蛇瀬川・三日月池痕跡

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現地撮影日:2012/5/20
記事公開日:2013/3/29
蛇瀬川が真締川に注ぐ地点から400m程度上流側に遡行した地点に、昔の蛇瀬川の経路を示唆する奇妙な地形が存在する。

真締川に沿って進む市道真締川西通り2号線を御手洗橋のところから曲がり、南小羽山方面へ向かう道(市道真締川南小羽山線)を進んだ途中にある。


この地点付近で道路は殆どUターンに近い位に進行方向を反転させられる。


大きなカーブの直後は暫く短い直線が続くが…
路面が荒れているが現在はオーバーレイで補修されている


すぐさま今度は反対方向に急なカーブとなっている。
そして蛇瀬川も市道に倣って同じ線形をとっている。


市道は小羽山ニュータウン開発時に造られたものなので、クロソイドなどという高尚な設計などなく円弧と直線を繋げただけの稚拙な線形で路面に片勾配もついていない。車で走るときはよっぽど速度を落とさなければ積んだ荷物が右へ左へザザザーッと偏る。まったく不愉快で運転上は危険でさえもある区間ということは市道レポートでもさんざっぱら書き立ててきた。

さて、今回の主題はこの市道カーブの構造的欠陥を指摘し蒸し返すことではなくて…市道がこんな酷い線形になった理由に関連すると思われる謎がここに隠されていたのだった。

まずはこの場所をYahoo!地図で確認して頂こう。
それだけでもある奇妙な表記に気付く。
存在しない溜め池が書き込まれている。


何と蛇瀬川の外側に三日月状の溜め池が記載されているのである。
先行して掲載した市道の写真を見て頂ければお分かりの通り、現地は普通に田んぼとなっている。溜め池どころか沼地ですらない。それも私の知る限り何年も前からここは今のような田畑ないしは荒れ地で、沼や池だったを見た記憶がない。

大手ネット配信社たるもの、こんな初歩的な誤りを犯すはずがない。そうなるとかつては本当に三日月状の溜め池があったのだが、現地が改変された後も地図だけ古いまま継承された結果ではないかと推測される。拡大された詳細地図の情報はゼンリン©が年月を費やして集積したデータを引き継いでいるからだ。
同様の事例が白岩公園の石段に関する地図記述にもみられる

何より興味深いのは、存在しない溜め池の形状と蛇瀬川に対する位置関係だ。
広域地図で眺めると、蛇瀬池を出て蛇瀬池の出水口から再開する蛇瀬川は概ね直線的に沢を下っている。しかしこの場所だけは例外的に著しく屈曲している。そして三日月池の形状とその位置関係からすれば、読者にも次のような推察ができるだろう。
かつての蛇瀬川はもっと大きく蛇行していたのでは?
広大な原野を流れる河川では、途中にある硬い岩や河川自体が運んだ土砂によってしばしば流れるコースを変える。こうして出来た蛇行部分は経年変化と一過性の洪水によって削られ直線化する。本流から切り離された蛇行部分が三日月湖となることはよく知られている。先の地図を眺めると、三日月池のある部分は等高線が更に内側まで入り込んでいる。蛇瀬川はこの等高線をなぞるように内側へ屈曲していたのではと感じられる。

実際はどうなっているのだろうか。現地へ赴いてみた。

市道の短い直線部分にはこの田に降りる道が造られている。蛇瀬川の上にはコンクリート床版が架かっていて容易に移動することができる。
そこに自転車を停めて下流側から撮影している。


コンクリート床版の先は二等辺三角形をした田んぼになっている。
現在の蛇瀬川は土手で仕切られており、田んぼは蛇瀬川よりも若干高い程度だ。


田んぼの外側は耕耘機などが乗り入れられるように通路となっていた。
通路の外側は荒れ地になっており、もしかするとこの部分が旧河川敷だったのでは…という想像が働く。


コンクリート床版から上流側を眺めている。
現在の蛇瀬川は両岸をコンクリートブロックに固められ市道と同一の線形で流れている。


土手の上を上流側に向かって歩く。
もし仮説が正しいなら、旧河川敷との分岐点が存在する筈だが…


藪の繁茂が酷く分岐点と思われる場所まで歩いて行ける状況ではなかった。


もっとも護岸が固められているのなら、元の河川敷への分岐点は護岸自体でかき消されて分からないだろう。


振り返って撮影。
現在の蛇瀬川は流下速度を早めるために小羽山ニュータウン整備時代に付け替えられ、河川の経路に合わせて市道の線形を確定させたのではないか…というのが仮説の骨子だ。


