用語集|やらわ行

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《 藪漕ぎ 》
項目作成日:2019/6/30
最終編集日:2019/9/13
当サイトで多用されている例としては、元から道が存在しない荒れ野や、廃道状態になり普請する人が居ない荒れ道を強引に突き進む行為をいう。写真は市道金山線の初期踏査時における自転車を伴った壮絶な藪漕ぎ道中。


漕ぐとは両手で雑草をかき分けて進むのが船のオールを扱う動作に似ていることに由来する。本来、道があるべき場所で特に日当たりの良い場所で向日性の植物が繁茂することで藪になるので、多くの場合は比較的短距離である。

一般には、藪漕ぎとはまったく道も何もない場所を強引に突き進む行為として記述されている[1]が、参考文献からも分かるように当該項目はサバイバルの観点からのみの記述で、当サイトでの藪漕ぎとは本質的に異なることに注意を要する。
【 藪漕ぎを行うかどうかの判断基準 】
藪漕ぎを実行するか否かは難易度とその先にある物件への到達本気度に依るが、以下のような場合は実行せず諦めて退散することが多い。
(1) イバラなど負傷を伴う植物種の繁茂が極度に多い場合。
(2) 物理的に進攻不能なほどの強度と密度を伴った藪の場合。
(3) シダなどが生い茂り地面の状態が分からない場合。
(4) 葉などに不快害虫が観測される場合。
(5) 藪漕ぎ距離の目測がたたない広範囲な場合。
藪の遭遇は不定期なので、一般には突破の手助けをする用具は何も持っていない。鎌や剪定ばさみなどの用具を持参して立ち向かったのは、過去にスペシャルイベントとして厚東川水路橋の直下へ案内するとき参加者が安全に到達できるよう伐採道具を持参して道を整備したときのみである。過去の単独での踏査では、道具を使って藪を一掃したいと思った場所はいくつもあったが実行したことはない。[2]

時系列記事では壮絶な藪漕ぎ道中を行う描写があるため、読者の中には期待する向きもあるようだが、野ウサギは決して好んで藪漕ぎをしているわけではない。ホンモノの野生動物も山野を無秩序に歩き回っているのではなく獣道を選好している。大抵は酷く苦労しながら何の成果も得られないばかりか、服やズボンがほいとだらけになるという被害を被りがちである。一連の経験則から、藪漕ぎに適する時期や条件などについて「物件の調査と撮影時期に関する行動方針」に記録している。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 藪漕ぎ

2. 白岩公園の忠魂碑と倒壊御堂へ至る道は、最初にこれらを発見したFBメンバーが刈り払いを行い迷わず行ける道を整備している。
《 焼け石にミミズ 》
昔から言われている諺の一つで、赤熱状態までに焼けた石に多少水を掛けた位ではただちに蒸発するだけで石に殆ど何の影響も与えないことは「焼け石に水」としてよく知られている。転じて無駄な努力を行うことの別表現であるが、明らかに手痛いしっぺ返しを喰らうなど実行しても効果がないどころか逆に無惨な目に遭うことをこのように表現する…場合もある。

あくまでも喩えの話であり、言うまでもなく熱せられた石の上に生きたミミズをなんて残酷なことをしてはならない。このため婉曲的な表現として「焼け石にMMZ」と書かれることもある。当サイト管理者による勝手呼称というよりは恐らくこの程度のおちゃらけは誰かが先に唱えているであろうことが想像される。
《 やんちゃスペシャル 》
最終編集日:2021/1/7
踏査においては、ある物件の正体を確かめるために藪漕ぎを行ったり、通常の精神の人なら近づこうという考えすら起こさない場所への接近が試みられる。そういった行為のうち特に実行が躊躇されたり遠慮すべき場所へ堂々と立ち入り、価値の高い成果が得られた案件についてやんちゃスペシャルと呼ばれる。これは一般的な踏査ですら大抵の場合が既に「やんちゃ」と呼ばれるレベルであり、それを上回るという意味である。

通常の踏査からして大抵がやんちゃレベルを超えているので、個別にやんちゃスペシャルと呼ばれることはない。週間ないしは月間において特に著しい成果をもたらした案件の場合「6月度のやんちゃスペシャル」などと表現される。また、正月休みで人通りが殆どない環境に着目して人の目を気にせず徹底的な調査を行うのは「新春やんちゃスペシャル」と呼ばれ、かつては年明けの恒例行事ともなっていた。

