焼夷弾投下被災地の碑【1】

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現地撮影日:2016/12/2
記事作成日:2016/12/23
焼夷弾投下被災地の碑については総括記事に書いた通りである。東岐波郷土誌研究会によって詳しくまとめ上げられており、何の予備知識も実体験もない私が当時について追記する余地はない。
それにも関わらず総括記事からわざわざ分離して後続記事を仕立てたのは、現地で大変に印象深い体験があったからだ。ありがちなバッティング劇が起き、私はそこで現地の御堂や石碑を眺めているだけでは決して得られない情報を手にした。毎度の論理だが「公開可能なツールとスキルを持っていながらその情報を一人で握り潰すのは道義ではない」ので、ここに記録することにした。
なお、メモを取りながらではなく立ち話による記憶のみを元にした後日の記述なので、勘違いや誤謬が含まれ得る。読者に誤解を与えるかも知れない部分があれば判明次第修正される。
【 2度目の訪問 】
自分としては寒い時期に入ってからの東岐波方面行き第2弾である。東岐波は校区が広く、それだけに興味深い題材が多い。それらをきちんと整理し閲覧可能なサイトも整備されている。[1]しかし如何せん市街部からは遠い。特に自転車で行動する我が身にとっては「遠くて遠い」地だった。
今年の春、相応なコストを投じて国産の堅牢な自転車を購入した。軽くて漕ぎやすい自転車は遠方まで行っても疲労度が少なく、以前は行くのでさえちょっと勇気が要った西岐波あたりは今や散歩気分である。直近の東岐波行きは11月下旬だったが、そのとき充分に観察できなかった案件を12月入りした天気の良い今日もう一度行っておこうという気になった。

時刻は午後2時過ぎ。あちこち道草しながら進んだので予定よりちょっと遅くなっていた。このため当初予定していた日ノ山登山を次回持ち越しにして国道を横断し、前田児童公園の写真を撮った後、次の目的地へ向かってとろとろと自転車を走らせていた。

車の殆ど通らない市道に面して、御堂と石碑が立っている場所を通りがかった。


これが何かはまだ記憶にある。一昨年あたりに見つけたときに数枚撮影していた。しかし逆光などであまり綺麗に撮れていなかった。今日は青空が広がり光量も充分なので、前回より良い写真に差し替える目的で自転車を停め撮影を開始した。[2]

12月ともなれば草丈もかなり低くなる。石碑の下の文字まで読み取れた。


私が上の写真を撮ったとき、御堂のあるすぐ隣りの家から年配の男性が出て来られた。私がここで自転車を停めてカメラを構えているわけだから気づかない筈もない。すぐに声を掛けられた。
【 御堂を看ていらっしゃる方との出会い 】
「こんにちは。(こういう石碑を)撮って回りよってんですか?」
その方はそう話すや、石像の前に供えられている萎れたコスモスを全部引っこ抜かれた。
石像の前が濡れているのは水が垂れたため


ここは地味に宇部マニをアピールしても良いだろう…こう答えた。
「はい。自転車で市内を回って郷土資料に載っているものを撮影し、写真や記事をインターネット上で公開するという活動をしています。」
この日は細かなところまでヘビーに撮影する活動を想定していたので、早い段階で宇部マニの名札を装着していた。
「『宇部マニアックス』か…聞いたことないなぁ(苦笑)」
まあ無理もないだろう。Facebookにしてもホームページにしてもインターネット配信だし、紙媒体でも半年前からコラム配信を開始してまだ6回目だ。宣伝し過ぎると早く疲弊してしまいかねないので、漸く最近になって地味に宣伝し始めた状況である。

その方は私の活動を尋ねた後に、ご自分のことを話された。
「前田の自治会長をしよりまして、ここの御堂や石碑はうちが看よる。石碑は何年も前に郷土誌研究会の人らと建てた。コスモスを供えちょるんやけど、萎れてきたから新しいのに替えちゃろうと思うて家から出てきたところや。」
そこへたまたま私が自転車で乗り付け、御堂を観て最新の写真を撮り直そうとカメラを構えたためにバッティング劇が起きたのだった。


