白岩公園・第五次踏査【5】

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(「白岩公園・第五次踏査【4】」の続き)

注意この記事には閲覧者によっては衝撃的に感じられるかも知れない石仏像の写真が掲載されています。

遠くから藪越しに眺めただけでも件の御堂だと確信した。
そこへ至るまでの間は外部の何処にも繋がっていない踏み跡が認められた。[14:25]


倒壊した御堂の一部が藪の間から見えかけている。
その手前には今まで観てきたものと共通する手水の石が置かれていた。


法篋印塔の横にある子安弘法大師、そこから白岩公園で最も長い3連続の石段を降りた場所にある石材の積まれた平場にも手水の石があった。

K氏による写真であらかじめ状況が分かっていたとは言っても、実物の荒廃ぶりは想像以上だった。
瓦は飛散し柱や梁はすべて倒れていた。土壁は崩れて地面に還っていたし、瓦は落ち葉に埋められ新たに藪も支配し始めていた。


「倒壊した御堂」と表現するものの、本当にここに御堂があったのかすら判然としない状態だった。
近年は殆どここへ人が訪れたこともないのだろう。散らばった瓦はまだそれほど締まっておらず、その上を歩くとガラガラと崩れて脚をとられた。


この御堂は白岩公園の設立時当初ではなく後年に建て替えられたものだろう。
まず瓦が新しい。昔の瓦はもう少し厚手で瓦同士を接合する番線穴があったと思う。倒壊した割にはそれぞれの瓦自体は原形を保っている。

何よりも御堂の柱や梁が概ね形を遺していることからも言える。昭和初期のものだったらとうに朽ちて土に還っている筈だ。


この御堂は補修ないしは建て替えられた後年のもので、倒壊したのも精々平成時代に入ってからだろう。民家の廃屋で倒壊し屋根がない物件など市内でも至る所に観られるが、いずれもこの御堂以上に荒廃度が酷いからだ。

瓦礫の一番奥にレンガの台座に据えられた石仏があった。
瓦がすべて石仏の手前側に飛散していることから、石仏の背面から強風なりが吹いて倒されたらしい。


やっと石仏の前に到達できた。
御堂がカオス状態になっているのに対し石仏の周囲が整然となっているのには理由があった。[14:26]


第一発見者のK氏が初めて御堂にたどり着いたときにはもっと悲惨な状態になっていたらしい。

以下の5枚はK氏撮影による初回発見時の御堂である。


御堂の倒壊状況は私が現地へ行ったときと大差はない。
彼もまたこの瓦を踏み締めて石仏に接近した。


しかし…
ここにも忠魂碑と同程度に胸を締め付けられる光景があったらしい。
弘法大師像は首から上が折れて
近くに転がり落ちていた。


首が飛んだ状態の弘法大師像。
石像自体は台座の上に載っていたという。


周囲を整えた後の様子。
K氏は飛ばされた石仏の首を元の位置に戻し、木の葉で覆われた周囲を清掃して割れた茶碗も可能な限り見つけて復元している。


そういう訳で私が石仏にまみえたときには心穏やかでいられた。もし私が第一発見者で忠魂碑を見つけた後にこの場所にまみえていたなら、原形をとどめないほど壊れた御堂に首から上が飛ばされた弘法大師に暗澹たる気持ちになっていたことだろう。

弘法大師と薬師如来像の台座には共通して6番が与えられていた。
特に阿波国安楽寺という部分は今日の踏査の最初常盤用水路沿いの祠に見つけた8番のものと同じだ。


語りかけてくれる情報が少ない白岩公園の遺構の数々にあって、一連の祠や石仏は小さなヒントと謎を与えている。6番と8番…小さな番号でしかも近接していることから、一連の弘法大師像は同時期に造られたと考えられる。白岩公園に帰属するものなのか否かも同じに考えられるだろう。
他方、白岩公園の中央広場から近い場所で初回踏査時に見つかった祠にある薬師如来像は59番だった。異様に番号が離れている。

中山観音廣福寺の裏手から急斜面を登る途中に八十八箇所が設けられ、数多くの祠と石仏が祀られている。詳しく調べてはいないが、境内を出て登り始める順番に番号が進んでいたように思う。
6番や8番の弘法大師や薬師如来は八十八箇所のものと番号が重複している筈なので、八十八箇所を参考にして白岩公園内に独自で設置したのではないかという推測が働いた。59番の薬師如来像は番号が大きいのでもしかすると八十八箇所の続きになっているのかも知れない。