いくらやんちゃスペシャルとは言っても明白かつ厳重な立入禁止措置が執られている場所は進攻の対象とはならない。しかしやんちゃスペシャルという語が誕生するより更に前、当サイトすら存在しなかった最初期にはフェンスに立入禁止の標示が出ていてもフェンスの一部が破れて穴が空いていたり別の場所から回り込める場合は、進攻阻止の意図が薄いとみなして「やんちゃ」していた時代があった。
【 最近の実行例 】
2021年の正月の間、バリカーが置かれ関係者以外立入禁止のタグがぶらさがっていた作業道を(その先への進攻の必要上から)無視して進攻している。そこを通らなくても到達可能な経路はあったが、道が極めて悪い上に遠回りなことが分かっていた。

進攻先で地元在住民に出会い、わざわざ悪い道を通ることもないから近いその道を通れば良いと教えられた。撮影などの目的であれば歩くのは大変だからバリカーを移動して車で入ってきても良いと言われている。その後、歩いて同じ道を戻っていたところ地元在住者と思しき人が同じ道を散歩目的で歩いていらっしゃったのを目撃している。
《 要出典 》
項目記述日:2020/9/18
当サイトにおいては、何かの書籍で得られた情報であることが確かなものの、具体的な書籍名が分からないとき仮書きされる記述として使われる。重要な記述の直後に[要出典]の形式で書かれる。

その後書籍名やページが判明した場合、適宜番号を与えて末尾の「出典および編集追記」の小項目に記述を行うこととなっている。
横穴系
項目記述日:2021/6/6
概ね水平に掘られた穴で、奥が閉塞するなどして往来向けに供用されないものの総称。当サイトにおける分類上の勝手呼称である。
写真は吉部地区の旧船木鉄道沿線にみられるもの。


典型例としては上記のような防空壕や馬隠しの穴である。海底炭鉱の坑口のようにある程度の傾斜をもった斜坑も含まれるが、井戸のような垂直なものは竪穴および竪坑に分類している。

奥が閉塞していることが分かっていても、中がどうなっているのか、一体何処まで続いているのかは大きな関心事である。このことは「穴があったら覗き込む、可能であれば潜入を試みる」という当サイトのお約束に象徴的である。具体的な物件の事例についてはリンク先を参照。
《 嫁入り前 》
項目記述日:2019/10/31
一般には未婚女性をあらわす雅やかな表現であるが、当サイトの管理者は、主に自身のことを含めて独り身であることの意味で使っている。やや戯言的に唱えられる話し言葉で、当サイトの記事やFBタイムラインに現れることはない。

客観的な用語で言えば未婚者に相当する。前述の独り身も概ね類似するが、独身とは概念が異なる。未婚者は「未だ結婚していない者」の義であり、独身とは「結婚していない者」である。俗に言うバツイチも独身に含まれるが未婚者と言えるか否かは状況により異なる。そして当サイトの管理者はそのどちらの語も使わず、軽い話題の中でこの語を用いている。

嫁入り前という語で表現したからと言って、別に嫁入り(正確には婿入り)願望を持っているわけでは全然ない。それは子育て世代をとうに過ぎた年齢の要因もだが、従来から持たれている結婚という概念が変化しなければ、今後の時代において年代を問わず無意味な制度と言えるからである。この理由については「婚活」の項目を参照。

遺憾ながら、この先の自分の人生をわざわざ自分で決めつける必要もないにしても、当サイトの管理者が世に言う「結婚を経て既婚者となる」可能性は基本的にゼロだろうと予想している。自由気ままに生きることに浸りきったなら、誰が好きこのんで一人の配偶者に縛られて生きることを望むであろうか。答がどうであるかは身の回りの同世代を観察すればかなり明らかである。即ち殆どの男性は結婚相手を見つけることができず独り身であり、殆どの女性は一度結婚して子どもを産んだものの様々な事情あって配偶者と離婚し子どもと暮らしている。この傾向はもしかすると市内では際だって目立つ現象なのかも知れないことが他県から市内へ越してきたある方によって驚きと共に指摘されている。

あるいは実質的な配偶者を見つけることができても、始めから子どもを持つことなく、お互いを尊重し家制度に縛られるのを避けるために籍を入れず夫婦別姓で生活している。市外県外からこの市に移り住んできたお二方から「夫婦別姓や入籍なしの内縁関係がこの市に多いように思いますが何か要因があるのでしょうか?」と指摘されている。この傾向は殆ど間違いなく今後の配偶者や家庭の在り方が志向する将来像と考えられ、人々は先を見据えた上でそのように振る舞っているのかも知れない。
《 類族 》
項目記述日:2022/9/3
最終編集日:2022/9/13
類族(るいぞく)とは、家族・親族に代替する社会的コミュニティーの一形態を指す勝手呼称である。誰でも思い付きそうな語であり、既に誰かが呼称を提示しているかも知れない。概念自体は令和の始めには気付いていて、既に類族という表記がみられる。(→令和|令和時代の予想
【 類族の定義 】
ある何かを表す概念で、既存の適切な言葉がなければ作る必要がある。類族とは概ね以下を満たす人間同士の関係である。
(1) 家族や親戚に代表されるような血縁的な繋がりがないか極めて薄い。
(2) 同じ価値観を共有している。
(3) 職業や年齢に起因する隔たりがない。
(4) 従来の家族関係や親類関係の影響を受けない。
(5) 複数の異なる類族カテゴリに所属可能である。
(6) 従来の家族や親族と同様以上の実生活における相互扶助がある。
ヒトは独りでは社会を形成しないが、相互に影響を与える二人以上が集まれば社会的コミュニティーを形成するに充分である。まったく同一の思考形式をもつ人は存在しないので、構成員が二人以上あれば相互に異なる部分の擦り合わせが行われる。

