渡り八十八箇所【1】

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現地踏査日:2014/4/23
記事公開日:2014/8/30
時は4月23日。春の息吹が感じられる代わりに野山では再び草木が勢いを取り戻し、それに伴い不快害虫も増えて藪漕ぎもそろそろシーズンオフになろうかという時期だ。常盤用水路の記事を書き始めようと思って近場で最近訪れていない時雨川近辺のNo.3呑口を訪れたのが先週のことだった。今シーズンの最後として、No.3吐口とNo.4呑口を撮ろうとしていた。地図で示せば以下の辺りになる。
これは渡り八十八ヶ所そのものの場所ではない


この近辺は大小路2丁目になるのだが、現在でも渡りという古い地名の方が通りが良い地区である。常盤用水路のこの区間を訪れるにはNo.3吐口から風呂ヶ迫辺りは自転車ではきついアップダウンの目立つ道を通らなければならず、最近の写真が殆ど手元になかった。

No.3吐口に至る道は現在でも用水路沿いを歩くか、初回踏査と同様に藪を漕いで強引に到達するかである。藪漕ぎの方が近道なので今回もそのような段取りで現地へ向かっていた。そしてここに自転車を停めるまで「あの薄気味悪い場所」のことはまったく頭になかったのだ。


そう言えば…この先に薄気味悪い祠と石仏が並ぶ場所があった…
初めて常盤用水路のこの区間の踏査を試みたとき、地図上ではこの辺りから山の斜面に向かう道がある筈と予想していた。そして確かに微かな踏み跡の残る山道を見つけたので上の写真と同じように自転車を留め置いて徒歩で踏み込んだ。ところが…
草が生えて荒れた山道の先に石仏らしきものがズラッと並んでいる小屋が見えた。少し接近してみるとその奥にお化け屋敷のような廃屋があった。家は半壊状態で誰も住んでなさそうだったし、祠から何から全部が藪に包まれていたのだ。私有地かも知れないと思ったし、何よりもあまりの薄気味悪さに先へ進むことができなかった。この道以外に経路の候補を考えていなかったのでその日は踏査を断念して撤収した。
後日、常盤用水路のあの区間へ向かうにはどうしてもこの場所から入る以外ないと知り、途中まで道を辿ってあの祠の前を通らずに済むよう強引に藪の中を突っ切って到達したものだった。

あれから今や5年以上が経つ。市内の至る所を巡り数多くの物件にまみえることで自分自身相当な耐性がついた。あの時は気味が悪くて敬遠した祠や石仏も、今では多分受け入れられるだろう。
数年前、正体を確認することもなく敬遠していたあれが実際何だったのか今の自分なら解明できるだろう。

自転車を藪へ寄せて停めて施錠した。
踏査は長丁場になるだろう…この先にあるものを確認した後、常盤用水路も訪れる積もりだからだ。


少し山道を歩いた先に小さな祠が見えてきた。どうやら初めて実物にまみえた時と同じ状態のようだった。
初めて常盤用水路の開渠区間を訪れたときは、あの祠の前を通りたくなくてこの辺りから左側の藪へ突撃したのだった。


あれから4年が経ち、数多くのものを見てきて”経験値”が上がった。祠や石仏を気持ちが悪いという目で見ることが無くなった代わりにカメラを向けて畏れ多いという気持ちも薄らいだ。あるのは、記録が必要なものを正しく後世に伝えていくという姿勢である。この先へ進攻することのこだわりがあるとすれば、もしかして私有物かもという現実的な考えだ。この先に何が在ろうが私有地を恣意的に歩き回って写真を撮って良いわけがない。
恐らくそうではないだろうと考えられるために記事化しているわけである

山道はどういう訳か祠の背面を通っているようで、どの祠も背を向けていた。そのため詳細を確認するには山道から外れて草むらの中へ分け入らなければならなかった。


ズラッと並ぶ石仏群。
これも見たような記憶がある。初めて踏み込んだときはこの辺りまでは来たと思う。


そして更に進んだとき祠の中にも石仏がズラッと並んでいて奥にはお化け屋敷のような半壊状態の民家があったので背筋がゾッとして撤収したのだった。

祠はどれも木造で屋根には通常の民家に使われる黒瓦、側面にはトタン板が貼られていた。
古めかしい石仏が祠の中に見えはじめた。確かに私有地で個人の収集物のようにも思われた。


