護国神社・遣いのネコ

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現地撮影日:2014/12/7
記事公開日:2014/12/11
記事タイトルで誤解を与えてしまわないよう前もって断っておくことに、宇部護国神社に公式な遣いのネコが居るわけではない。当サイト(とその管理者)による毎度ながらの勝手呼称である。

この記事では一匹のネコが登場する。そのネコの振る舞い方たるや、私にとっては本当に遣いの者のように思われて印象的だったので、個別に時系列記事を書こうという気になった。ある意味ファンタジーの世界である。護国神社という英霊の祀られる場所にファンタジーなどとは畏れ多い話であるが、決して不真面目な話ではなくもしかして人や動物の持つ生命の深遠な世界を示唆しているかも知れない。

これは当サイトで初めて作成する動物主体の記事であり、史跡や遺構の写真はあるもののその考察は含まれない。撮影している間に起きた私(擬人的に♂の野ウサギ)と一匹の♀ネコ(実際には♂か♀か確認していない)との交流の描写のみがこの記事作成のモチベーションである。

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12月7日、この日は朝から白岩公園の合同清掃イベントに参加していた。アジトを出る直前にPCがフリーズし、再起動しても無反応というまったくタイミングの悪い不運に見舞われた。[1]
イベントは当初から昼までの参加で午後から厚東方面の踏査を予定していた。しかしPCが使えなくては記事制作ができない。対処すべき最優先事項なので午後からの予定を全部先送りしてアジトへ戻り、PCを購入元の店舗へ持ち込んだ。幸いストレージ系ではなく電源ユニットの問題で交換すれば復旧できると判明した。作業に暫く時間がかかるので、PCを店舗に預けた。

アジトへ戻っても記事制作はできない。それなら修理が終わる時間まで自転車でネタ採取しようと思った。もっとも午前中までは北小羽山から白岩公園まで歩いて往復し相応に疲れていたので、遠くへ行く積もりはなかった。
今後記事を書くと思われる樋ノ口橋の詳細な写真を撮り、それから真締川を遡行していた。まだ精確な場所が分かっていない一本松井手の写真を撮るつもりではあったが、何となくその手前にある護国神社の方へ自転車を走らせていた。

当サイトの初期では神社や寺を物件の対象とみなしていない。現在でも記事化は進めていないものの訪問や写真撮影自体は以前より頻繁になっている。白岩公園の法篋印塔に刻まれた石工の名前が牛岩神社の鳥居にも見られるなど思いがけぬところで異分野の物件が繋がっていることが多く「対象としない」で片付けられなくなってきたからだ。古い史跡に刻まれた文字や意匠の観察から時代背景を推測したり同時期に造られた史跡との類似性など目を養う効能もあった。

さて、鳥居をくぐって坂を登ったところに変わった形の手水の石をみかけた。
何でも独特な音を奏でる仕組みが造り込まれているらしい。


自転車を停めてちょっと近づいたとき…一匹のネコがじっとこちらを眺めていることに気付いた。
このネコは何処かで見覚えがある…


私は今年の春先にここを訪れたときのことを思い出した。
「あの時のネコだ…」

=== 話は今年の3月末に遡る… ===

早い時間に小羽山での仕事を済ませ、日も暮れかけてきた頃に護国神社へ立ち寄っていた。サクラがどれほど咲いているか観に行く積もりだった。
護国神社は初めての来訪場所ではなく知り合いの花見で学生時代に来たことがある。もっともカメラを持って境内まで訪れたのはこのときが初めてだった。サクラは満開で、夜桜見物のために参道に沿って提灯が設置されていた。

サクラの写真を撮った後、私は何となく神社の奥の方へ歩いていた。
護国神社の山際に防空壕の跡があるという話を小耳に挟んでいて、何処にあるのか見たい気持ちがあった。


このときまでに私は上の写真でも現れている一匹の黒いネコに気付いていた。この日撮った30枚で最初に現れるのは上のショットだが、さっきからずっと私の近くをうろうろしていたのだ。