定義の内容をざっと見れば、類族は親しい友人に近い関係と言えるかも知れない。現代人は年齢を問わず何かとても困ったときに相談する相手がそのまま身内の誰かということが少ないからである。家族や親族にまつわる問題は、その構成員の誰かに話して解決を図るには重すぎる。特に一緒に暮らしていない家族や年に高々数回しか顔を合わせない親族では、人的繋がりが希薄になる。遠い親族ともなれば、指し示す語としては甥や姪といった言葉で表せるにしても、一度も会ったことがなく殆ど赤の他人であることも多い。

家族・親族の崩壊が取り沙汰されて久しい。昭和期には永年勤めていた会社を引退した。その頃には自分の子どもたちが大きくなっているので、家督を長男に委譲して自分は隠居した。二世代同居が基本なので、子どもたちが結婚して産まれた孫は働きに出ても親が孫の面倒を看ることができた。そのシステムは昭和後期までにはほぼ崩壊し、核家族単位での暮らしが主流となって親は配偶者と二人暮らしすることになった。この家庭で子どもを看る人が居ないとか、高齢化した親も配偶者に先立たれて独居状態となるなどの問題が顕在化している。

高齢者の独居問題は、介護施設やケアハウスにより受け皿が整いつつある。しかし満足のいくサービスを受けるには相応な資金が必要であり、蓄えのない高齢者は孤独死問題と向き合いながら暮らしていく以外ない現状がある。現役世代にしても産まれた子どもが幼いうちは保育が必要なのだが、核家族化ができあがってしまった今では別の場所に住む親に頼める状況でないことが殆どである。結果として子どもを保育する間は休職する以外なく、結婚しても子どもを持つことが躊躇われる一因になっている。
【 コミュニティーの再構築 】
社会的繋がりを喪った人は脆弱である。すべてを独りでこなし、精神的支えも目標とするものも無いままに生きていくほどライフステージは平坦ではない。従来は高齢化が進んで自分独りではこなせなくなったのを我慢するか、年金財源で相応なサービスを受けられるコミュニティーに所属する以外なかった。とりわけ親族という概念が無に等しい状況から、代替するコミュニティー作りを早急に進めなければならない。即ち定義したような同じ価値観を共有する人々との相互扶助生活である。

類族という呼び方はしないかも知れないが、将来的にこのような新しいスタイルの共生を行政主導で進めていく必要がある。現在の行政施策はまだまだ高齢化対策には甘く、恰も”自分は高齢者にはならない”とも思えるほどに取り組みが遅れている。例えば公営住宅を造るなら、物理的なバリアフリー化だけではなく年齢や生活スタイルもバラバラな応募者をランダムに入居させるのではなく、最低限ライフスタイルが似通った人を集める。更に対象者を類族に絞り込む代わりに共同生活可能な仕様で部屋を設計すれば、暮らしていく上で共通する部分に係るコストを低減できる。

現在既にルームシェアが少しずつ拡がっている。これは将来から後年を振り返ったとき恐らく類族による共同生活の初期の事例となるだろう。共同生活と言っても各々にプライバシーは必要だから、独りになれる空間は当然確保される。しかし独りであり続けると社会から孤立しがちとなり、適度な独居状態と共同生活を折り合わせる生活スタイルが求められているのである。
《 るま 》
項目記述日:2021/4/29
所有者不明のまま藪の中などに置き去りにされ、著しく侵食されてぼろぼろになった自家用車の俗称。
写真は山口宇部道路真河内跨道橋へ向かう里道の途中に投棄された実物。


勝手呼称に近いが、当サイトの管理者が言い始めたものではない。呼称の由来は、ぼろぼろになった状態を「腐った」と表現し、車(くるま)が「く去った」と解釈することによる造語である。タヌキの宝箱のようなものと言える。

目に着きづらい場所に存在しているだけで、るまは市内の至る所に観察されている。年式の古い車は下取りによって得られる金額よりも処分費の方が高くつく。しかも保管場所をとるので秘密裏に山の奥など人目に着かない場所へ運び込み置き去りにするのである。当初から投棄する積もりはなく、車検切れなどで乗らなくなった自家用車を公道脇の私有地に留め置いて倉庫代わりに使っていながら、持ち主が亡くなるなどして放棄されるま化するものもある。

