しているのではないかと疑っている。

一般に人体の外観的な老化は、酸化作用に喩えられる。ヒトはカロリーのあるものを摂取して身体の内部で”燃やす”ことでエネルギーを獲得する傍ら、これに伴って身体の構成要素まで酸化されるのではと考えた。美容分野では特に抗酸化作用のある物質が持て囃される。永年ものを燃やし続けてきた焼却炉が老朽化するように、何かの予防をしなければ人体もそうなってしまうのかも知れない。

カロリーを摂取しなければ生きていけない以上、どう頑張っても老化は進行するだろう。しかし年齢を相当に経ても人に依って差違はある。特に飲酒と喫煙を永年続けていた場合の進行が甚だしいように思える。単純にこの2つを遠ざけるだけで老化を防げるという単純な問題ではないが、マイナスの因子を取り除く効果はあるのではと考える。
《 厳格な考えに転換した理由 》
非常に手厳しい意見を述べてきたが、酒飲みには冷徹とも言える考えに転換したのには相応な理由がいくつもあった。以下の通りである。
(1) 酒を飲まない態度を事ある毎に非難されたこと。
(2) 酒飲みに何度も飲酒代金を押しつけられたこと。
(3) 酒が原因で何人もの人を彼岸へ見送ったこと。
(4) 飲酒習慣の害悪が想像以上に大きいと知ったこと。
幸い上記の多くは過去の悪しき風習であり、現在は是正されているものが多い。しかしながら未だに考えを改めず古い考えを押しつけてくる人々も存在する。
【 飲酒しない態度への非難 】
幼少期や学童期は、当然のことながら飲酒することはなかった。興味本位で飲みたいと思っても親は制止した。ところが成人を過ぎた途端に、今度は飲酒が”義務化”した。昭和後期や平成初期は忘年会や新年会は元より、親族でも盆や正月に集まって飲酒した。そのときの定番は酒好きは日本酒、そうでない成人はビール以外の選択肢がなかった。会合では皆がしているのと同じ態度を取るのが礼儀であり、それに反することはマナー違反だった。親もビールが嫌いだとか飲めないでは済まされない、社会人になったらそういうものを自然に受け容れるべきだと説いた。私はジュースやお茶を飲みたかったのだが、周囲はその年になってビールも飲めないとは何事かという態度だった。酒が飲めないのは親が飲ませないから、ひいては親の教育が悪いからという批判に繋がったのである。

酒飲みの高圧的な態度は、酒が進むことでより酷くなった。親族の会合ではさすがに稀だったが、俺の注いだ酒を飲めないのかと息巻いて飲酒を強要された。少しでもいいからとにかく飲めと言われた。更に酷いことに、すっかり酒の回った人々はおよそ善悪の判断も緩んでいるのか日頃から心の中で抑圧していたことを何でもかんでも浴びせかけた。大学を卒業するや仕事は何をしているのか、仕事先を見つけて就職したなら今度は結婚はいつか、良い人は居らんのかなど。私はそうして管を巻かれるのが殊の外嫌だった。何故なら彼らはまるで話の通じない人間に化けていたからである。親族の会合である手前、席を外し続けることもできず拷問のようなひとときだった。
【 ただ酒飲みの横行 】
当時は社会全体が酒飲みに関して寛容だった。忘年会では今でも参加料金は常に男性の方を数千円高く設定しているのが普通である。これは「男性は女性よりも飲酒の量が多いから」ひいては「男性は女性よりも収入が多いから(差額を負担すべきである)」という考え方に基づく。ところが平成初期までには女性の社会進出が進み、酒に強い女性も多くなった。そして周囲の男性も酒に強い女性を称賛する傾向があった。そんな中で酒を嗜まない、あるいは積極的に遠ざけたいという意見は蹂躙された。表だって言われないだけで、お酒を飲まない(飲めない)参加者が大酒ぐらいの参加者の酒代を押しつけられる現状があった。大変な違和感と不公平感があったが、周囲は「お前がお酒を飲めないのが悪い」と言うだけだった。やがて会社の忘年会も参加しなくなったが、後に職員は全員参加を義務づけられるといった時期もあった。

忘れられない悪しき想い出がある。社会人になった直後に大学を出たときのメンバーで女の子を交えて飲みに行ったときだった。中央町のバーを2軒ハシゴして総額を男性が割り勘するというものだった。このとき参加した女性たちはタダ酒が飲めるとばかりに矢継ぎ早に酒を注文しまくった。女性と話をすることに慣れてない私はメンバーの話すのを聞いているだけで、女の子たちは横に座って飲んであげているのだからお金を出してもらって当然という態度で、お開きになればありがとうやさようならの礼も言わずにさっさと帰っていった。最後に店を出たとき男性は一人当たり一万円以上を請求された。私は何でそんなに高くなるのかとメンバーの主催者に喰ってかかったが、こういうものは男性が出すべきものだと反論された。後で分かったことだが、私が飲んだバイオレットフィズ(当時はよく飲んでいた)は1杯2,500円で勘定されていた。明白なぼったくりだが当時はこの程度などまったく普通であり、主催者もちょっと予定より支払が多かったという感覚でしかなかった。

