居能花正の石碑

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記事作成日:2024/4/22
最終編集日:2024/4/23
情報この記事は読み方が分からない石碑の文字を元に暫定的な記事名を与えています。

ここでは、市道東条下道線の起点付近にある”花正”のように読み取れる古い石碑についてまとめている。
写真は石碑の全体像。


石碑のある位置を Google sv で示す。


採取されている映像の左側に石碑が写っている。
《 概要 》
正面からの撮影。


後述するようにかなり早い時期に見つけられたものの、刻まれている文字が不明瞭で何のために設置されたか分からなかった。
写真は表面の文字部分の接写映像。


明らかに漢字二文字であり、上の漢字はかなり明白に「花」と読み取れる。しかし二文字目は「正」に近いものの一画目の横棒の上にウ冠を表す突起がある。このため「正」以外の文字ではないかという意見が早くからあった。

石碑には明治四十一年九月と刻まれており、墓石や神社関係以外の一般的な石碑にみられる中では極めて古い部類である。


明治41年は、新川に初めて永代コンクリート橋が架かった年である。

裏側には「居能花正」と読み取れる文字が刻まれているが、金属ポールが接した状態で建てられているため目視による確認は困難である。
背面にカメラを押し込んだ状態での撮影。


金属ポールは明らかに後付けで、石碑の2箇所をクランプ状の鉄材で挟み込むように固定されている。耐久性のあるロープが取り付けられていて、国旗などの掲揚に使われていたようである。
【 何の石碑か? 】
この石碑に関して言及している郷土資料は今のところ知られていない。藤山地区の郷土マップはかなり綿密に作成されているものの、この石碑は掲載されていない。

一文字目の「花」と読み取れる漢字からは、花柳界が想起される。明治大正期にかけて遊郭は宇部村エリアで東西に主要な2箇所(老松町と桜町)に知られていたため、遊郭ないしは料亭関連ではないかと思われた。

後述するように、今のところこれは花河内青年団による石碑という見方が有力である。特に二文字目の「正」にみえる漢字は「青」の書きかけかも知れない。真に「正」の文字ならば、ウ冠状の上部の刻みが現れる余地がない。しかし今のところこの説を補強する客観資料が得られていない。また、何を記念して建てた石碑かも分かっていない。
《 個人的関わり 》
初めてこの石碑をみつけて撮影したのは2013年8月で、市内の市道を一通り画像採取しているときのことだった。この辺りは石炭事務所だった建物(後に中国水工の事務所となる)があり、最初期の宇部鐵道が通っていた場所(後に宇部電車区となった)も近く早い段階から丹念に観察されていた。


写真で分かるように、2013年の時点では石碑は土の地面に建てられていた。後に草が生えないように草押さえの素材で周囲を固められている。
《 近年の変化 》
・2023年9月24日、近くのお店へ買い物に来た足で市道沿いを撮影してこの石碑の追加画像を撮影した。撮影中に地元在住者とみられる方が自転車で通りかかり、暫く話をした。
この石碑の存在は知っていたが読み方や何のためのものかは分からなかった。また、接して建てられているポールは掲揚目的で使われておらず地区の話し合いで取り除こうという話になっていることを伺えた。
写真は話を終えた後で本人特定が困難なほど充分に離れた状況で撮影


・2024年4月14日に実施された宇部マニさんぽ2024年春版の帰路でここを通り、たまたま石碑のすぐ前の家の方が出てきておられた。参加者のお一方が知り合いであり、石碑の文字と読みについて尋ねたところ「花青(はなせい)」と刻まれていることを語られた。
写真は現地でやり取りしているときの様子。


花青の意味するところは「河内年団」の略であり、地域在住の当時の青年団が建てたものと推測される。花河内(はなごうち)は地区外では聞き慣れない地名であるものの、藤山1区の自治会通称名にもなっていて地元在住者にとっては馴染みの地名である。

また、このとき石碑に沿って建てられている金属製ポールが国旗掲揚に使われていたことが判明した。ポールは石碑に金属製クランプで固定されている状態なので、もしポールが倒壊すると石碑が割れる恐れがある。ポールの上部が電話線にも支障しているため、除却して欲しいと市に要望しているという。
先行して作成されていた派生記事。まだ有償ホームページスペースを契約していなかった10年前に作成した記事であり、画像は OneDrive 経由でアクセスしているので、サービスが改定されれば画像が表示されなくなるかも知れない。
派生記事: 居能花正の石碑|市道東条下道線
出典および編集追記:

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