夫婦池・汀踏査【4】

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現地踏査日:2012/1/26
記事公開日:2012/1/27
(「夫婦池・汀踏査【3】」の続き)

この記事を執筆している最中に夫婦池近辺在住の読者から情報を頂いたので、この記事にまとめておこうと思う。
寄せられた情報をそのまま掲載して終わりでは考察が膨らまないので、自分の感じたことや想像、推論を交えてまとめてみた。緑色で着色されたテキストが頂いた情報であり、それ以外の地の文は私の考えである。

なお、テキストばかりでは見栄えがしないので、随所に夫婦池らしさを物語る写真や関連資料などを鏤めている。

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改めて、夫婦池の広域表示地図を掲載する。


池の名称は「夫婦池」とされており、本土手の位置図を示す看板の端にもそのように記載されている。


しかしこの溜め池の正式名称は「夫婦岩池」表記によっては”女夫岩池”)とされている。
名称に「〜岩」が入っていることに呼応するように、かつてこの地の深い渓谷に夫婦岩と呼ばれる奇岩が存在していたらしい。

恐らくその岩の存在に由来して、この近辺は女夫岩という小字が与えられていた。これは数年前に郷土資料館で承諾を得て複写した宇部市の小字地図のズーム映像である。この領域は現在の夫婦池の汀によく符合している。
本土手と呼ばれる小字が極めて狭い領域であることに気づく


後述するように溜め池が誕生したのは常盤池よりずっと時代を下るから、はじめに女夫岩の存在と小字があり、そこに因んで夫婦岩池という名称が与えられたのだろう。

日本全国に「夫婦岩」や「夫婦の滝」という名勝は多数あると思う。それは一般に大きなものとそれに次ぐ大きさの一対に与えられる名称である。夫婦岩という呼称がある以上、目立つ2つの露岩があったことは想像に難くない。ただ、現在ではその明確な場所について恐らく記録がなく、地元の古老に伺って先祖代々伝えられている場所が分かるかも知れない状況らしい。国道190号線の通る池の本土手下に埋まっているという説もあるようだ。
この件に関して先入観を与えることになるかも知れないが、私は夫婦池の誕生と引き替えに夫婦岩は堰堤に埋まってしまったのではないかと考えている。
左岸・右岸のどちらかはもちろん分からない

大きな溜め池の堰堤を何処にするかの選び方は、現在のダムサイトに共通するものがある。即ち両岸がなるべく迫っていて堅牢な露岩のある場所だ。渓谷に張り出した大岩があるなら、地球の長い歴史をもってしても流水に削られず遺ったわけで、締め切って湛水したときの水圧に耐えると考える理由になる。常盤池の本土手もその条件を満たす適所であった。夫婦池もこの岩が出っ張って渓谷が狭まっている地形を利用して造ったのではないかと推測する。
夫婦池が完成したのは、常盤池よりずっと時代を下った大正6年である。それまでは恐らく「あらて」から流出した常盤池の余剰水は、そのまま旧塚穴川の刻んだ渓谷を流れていた。貴重な灌漑用水を貯める目的の池でありながら、大雨などで過剰な水が流れ込んだときは、本土手を護るためにも排水せざるを得なかった。
この渓谷に堤を築いて常盤池本土手からの自然漏水と「あらて」からの余剰水を貯留できれば更に無駄なく灌漑用水として利用できるという考えがあったのだ。

常盤池の築造により灌漑用水が確保され悲願の旱魃対策が叶った訳だが、更に時代が下り、新たに工業用水としての需要が高まった。

常盤池の水は元々が農業用の灌漑用水確保が目的だっただけに、工業用水としての利用には反対があった。末信潮止井堰から取水し常盤池のながしゃくりに至る常盤用水路が完成したのは昭和期だから、それまでの常盤池の水源は流入する僅かながらの川に頼るしかなかった。常盤用水路完成以降は厚東川から用水を汲み上げることが出来るものの、未だ天候頼みだった大正期に、それでなくても限りある常盤池の水を工業用水にも利用したいという炭鉱側の主張に水利組合側が難色を示したのは当然であろう。
常盤用水路自体も末信付近は田畑を掘削して導水管が通されるということでメリットがない理由で地元の強硬な反対があった…最終的に県が仲介する形で完成に至っている
しかし炭鉱時代の水需要逼迫も切実なものがあったようで、炭鉱側は水利組合に多額の権利金を支払うことで常盤池の工業用水利用に合意を取り付けた。夫婦池の築造にかかる工事費は、この権利金が充てられたという。

こうして夫婦池は大正5年8月に設計され12月に起工、翌年の10月に竣工式が行われたとされる。夫婦池が常盤池の湛水量を拡張する補助的役割を担っており、その完成は炭鉱側にも少なからず大きな恵みを与えた筈だ。

夫婦池に貯留された用水は主に亀浦、則貞近辺の水田に利用された。常盤池の樋門から取り出された本土手用水路は則貞および野原方面に向かっているので、賄いきれなかった亀浦方面にも灌漑用水が回るようになったことだろう。
塚穴川と別の用水路を持っているのかどうかは今後の踏査による

