白岩公園・第五次踏査【3】

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(「白岩公園・第五次踏査【2】」の続き)

最初私はこれがまさに「例の石碑」であることに気付かなかった。
何だか奇妙な形の岩が転がっている…という程度の認識しかなかったのである。[13:58]
遂に姿を現した!!


紛れもなくK氏が発見した石碑だった。
こんなところにあったのか…というのが率直な感想だった。

この場所に到達する明瞭な道は本当に存在しなかった。石碑の周りは何処も同程度の藪で、突然に石碑だけが取り残された場所へ出てきたといった印象を受けた。


K氏によってもたらされた情報によって石碑がどのようなものか、どんな状態になっていたかはおよそ分かっていた。それでも実際に現地で実物を目にすると、その悲惨な有り様に胸が締め付けられる思いがした。
忠魂碑は倒れていただけではなく、
2文字目の部分で折れていた。


今までの踏査で白岩公園に見つけてきた遺構は、藪に包まれてこそいたものの状態はそう悪くなかった。しかしこの忠魂碑は遺構としての価値は大きく毀損されていた。一枚板のようになった本体部分の下側からぽっきり折れて倒れていたのだ。

台座の接合部分。奇妙な形を保ったまま倒壊している。
この部分がくっついたままということは、台座の中央部分を削って石碑本体を差し込んでいるのだろう。


隣接して存在する岩。かつてはこの上に据えられていたものが台座もろとも落下したと思われる。


全体の文字が見えるアングルに苦労したが、このあたりだと繋がって見えるだろうか。
石碑は幅が1m強で高さは4m以上ありそうだった。


文字が読み取れる状態になっているのは、第一発見者のK氏によって積もっていた落ち葉などが取り除かれたからである。[13:59]
写真撮影のためとは言え石碑の上に立つことが畏れ多く憚られた


以下の3枚はK氏撮影による初回発見時の状態である。


これは一文字目を確認した直後のもの。


2文字目が現れた。
写真からはかなり厚く木の葉が積もっていたことが推測される。


K氏が一体どのような経路でここに到達し石碑を見つけることができたのかは分からない。最初は妙に平べったい大きな石が倒れていて忠魂碑の最初の2文字は完全に木の葉で隠されていたという。しかし割れて浮き上がっている「碑」の文字の下半分が露出していることから石碑であることに気付いたようだ。

文字が読み取れる程度に清掃されたとは言え、陰刻された文字にはなお泥が詰まっていた。私は完全な形で読み取れるよう近くから木の枝を拾ってきて泥を取り除き始めた。少しでも良い状態の写真を撮って持ち帰りたいという気持ちは、梵字池で石盤を見つけたとき以上のものがあった。
この忠魂碑の存在は、
殆ど知られていない筈だ…
容易そうに思えて実際は酷く大変な 作業だった。
詰まった泥はまるでハチミツ入りの粘土みたいに手に粘り着いた。[14:03]


詰まっている泥の下の方になっている部分は間違いなく何十年も前に舞い落ちた木の葉だろう。
腐葉土状態の土は木の枝や手に粘り着き、石碑の上にも散らばって今度は取り除くのが大変だった。


あまりにも大変で「忠」の字の4画程度を取り除いただけで止めてしまった。飛散する泥が逆に文字を読み取りにくくすると思ったからだ。
シュロ箒でもあればサッと取り除けるのだが…

これまで白岩公園に観てきた数々の遺構に彫られた文字は、草書体や行書体が目立った。楷書体は年月や設置者など明瞭に読み取れることが特に必要なものに限られていた。
それだけにこの忠魂碑が読み取りやすい文字で陰刻されていることに印象づけられた。

忠の文字の一画目と二画目。両者は同じ深さではなく二画目の書き出し部分が深く彫り取られている。
石材に大きな文字で陰刻されたものを近くで眺めたことがないからかも知れないが、細かな部分まで仕事が丁寧という印象を受けた。


そもそも忠魂碑とは一体何だろう。石碑に刻まれる文字はいろいろあるとしても、この種のものは生まれて初めて目にした。
しかし殆ど予備知識がなくともどういう意図を持って設置されたのかは表面の文字から推測された。


その横に記されている文字である。
「陸軍大将田中義一書」となっている。


田中義一は萩出身の陸軍軍人で、第26代内閣総理大臣も務めた人物だ。高校の日本史の教科書にもその名前が現れるので日本史が得意だった方なら記憶にあるかも知れない。
「Wikipedia - 田中義一」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%…9%E4%B8%80
もっとも私自身は学生時代日本史を毛嫌いしていたせいもあり、田中義一の名は微かに名前だけ聞き及んでいたという程度の知識しかなかった。それでも陸軍大将という文字からこの石碑がいつ頃建てられたものかおよその推測はついた。既に知られている法篋印塔や五重塔とほぼ同時期だろう。

時代背景からしても設園者の笠井氏が田中義一に傾倒し、思想を引き継ぐ意志を忠魂碑という形で示したのではないかとも思う。
「Wikipedia - 忠魂碑」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91
倒壊し折れた部分からは低木が生えていた。
このような状態になったのは相当に昔のことらしい。[14:05]


最初見たとき何か文字が彫られているように思われた円形の岩。
今になってその理由が分かった。


この部分は忠魂碑を据えるときの台座で、据わりが良くなるように底面を削って平らにしたのだ。表面に無数に見えている筋状の窪みは、鑿などで削り取った跡と言える。

全体像をカメラに収めるためにかつて台座と共に忠魂碑が載せられていた岩に登ってみた。
木の葉が積もっていたが、岩自体も平らに成形されている。あるいはそのような岩があったためにここを据付場所に選んだのかも知れない。


しかし天辺が平らな岩がここにあったから忠魂碑をこの場所に設置したというのは根拠薄弱だ。法篋印塔などがある沢や尾根側にも探せば同様の岩がある筈だからだ。
どうして忠魂碑だけが離れたこの場所に据え付けられたのだろう…
後でも考察するが、もしかすると法篋印塔など他の設置物とは異なり、堂々と多くの人の目に触れるべきものではない(あるいは触れさせたくなかった)のではとも思われた。

忠魂碑全体を収めるには台となっていた岩の上に立ち、更に大きく伸び上がってカメラを頭上に差し出す必要があった。[14:09]


この場所を選んで据え付けられた理由に加えて、更に思いを巡らせる要素があった。
忠魂碑はどうして台座ごと落下してしまったのだろうか?
実のところ現地で実物を観たときからその点について一つの仮説が頭から離れなかった。それは…

(「白岩公園・第五次踏査【4】」へ続く)

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