市道助田鍋倉線・横話

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本編では市道助田鍋倉線の派生記事を収録している。
《 軽四でも通行困難な区間 》
現地踏査日:2011/7/2
記事公開日:2013/9/29
市道助田鍋倉線が産業道路を横断してから終点までの区間は、一般車両の通行に関する規制が何もなく自由に通行できる。しかし店舗の横と宮地嶽神社の山裾に挟まれた最狭隘箇所は、自転車を横置きにも出来ない程度の幅だ。


県道レベル以上ならともかく、認定市道では四輪の通行可能性について必ずしも標識で明示されるわけではない。あぜ道や道筋の痕跡すら分からない認定市道もあり、いわゆる「見りゃ分かるだろ」規制は結構多い。
結論から言って、この狭隘区間については物理的に軽四なら通ることができるし、地元住民や道路状況を知る一部のドライバーは日常的に通行している。そして私自身、然るべき理由によって何度もこの区間を通っている。
ただし私自身は今のところ終点側から産業道路へ出る方向しか通ったことがない。

前もってお断りしておくが、この区間は本当に狭い。軽四でも充分な注意と車幅感覚がなければ石垣にタイヤを乗り上げたりドアを擦ったりという目に遭うだろう。途中で転回できる場所はいっさいなく、曲がっているため怖じ気づいて後退したくても全線バックを強いられることになりリスクが高い。愛車に傷をつける以前に隣接する民家の玄関などを破壊する恐れもあり、興味本位で進攻なさらないことをお勧めする。

終点側から産業道路へ向けて退出する場合、どういう眺めになるのか車視線で追ってみよう。
これは最初の段階。アスファルト舗装されているが、車の通行量が少ないので轍掘れはまったく出来ていない。


次のゆるい左カーブからは両側がブロック塀になる。
かなり圧迫感があるが、この程度で狭さに根を上げるようなら今のうちにバックで逃げた方が賢明だ。


産業道路に出る直前にある最後の大きな右カーブだ。
左側はブロック塀から石積みに変わる。右側は民家の外壁だ。初めて運転席から眺めると「本当に通れるのだろうか?」という不安を覚える筈だ。


その「本当に通れるの?」と感じるレベルより更に狭まる。
右側は一部が植え込みに変わる。


季節によっては植え込みの葉や枝が大きく伸びるので、車体への軽い接触は避けられない。少々の接触はやむなしという覚悟で右側一杯を狙わないと、恐らく左側の石積みに接触する。
この家の住民も恐らく植え込みの接触程度は織り込み済みだろう

この植え込み部分を過ぎた先に鬼門が存在するのでまだ気を抜けない。
先の方で道幅が拡がっているので早く脱出したい気になるだろうが安心してはいけない。尚もしっかり車を右一杯に寄せておかないと、宮地嶽神社入口の低い石積みにタイヤを乗り上げてしまう。


この石積みは一部分が地表部に露出している状態だが、10cm近い段差があるので乗り上げると充分に徐行していてもタイヤにかなりの衝撃がある。注意すれば殆どタイヤを接触させることなくやり過ごすことが可能だ。
実際タイヤがどの位置を通っているかは分からない…多分ギリギリのところだろう

この経路は特に鍋倉市営住宅の住民がよく利用する。私自身も仕事柄月に2度は市住を訪れ、用事を済ませた後は結構この狭隘区間を通る。ある程度慣れた今でも相当な慎重さを求められるものの、それだけのメリットがある。
鍋倉交差点を経由せず産業道路に出られる。
元から鍋倉市営住宅に向かう道は認定市道・地元管理の道共に狭い。これより少しだけ広い市道東汐土手線を経由して鍋倉交差点付近に出ることができるが、信号が分かりづらいこと、国道190号の通行が多く産業道路側へ左折するタイミングをはかるのが難しい。他方、この道の困難さはその狭さだけである。慣れればそれほど酷い道ではなくなるものである。
もっとも隣接するあの家は軒先を掠めて通る車にヒヤヒヤしているかも…