暫く御堂の前で立ち話した後、戦時期にこの地で何が起きたかを多くの人に知ってもらう好機と考えたのだろう。こう言われた。
「そういう活動をしよってなら、ぜひあなたに見せたいものがある。うちはすぐそこじゃけどちょっと来てもらえんじゃろうか?」
「一体どんなものですか?」
当時投下された焼夷弾の一部や。」
ええっ?
それは軽い衝撃だった。焼夷弾なんてのは教養レベルで言葉を知っているだけで実物を見たことなど一度もなかったからである。
「それ…是非見てみたいです。」
「焼夷弾ちゅうてもくっついちょった一部の残骸やけど。うちはすぐそこじゃから…あなたぁ時間は大丈夫じゃろか?」
「ああ全然大丈夫です。この先急ぐところとかないですから。」
「自転車をついて(押して)来てうちに置いちゃったらええ。重とうてここまで持って来れんから。」
重たくて持って来れないというのが私にはすぐには理解できなかった。
【 焼夷弾の部材 】
玄関を入ってすぐ横に車庫があった。その方がボタンを操作すると、車庫の電動シャッターがゆっくりと上がり始めた。車庫の中へ入ると、それが置かれている方へ近づいて言った。
「これじゃ。」
もしかして…あの丸いのだろうか…
個人宅内で撮影しているので小さめの画像にしています


酷く錆び付いた円盤のようなものが置かれていた。私は更に戸惑った。大ハンマーやがんぜき、鍬に混じって置かれているその物体は古い農機具の部品としか思えなかったからだ。


その方はかなり苦労してその錆び付いた鉄の塊をよく見える場所まで転がして出して来た。
「これが…焼夷弾なんですか?」
「焼夷弾の一部ってことだけは分かっちょる。他にもあったんじゃけど、無くしたり盗られたりしたのもあって今はこれしか持ってない。」
読者が私と同様戦時体験がない世代であるとして、これが焼夷弾であると言われて即座に理解できただろうか。少なくとも私はイメージが全然異なっていた。
焼夷弾の弾は弾丸の弾だ。ピストルの弾と言えば誰でも円筒形をした片方に半球がくっついているような形状をイメージする。そしてテレビでよく見る爆撃機が爆弾を投下する映像でも、先がやや尖った円筒柱状のものが何本もバラ撒かれるシーンがよく出てくる。少なくとも同様の形をイメージしていたのだ。

私はその笠みたいなものを裏返そうとした。
もの凄く重い。鉄の比重の大きさをそのまま実感できる位に重かった。


カメラ構えたままの片手では裏返すことができず、両手でやっと裏返した。こんな重量物が空から降ってくるとは…
「ムチャクチャ重いですね。」
「35kgあるからなあ。」
反対側はずんぐりとしたお椀の頭のようである。


私はその鉄の塊をこねくり返しながらカメラで記録した。
「この真ん中にちょっと窪みがついているのは…」
「支柱がくっついていた痕じゃろう。この笠みたいになっている方を下にして墜ちて行くんじゃ。」


真横から写したところ。
一番厚いところでも精々5cm程度だ。その割にあり得ないほどに重い。


「重りになっちょってこれを下にして墜ちていく。で、空中で弾けて中から細い焼夷弾が沢山出てきて地上に向かって刺さって行くんじゃよ。」
現物を見た時点では私はなお詳細な構造が理解できなかった。ただ、この部材が落下を安定させる重りで、内側についている溝状の部分に沿って筒状のカバーがあって中の焼夷弾を包んでいるらしかった。[3]
「凄い…これって初めて見ました。私は戦後の世代なんですけど、同様に一度も見たことないって人が殆どと思います。爆弾って言えばピストルの弾みたいな形のを大きくしたってイメージがありますから。」
太平洋戦争と言えば昭和期のことだから、他に多く知られる郷土関連の題材からすればまだ歴史は浅い。ごく最近のこととも言える。しかし混乱期とあって当時を記録する現物はそれほど知られていない。郷土資料としての展示物でも焼け野原のモノクロ写真や当時使っていた生活用品などは現物があるが、戦禍を直接的に伝えるこのような現物は目にした記憶に薄い。展示されていながら充分に注意を払って観察していなかったのかも知れないが。
「あの御堂に使ってある瓦とかも当時そのままのものじゃよ。何があったかはまだ微かに覚えちゃあおるが…」
私たちは再び先の御堂の方へ歩いた。
【 その時何が起きたのか 】
既に当時の聞き取り調査の様相を呈してきた。私は自転車は庭先へそのままにして御堂のところで話を伺った。