まるで経済感覚が合わないが故に、このメンバーとも大学を卒業するまでに交流がなくなった。私が市内の居酒屋で飲んだ経験は後にも先にもこの時だけである。景気がよく仕事帰りに一杯引っ掛ける習慣をもつ人々が大勢居て、強気な価格設定でも需要があった。現在は個人営業の居酒屋は壊滅的状態で、営業していないばかりか取り壊されることもないまま廃墟となった居酒屋が多数ある。いずれこの景観も次の区画整理事業で一掃されるだろう。
【 飲酒が原因となった死 】
身の回りで飲酒が直接の原因で亡くなった人が多い。もっとも記憶に焼き付いているのは、私の祖父の例である。60歳代という当時からしても決して長生きとは言えない年齢で入院先の山陽荘で亡くなっている。死因は糖尿病と聞いている。酒を断ちさえすればもう少し生きることが出来ていたのは明白なのだが、入院した後も看護婦などへ執拗に酒を要求した。大好きなお酒を止めて長生きするよりは酒をかっ喰らって死にたい意向があったのだろう。病院関係者も本人が外部から酒を持ち込んでベッドで飲むことに目を瞑っていたと聞いている。私自身は祖父の体質や思考形式をかなり受け継いでいるとも思われるが、幼少期に温かな関わりをもったことが一度もなく、私に対して辛く当たっていた(特に食事の好き嫌いに関して)ことから私の中での評価は高くない。本人の生き方や価値観の問題であるにしても、無節操な飲酒さえなければこのような事態は起こらなかった。もう少し祖父を理解できる機会があった筈だ。

2020年の年明けにも激震が走った。年末の最終週には元気に会話して同じひとときを愉しんだ方を彼岸へ見送ることとなった。原因は(完全には把握していないが)飲酒による不慮の事故死であった。恐らく酒を嗜む人が一番やってはいけないことをしてしまわれたために、私を含めた周囲に哀しみを突きつけたまま召されていった。前述の病死と同様、酒そのものに罪があるのではなくそれを取り扱う人々の責任ではある。しかし現代社会がもっと飲酒という行為に厳格であれば、この種の事態はもっと減らせる筈なのである。

近年、飲酒がおよぼす害悪が今まで想像していた以上に深刻であることを伝えるドキュメントがネット上で目立つようになった。一部は後述する関連記事リンクに掲載している。それらを読んで気に留めている人々は正しく認識しているが、ごく普通に飲酒を嗜む人々では「自分だけではない」「他の人も嗜んでいる」「適度であれば大丈夫」を理由に、パンやご飯といった主食の喫食と同程度に問題ないと過小評価している。
《 飲酒はどうあるべきか 》
自分が嗜まないから不要であり根絶されるべきというのは些か乱暴で身勝手な論理である。歴史的にみてもアルコール飲料はその効用を評価され永きにわたって嗜まれてきている。初期からある概ね合意された理解は、過度に摂取しさえしなければ若干の身体的悪影響とそれよりもずっと大きな利益が得られるというものである。そもそもアルコール飲料の元となるエタノールは、仮にアルコール飲料をまったく飲まなくても代謝の過程で発生する物質であり、その程度の分量であれば人体は問題なく処理できる。

害悪部分のみを強調し、それを理由としてアルコール飲料の使用に対する厳しい規制が何を産み出すかは過去の禁酒法という歴史から明らかになる。どれほど禁止されようがその有用性と製法が失われない限り覚醒剤や麻薬などと同様、地下に潜ってでも嗜まれ続ける。

価値観の多様化が進んだことにより「人は人、自分は自分」がより強く意識されるのが現代社会である。お酒を飲めないことを非難されたり飲むように促される時代ではなくなった。更に飲酒による悪態や愚行に限らず「人は他人に迷惑をかけてはいけない」も同様に常識となった現代社会では、正常な判断ができなくなる程度に飲酒してしまうのはまったく本人の責任であり、何が起ころうが自己責任とみなされる。それが原因で病気となり早死にするのも本人のこととみなされるだろう。

ただしこの国が保健医療の上に成り立っている事実があるから、過度の飲酒により治療を要する病気になるのを看過すれば当人だけの問題ではなく医療負担を圧迫する。そこまで到達してしまった患者はもちろん、予備軍も含めて原因となる飲酒習慣から引き剥がすべきは当然のことである。過度の飲酒が原因であることが明白な疾病は、治療にかかる費用を保健医療の対象から外すことも検討の余地がある。喫煙と同様、この種の「意志の弱い」人々のせいで国保の保険料が高止まりしているとすれば、私は容認したくない。