したがって産業道路に向かって出る場合において特に利用価値がある。逆方向は殆どメリットがない上に民家の軒が目の届きづらい助手席側になるので通る人はまずないだろうと思いこんでいた。

しかし地元住民は逆方向からでも通行するらしい。別の日、たまたまこの区間を撮影していて決定的な瞬間に立ち会った。
一部画像を加工しています


軽四のうちでも軽貨物の場合は意外に車幅的余裕があるのかも知れない。慎重にやれば物理的には軽自動車でも可能だろうし、日常的に通っている近隣住民があると思う。もっとも私はご免被りたい。

狭隘区間に規制がないからと言ってまさか普通車で通ろうとは思わないだろう。もっとも産業道路側への退出について普通車でも通れたという報告がある[1]が、植え込みを擦る程度の接触は避けられないだろう。

《 宮地嶽神社にある栄川埋め立て記念碑 》
現地踏査日:2009/5/3
      2011/7/2
記事公開日:2013/9/28
直前の派生記事の写真にも見えているように、この狭隘区間に面して宮地嶽神社の南参道がある。


昭和32年4月の設置と相応に古いものだが、大事に扱われてきたらしく見たところ本当に新品同様だ。


さて…当サイトでは寺院仏閣関連は当面の間物件とはみなさないので、宮地嶽神社の詳細紹介は行わない。先取りしてこの派生記事を書き写真を掲載するのは理由がある。
栄川埋め立てに関する石碑がここにある。
以下の4枚の写真は、4年前に初めて宮地嶽神社を訪れたときのものである。撮影順序は概ねこの通りだが、どんな気持ちで撮影したかなどはもう覚えていない。

石灯籠に栄川入海 埋立記念の文字を見つけた。


起工が昭和7年2月、竣工が昭和11年3月となっていた。
今から思えば筆頭に新設道路標でも見かけた秋富久太郎の名が見える


これは確か頂上付近にあった御堂と思う。


ここにも栄川埋立に関する記述がみられた。


Yahoo!ブログには、同時期に栄川の痕跡を辿る4編連載記事を書いている。[2]宮地嶽神社を訪れたのは、榮橋原田橋を見つけたのと同じ日であった。

当時の自分は、宮地嶽神社に栄川埋め立て関連の石碑があることを知って訪れたのではなかった。たまたま近くを通ったので寄ってみたに過ぎない。それだけに、榮橋などからは相当離れたこの場所に栄川埋立の石碑があることに驚いたものだった。
この近くまで入り江があったなどとは当時想像だにしなかった

川を埋め立ててしまえば用を為さなくなる。その埋立という行為を記念して石碑を造った意味を理解するのにも自分自身の中で時間を要した。

栄川を埋め立てて造られた児童公園には昭和49年の設園年が表示されており、石碑には昭和11年埋立とあった。初めて宮地嶽神社を訪れるときには知らなかったのだが、このいずれもが正しい。即ち栄川は時期を違えて埋め立てられた。元は元禄六年に鵜ノ島干拓の排水目的で新川と同様に掘り割って造られたのだが、砂が溜まって舟の出入りができなくなり、交通上の障害にもなった。埋め立てるのが利益に適うとの一致をみて最初の埋立が昭和11年に行われた。当時は宮地嶽神社から近い鍋倉交差点付近まで栄川の入り江があったとされる。[3] 更に後年の昭和49年に現在の市道助田平原線の通る場所まで埋め立てられ、その上が民間の駐車場および栄川児童公園となった。

4年前に行って撮影しただけで最近は宮地嶽神社に訪れていない。再訪する折には写真を新しく撮って差し替える予定である。
出典および編集追記:

1. 鍋倉市営住宅の一住民の報告による。

2.「消えた河川の謎【1】」を含めた4編。
ただし現在においては記述内容に些かの誤りがある。

3.「なつかしい藤山」p.47, p99など。

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