不思議なことにこのネコは私の後ろをついて歩かなかった。
むしろ私がこれから行こうとする場所を先読みしているかのように私の前を歩こうとするのである。


そういう場面が数回あったので、この石段を登るときにはさすがに飼い猫だろうかと思い始めた。野良だったら人間が何処を歩こうがまったくお構いなしで近寄れば逃げるものだからだ。

かなり近くまで寄ってカメラを向けたときの最初の一枚。
読者はこの黒ネコの表情と言うか眼差しに何か感じるものはないだろうか。


如何にも私の方を振り向いてしゃべりだしそうな感じだった。
「さっきから私の後ろをついて来ているけど…別にあたしが案内してあげてる訳じゃないからねっ」
そうでありながら立ち止まってちょっと後ろを振り向き私を眺めるその仕草は、恰も私が歩き始めるまでじっと待ってくれているツンデレ嬢的な仕草に思えた。現地は既に暗くてネコの表情は分からなかったが、アジトへ帰ってこの写真を閲覧したとき、何とも言えない表情に思えた。
ネコらしくない…まるで人間みたいだ…
その後私が行くところ何処までもついてきた訳ではなく、石段を登り切るまでの間にそそくさと余所へ行ってしまった。しかしこのときのネコの所作があまりにも印象的で、メンバー向けにも書き込みした。[2] これが3月末の状況であった。

再び時系列を戻し、ズーム撮影する。
ずんぐりむっくりしているのか、それとも毛が立っていてそう見えるだけなのか…まるでトトロのようだ。だけど3月末に見たあのネコに間違いない。


置物のネコのように両手を前について動きもしなかった。まるで玄関で三つ指を立ててお出迎えする女将のようである。
「護国神社へようこそいらっしゃいませ♪」
そう言っているように思えたので、私は敢えて近づかずその場でちょっとしゃがんでみせた。ネコと同じ目線になって反応をみようと思ったのである。私に興味があるなら何かのアクションを起こすだろう…

私がしゃがみ込むとすぐにネコはつかつかと私の方へ歩いてきた。そして多くの飼いネコがよくやるように身体を私の足元へすり寄せてきた。
「お久し振りね…実はちょっと(かなり)逢いたかったのよ…」
実際はこのネコが♂か♀かは分からない…というかいちいち頓着しなかったのだが…野ウサギが♂ならばこの黒ネコは♀と思いたくなった。

今どき放し飼いにされているネコは田舎を除けばそう多くない。交通事故に遭いやすいしどんな悪いモノを拾い食いするか分からないので多くの人が家や部屋の中だけに限定して飼っている。屋外をうろついているネコは野良率が高い。そして野良猫は基本的に餌をくれるなど特定の人以外にはまず近づかない。
ネコはむしろ好きなのだが私は野良猫が嫌いだ。とにかく性格が悪い。ジーッとこちらの動向を観察しているくせに、近寄れば必ず逃げる。犬ならさっさと走り去ってこちらを顧みないのだが、野良ネコという奴は一定距離を置くまで離れた後に立ち止まる。そして必ず一度はこちらを振り返って様子を窺うのがお約束だ。友好的に交わろうとしないくせに離れればこちらの動向だけは気にしている。野良猫の野良たる所以だ。

それだけに屋外でたまたま出会ったネコがすり寄って来るというのは些か稀有な現象だ。近寄ってきてくれるネコは例外なく可愛い。しかも身体をスリスリするのは間違いなく構って欲しいと訴えている仕草だ。
「へぇー…飼い主でもない野ウサギにすり寄ってくれるのか。お前なかなか可愛い奴じゃないか…」
私は右手にカメラを構えたまま左手で背中を撫でてやった。
警戒しているのかちょっと遠慮がちで、背中は撫でさせてくれたがさすがに抱っこさせてくれる程には近寄って来なかった。


しかも背中を撫でさせてくれたのは一度きりで、その後スーッと一定距離をおいて離れてしまった。
「誤解しないで。私あなたの飼いネコじゃあないんだからね…」
概してネコというのは気まぐれである。構って欲しいのだが干渉されるのは嫌うあたりイヌとは異なる。その性癖を知っているから私もそれ以上追い回さず、目の前にある物件の写真を撮り始めた。