御堂のやや変色した瓦を指さして語られた。
「この瓦は当時の家に使われていたのを集めてそのまま使っちょる。今のとは瓦のタイプが違うけどね。」
資材を見慣れているから違いはすぐに分かった。


現在使われている瓦よりも薄くて表面が艶消しである。後年の瓦はもう少し厚くて釉薬がかかっているのが普通だ。特に稀少という程ではないが、今では農機具倉庫の屋根や野積みにされているものを目にする程度だ。

御堂には小さな子どもを抱いた女の人の立像がある。
これは前田地区で被災し死亡した2人の親子を象徴しているという。


まだ記憶は鮮明なのだろうか…当時を思い起こすように語り始められた。
「宇部市街の大空襲はここからも見えた。西の方の空が真っ赤になっていた。それから暫く静かになったので空襲が一段落したと感じた。私も含めて誰もがもう大丈夫じゃろうと思って(市道の向こう数軒先を指さして)あそこに住んでおられた母子が風呂に入っちゃったらしい。その後、まるで花火のような音が周囲に響き始めた。折悪しく風呂に入っておられた状態で被災されたらしい。前田地区2名の死亡者じゃ。」
赤子を胸に抱いたモチーフとなっているのは、そのような背景なのであった。


焼夷弾攻撃は前田地区の中央部と花園地区に渡って行われた。それが歴史上の事実にしても、私にとってやや理解困難な部分があった。
「それにしても…市街部から相当離れた前田地区が攻撃されたのは何故でしょうか。普通に考えるなら居住者の多いところは他にもあるように思えるんですが。」
当時の攻撃者による記録が残っているわけではないから今では正確なことは分からない。推測になるとしながらもこう答えられた。
「灯りが見える家があったからという話も聞いとる。もう当時は今の国道沿いの道はあったし、道路沿いに家もあった。灯が見えたらそこに落としてくるからね。」
先ほど風呂に入っていて被災したという話とやや符号する。夜のことだから真っ暗では風呂に入れない。まして赤子を抱いているなら尚更だ。何らかの灯りを点けていたのだろうか。しかしつい先ほど市街部での空襲があった状況なのに、一段落したからと言って灯りをつけて風呂に入るだろうかという疑問はある。灯りが見えたのも今の国道沿いの民家だったのではという話もあった。

焼夷弾攻撃は灯りのみを見て実行されるとも限らないらしく、中宇部にある護国神社はやや市街から離れていながら攻撃され焼失している。この裏では近隣地区の何もない水田に向かって焼夷弾を落としていたという報告がある。[4]水田なら当然ながら灯りなど何もない筈だ。これは居住者にダメージを与える目的ではなく、象徴の破壊という憎悪の念が攻撃モチベーションになっていた可能性も考えられる。何故ならば護国神社は敵国兵士の殲滅に対して功労のあった人々の聖霊が宿る場所であり、当然だが敵国にとっては嫌悪の対象たり得る。灯りがなくとも大体の位置を推測し、焼夷弾攻撃の空振りも覚悟で投下し続けたのだろうか。

しかし前田・花園地区に寺社はあるものの護国神社は存在しないので、何からの憎悪の対象から攻撃された可能性はない。あるいは余った爆弾を捨てるような感覚で投下した可能性は一応あるが、今となってはどの説も憶測の域を出ない。ただ、歴史的事実としてこの地に焼夷弾攻撃があり、地元在住民に2名の死者が出た。特に敵国殲滅に注力していた有力者というわけではなく、むしろ今から育とうとしていた生まれて間もない命と共に喪われた事実があった。爆撃機の操縦者はピンポイントで場所や対象物を狙いはすれど、その下にある無関係な命など考慮しない。武器を手に国を揚げて闘うというのはおしなべてそういうものなのだ。
「最初はこの御堂だけがあった。土地はうちが出すから何かを遺そうということで。石碑は後から東岐波郷土誌研究会の方で設立した。」
平成19年の文字が見られる石碑。確かに最近のことだ。


私は御堂の上に載った瓦がとても気になったので、承諾を頂いて石碑の横へ上がって近接撮影した。


どの瓦も赤茶色に変色している。黒い部分がありながらかなり剥げている瓦もある。当初からこの彩色の瓦というのは見たことがないので、長時間高熱で炙られて釉薬部分がなくなった結果ではないだろうか。
近接画像はこちら