人里離れた廃屋は、近隣住民の目につかないことに便乗してしばしば窓ガラスなどを割られて家探しされる。投棄された車も大抵施錠されているので、フロントガラスを割られて金目の物が抜き去られている場合がある。長期に渡って雨風に晒されるため全体が侵食される。外側の車体は金属であるため、錆びてぼろぼろになっているものがある。しかし内装やタイヤは何十年経っても原形を保っている。

廃屋や廃ビルディングなどと共に、るまは廃物を愛でる一部の人々によって観察されている。当サイトの管理者は特に愛でているわけではないが、市内の何処にるまが散在しているかのデータは持っている。半世紀近く経っていると推察される古いるまもある。

一般には美観を損ねるだけでなく、公地に放置されたものは当該箇所を造成するなどの必要が生じたとき障害になる。しかし所有者が判明することは殆どなく、最終的には公費で処理される。この件でもっとも顕著であったのが真締川沿いの県有地の事例である。
【 車の墓場 】
るまほどの荒廃はなかったが、真締大橋の西岸上流側と市道真締川西通り線の交点にあたる余剰地には、少なくとも2016年以前より4台の車が放置されていた。車のナンバープレートはすべて着いていたし、ボディーの横に業者名がペイントされて明白に営業車と分かるものもあった。なお奇妙なことに、それらの車はすべて有刺鉄線付きフェンスで囲まれたエリアに停められており、車があると分かっていながら後からフェンスを設置したとしか考えられなかった。
当該車両の保有者が名乗り出ない限り自力で搬出できなくする措置だったかも知れない

2019年3月11日付で、この場所へ車を放置している所有者に同月25日までに引き取りを求める警告書が掲示された。


この警告書は山口県宇部港湾管理事務所長から出されており、そのことからこの場所が市ではなく県管理地であることが分かった。所有者が名乗り出ない場合、県が処分した上で処分費を車の所有者へ請求する旨が書かれていた。その後4月20日までにフェンスの一部が取り除かれ置き去りになっていた車すべてが搬出処分された。フェンスは元通りに戻され、この項目の記述現在の時点では空き地となっている。
《 令和 》
項目記述日:2019/6/30
最終編集日:2022/9/13
言うまでもなく西暦2019年5月1日より適用されることとなった平成に次ぐ新しい元号である。一般的な事柄については[1]を参照されたい。ここでは未だ令和の初期にあたる現時点において観測される客観的事象や個人的な事柄を記録する。
【 直後 】
新元号が発表されたとき、それまでの元号のイニシャルと重複しないものから選ばれたことを理解した。初期にはラ行の音は大和言葉ではないという感触はあったものの、既に同種の熟語は山ほど一般的に用いられていることから何らの違和感はないと考えている。[2] むしろ、その後で新元号の選定候補とされていたいくつかの事例のうちでは最適と感じた。漢字表記は平易なものの音感や漢字表記が如何にも古臭く、まるで江戸期の元号と思わせるものが散見されたからである。もっとも平成とて後から思えば「へ」で始まる音というのは議論の的になりそうなものであるが、当時そのような話はまったく聞かれなかった。それ故にどの元号で決定しようとも慣れの問題であり、時間が経つにつれて馴染んでいくものなのだろう。

中堅世代から上では平成に変わるときのことをメディアで見聞きしているので、しばしば令和への変更とそれとを比較して語られる。個人的にも平成という元号が発表される瞬間は居間のテレビで視ていた。その映像は平成の元号決定の場面で現在でもメディアで報じられる。これに対して新しい元号が発表される日時はあらかじめアナウンスされていたにもかかわらず、その瞬間をテレビなどで視ようという気は全然なかった。平成に変わる瞬間から既に30年以上経過しており、当時とは暮らしぶりから考え方から価値観まで非常に多くのものが変化していたからである。
【 使用状況 】
昭和末期や平成初期ならまだ手書きの納付書や金融機関での提出書類で元号を書く場面がいくらかあっただろう。公に提出する書類では西暦と元号表記のどちらも認められていて、大抵は  年 月 日のように「年」の前をやや広く空けて西暦と元号表記のどちらも書けるようになっていた。当時は「平成X年」とも書いていたと思う。現在ではそもそも年月日を手書きすべき場面が殆どなく、あっても平成を二本線で抹消し令和というゴム印が押された用紙があり、数字だけ書き込めば済むのが普通である。この項目を書いている現時点で令和となって2ヶ月が経つことになるが、未だに「令和」を手書きしたことがない。