田畑はもちろん一枚の田へ向かうまでの農道や護岸も丁寧に草刈りされている。
この田の持ち主に尋ねれば真相が分かるかも知れない…


田の持ち主が置いたのだろうか…外側に休憩用の置き座が放置されていた。


田の背面を撮影している。
そこは平坦な草地になっていた。経年変化で沼が自然と埋まってしまったのか、あるいは昔は森林との境目あたりまで蛇瀬川が向かっていたのだろうか…


森林の境目あたりを丹念に調べれば何か得るものがあるかも知れないが、市道沿いのこの場所はとても目立つ。まして個人の田んぼの周辺をうろうろするのも憚られるので自重した。
古い川の石積みが遺っていれば決定的なのだが…

ここまでを撮影し撤収した。
真相を調べるには別の手段が必要だ。


過去の世界を覗き見するなら、国土画像情報閲覧システムに勝るものはない。

これは昭和49年度版の国土画像情報による現地付近の航空映像である。


既に小羽山ニュータウン開発が始まっており、工事用の大型車両乗り入れの要請からこの市道の整備工事も進んでいるようだ。既に蛇瀬川が水路状に見えているので、やはり蛇瀬川の線形確定が先で後から市道を合わせたらしい。

さて、該当箇所を観察すると、如何にも微妙だ。確かに現在は田んぼとなっている縁をなぞるような蛇行部分が見えている。そして現在の市道に沿ってこの三日月部分をショートカットする水路らしきものも見える。新しく造る市道のカーブを最小限に抑え、蛇瀬川もそれに合わせて付け替えたように思われる。したがって現況の市道は荷物も偏るほどの酷いカーブなのだが、これでも河川と共に「最大限屈曲を抑えた線形」ということになるのだろう。

三日月部分より内側は高木が見られず平坦になっている。蛇瀬川が護岸整備される以前は、豪雨で川の流量が増えたときこの部分まで水が押し寄せていたのではなかろうか。そこまでなれば普通なら蛇行の突き当たり部分が削られ、最終的には直線となる筈である。実際そうならずここで反転するが如く大きな曲がりになったのは、その先に硬い岩盤があって永年の流水によっても削られなかったと考えられる。この辺りの精密な検証は現地の地質調査まで必要になりそうだ。
【 記事公開後の変化 】
記事作成日:2016/6/20
最終編集日:2018/12/31
今となっては地図や現地の状況を調べるだけでかつての蛇瀬川の痕跡であることは殆ど確実に思われる。そして最終的な決定打として、この三日月部分が生じる以前のモノクロ航空映像を閲覧する機会に接した。そして昔の蛇瀬川が三日月領域のみならず更に南側まで押し寄せていたこと、それから反転して現在の市道より北側まで蛇行していたことが確認された。したがって当初提起されていた仮説としては真である。
モノクロ写真は版権の問題が解決された折りには当サイトにも掲載する

この異常な蛇行の原因は、現在の市道と蛇瀬川が位置関係を入れ替える付近に堅い露岩が著しく近接していて流路が絞られる場所があり、水流が加速されたからでは[1]と思われる。加速された河の水は真っ直ぐ南へ下る途中、水流では削り取れない程の堅い岩盤があるために流れが反転し、反動で現在の市道より北側まで押し寄せていたようだ。

水流の狭まる場所は古道の市道維新山西山線が小さな峠を越えて再び蛇瀬川付近まで降りてくる地点である。


古道が蛇瀬川を避けてわざわざ小さな峠越えルートとなっているのは、かつてこの場所より下流側には蛇瀬川に沿って安全に通れる幅の道がなかったからではと考えている。

蛇行の著しい付近の字名は刈川(かりかわ)である。別の書籍では蛇瀬川の古い呼称として苅川という記載がみられる。この名称は「涸れ川」に由来すると考えている。通常は水量が少ないのに大雨が降るたびに上流からの水でこの屈曲地点付近で流路が定まらない位に荒れていたのだろう。

2018年のこと、ある古文書に接する機会を得た。綴じ込まれている絵図を閲覧することで、この地点の異常な屈曲はもちろん蛇瀬川が現在の真締川へ注ぎ込む位置も少なくとも明治期には定まっていたことが判明した。


絵図には区分けされた田の面積と所有者が細かく記載されており、道や川も色分けして記述されている。そこに記載されている蛇瀬川の経路は現在とほぼ同一であった。


真締川接続部での蛇瀬川は護国神社のある尾根を巻き込むように曲げてあるが、これは田の面積を少しでも確保するために土手を築いて意図的になされたものと思われる。
出典および編集追記:

1. 流量が一定ならば河川の断面積が狭まれば流速は増加する。(ベンチュリ効果)

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