手水の岩は如何にも独特な形状と色をしていた。
全体が薄緑色で妙に波打っている。


こんな感じで層状に積み重なっていた。
蛇紋岩系だろうか…この辺りで産出する岩とは思えない。別の場所から運んで来たのだろうか…


それから手水岩の後ろにある水琴窟手水舎の説明板を読み始めた。一定間隔で水滴が落下し、その機構により独特な音を奏でる云々…
その次の展開故に説明板の写真を取り損ねてしまった

読み終わった後、一旦後ろを振り返ってみた。
ネコは逃げも離れもせず私が停めた自転車の近くで寛いでいた。


自転車のところに居るあたり、私がここへ来るときこれに跨って乗り付けてきたのを覚えているのだろうか。
ネコは気まぐれだから興味がないと思えば対象から遠ざかりさっさと別のところへ行ってしまう。そこへ居続けるってことはもう少し構って欲しいのだろうか…

もっとも本人ならぬ本ネコ(?)はお構いなしでカメラに頓着もせず毛繕いをしていた。


更に近づいても見向きもしない。ちょっと反応を見てみようか…
野ウサギの身になって鳴いてみた。
「にゃーんっ♪」
そして更に一歩近寄ると、ネコはこちらをじっと睨み返した。
「何見てんのよ…レディーのお化粧中よ…失礼ね。それに私…ただ一人で寛いでいるだけなんだからねっ」


そして再び毛繕いを始めた。

カメラを構えた野ウサギにはまったく無関心であるかのように大胆にも寝っ転がって毛繕いをしている。
脚を思い切り伸ばしていて、ついでに手のひらも思い切り拡げて肉球を見せつけていた。何だか構って欲しいためにわざとしているようにも思える。
「(・∀・)〜♪」


ネコの身体の中で一番好きな部分が肉球と答える人は少なくないだろう。大人しく抱っこされてくれるネコを飼っているご主人様は、心置きなく肉球をぷにぷにと押さえる特権が与えられている。極上品は真っ白な毛並みを持つネコのピンク色の肉球だ。触るとちょっと冷たくて程よい弾力がある。これを一つずつ押さえるのは至福の悦びだ。学童期従兄弟の家に行ったとき飼い猫の肉球を何度も何度も指で押しまくり、仕舞いにはニャーッと迷惑そうに鳴かれてかぐられたものだった。

ネコがマイペースなら、野ウサギも右へ倣えだ。
自転車はそのままにして、参道から少し離れて歩いた。そこに奇妙な石碑を見つけた。


絵巻物をそのまま石で造ったような意匠である。
文字が刻まれているのだがあまりに古くて彫りが浅く読み取れなかった。


巻物の横の部分には紐のような意匠が施されている。かなり凝ったものだが何を石に刻んで遺そうとしたのだろう…

絵巻石を正面から眺めていると…
自転車のところで毛繕いしていたのを止めてソロリソロリとこちらへ向かって歩いて来た。無関心を決め込まれるのはどうやら面白くないらしい。


ちょっと心の中で思った。
「何てツンデレなお嬢様だ…だけど…お前もの凄く人間くさいネコだなあ…」
イヌはかなりストレートに感情を表に出す。嬉しければ尻尾を振るし会いたかった人間には駆け寄ってきてどうかすると顔をベロベロ舐める。その点ネコはとっても穏やかだ。こちらから近づいても逃げないことで相対的なプラスの感情を示す。ゆっくり近づいて来ることはイヌが駆け寄ってくる仕草に等しい。

手なずけようと追えば逃げる。逃げるならそれ以上追わない。しかし手なずけようという気持ちを隠して無関心を装うと構ってもらおうと近寄って来る…何だかそんな駆け引きのような人間くささがあった。

それで私は絵巻石の写真を撮ってからもネコの方にカメラを向けずわざと離れていく方向の石碑へ移動した。


茶色っぽい石に文字が刻まれている。文字は「筆塚」だろうか…筆供養の石碑?