ネットを含めたコンピュータ関連では更に令和の出番がない。画像ファイルは21世紀に入る前から西暦管理している。ネットで何かを提出する際に年月日の入力が必要なときもプルダウンメニューから西暦の数字を選ぶか、さもなければ明治・大正・昭和のうちからラジオボタンを選択して同じく数字はプルダウンにより入力することが殆どである。メールなどで何かの情報を送る際に年から表記することはまずないし、未来のことを表現するなら例えば「(西暦)2021年に宇部市は市制100周年を迎える」の如く書いている。
【 将来的に予想される表記法 】
令和以前の元号を含めての話になるが、当サイトの記事でもしばしば昭和初期とか平成初期のような一定の幅を持たせた年代表記が出てくる。厳密に定義しているわけではないものの昭和初期、戦前・戦後、昭和中期、昭和後期、平成初期といった書き方をしている。昭和時代は64年続いたが平成はその半分以下となった。この場合、平成初期と言ったら平成一ケタ年代あたりが妥当に思える。平成後期と言えば概ね20年代後半から今年の4月末までとなるだろうか。31年続いた平成時代なら平成15〜16年が中期となるので、それより前後数年程度の幅をもって平成中期ということになるだろう。

令和の年代が更に進むことによりいずれ令和初期のような表現が出てくるだろう。ただし他の方ならともかく当サイトで私がその表記を援用可能なほど生き存えているかは怪しいものもある。
【 令和時代のイメージ 】
極めて淡泊な見方をするなら、時間の流れは何処も一定である。人の営みが定めたものであるから平成から令和に変わる瞬間も、大晦日から年が明けて元旦を迎える瞬間も物理的には同じである。しかし節目として意識されることに異論はないだろう。その節目を機に新たな決意を表明したり次の時代への目標を掲げることは意識高揚の良い手段となる。

既に自分自身あちこちで何度か言及したことがあるのだが、今まで過ごしてきた平成期と比較してしばしば次のようにイメージしている:「平成は情報化時代だったが、令和は情報共有の時代だ」

昭和時代は概念としての情報は存在していたが、受信発信する手段が非常に限定されていたために重要なものとの認識も大きくはなかった。情報以前に未だモノが充分でなかったというのも理由にあった。高度経済成長期を経て今後重要になるモノがいくつも提起され、普及することで重要性の評価が広がった。技術の進歩と普及環境が整ったことで、特段の職にない一般人でも自由に情報を受信発信する方法に手が届くようになった。そしてややもすれば平成後期にわたって情報の洪水状態となったり、あるいはそれを巧く制御しきれず洪水の中で自らを見失ったりしがちだった。

それらの反省も含めて、令和は情報共有の時代と考えている。情報共有とは取捨選択であり、何でも無節操に取り入れるのではなく切り捨てたり始めから頓着しないという選択肢も尊重される。世の中が、誰かが必要だと認めている情報を、真に欲する人々の元へ正確に届けて情報共有するということである。平成期から既に夥しいほとであった情報量が減ることなどおよそ考えられないから、以前にも増して膨大な情報の海の中、各人が自分に必要な情報を抽出して志向を共にする人々と繋がり合う多重レイヤー構造をもった世界に向かうことを予想している。
【 令和時代の予想 】
先述のような夥しい価値観からなる多重レイヤー構造に向かうことをかなり確信しているので、これに基づいて令和期が進むにつれて起きてくる変化がある程度予想される。

卑近な横文字しか思い付かないが、遙か昔から脈々と受け継がれてきた家族・親族といった繋がりに比肩するものとしてコミュニティーという繋がりが実生活に反映されてくることを予想する。昭和期に老いも若きも家族がみんな同じ一つ屋根の下に暮らしてきたように、令和期では親族・相続としての繋がりはないが価値観と方向性を概ね共有する人々が寄り添って暮らすという体系である。かつての掲示板やブログ、SNSにおいてネット上で繋がってはいるが実生活に於いての繋がりがないコミュニティーが存在するが、それのリアル版である。敢えて家族・親族に倣った呼称を与えるなら類族あたりが相応しいかも知れない。

学生のシェアハウスなどはリアル化の先行事例とも言えるが、子どもたちがすべて独立した後の中高年世代でも血の繋がった家族・親族に代わる生活体系として類族という考えが広がるかも知れない。少なくともそれは現代社会の病理である孤独死に対する有力な解決手段の一つとなり得る。赤ちゃんを産むのは時代が進んでも当面は母親であろうが、育てるのは類族内で行うようになるかも知れない。ただし人は生物(なまもの)であり、時間と環境の変化で価値観も変わり得る。所属している類族から離れて別の類族へ加わるといった事例も起こり得るだろう。現代社会は結婚という契約に基づいて変動を抑えているが、類族ではどのようなシステムが妥当であるかはある程度時間をかけて最適解を模索することになるだろう。
【 covid19 によるパラダイムシフト 】
その後、令和時代中に covid19 という大きなパラダイムシフトが起きた。これは令和という人為的に設定された時代変化を跨ぐきわめて大きな変動であり、既存の多くの非合理的な慣習が見直された。半面、変化を潔しとしない一部の会社や団体組織では既得権益にしがみつき続けることで生き残りをはかっている事実があり、その多くが情報共有によって炙り出され批判の対象となった。