当時の戦禍の傷をそのまま遺す民家はもうない。前面の市道は拡げられた上に舗装され、道沿いにはごく一般的な民家が建ち並んでいる。漫然とこの道を通っていても何も分からない。しかし要所にはこういった御堂や石碑が遺り、更には当時の体験をそのまま語れる人の存在があった。半世紀以上を経ていながらも、戦時期はまだそれほど遠い昔のことではないのだ。

御堂の話題を離れて、自治会長らしく東岐波地区一般の話にも触れられた。
「もうちょっと東岐波に人が集まり賑わってくれればと思う。私はここをコスモスの景観地にしようかとも考えている。別のところでコスモスを育てておるものでね。」
戦時中の実体験に基づく話でありながら、淡々とした当時の回顧であり戦争反対の叫びや当時の悲壮な状況の吐露に終わらなかった点が逆に新鮮に感じられた。
私たちは話しつつ再び庭の方へ戻った。
【 研究会に提出した資料について 】
話は更に東岐波一般の郷土関連にまで及んだ。
「日ノ山の焼火神社にゃあ行っちゃったですかね?」
「今日は行ってないですけど一昨年くらい行きました。今日も余力があったら登ってこようかと迷っていたところなんですけど。」
「焼火神社のところに資料が置いちゃる。私が以前石碑を解読したのを文章にして東岐波郷土誌研究会に提出したんじゃけど…ちょっと探して持ってくる。」
そう言って一旦家の中へ入って行かれた。私は車庫で待っている間、更に先ほどの焼夷弾の部材を詳細に撮影していた。
前掲の写真の一部にはこのとき撮ったものを載せている
「今探したんじゃが何処行ったか分からん…見つかったら送ろうと思うから住所を教えちゃあくれまあか?。郵送するから。」
よほど伝えたいという気持ちが強いのだろう。私は先ほど渡した名刺の裏に住所と郵便番号を追記した。
それから私は庭の裏手へ招かれた。
「あんたぁ大根要らんかね?。うちにゃあ一杯あるから持って帰っちゃってええが。」
「ありがとうございます。自転車で来てまして…この自転車も移動手段に使ってて荷台も前のかごもないもので。」
「じゃあ、柚子があるから持って帰り。それならカバンの中に入るじゃろう。」
庭先に実っている柚子2つをもいで私に渡してくれた。
写真は帰宅後の現物の撮影


この他にもオリーブの実が一杯実っていて地面に落ちていた。
再び玄関前に戻ってきたとき、私は今から行こうとしている場所の立ち入り可能性について確認しておこうと思った。
以下の記述は前田の大岩からリンク参照される予定
【 前田の大岩について 】
この日の本命である訪問先は前田の大岩だった。前回、たまたま前の市道を通って目撃し、そのときは現地までどうやって行けばいいものか分からなかったのである。地元の方に尋ねるのが一番確実だ。
「前田の大岩を観に行こうと思ってるんですが、あそこって勝手に入ってもいいんでしょうか?」
「ああ、畑の中にあるあの大岩ね。ええよ自由に入っちゃっても。私らが子どもん頃にはようあそこで遊びよった。」
「こないだたまたま前を通りかかって見つけたんです。近くで観たかったんですけど、民家の庭先の奥にありますよね?。隣りにはアパートがあって近付ける道が分からなくて。」
「最初ん頃は何もなかったんよ。アパートも前の民家も。だから何処っちゅうことなく入って岩の上に登りよったよ。」
昔はあまりうるさく言われなくても今は私有地の無断立入について神経を尖らされる時代だ。大岩自体は誰でも観られるにしても、前回市道から観察したときはそこへ行く道がなさそうに思えた。
「アパート裏の駐車場みたいになっている所を通れば近付けるとは思ったんですが…勝手に通っていいものやらと。」
そこはさすが自治会長さん、きっぱりとこう断言された。
「あそこは昔も今も誰が行って観てもええようになっちょる。誰かから聞かれたら『自治会長が入ってもええって言いよった』って答えてもええ。もしそれでまだ勝手に入るなとかあんたに文句言う奴がおったらうちん所に言うて来てな。わしがどやしつけちゃるから。」
いやはや、頼もしい発言だ。興味深い史跡などを見つけて写真を撮り記事化したい身にとっては、現地への進攻の障害とか私有地かも知れないという懸念は決して小さくないからだ。
この懸念故に重要ながら記事化できていない案件が市内にもの凄く沢山存在する
「またこっちへ来る便があったらいつでも立ち寄ってな。」
その情熱にはまったく敬服させられた。先ほど言及した東岐波校区のホームページの原動力はこの辺りだろう。実際に制作されている方は恐らく異なるのだろうが、この校区は史跡の記録に関して熱の入れようが市内他の校区とは断然違う。自治会長さんも先ほどの焼火神社をはじめいくつかの資料を提出なさっているのだろう。

