白岩公園・第六次踏査【1】

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(「白岩公園・第六次踏査【序】」の続き)

短い藪を突っ切るのに困難はなかった。初めて訪れるときも同じところを通ったからだ。

この先にある「確認したいと思っていたもの」とは…
今、カメラを向けている場所にかつて存在していたものだった。


やはり無くなっていたか…
さて、何が無くなっていたかは今までの白岩公園シリーズ全編をお読みになった方ならきっとお分かりだろう。

宇部興産(株)窒素工場向けの特別高圧線である。
22Kv一回線の独特な形状をした送電鉄塔がここを通っていた。撤去されることとなったのは、今年の夏頃に自社工場向けに送電していたのを中国電力への売電へ切り替えたためだ。


鉄塔が撤去されているということは殆ど予想済みだった。白岩公園を下り、県道琴芝際波線を横切る場所の鉄塔の上半分がなくなっているのを目撃し、その数日後には鉄塔全部がなくなっていたからだ。
そのとき県道から白岩公園方向を眺めて、ここにあるはずのスズラン型鉄塔も見えなくなっていた。

白岩公園関連からは大いに外れるが、個人的には特高線の撤去は自分にとって本年で一番残念な出来事だった。また一つ昭和が消えた。全線の追跡はかなり早い時期からプロジェクトとして計画はしていたのだが、遂に成らなかった。
このタイプの鉄塔はかつては秋芳町でもみられたが、恐らく平成期のはじめにすべて撤去されている。
宇部興産(株)の特高線は昭和20年代に設置された歴史あるもので、白岩公園よりは後の時代とは言え70年近く厚東川発電所で産み出した電力を送り続けていた。同タイプのスズラン型鉄塔は県内ではあと数ヶ所しか残っていない。[1]

かつての鉄塔を支えていたアングルを基礎中に遺して根元から切断されていた。
代わりに基礎の上にプレートが取り付けられていた。


せめてデジカメで詳細な記録を持ち帰ろう…と思い、そのプレートを接写するためにカメラを構えたまましゃがみ込んだのだが…

このときに私自身が大変に悲しむべき事態になっていたことに気付いた。

うぎゃあーー。・゜゜・(>_<;)・゜゜・。


ズボンにびっしりと「ほいと」が付着していた。さっき藪を突っ切ったときに攻撃を受けたらしい。ここまで歩いてくる間も膝下が妙にチクチクするのでおかしいとは思っていたのだが…
こんな格好では白岩公園の中はまだしも県道を歩けない。慌てて振るい落とし始めたのだが…これがまあ簡単に取れるシロモノではない。指で払えば種子部分は落ちるが、ズボンにひっつくカギ状の部分が生地の目に入ってなかなか取れない。
これほど酷いほいと攻撃を受けたのは久し振りとも言えた。最悪な事態の上から3番目くらいだ。
一番酷かったのはかつて埴生小学校裏の高山に登ったときのほいと攻撃…ズボン捨てようかと思った^^;

もうズボンを脱いでバサバサ振るい落としたい気分だったが、立ったまま辛抱強くつまみ落とした。目の届かない膝の後ろからお尻からびっしりくっついていて、この作業で5分間くらい撮影中断を余儀なくされた。

ふうっ…
さて、撮影に戻ると…

基礎に取り付けられたプレートをズーム撮影。
コンクリート基礎を撤去せずそのままにしておく旨の確約のようだ。


「譲渡しました」とあるが、実際はこんな基礎を遺されても何にも転用しようがない。本来は基礎すべてを撤去して現状復旧すべきものである。恐らくここまで機材を持ち込んで基礎部分を撤去するのはコスト高になるから、地権者の合意を得て基礎を放置する代わりに撤去に係る費用を補償しますという確約ではないだろうか。

ともあれ、この形で遺されるなら今以上に変化することはもうない。すべての特高線鉄塔の基礎が同じ扱いをされるかは分からないが、この先何十年と経った後に特高線の経路をトレースしたいと願う挑戦者には、場所の大きな手がかりだけは遺された形になる。
近くの樹木には鉄塔番号を案内するタグがまだ残っていた。それもいずれすべて失われ、索道も藪化して追跡自体殆ど不可能になるだろう。

一連の場所は、現地踏査会では法篋印塔を案内した折にもし興味を示す参加者があれば案内する予定である。もっとも特別高圧線は元より送電鉄塔系に関心がなければ基礎跡だけを観ても面白みはないだろう。

再び法篋印塔の前まで戻ってきた。
相変わらずこの場所は暗い。いつ来ても光量不足で鮮明な画像が撮れたためしがない。雛壇部分の前面も著しく藪化しているのが原因だ。


法篋印塔の周辺は3月の末までに何度か訪れ、撮影のために枯れ枝を取り除いている。早くから白岩公園に関心を示したK氏も遺構に悪影響を与えていた藪を刈り払ってくれたので、今も近づけば相応に撮影できる。
上部の枯れ木が気になるがさすがに塔へよじ登るなど畏れ多くてできない


法篋印塔のある雛壇の奥には広場のような場所があり、かつて何かがあったような思わせぶりな空間を形成していた。そこは主要な遺構がある側の尾根で一番高い場所であり、可能なら現地踏査会で参加者を案内しようかとも思っていた。どうにも未発見の遺構があるように思えてならないからだ。そのような場所は単一の眼で眺めるより複数人で眺めた方が新しい発見が起こりやすい。

しかしいざそこへ踏み込もうとすると、さっそくクモの巣を頭から被ったので時期尚早とみてさっさと引き返した。藪もまだそれほど突破が容易ではなかった。
と言うかここへ戻るまでに再度ほいと攻撃にやられて完全に藪漕ぎ意欲を挫かれた