内部が暗いせいか祠に向けて無造作にシャッターを切るとフラッシュが自動作動した。
種々の石像が所狭しとばかりに並べられている。そのどれもが著しく埃を被っていた。


祠の上部に掲げられた扁額で初めて一連の設置物の正体が判明した。
渡り八十八箇所


昭和三十五年三月建立の文字も見える。特にこの祠を十三佛堂と呼ぶようだ。
開設時期が昭和35年なら半世紀経ってはいるものの一般的な八十八箇所に比較してそれほど古いものではない。もっともこの御堂を建てた時期が昭和中期というだけで、納められている石仏はずっと古そうに思えた。

この扁額を見てもなお一連の石仏類は個人の収集物かも知れないという疑念はあった。しかし誰でも到達できる場所に分かる形で扁額が掲示されているということは、私有物ではあっても一般人に礼拝されることを想定して造られたのだろうと推察された。
人間誰しも何かの対象に恐怖心を感じるとき、その正体が何か分からないうちが恐怖のピークである。何という名前か、何のための遺構なのかが分かることで恐怖心は薄らいでいく。この記事もタイトルを「渡り八十八箇所」と書いているが、実はこの扁額を目にしたことで初めて判明した。

八十八箇所なら総括記事でも書いたようにこの近くの山門にあるものを知っていて撮影もしていた。それと同類のものと分かることで無闇に怖いとか薄気味悪いという観念を遠ざけることができた。何よりも歓迎されないまま勝手に他人の庭先へ踏み込み他人様の石仏コレクションにカメラを向けている状況でないことが分かっただけでも安心できた。
空き巣狙いと勘違いされないためにも現実問題として重要

居てはいけない場所ではなさそうなのでやや安心し淡々と撮影を行う。
すぐ隣りの祠はそれよりも若干小さく、数体の石仏のみが納められていた。


台座の上に石仏が載っているあたりは藤山八十八箇所の祠を思わせるものがある。
しかし雰囲気はまったく違う。お供え物の花は造花で酷く埃を被っている。祠を看ている人の存在がまったく感じられない。


台座部分に何か刻まれているようなので、手前に置かれていた正体不明の木版を避けた。


第八十八番 弘法大師 誠光寺
文字は生乾きのコンクリートをなぞって書いたようである。


八十八番ということはここに置かれているものが要の石仏なのだろう。

それにしても…
藤山八十八箇所を見慣れているせいか、そのような温かみが全然感じられない。申し訳ないが如何にも厳つく禍々しい印象を放っていた。


人の気配がしないこともさることながら、木彫りの像も石仏も表情が極めて険しいのである。そのことは上の写真でも分かるだろう。撮影者の私を真っ直ぐ凝視して物言わぬままに何かを発している。そして古い。お茶碗や活けられた造花も全体が埃を被っていて既に魂も何も抜けてしまったかのようである。看る人が居なくなり訪れる人もなくなったのだろうか…

祠の間には原形を失いかけている古い自転車が置かれていた。
棄てられたのではなくこの奥に見える家屋の住民のものだろうか…


この渡り八十八箇所の正式な入口はないのだろうか…と思っていたとき、2つ並んだ祠の横に門柱のようなものが建っていることに気付いた。


門のところから山道側へ出てみた。
民家の門柱だろうか。扉はついておらず柱も片方が明らかに傾いていた。八十八箇所を示す文字も居住者の表札もない。


門構えのある方が山道側になる。祠は山道に対して背中を向けていた。
祠の後ろにいつのものとも知れないバイクが放置されていた。


腐ったバイク。
タイヤが半分くらい枯れ葉に埋もれている。こうなるまで一体何年くらいかかるものだろう…


コンクリート柱に文字などは見当たらないが、ここが渡り八十八箇所の入口かも知れない。
これまた厳つい表情と挙動を示す立像が向かい合って置かれていたからだ。


ここで振り返ったとき、半壊状態の民家の横に現代風の「有り得ないもの」を見つけた。


えっ?簡易トイレ?
何でこんな場所に…?

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総括編でお伝えしていた通り、後続の2編は一般公開になじまない写真を含むため限定公開記事としている。概ね同種の写真20枚を収録した記事2編で構成されるが、本編で掲載されているものより更に刺激の強い写真が含まれる。

注意次編以降の2巻は限定公開記事です。閲覧するには申請が必要です。
(状態:執筆完了、版:2014/8/27作成)

後続記事: 渡り八十八箇所【2】

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