わざと無関心を装って離れた後に振り返る野良ネコ特有の仕草をツンデレ野ウサギとなって演じてみた。
すると…
「ねえ…この石碑撮り忘れているようだけどいいの?」
そう教えるように石碑の前で座ってコッチを見ているのである。


確かに私は人形塚と刻まれたこの石碑を飛ばして筆塚碑を撮影していた。自然岩のような外観だったから石碑ではないと思って本当に飛ばしてしまっていた。

先の筆塚と同様古くなった人形や縫いぐるみなどを供養しているのだろうか。
カメラを向けると彼女はまたしても私には頓着しない振りをして毛繕いを始めるのであった。


恐らくはただの偶然だろう。しかし現地に居た私には「この石碑まだ撮ってないけど?」のフレーズが瞬時に頭に浮かんでいた。ネコがそのようにしゃべった訳でないのは当然として、そう訴えかけるかのように石碑の前へちょこんっと座ってこちらを見ていたのである。
お前ってもしかして…
ネコの姿を借りた遣いの者じゃないのか?
何だか私の考えていることが透けて見えていて、次の私の振る舞いを先取りして動いているように思われた。

この写真を撮った後私は今年の花見時にも撮った冒頭写真のある場所へ向かった。しかしネコはそれ以上私の後を追って来ることなく姿を消した。数分後に自転車のところへ戻ったときにもネコの姿はなく、そのままアジトへ帰ることとなった。

人間同士は言葉を中心として身振りでコミュニケーションする。他方、イヌやネコには人間との間に通じる言葉はない。しかしこういった動物たちは言語という通信手段を欠いていながら自分にとって有益・無益となる相手を見極めて行動している。言語なしのハンディキャップを補う何かが働いているわけで、それは気配を察知する力と学習である。

部屋飼いのイヌやネコが粗相をしたときコラッ!と怒ると、大抵はシュンとした表情を見せる。怒られているときの言語を理解しているのではなく、彼らが認識しているのはそのときの私たちの仕草と語調だ。明らかに普段背中を撫でてもらうときの仕草や言葉とは語気が違う。更には学習により以前にもそのような言葉が発せられた後、粗相をした場所へ顔を近づけさせられ再び叱られた…の状況を覚えているのだろう。
個体差がある…中には叱られてもまるっきり頓着しないのも居るが

このネコが私の足元へ近づいて来たのは、純粋に何かの利益を期待してのことである。過去に餌をもらえたとか背中を撫でてもらったなどの行為により学習し、そのことと私自身の身の振り方から次に起きることを予想して行動している。来訪者の中にも神社への参拝だけが目的で来た人、動物に興味がない人は一瞥を与えただけでそそくさと歩き去っていく。そういう人にはついて行ってもダメだろう…と理解している。

気配の察知というような判断機構は本来、すべての動物に備わっているものと思う。それを最も鈍らせてしまった最たる生物が他ならぬ人間(特に現代人)である。
近年「空気を読む」という言葉が事ある毎にキーワードとして唱えられ、誰もが意識して備えるべき一つの特性として求められている。このことは換言すれば、命題として明確に唱えなければならない程に鈍らせてしまっている現れとも言える。かつては場の気配を読み取ることは殊更に明言すべきものではなく、まして明確に人に対して求める所作でもなかった筈なのだ。

テーマ踏査の世界で事ある毎に私が野ウサギの如く転身(?)する理由がここにある。近代的な生活に慣れきった身なら今更それを捨て去れる筈がないしその必要もない。だからカメラを持って周囲を観察するときは野ウサギに戻って本来あった筈の野性的勘を取り戻そうとしている。
護国神社のネコが奇妙にすり寄って来たのは、どことなく滲み出ている野ウサギ的所作に反応したのだろうか。それとも単に人懐っこいネコというだけの話に片付けられるのだろうか…と思った次第だった。
出典および編集追記:

1.「FB|電源ユニットの変(要ログイン)

2.「FB|維新招魂社で出会った気品あるネコ(要ログイン)

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