前掲で「平成は情報化時代だったが、令和は情報共有の時代」ということを書いたが、covid19 以降はこの後半部分を「令和は情報選択の時代」と書き換えたい。既に身の回りは情報の洪水状態であり、有害な情報は元よりゼロ価値情報とも言える無益な情報を積極的に排除すべきフェーズに入っている。

その代表格は、枚挙したからとて何もどのようにも変わる余地がないのに毎日 covid19 の新規感染者数を【速報】という目立つ記事タイトルで配信し続けてきたマスメディアである。後に日々の感染者数カウントを止めるとアナウンスされた途端、すべてのマスメディアは翌日から歩調を合わせて一切ニュース記事に上せないという露骨な手のひら返しを演じた。このことを含めて私は「歴史的にみて、マスメディアの信頼性は過去最低レベルにまで凋落した」と断じている。換言すれば、善い情報を伝播して社会を導くという道義心がまったくなく、収益を上げて生き残るために手段を選ばない醜さが垣間見えている。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 令和

2.「FBタイムライン|令和(れいわ)は大和言葉ではないが気にすることはない(2019/4/2)」
《 レクリエーション数学 》
項目記述日:2019/6/29
最終編集日:2022/9/25
高校3年生辺りから社会人初期に至るまで娯楽として嗜んでいた数学の問題作成とそれを解くことに関する一連の活動。勝手呼称ではなくこの用語は同種の活動を数々の書籍として発信していたM.ガードナーによると思われる。

学校のカリキュラムに沿わない自発的活動として最初期のものであり、この項目を作成する現在では紙と鉛筆による活動は行われていないものの、後年の論理思考や数に関する概念や嗜好に甚大な影響を与えた。学生時代の取り組みとしては方程式の解法に始まり、後に素数の理論、更にディオファントス方程式の解を求める活動に向かった。

レクリエーション数学活動において最大の影響を与えたのは、M.Lines による書物である。最初に手にした書籍「数 - その意外な表情」は殆どすべての章が興味深く、それを元に実際の探索を行っている。判明した結果は古典的にP.de Fermat がしたように無数の脚註的な書き込みを行っている。素数に関する書籍はそれ以前から図書館で借りたり書店で購入していたが、初等整数論の演習問題を志向する最大の要因となった。

後年、コンピューターが使えるようになってからはBASIC時代に築いてきたプログラミング手法を流用し、Excel でマクロを組んで数値出力させることを行った。そのデータから規則性を推察して条件を満たす恒等式をみつけることも行われた。殆どの成果は既知のものと思われるが、恐らく未だ発表されていない結果が若干含まれている。
【 近年の活動 】
仕事も趣味や娯楽もほぼ郷土関連活動一本槍になりがちな状況で、たまには他の活動もしなければという気持ちもあって断続的にレクリエーション数学活動が続けられている。月末にコラムを脱稿して目先のタスクが片付いた後、久し振りに関連書籍を借りだすことでいくつかの問題に取り組んだ。


書籍に載っている問題の追跡調査を行い、その結果をABC正三角形として記事化している。郷土関連を主体とするホームページながら時折数学的話題が上るのは、こうした活動の成果報告のためである。記事で説明用に使った画像やドキュメントは、どちらも非物件として文化カテゴリに分類している。
《 ロケハン 》
項目記述日:2020/6/21
最終編集日:2020/6/22
番組制作において、ストーリーの展開にふさわしい場所や題材を新規に探したり、いくつかある候補から場所を絞り込んだりシナリオを決定するために実地に現地へ訪れること。
写真は山口ケーブルビジョン「にんげんのGO!」のロケハンで居能を訪れたときの風景。


一般にはロケーション・ハンティングとして知られる。これは和製英語であり、英語では location scouting と表現される。[1] 現地ロケを行う係(班)が存在するわけではない。しかし私は当初そのように勘違いしかけていた。

番組制作において宇部マニアックスも何度かロケハンに参加してきた。”隧道どうでしょう”シリーズでは市内県内にいくつもあるトンネル(暗渠を含む)のうち、どれが視聴者へ与えるインパクトが大きいかを見極めるためにロケハンは欠かせない。他方、風景印 - その先へ…では当該郵便局の管内にあるうちから題材を探すことになるので、題材が限定されるためにロケハン無しでいきなり本番のロケを行った例もある。

