恩田児童公園

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現地踏査日:2013/11/6
記事公開日:2014/4/18
情報この記事は恩田町1丁目にある児童公園について記述しています。
恩田町4丁目にある恩田運動公園については こちら を参照してください。

恩田児童公園は恩田町1丁目にある市公園緑地課管理の公園で、正式名は恩田街区公園とされている。[1]
写真は園内の代表的な風景である。


恩田児童公園の位置を示す地図を示す。


公園は国道を走る車からどうにか見える位置にあるものの、後述するように公園までの道はとても分かりづらい。地図では車が入れる広い道が近くまで出来ているものの公園の前まで車が近づける道はなく、徒歩や自転車でも「見えていながら到達しづらい公園」という印象を受ける。
公園ができた当初は国道からよく見えていたが、その後に住宅が建ち並び進入路が周囲に整備されたのも遠因である。

公園への道は新興住宅地の中を通る経路と、昔の農道を通る経路とがある。いずれも異なる公園の入口に到達する。正規の公園入口に到達するのは農道を通る方である。
これらの経路については、いずれ恩田町1丁目の生活道で記述する。
派生記事: 恩田町1丁目・恩田児童公園への道
公園の正門部分。
門構え部分だけコンクリートとタイルで出来ていて周囲は簡素なネットフェンスとなっている。


正門から奥左側に裏門があり、公園内の通行需要があるからか踏み跡が農道のようになっている。


昭和51年3月完成とされている。
この年月は現在の状態に整備された時期を示すのとは異なるかも知れない。


実のところ現地を訪れたのは中学校時代友達と遊んでいた時期以来のことだった。
あまりにも変わり過ぎていて当初の姿が想像できない。


古そうな水飲み場とコンクリートのベンチ。
これは当初からのものだろう。規格は栄川児童公園などにあるものと同じである。


誰でも自由に利用できる公園とは言っても水道水は計量の対象だ。
水飲み場の側面に管理プレートが貼られていた。


生活道路は公園の中を通るようにできている。
当初はどうだったか覚えていない。


もう一つの出入口。実は初めて訪れたときはこちら側から入った。
公園の外側は新興住宅地で遊びに来ていた当時はまだ何もなかったと思う。


記憶がない言えば一連の遊具も同様である。公園が造られた当初はなかった。


後述する個人的関わりでも書いているように、学童期遊びに来たときは地面は真砂土で周囲の木々も殆どなかった。まだ完成形ではなく公園として整備される途上だったのかも知れない。公園と言うよりは自由に走り回れる広っぱという感じだった。

公園の奥の方へ移動する。この方向が東になる。
この公園が造られたときから不思議というか不自然だと感じていた場所がある。


東の端にはネットフェンスが並んでいて、その外側は一段高いコンクリート擁壁となっていた。
国道190号はここから一段高い場所にあり、往来する車が見える。


フェンスと擁壁の間には雨水処理の溝がある。
そして当初から感じていた疑問だが…
どうして国道側に公園の出入口がないの?


公園は国道近辺よりも1m程度低い。通路を造るとすれば階段になってしまうだろう。しかし現状はその階段さえもなく、国道から直接公園へ出入りする正規の通路は皆無である。
恐らく公園の東側の縁がすべて民地に囲まれているからだろう。もし平成期の今この公園を整備するなら間違いなく国道側の出入口を造るだろう。それも単純な階段だけではなくバリアフリーも考慮したスロープ形式で。

公園の一番奥から撮影している。
遊んでいる子どもたちは居なかったし、私が撮影している間誰も園内の道を通らなかった。
近隣の民家に飼われているワン公だけが早く立ち去れとばかりにけたたましく吠えまくっていた^^;


個人的に当時を想い起こせるもっとも近いアングルでの眺めがこんな感じだ。
開けている西側の眺めである。


当時の西側の眺めはかなり広々とした畑地で、家は皆無だった。宇部線まで眺めが効いていたように思う。現在では公園に植わった樹木や民家の木々も相当に背が伸びている。それらがまったくない野原が一番近い眺めであった。
《 個人的関わり 》
恩田町1丁目の生活道に関する記事でも若干言及しているように、恩田小学校を卒業して中学時代の初期に友達と遊びに来ていた公園である。

小学校時代は放課後の居残りが禁止されている代わりに、一旦家へ帰った後や土日に学校へ来てグラウンドや遊具で遊ぶことは何も言われなかった。小学校高学年ではクラスの友達同士の結びつきが強く、しばしば小学校へ遊びに行っていた。ところが中学生になると小学校へのグラウンドを含めて出入りができなくなった[2]ため、別の遊び場が必要だった。

幼少期に私が暮らしていた恩田の町内には公園どころか自由に遊べる広い場所がまったくなかった。[3]恩田町1丁目のこの場所に児童公園があることは知らなかったし、恩田小学校と殆ど変わらない距離のところにあるので遊びに行く理由がなかった。初めて訪れたのは遊び友達に教えられてのことと思う。

私たちが遊びに来た当時はこの児童公園はまだ完全にはできあがっておらず、園内に敷き詰めるための真砂土が至る所山にして置かれていた。[4]児童公園の標示板が昭和51年3月なので既に入口の門構えはあったと思われるものの遊具は一つもなかった。

遊具がなかったがどんな遊びをしたかは当時の日記に記述している。[5]友達が持ってきた庭球(ソフトテニスに使う柔らかいゴム球)で走りながらボールをぶつける遊びをしていた。友達の投げたボールが私の背中に当たって跳ね返り、行方不明になってしまった。投げるものがなくなったので、ボールの代わりに真砂土の山の中へ紛れている土の塊を投げ合った。
真砂土の山はほぐす前の状態で、手で拾い上げると一部は形を保っているものの軽くもみほぐすだけでグズグズと崩れるものがあった。これなら当たっても痛くないのでボール代わりに投げた。背中などにぶつけられてもそれほど痛くなく、当たると木っ端微塵に砕け散るのが面白かった。しかし中には柔らかそうに見えて硬い石のような真砂もあり、今から思えばかなり危険な遊びだった。

友達との結びつきは中学生時代それほど変わりはなかったが、この公園へ遊びに来たのは数回だけだった。公園ではなく別の場所に遊び場を求めたからだと思う。
出典および編集追記:

1.「宇部市の都市公園一覧

2. 恐らく中学校側の生徒指導として言われていたと思う。このため自分の出身校でありながら中高生時代はまったく出入りできなかった。
中高生は一般に黒の制服を着て外出するので、在校生でない学生が入って児童に無用な畏怖を与えることを避けるためだったのかも知れない。

3. 恩田町5丁目(かつての長沢付近)には公園がなく、住宅が増え始め子どもも多くなった当時は遊び場がなくかなり不満があった。

4. 同様の真砂土の山は小学校のグラウンド端にもあった。公園やグラウンドを敷き均すための余剰分を山にして置いてあったのだが、トンネル掘り遊びの恰好の材料にもなっていた。

5. 確認でき次第当時の日付や原文を出典として引用する。

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