中山吉ヶ迫の道標

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記事作成日:2018/11/24
最終編集日:2018/11/25
注意この物件の所在地(字吉ヶ迫)は異なる可能性があります。正しい所在地が判明した場合、ファイル名が変更されます。

ここでは、中山の字吉ヶ迫付近で見つかった道標について記述する。
写真は現地に据えられている道標。


道標の発見された位置図を示す。


道標は市道栄ヶ迫大笠線を終点側から逆に辿っている途中、四輪の通行が物理的に不可能となる地点付近で見つかった。
この写真は自転車を押し歩きしていて石碑が道標と認識されたときのものである。


直方体に加工されている石柱ともなれば殆ど例外なくそこへ視線が向く。その形状のみで人の手が入っていることが確実であり、何かの意図をもってそこへ置かれたと言えるからである。何も刻まれていない場合は遙か昔に境界代わりに置いたものであることが多い。

しかしこの石柱は塩梅良く表面に西日が差していたため、文字が刻まれていることが離れた場所からでもすぐに分かった。そして充分に近づくことなく表面の文字も読み取れた。


右 ふじ曲
      道
左 う べ
文字の詳細な画像はこちら


そして道標は一応、分岐路にあたる場所に置かれていた。しかしそれは土中から離脱し単に置かれたのみの状態になっていた。このことから道標は当初あった位置ではなく移動されたのではと思った。

市道栄ヶ迫大笠線は途中に農道のような区間があり、四輪の通り抜けはできない。このような路線が認定市道となっている場合、大抵は古くから往来されていた道である。実際、この市道を起点側へ進むと若干離れてはいるが栄ヶ迫溜め池のある藤山村へ向かう。[1]
左側の分岐となる道も方向としては宇部村方面になるのだろうが、この市道以上に往来がなく、里道であるかどうかも分からなかった。冒頭の地図でも途中で表記が消えており、宇部村に向かう昔からの道だったかどうか分からない。

知られている多くの道標は、地元の有力者や青年団などが寄進する形で存在している。御大典記念として据えられたものも多い。それらは大抵別の面に刻まれていて、道標がいつ頃誰によって設置されたかの有用な情報を与える。

かなり重いものの手を掛けて少し揺すると容易に動いた。
そこで背面に何か文字が刻まれていないか調べようと石柱を起こした。


動きはするもののさすがに重い。土中から離脱した道標はそのままでは自立しなかったため、左手で手前に傾けた上で右手でカメラのみ背面へ送り込んで撮影した。


背面には何も刻まれていないようである。側面にも文字らしきものはなかった。石柱の素材は、この辺りではかなりありふれたいわゆる霜降山系の花崗岩である。墓石にみられるようなごま塩色の花崗岩ではなく、取り寄せた石材ではないと思う。

石柱に文字が刻まれている簡素な史跡としては庚申塔がもっとも多く、道標はそれよりも随分と少ない。数が少ないため殆どすべての道標は郷土資料として掌握されている。庚申塔自体も地域によってタイプの差があるためよく研究されている。いずれも各校区のふれあいセンターに常備されている郷土マップにはその位置が記述されている。

しかしこの道標はまったくの初見で、書籍でも郷土マップでも見たことがなかった。引き抜かれ別の場所へ移されている道標としては、他に旧図書館の横に桃色レンガと共に置かれている事例を知っているのみである。

この市道を更に起点側へ進むと、市道崩金山線との分岐点にでてくる。市道栄ヶ迫大笠線の起点であり、道標が据えられる場所としてはありがちな場所だ。
そこは栄ヶ迫大笠線が薄くスライスするように分岐している。


この分岐地点に道標があったとしたら往来の支障になるということで、後年アスファルト舗装などの整備時に引き抜かれたのかも知れない。

他方、この場所と実際に道標が見つかった場所は直線距離でも100m以上離れている。それほど移動させて放置するような粗雑なことをするとは考え難いし、道筋にしたがって自然な方法で道標を据える(即ち西から歩いてきたとき正面に見える方向)なら、刻まれている行き先の地名と符合しなくなる。
やはり元からこの分岐点に道標が存在していて、地図では明瞭に描かれていないものの左への農道のように見える分岐路は、宇部村に向かう主要な古道の一つだったのだろう。

地理院地図では左への分岐路は金山地区を経て山越えする道を記載している。この周辺は市道ですら往来がなくなっている道が目立ち、里道については殆ど調べられていない。新たな情報が得られたなら追記する。
《 個人的関わり 》
道標を発見したのは、この市道の当該区間を2度目に通過したときだった。初回の通過は同年11月6日のことで、このときは起点側から辿っていた。
自転車を伴ってはいたが、坂がきついので押し歩きしつつ写真を撮っている。そのうちの一枚に石碑が写り込んでいるものがある。


石柱が転がっていることは認識していたが、このときは注意深く調べていない。カメラのバッテリーが残り少なくなっていた上にお腹が冷えてお手洗いに行きたくなり、丁寧に撮影するところを間引いて足早に進んでいた。そこで全線の撮影を諦め、市道が農道を横切るところからは自転車に乗って県道沿いにあるコンビニへお手洗いに行っている。
《 吉ヶ迫について 》
吉ヶ迫(よしがさこ)とは中山地区にある小字の一つである。地名明細書によれば沖ノ旦村の中山小村において、字和田の配下に宇部地(うべぢ)・教覚(ぎょうがく)と共に含まれる小名であった。

宇部市上下水道局所管の中山第一浄水場の所在地は、大字中山字吉ヶ迫235番地である。[2]小字絵図によれば、字吉ヶ迫は浄水場のある沢地のほぼ全体に相当し、東側は字金山、西側は字大鳥羽に接している。

吉ヶ迫という地名の由来は、率直に「葦の生える沢地」と考えられる。

大元の道標の記事において吉ヶ迫を与えているのは、小字絵図において最も近い場所にあるという理由以外にない。道標のある場所は小字絵図において記載のない領域であり、別の小字である可能性が強い。字大笠の方が近いかも知れない。
以上の記述は状況に応じて編集したり移動されたりする可能性がある
出典および編集追記:

1. 栄ヶ迫とは三段堤として知られる栄ヶ迫溜め池のことを指す。栄ヶ迫という字名そのものは存在しない。認定市道名の物理的な起点は吉ヶ迫の方が近く、栄ヶ迫大笠線はもしかすると吉ヶ迫大笠線が正しいのかも知れない。

2.「宇部の水道」p.272

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