2019年10月の消費税改定により、主食や総菜類は従来の税率に据え置かれたもののアルコール飲料はすべて税率が上方修正された。アルコール飲料は摂取しなくても生命体を維持できる点で奢侈品であり、更には摂取量を抑える方向に進める点でこの税率改定は一定の効果が見込めると評価する。
《 郷土にまつわる話題 》
当サイトは飲酒の危険性を啓発するのではなく郷土にまつわる題材を主体的に扱うものであるため、関連する話題についても触れておかなければならない。この総括記事の内容に即して言えば酒の存在やそれを醸造し提供する側にも否定的な見解に映るかも知れないが、当初からそのような意図はない。
【 造り酒屋について 】
市内には著名な造り酒屋がいくつか存在する。特に二俣瀬にある永山酒造は歴史が長く、現在事務所として使われている建物はかつて二俣瀬村の役場であった。その貴重性により国の登録有形文化財となっている。この指定は市内にいくつかある登録有形文化財のうち最も新しい。

中宇部村の中村には河村酒造があり、当時酒造に使っていた大きな井戸が静態保存されている。2019年に現在となっては非常に珍しい井戸換え作業が行われた。実に75年振りのことで今後再度行われる予定がないということもあって実地に見学に行った。宇部日報社の記者も現地取材している。

常盤池の築堤とそれに伴う灌漑用水路の完成で人々が恩田や則貞に住み着くようになってからは、小規模な造り酒屋がいくつも存在していたと言われる。恩田公会堂(当時は大字沖宇部字影堀)には一般家庭が使っていたとは思えない大きな井戸が封印された状態で保存されているが、造り酒屋があったからかも知れない。恩田でも酒造りや紺屋、養蚕やタバコの葉の育成が行われていた時期がある。
【 飲酒の習慣を断った郷土人 】
宇部の街の礎を造った渡邊祐策翁は、38歳のときに嗜好としての飲酒をやめると共に質素な生活をしていたことは夙に知られている。[3]飲酒による弊害を認識していたようだが、もしかすると(私自身に共通することでもあるが)原因不明の湿疹に苦しまされていたことと関係あるかも知れない。一般には激務によるものと考えられており、別府の明礬温泉へ湯治に出かけている。[4]

もっとも自宅や家族で酒類を飲むことを止めただけで、会合など当時お酒を飲むべきとされた場では飲酒していた。これは飲酒に伴う弊害よりも飲酒がその場に集まる人々の気持ちを一つにする共同一致の精神に通じると考えていたからと推察される。

宇部市長を2期務めたことのある川上の紀藤閑之介翁も「年末に忘年で呑みお正月で酌むなど情けない低級趣味の悪風」「酒の力を借りて意趣を晴らし不平を漏らし喧嘩を吹きかけるなど何と卑怯の輩か」などと、飲酒に伴う酩酊の態度について厳しく非難している。[5]
掲載リンクの殆どすべてがFBで購読しているライフハッカーによる記事であり、中立性を欠くという指摘があるかも知れない。ただし以下の記事はどれも研究結果による証拠が得られた情報に基づいている。新しい記事リンクを上に配置している。

精神的なリラックスや満足感は別として、生物学的には飲酒が利益どころか害悪しかもたらさない事実を伝える記事。
外部記事: 長生きしたければ、1日1杯も飲酒しない方がよい…研究結果|ライフハッカー
なお、上記記事をシェアした上で自分なりの考えを飲酒だけがガンの原因ではないとは言えども(2018/6/23)』として記述している。

脳の健康に関して言えば「適度な飲酒は存在しない」が明らかとなった論文からの記事。
外部記事: 「適度な飲酒」でも脳にダメージ:研究結果|ライフハッカー
なお、上記記事をシェアした上で自分なりの考えを『「酒は百薬の長」って聞いたけど?(2017/7/7)』として記述している。なお、このライフハッカーの記事を筆頭にアルコール飲料の害悪を説くドキュメントが目立つようになった。

中高生女子の飲酒率が男子よりも高くなっていることを伝えた記事に関するシェア記述。
FBタイムライン: タバコをうるさく禁止するのにアルコールには寛容なこの国の愚かさ(2015/1/14)
なお、元記事の「中高生の飲酒割合、女子が男子を逆転 厚労省調査(朝日新聞デジタル)」は、Yahoo!ニュースで配信され現在はリンク切れとなっている。

ある騒動が肯定的に解決したことで大変に安堵し、自己祝いで冷蔵庫に仕舞い込まれていた最後の一本であったアルコール飲料を消費したイベント。
FBタイムライン: andの日(何)(2020/4/18)
これをもってうちのアジトからアルコール飲料が完全になくなっている。

山口ケーブルビジョンの滝レアカード配布イベントに参加後の打ち上げで初めてノンアルコールビールなるものを飲んだときの衝撃。
FBタイムライン: 今どきノンアルコールビールを飲んだことない人が居るなんて!(2020/9/19)
出典および編集追記:

1.「FBタイムライン|白い熊さん

2.「Wikipedia - 酒|健康への影響|脳の萎縮

3.「素行渡邊祐策」p.208

4.「素行渡邊祐策」p.989〜991
また、湯治中の明礬温泉から差し出されたことが分かる渡邊祐策による封書の存在が知られている。

5.「米寿紀藤閑之介翁」p.175〜176

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