石灯籠の横を通って倒木峠へ降りる。
このあたりでまた枯れ木や木の葉で経路が隠され分からなくなっていた。
前方の藪の中に見える垂れ掛かった木が倒木である


降りる途中、石段とは異なるバラバラな石柱数本を見つけた。
これも以前は気付いていなかったような気がする。


倒木峠の北側。こちら側には岩が少なく、普通の山道のような光景であることは知られていた。
峠付近に礫石が散らばっていたのが気になった。以前からあった筈なのだが…このサイズの礫石の元となったのは何だろう…


この北側の道をずっと辿れば勝手呼称「鼻の穴」なる2つの穴の前を通って白岩公園コースに出てくる。中山観音に戻るならその方が近いのだが、もう少し撮影すべきものが残されているので園内に戻った。

「倒木峠」なる勝手呼称を産み出した元となる倒木。
3月末の訪問時よりも更に低い位置まで倒れ込んでいるような気がする。


倒木は恐らくもう何年も前に倒れて今の状態を保っているのだから、よほど激しく身体をぶつけでもしない限り下を通っている最中に倒れて下敷きになる心配はないだろう。現時点ではこの倒木はどうしようもない。現地踏査会の参加者の安全性は可能な限り保証したいが、ここを通る限り漏れなく「下をくぐっている最中に倒れて下敷きになるかも」という極めて極めて確率の低いロシアン・ルーレットを味わって頂くことになるだろう…^^;
この倒木の件もですが現地で負う怪我について参加者はすべて自己責任でお願いします

最後に代表的作品「大自然」を撮らなければなるまい。
初回踏査では見落としてしまったし、発見してからもその撮影にはいつも難渋している。藪が酷いので光量不足で明瞭な画像が撮れないのである。


この大きな岩には「八丁岩」という名前がつけられている。白岩公園として開園される以前からその名を与えられていた。[2]もっとも今ある姿は完全な原形ではなく、少なくとも「大自然」の文字がある側は文字を彫りやすいように平面を造りだしたらしい。[3]元はもっと大きな岩だった可能性がある。

せっかく訪れたので今回もなるべく近くから明瞭な画像を得ようと足元の悪い斜面を登った。
その途中にこの未知の遺構が存在する。


この円筒形状のものは、大自然碑に隣接して設置されている五重塔の上部構造ではないかと考えられている。もっとも未だ五重塔の最先端部がどうなっているかはっきり確認できておらず、詳しいことは分からない。

光量の少ない藪なので手ブレを最小限にしないと酷くピントが甘くなってしまう。何とか踏ん張って撮影した一枚。
フラッシュ撮影もしてみたが、逆に文字の部分が飛んで不明瞭になった。


側面の短歌も再度確認した。
また新たに枯れ木が垂れ掛かってきたために読みづらくなってしまった。
八丁岩の上に到達したとき可能であればこの枯れ枝を取り除くので誰か思い出させてください…お願いします


画質が悪く文字が判読しづらいが、この短歌は八丁岩に文字が刻みつけられたとき寄せられたもので、七尾山人(紀藤織文)による。
都久紫なる山も周防の海ばらも
一目に見する園のうちかな
短歌に織り込まれた記述から、かつて白岩公園からは瀬戸内海どころかその先の筑紫まで見えていたらしい。現在は藪が酷く遠望は能わないが、白岩公園の南側に位置する丘陵部はここの最高地点よりも低く、かつてそこまでの眺望が効いていたという描写を信じるに足る理由がある。

実は八丁岩には2首の短歌が刻みつけられたとされている。もう一首、六一居士(紀藤関之介)による
清水湧く山いや高しゆく雲に
浮世のうさをしら岩の園
がそうなのだが、現時点で未だに八丁岩の何処に刻みつけられているか分かっていない。
この短歌も白岩公園のかつての様相を的確に描写している。現在でも沢には湧水が目立ち、水の処理を行う岩造りの緩衝池が多い。また、短歌の後半部分の「浮世のうさをしら岩の園」に掛詞が織り込まれているのも秀逸である。

大自然碑と五重塔を同一視野に収めたショット。
古い写真を見ると、かつては正面から両者を等しく眺められていた筈なのだが、今ではそこへ身を置くことはできても眺めはまったく効かない。


現状を確認するのが目的なのでそれ以上は追求せずに園路へ戻った。

大自然の下にある園路に接した石積み。
大きく育った樹木のために少しずつ石積みが崩れているように思える。


この場所は元から空積みだったのだろうか。
間知石をはじめサイズの異なる石材が混在している。しかし巧妙に接ぎ合わせているために今までもってきたのである。


この石積みが崩れたら、上に載る大木も支えを失って倒れてしまうのではないかと思う。


勝手呼称「下池」には特に変化はなかった。
一定以上水が溜まると岩の隙間から漏れ出るようだった。


まだ暑い中、延々と中山観音駐車場から歩いたこと、足元が悪い斜面の上り下りで疲労を感じた。大方の状況は分かった。まだ細かなところを調べて回るほど藪の状況は良くない。せめてもっと涼しく(寒い位が良い)クモも巣を張らなくなる時期まで待ってから動こう…この他の遺構には立ち寄らず帰ることにした。

もっとも現地踏査会のときには往路と復路でどこを歩くかも検討しておかなければならない。帰りはどこを歩こうかと思いつつ園路をくだっていった。

(「白岩公園・第六次踏査【2】」へ続く)

出典および編集追記:

1. 去年生雲ダムへ向かう途中の県道に同タイプの送電鉄塔を確認している。

2.「炭山の王国」p.246

3.「大自然」の上部をよく観察すると岩を割って平面を造るために打ち込んだ楔の跡が観察される。
「然」の字の上にある痕跡が特に明瞭

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