白岩公園・第二次踏査【2】

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(「白岩公園・第二次踏査【1】」の続き)

書籍に紹介されていた「大自然」の超大作は、池の前にある広場から更にメインの道を進んだ左手の斜面に聳えていた。初回踏査では逆方向からメインの道を歩いて帰っており、周囲は藪に同化していたために気付かなかった。

右書きの「大自然」の文字。その下には垂直な岩を更に平らに削って設置由来の説明書きがあった。


大自然の文字の左横には漢字3文字の署名らしきものがみられる。
ツタ性の植物が表面を覆っているので読みづらいが、手の届くような高さではなかった。


現地での撮影は結構難渋した。巨岩は山の斜面に鎮座しており、この文字が彫られている側は地山が大きく崩れていた。周囲が暗いのでなるべく同じ高さで近くから撮影しないと文字が鮮明に写らない。

露岩の一つを足掛かりに視座を確保し、全体が入るようにカメラを構えたまま後方へ仰け反る必要があった。そのままだと近すぎて一枚目の写真のように下側が入らなかった。


左手で枝を握り締めて体勢を保持し、石碑がなるべく水平に見えるようにカメラを高く掲げて撮影している。


その下の説明書きらしきものの拡大。腕が攣りそうだ。
腕がブレると画像の品位が落ちるので何度かシャッターを切った上での撮影だった。


漢文らしい。次のように記されている。
漢字の写し違いがあるかも知れない
吾曹喜笠井翁之設園茲請與翁多幸欽慕渡邊素行大人之揮毫勤諸此岩面聊添園趣之
その横に石碑を設置した時期、祝福した友人もしくは関係者と思われるお二方の連名、そして石工の名が刻まれていた。

何しろ時期は昭和8年である。表記自体は現在も使われている漢字で一部が旧字体というだけだが、そもそも21世紀に暮らす我々が漢文に接するのは中高生時代のごく短い数年間だけである。その正確に意味するところを把握するには資料を要するが、それでも時代を超えて「これを後世に遺し伝えたい」という気持ちがひしひしと感じられる。「大自然」の文字が渡邊翁による揮毫という予備知識をもって現地へ臨んでいただけに、この漢文が揮毫に対する謝意を表現するものであろうことは想像された。[1]

短歌と大自然の文字が刻まれたこの巨岩と初回踏査で見つけていた法篋印塔の少なくともこの2点は、歴史的にも文化的にも極めて価値が高く、重要文化財レベルだと言わざるを得ない。この方面の知見や趣向もまったく持ち合わせない門外漢の自分ですら、その重みが理解される。それほどの遺構が数十年レベルで殆ど顧みられることもなく藪の中に眠っていたことは更に驚くべき事実だ。

書籍ではこの文字を刻むために足場を組み、毎日石工がここへ通っては作業をしていたのだろうかと推察されていた。自然石に文字を陰刻した作品は数多くあれど、この大きさは県内でも屈指レベルだろう。

渡辺翁が「大自然」という3文字を選んだ理由はよく分からない。しかし個人的には凡そ思い付く文字としては最も相応しいものの一つに思える。初回踏査を含めて白岩公園に観られる遺構の多くは、どちらかと言えば宗教に絡むものが目立った。設園者の笠井氏自身の修養のために造ったのが始まりであるが故にそれは自然なことであった。
その後白岩公園は児童の遠足地ともなったように、一般来訪者にも馴染み深い公園となった。ここに刻まれた大作の文字が軍事色や特定の宗教色が濃いものであったなら、それほど来訪者には親しまれなかっただろう。渡辺翁がこの文字を選定した背景や人柄が偲ばれる気がするのだが、これは穿った解釈なのだろうか…

書籍に紹介されていた大作の存在を確認し撮影を終えても一息つくなどという暇はない。
この巨岩の向こうには初回踏査では全く気付かなかった五重塔が見えていた。


それは別の大岩の上に載っており、脚となる部分に何やら刻まれている。
しかしここからでは高低差があり近づけなかった。


あまりに近づき過ぎると手前の岩が遮って下の方の文字が読み取れない。
ズームと立ち位置を調整しつつ失敗写真を量産した。


どうにか判読できるワンショット。
昭和四己巳年四月吉辰だろうか…
最後の2文字の意味がよく分からない…署名にしては設園者の名前とは異なっているのだが…[2]