この弘法大師像はある日突然御堂が倒壊し、風雨に晒され崩れゆくのを静かに見守っていたのだろうか…[14:28]


首のところにひびが入っている。
転がり落ちていた部分を載せているだけなので、次に読者のどなたかが現地へ赴いたときには再び落下しているかも知れない。


この石仏の首が折れて飛んでしまったのは、先に観た忠魂碑とは原因が異なると思う。弘法大師像や薬師如来像は意図的に破壊されるような対象ではない。御堂が倒壊したとき台座から落ちた、落下した瓦が当たった…などが考えられる。冬場の気温変動による破壊も有り得るかも知れない。
人物を象った構造物は首の部分が細い。もしそこに微細な隙間があれば水が染み込む。氷結することで隙間が拡大され、更に水が染み込み凍ることで石仏を破損する現象が知られている。[1]

割れた茶碗はK氏によって可能な限り周囲から探し出され元の位置に配置されていた。
木製の受け皿は賽銭入れだったと考えられる。


台座の下を覗いてみた。
これは賽銭箱を格納する部分だろうか…しかし分解しかけた木の枠が置かれているだけだった。
時期の考証が可能な古銭や硬貨などはまったく見つからなかった


倒壊した御堂を丹念に探せば、もしかすると当時を偲ばせるものが見つかるかも知れなかった。
しかしあまりの現況の酷さに手を加える気になれなかった。


柱や梁はすべてが地に伏しているのではなく、まだ繋がったまま宙に浮いている部材もあった。
しかし数年単位かそれ以上の期間風雨に晒されていたようで木造部分はどれもカビに侵食され朽ちかけていた。


私は発見報告があった通りの倒壊した御堂を確認できたことで充分と見なさざるを得なかった。

現地へ向かい写真を撮り、こうしてネット界へ提示することに若干の躊躇を覚える。確実ではないがこの御堂のある場所も白岩公園の一部である可能性が高く、即ち私有地だ。それも見目麗しき状態ではなく、管理の手を離れ自然へ還ろうとしている荒れた御堂と石仏だ。
当サイトでは私的な所有物は原則として物件の対象外として扱っている。そうなれば白岩公園全体が対象外となるべきところだが、永年一般市民がそこに集う場として親しまれてきた背景があるが故にすべてを記事化しようと考えた次第だ。荒れ果てて貴重な遺構が自然に還りつつある現況を静かに読者へ伝える意図があるだけで、設園者および所有者の意向を顧みず行政による働きかけや整備計画を強力に推進すべきであるという主張ではないことを申し添えておきたい。

これでK氏によって提示された御堂と石碑の2つとも発見することができた。
しかしすべてが片付いたわけではない。[14:30]
この場所に到達する道は?


忠魂碑と同様、ここから白岩公園コースが近い筈と思われた。その点も検証しようとしたが、石仏の後ろはやや傾斜のきつい藪になっていてもちろん踏み跡はまったくなかった。この御堂まで到達する道があったのは確実なのにそれを特定することができなかった。[2]
この件はK氏によって提示された祠と共に私の中での未解決問題になっている

今回の踏査は忠魂碑と御堂の発見が最重要課題だったので、当初の目的はこれで達せられた。
しかし園内を丹念に調査しつつ歩き回る時間と体力はまだあった。もっとも当面の懸念材料は、現在いる場所から安泰に自分の知っている場所まで戻れるかという点だった。
取りあえず私はなるべく視界の効く歩きやすい場所を選んで山の斜面を下ることにした。

(「白岩公園・第五次踏査【6】」へ続く)

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1. 熊野古道にある牛馬童子像が修理後も破断された状態で発見された事件は、当初は通行人のいたずらと考えられていた。しかし後日の調査により、気温の急変動により染み込んだ水の凍結による膨張が破損の原因と結論付けられている。
「紀伊民報|牛馬童子像の頭部分離は自然破断の可能性 熊野古道」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130325-00000001-agara-l30
弘法大師像の破断も同様の現象の可能性もある。

2. 後日談によると、K氏は白岩公園コースからこの倒壊御堂に到達したという。白岩公園コースから御堂の一部が目視できたので酷い藪をかき分けて強引に進攻したと話してくれた。
このことから藪に遮られて視認しづらいだけで白岩公園コースからの物理的な距離は非常に近いらしい。憶測だが、初回踏査の前段階で白岩公園コースを歩いたとき進入口らしきものを見つけながらも藪が酷く断念した場所があり、かつて道があった可能性が濃厚である。
もっとも春先からは調査不可能で詳細な再調査は再び藪の勢いが衰える秋口以降になるだろう。

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