ここで30分くらい過ごした後、私は大岩の方へ自転車を漕ぎ始めた。
大岩の時系列記事が書き上がり次第リンク接続する予定です

私が予定通り日の山に登ろうが登るまいが、ここへ到達するタイミングが秒単位でずれていたとしても、御堂に供えられていたコスモスを取り替えようとして出て来られた自治会長さんに出会うことは無かった。そして次回また同様に御堂の前を通りかかったとき、ばったり出会って話をする機会が訪れる確率は極めて低いだろう。

こういった邂逅劇は確率の低さを超えて訪れるもののように思う。「それが真に必要なものならば、計算上あり得ないほど低い確率の邂逅劇がごく普通に起こる」ようであり、その裏には何かの強力な誘因作用が働いているように感じられてしまうのであった。
学生時代の社会教諭の言葉を借りて表現するなら「偶然の必然」とでも言うべきものだろうか
【 そして後日… 】
数日後、私のところに封書が送られてきた。
個人情報部分を不鮮明化処理しています


封書の中には手書きされた便せんと焼火神社の由来について書かれたコピーが同封されていた。


本日は、よくいらしゃいました。おじぞう様もほほえんでおられるようでした。
日の山焼火神社の原稿が出てきたのでコピーを送ります。明治の頃の方が書かれた文章は漢字まじりで非常に読みづらくことばづかいもむずかしく、いささか苦労しました。ご一読下さい。
この焼夷弾投下被災地の碑の記事を作成するにあたって日ノ山の総括記事を先行し作成した理由は、この封書にあった。新しく建て替えられた神社の横にある説明板は平易に書かれていたが、恐らくはその原典となる古文書を直接参照されたのではないかと思われたからだ。現地には「明治の頃の方が書かれた文章」に相当する石碑などは見当たらなかったので、現代文に書き換えた成果を東岐波郷土誌研究会へ提出し、それをベースにあの説明板が作成されたのではないかと思う。
これ以上の詳細は焼火神社を記事化したときに盛り込む予定

可能であれば、私もここで作成した時系列記事を印刷してお届けしたい。後日の記憶のみを頼りに書いている部分に誤りがあれば修正できるし、追加の情報が聞けるかも知れない。記録に遺し後世に伝えたいと願っていらっしゃるようだから、ネット環境という新しい革袋に熟成したお酒を注ぐことでもっと広く情報共有できることをお伝えしたい。
出典および編集追記:

1.「東岐波校区ホームページ」に膨大なデータベースが構築されている。

2. 白く霞がかかったような不鮮明な写りを少しでも回避するためにヴィヴィッドモードに固定している。このため単一の色彩の占有率が大きな被写体を撮影すると不自然に見えるかも知れない。

3. 帰宅して一連の出来事を投稿したときメンバーによりこれが集束型の焼夷弾に付属する弾頭部であることが指摘された。「日本物理探鑛株式会社|不発弾処理」のページに構造図が載っている。
即ち投下するのは焼夷弾そのものではなくそれらが詰まった容器に相当し、現代のクラスター爆弾と同様の原理である。空中でマッチ箱を弾けさせるとそれぞれのマッチ棒が地面に向かって突き刺さっていくようなイメージである。マッチ棒に相当するM69焼夷弾には頭部に信管が付属し強燃性のナパーム剤が充填されているので、投下地点はピンポイントながらその一定半径にある対象物を焼き払うことを可能にしている。

4. これはもしかすると誤爆ではなく当初から灯りのない護国神社をピンポイントで狙う目的で手探り投下していたのではないかという推測も可能である。「FB|2016/12/2のタイムライン」も参照。(要ログイン)

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