この場所を記録するために下界を撮影している。
木々が立ちこめて薄暗いためここからでは広場横の池は見えない。逆に広場からはこの巨岩や五重塔は殆ど見えない。
斜面に転がる奇妙に整ったサイコロ形の石が気になったが精査もせず見送ってしまった


斜面を伝って五重塔の背後に回り込んだ。
背面からの方が邪魔する木々が少なかったからだ。


脚の部分に「開設記念塔」とあり、設園者の名前が記されていた。
その上部は…新四國奥之院となっているのだろうか。
もしかすると「西國」かも知れない


この文字が「新四國」であるとして、どうして四国なのだろうかと考えた。
初回踏査で初めて見つけた祠に59番の薬師如来像があり、その台座には伊予国 國分寺と記されていた。白岩公園ないしは設園者の笠井氏は四国と何かの縁があるのだろうか。

塔の全体像を収めるアングルも大自然の巨岩と同様に苦労した。
こんな具合で自然岩の上に建てられている。サイズが掴みづらいだろうが、台となっている岩だけで高さは人の背丈を超えている。


この岩の背後に回り込めば塔の下部を撮影できそうだ。


大量に積もって滑りがちな落ち葉を踏み締めて岩の上部に到達した。
台座や五重塔の部分は…さすがに単一の石材ではなく組み合わせて造られているようだった。


台座部分もきめが細かい粒子状だから、恐らくコンクリート製だろう。
小さな欠けがある程度で状態は極めて良好だ。一世紀近く経っているとは信じられない。


脚の大きさはこれほどもある。
さすがに岩に接する部分はモルタルが敷かれていた。しかしこれだけで倒壊せず持つものだろうかという疑問が湧いた。


昭和一ケタの時期だから21世紀の今に至るまで台風に見舞われることもあったろうし、地震も何度が起きたことだろう。
五重塔は精々一辺が20cm程度の4つの脚で丸っこい岩の上に据えられているだけだ。それが殆ど微動だにせず現在も当時の姿をそのまま伝えているという事実が驚異的だ。もし倒れでもしたら尖っている塔の部分が欠けるだろう。しかし観たところ大きな欠損箇所は一つもない。この場所に据えられてから一度も倒れたことがないらしかった。
岩にアンカーが打ち込まれているのかも…それでも暴風に見舞われれば倒れるだろう

本堂部分ももの凄く精密な造りだ。たとえコンクリート製だろうが現代でもこれと同じものを拵えようとなると大変な手間がかかる筈だ。
まさかすべて自然石を削って造られている…なんてことはないと思うが…


初回踏査のとき登った3連続の石段がこのすぐ近くにあった。
五重塔が据えられている場所は、法篋印塔に向かう3連続の石段から最初の1つを登ったところにあった。


残り2つの石段を登った中間地点から横に移動すれば先の巨岩の上部に行けそうだ。


先ほど見た短歌の彫ってあった巨岩の上に行ってみることにした。
下からも見えているものがあったのだ。

(「白岩公園・第二次踏査【3】」へ続く)

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編集追記:

1.「大自然」の下に記された漢文の意味は概ね以下の通りとされる:
我々友人は笠井翁の設園を喜び、ここに翁が多年慕い敬ってきた渡辺素行大人に揮毫のお勤めをお願いした。この岩面は些かなりとも園に趣を添えるものである。
かつて「東の常盤公園、西の白岩公園」と呼ばれていた時代ではいずれの公園も直接的・間接的に渡辺翁が関わっていた。
常盤公園には渡辺翁によるものと明確に判明している知名度の高い石碑類は存在しないことから、ここ白岩公園にこの石碑が存在すること自体極めて意義深いものと言えよう。

以上の出典についても前編と同じく地域SNSブログ記事に寄せられた読者コメントに依っている。
「うべっちゃ|白岩公園・その2」(記事は削除されています)
2.「吉辰」は人名ではなく「きっしん」と読み、めでたい日を意味する。現在の吉日に相当する。
手持ちの辞書(ATOK2005)では「きっしん」では変換されない。現在では殆ど耳にすることがない言葉であろうか。

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