かつて夫婦岩のあった渓谷は水が得やすい(むしろ豪雨地の水害が起きやすい)地であったために、田畑や人の住まいがあったかも知れない。
常盤池が造られることになった常盤原には、かつて人々は「燃える石」の採掘と共に暮らしていた。彼らは梶返の清水崎へ代替地を与えられ移されたのと引き替えに、住まいと田畑は永遠に常盤池の水底に眠る定めとなった。夫婦池築造にあたって同様の立ち退きに関する論議や補償問題があったかどうかは資料が殆ど遺されておらず不明である。拡大対象画像です。
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ところで、私は「夫婦池・汀踏査【1】」において地図を示した上でこのように述べていた:
航空映像でも一目見て分かる通り、夫婦池はどういう訳か深い黒緑っぽい色として認識される。常盤池がやや明るいグリーンで見えるのとは対照的だ。


この理由として私は水深の深さか、池の底の堆積物によると書いていた。その他にも周囲を原生林で覆われており、溜め池の水面に光が集まりにくいというのもあるかも知れない。
しかし寄せられた情報によると、夫婦池の水深は私が考えていたよりもずっと深い可能性があるようだ。

平成17年頃何かの理由で夫婦池の水位が異常低下する事態があったらしい。ここに掲載することはできないが、そのときの夫婦池の汀を写した写真に接することができた。
私はどの時期であれ、夫婦池の水位が低くなったのを一度も見たことがない。しかし写真によれば、夫婦池は恐ろしい傾斜を持った深いV字谷であった。

冷静に考えれば、夫婦池の地理的構造上それは驚くことではなかった。
夫婦池が造られるより遙か昔、未だ常盤池すら築造されていなかった江戸期以前は、常盤原の低地を流れる水は今の本土手付近で屈曲し、夫婦池のある部分を削りながら流れていた。
今でこそ溜め池になっているから分からないだけであって、堰堤が全く存在しない状態を考えよう。塚穴川が受け持つことになる流域面積はかなり広い。黒岩山より南側に降った雨は間違いなく塚穴川 に向かう。そして下流に向かうほど沢山の支流を併合するから、水量は多くなる。常盤池・夫婦池の双方が存在しなかったら、塚穴川は今の真締川に準ずる程度の水量をもつ川になっていたのではなかろうか。

現在は工業用水・灌漑用水への経常的な需要があり、本土手樋門からの流出量は塚穴川の河川機能維持量(ダムで言えば責任放流量)だけが流れている。単発的な降雨があっても常盤池と夫婦池の水位が上昇することで緩衝的に働く。それ故に塚穴川は現在あるような用水路程度の幅で足りているのであって、どの溜め池も存在しなかった江戸期以前は大雨のたびに現在の夫婦池がある渓谷部分を削っていたはずだ。

山裾に設けられた溜め池は、上流に豊富な水を集める川の流入でもない限りそれほど深さはない。しかし夫婦池は、古代は豪雨時に暴れ川となっていたであろう塚穴川の海に近い部分で渓谷を締め切って造られている。山間部に造られる農業用の溜め池とは構造が違う。

夫婦池に流れ込む水は殆ど本土手樋門からと「あらて」からに限られる。そのいずれも夾雑物の流入を許さない余水吐や樋門からの流入水だから、土砂が流れ込むことは殆どない。池を浅くする要素があるとすれば、護岸の崩落や雨による土砂流入に限られる。このため夫婦池は現在でも造られた当初の地形や深さをほぼ保っていると考えられ、池の細長い中央部分に溝状の最深部がある筈だ。
些か大仰な表現を許せば夫婦池は「常盤のバイカル湖」とも言えようか…

地勢的理由から夫婦池の湛水面積は小さい割に湛水量は意外に多い可能性がある。特に水位が殆ど満水域を保っている現状からすれば、最大水深が10mを越える地点があるかも知れない。
ちなみに常盤池の最大水深は約13mとされている拡大対象画像です。
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航空映像で眺めれば黒に近い深緑色を呈し、周囲は人を安易に寄せ付けない鬱蒼とした原生林に覆われ、数少ない入り江以外およそ池の底が見える場所もない深い溜め池…しかも成り立ちと築造期が知られる程度で詳しいことは殆ど伝わっていない…
何となく陰鬱で空恐ろしい印象すらある夫婦池は、本当にただ者ではない深遠さを隠し持った溜め池だった。


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さて、夫婦池に関してまだ精密な踏査を行っていない区間がいくらか残っている。時間切れでパスした亀浦市営住宅の裏手などがそうだ。
今後再びこの方面へ訪れる便があれば対象区間を踏査する予定である。汀に接近すること自体困難にも思われるが、何か新たな成果が得られたなら続編を書くことにしよう。

(「夫婦池・汀踏査【5】」へ続く)

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