広義にはロケの下準備的な現地確認と言える。題材が殆ど決定している場合でもまず少人数で現地入りし、オープニングを何処で撮るか、題材紹介の展開をどのように構成するかを検討するのみならず、実際の撮影において太陽の位置と日射がどの程度になるか、ケーブルカーを停め置けるスペースがあるか、現地までどの程度歩くことになるかなど実務面での確認も行われる。

題材が確定しておらず、複数の候補地を巡回して見極めるのがハンティングに近いという意味で狭義のロケハンである。ロケハンからやや離れて、本命となりそうな題材のある場所からすぐ近くに同種の題材があったとき併せて視察することがある。その題材も常に参考資料にとどまるものではなく、番組中で採用された事例(ゆずりはトンネル)もある。ロケハンのこの差違を結婚式シミュレーションとお相手探しに擬える見解もある。[2]
【 宇部マニ的活動との対比 】
私が自転車なり車なりで特定の題材を求めて活動するアクションはロケハンとは言わず、単に題材探し(ネタ探し)と表現している。著名な史跡のような歴史的背景を持つもの、形状や名称が面白いもの、特定のジャンルに当てはまるものが物件として認識される。

題材がありそうな場所を漠然とうろつき、観察することで物件を掘り起こすのがお相手探し的ロケハンとなるなら、結婚式シミュレーション的なロケハンに対応するような活動も存在する。既知の物件について天候や日照など条件の良いタイミングを選んで現地訪問し、写真を撮り直したり更に細かいチェックを行う活動がそうである。そこまで綿密に調査された物件は、たびたび現地へ行かなくとも概要が概ね頭に入ってくる。写真の枚数も増えるので、時系列記事を作成するのも手持ちの資料のみで可能となる。時系列記事を作成するのは現地ロケを行った後の編集作業に相当する。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - ロケハン

2.「山口ケーブルビジョン|にんげんのGO!|ロケハン。そしてアウトプット考。
《 渡邊塾 》
項目記述日:2019/5/14
最終編集日:2021/4/29
宇部市に関連する郷土活動を主体的に行う自発的グループ。名称は宇部の街を造った渡邊祐策翁とその志を受け継ぐ塾長に由来する。
写真は国際ホテルのロビーで塾メンバーが集ったときの様子。左より局長塾長博士である。


当サイトの管理者である私は初期からのメンバーで、隊長という別称を持つ(後述する)。
【 塾の発足時期 】
渡邊塾発足の原形となるメンバーの出会いは、2014年12月29日の忘年会と思われる。[2]それより数日早い24日には、たまたま白岩公園を案内していたメンバーへ合流する形で私が案内している。[1]このときの投稿には各メンバーの肩書き呼称は現れていない。29日の忘年会では常任顧問弁護士の記述があること、博士が遠方はるばる来訪していることから、このときの発案で呼称が与えられた可能性が強い。

ここまでのFBの投稿はいずれもメンバー各自によるタイムライン投稿であり、まだ渡邊塾のFBグループからの投稿はない。しかしメンバーの肩書きは忘年会までに決定されていた。その肩書きが初めて公のものにされたのは、2015年11月28日に山口宇部空港2階ロビーで開催された「宇部市を100倍楽しむ方法」での合同公開セミナーであった。[3] セミナーでの自己紹介として塾長・局長・隊長を唱える場面がある。このセミナーの後半部で、隊長である私が100倍楽しめる題材について情報をアウトプットする旨話す場面があった。これは書籍という意味では実現しなかったものの、サンデー宇部のコラム執筆という別の形で達成されている。
【 FBの渡邊塾グループ 】
情報共有の重要性から、おそらくセミナーの後にFBで限定グループが作成されている。作成者は局長で、当初は渡邊ゼミと呼ばれていた。作成時期は2015年7月18日の会合時である可能性が高い。[4]このとき渡邊ゼミのメンバーとして認定されたのは創立者の塾長、グループ作成者の局長、局長の補佐役として同団体で活動する編集長(ただし初期には肩書きはなかった)、隊長である私、7月18日の会合で参加していた有志、そして遠方で活動する博士であった。後に有志お一方はFB利用頻度が低下したことからグループより除外された。また、博士はFBの個人アカウントを持っていなかったため主要な連絡は個別にメールで行われた。

FBグループ上では距離の概念はおよそないが、物理的には私と局長が市内在住なものの塾長は都心と宇部を往復する生活体系ということもあり、塾長が宇部へ戻る都度各メンバーの予定を擦り合わせて定例会合を開くようになった。2016年11月8日にはゼミで長時間の会議を行ったことの投稿がある。[5] 博士のみ遠方在住であったため、2017年春には博士の研究室を訪問することを主眼としたツアーが組まれ、塾旅と呼ばれている。

この他、遠方でコンタクトを取ることが難しいが初期の渡邊ゼミでは顧問弁護士や館林市在住のM氏が招待されていた。ただし渡邊塾としての活動としては、先述のような3者がもっとも多い。塾長もそれぞれの役割について以下のように言及している。
塾長: 数年前に会社を退職した。それまでは会社勤め一本槍の会社人間だった。曾祖父である渡邊祐策の足跡に触れることで郷土に対して何ができるかを考えた。これからは今までの「会社」から180度転換した「社会」への貢献を考えている。
局長: この街の成り立ちという過去からの歴史を深く理解し知見を蓄積している。また、文化面でも市成人式のプロデュースなどさまざまな活動に注力している。
隊長: この街の今を切り取り続けている男。「街の風景はかならず変わる」をコンセプトに記録し続け、それを未来へ繋げようとしている。
このように、渡邊塾と言えば渡邊祐策翁の精神を深く理解し、過去・現在・未来の時間軸を意識して活動する3者として紹介されることが多い。
【 渡邊塾のコンセプト 】
対外的に明確なコンセプトを打ち出して活動しているわけではなく、以下ではメンバーの一人である私(隊長)が体感しているところを記述している。

渡邊塾という名称からも明らかなように、塾長発案の塾である。しかしおよそ推察されるように塾長が司令塔となって構成員を指揮するというのではなく、塾長自身も渡邊祐策の研究に取り組んでいることからも分かるように、その精神が中核にある。

渡邊祐策は郷土の発展に関して現代にも通じるインフラを整備したことは大きな仕事であるが、その精神は更に前の福原家時代からの影響を強く受けている。福原家の重んじていた思想に陽明学があり、それは机上の議論に終始するのではなくその成果を実践に繋げなければ無意味とするものであった。祐策翁は共同一致に始まり、後に共存同栄という明確なコンセプトを提示しそれを宇部市民全体へ自然に染み入る形で実践した。

このコンセプトは古くて新しい内容であり、現代でも有言実行として十分に通じる。どんな素晴らしい素案やスキームも頭の中に温めておいただけでは無意味で、まずそれを表に出して唱えた上で実行する(価値あるものを産み出す)ことを至上とするものである。取り組みと言っても企業における業務とは本質的に異なるので強制力はないが、メンバーは各人が取り組んでいる課題について常にそのことを念頭に置いている。

古くて新しい渡邊翁の精神を現代版に適合させ浸透させることにも取り組んでいる。人々の価値観や時代背景が異なるため、渡邊翁の唱えていた精神のすべてをそのまま移植することはできない。昭和初期は未だ全体主義的な色彩の強い時代であったため、意見を集約し一丸となることが善しとされたことに疑いは無い。現代はコンセプトとしては善であっても各論の部分まで市民すべてにおいて一致させることは不可能であり、異なる価値観の存在を是とする時代であるなら各論すべての一致までが善とは言い切れない。しかしその土台となる部分がある筈で、そこについては協同してやっていこうというのが骨子である。このコンセプトは市制施行100周年市民委員会における提言の中にも盛り込まれ、具体的な取り組み目標もいくつか提示している。

塾のコンセプトからも恐らく離れるだろうが、個人的には渡邊翁の「見返りを求めずにまず誰にでも施した」点を高く評価し、これを現代でも通したいコンセプトの一つに位置づけている。ややもすれば宣伝して名を売り、影響力を強めた上で人や材を恣に動かす巨大資本の存在があり、更に寄らば大樹の元とばかりにそこへ集結することでますます影響力を確固としたものにする風潮である。このような風潮を憂慮し、まず進んで施すことの意義を初めてのセミナーで「宇部精神(スピリット)」として説いた。
【 最近の状況 】
covid19の影響により2020年入りして一度も会合が開かれていなかった。状況が落ち着いてきたことから6月23日に今年初めての会合が開かれた。2021年には新川地区を中心とした研究会を発足させたいというある提唱者の意向を受けて、渡邊塾を母体に含む形で新川歴史研究会が発足し毎月一回の定例会が開かれるようになった。このことより今後は塾単独よりも研究会としての活動が主体になっていくと予想される。
出典および編集追記:

1.「FBタイムライン|宇部の旧跡探検隊(2014/12/23)

2.「FBタイムライン|歴史と文化を語る忘年会(2014/12/29)」
しかしその後、同年4月に塾長自身のタイムラインに名前と肩書き(隊長)を併記したコメントを用いている投稿が見つかっていることから、FBグループを作成するよりかなり前に塾の概念が出来上がっていた可能性が高い。また、この投稿の中で入塾に関して「何か一つ専門分野の提供を求める」ことが条件となっていた。

3.「FBタイムライン|宇部市を100倍楽しむ方法in山口宇部空港(2015/11/28)」

4.「FBタイムライン|ルネッサンス構想(2015/7/18)」

5.「FBタイムライン|勉強会(2016/11/8)」

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