厚東川・一の坂地区【1】

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時系列としては「市道一ノ坂黒瀬線【2】」の続きとなる。小野湖の水位低下に乗じて前回調べきれなかった水没階段を調べることができた。


市道一の坂黒瀬線はここからコンクリート階段の方向と同じく小野湖上を渡って右岸の黒瀬に到達するようになっている。コンクリート階段は単に湖面へ降りるためのもので恐らく市道とは関係ないと思われるし、この先よほど水位が下がらない限り調べようがない。
他方、この市道の行方からは離れて小野湖が出来る以前の昔の道があるという情報を得ていた。

水位の低い今なら、もしかすると古道の一部が現れている場所が見つかるかも知れない…という期待があった。それで水没階段の撮影後、古道を含めて何か古い痕跡が見つからないか汀を踏査してきた。

左岸を遡行している。この近辺は通常なら壊れた石積みの下あたりまで湖水が及ぶ場所だ。


振り返って撮影。
石積みの下が道だったようにも思える。しかし道路線形はまったく分からずただの斜面のようでもあった。


石積みのある場所までは湖に向かって一定勾配の砂礫斜面だったが、その先は堅い粘土質の地面になった。


水面下に隠れる部分でこの粘土質の地面なら、何十年経とうがそう大きく変わるとは思えない。ここが人の行き交う古道ならもう少し平坦であるべきだ。あるいはここは古道ではなく、先のコンクリート階段のところから更に高度を下げ、水没してしまっているのだろうか…

道路ではないが人の手の加わった遺構を見つけた。
小野湖に向かって伸びる陶管である。


粘性土の地面に埋もれており、先端の2本のみが地表部に現れていた。もちろんこの場所も通常ならダム湖の水面下になる。


現在ではまず使われない資材だが、陶管はかつて用水を回したり家庭からの排水用途によく使われてきた。今でもそんなに珍しいものではなく、昭和期の家屋跡などに観られる。


接続された形で先端が若干下向きに埋まっていたので、この上部にあった田畑からの排水用だったのだろうか。
案外小野湖ができた後で水位の低いとき設置されたものかも知れない

先の方まで辿ってみたが古道らしい感じはみられないし、人の手が入った古いものも見つからなかった。
赤茶色の地面が続く様子は火星の表面のようだ。


汀から離れた場所に直線部分が見受けられたのでもしや…と思った。
たまたま湖水が打ち寄せられた跡が直線上に残っただけだろう。


その先は半島部が湖に張り出したところで歩いて行ける平場がなくなっていた。


この岬部分で引き返した。


振り返って撮影。
意外になだらかな斜面になっている。崩れにくい粘土質の地面を砂礫が覆っている状態だった。


汀寄りの荒れ地には、古い瓦を山積みした痕跡があった。
年月が経ってかなりが崩れ落ちていた。


このように古い瓦が積み上げられた場所は、かつては何処にでも観られた。たとえ古くても割れていない瓦はいろいろな用途に再利用できる貴重な資源だったからだ。
例えば納屋や肥溜めを造ったとき屋根として使い回したり、積み上げて泥を間に挿入して塀を造っていた。家を解くときにはこういった再利用を見込んで、木製の滑り台を屋根にたなげて瓦を破損させないよう滑り降ろし、別の場所に積み上げ保存していたのである。
子供のとき瓦降ろしを手伝ったことがある…土まみれになるもの凄い重労働だった

市道が物理的に道を失っている場所まで戻ってきた。
あの階段のところからここまで道が存在し得ただろうか…そうだとすれば粘土部分との段差が気になる。


現地を観る限り想像はつかない。
古道なら相応の往来があったので道もそれなりにしっかりしている筈だ。しかしあのコンクリート路部分が終わっているところからどう思っても繋がらない。大きく抉れているのである。


初めてここを訪れたとき、真っ直ぐ湖に向かって伸びていく石積み部分の上だけが見えていた。それで石積みに沿って道があるものと考えていたのである。

あるいはこの石積みの上側を通っていたのだろうか…
砂礫部分と粘性土部分で1m近い段差がついている。ここに以前からの道があったなら粘土部分を削っていただろう。


この抉れた場所には数ヶ所、木製の杭を打ち込んだ痕跡があった。先端部分がタケノコのように突き出ている。
桟橋の痕跡だろうか。
両足の先にそれぞれ尖った杭の先端が見えるだろう


石積み部分も下部は波に洗われて殆ど崩落していた。
まったく顧みられず数十年も放置されればこの程度にまで自然に還ってしまうものなのだろうか。


しかし市道の下り勾配からすれば、石積みの下に古道があったと考えたくなる。
年月によって波で削られたような気がする…


あるいは親父の記憶と共に全くの思い違いをしていて、古道は別の場所から湖底に向かっていたのだろうか。
南北道路ではないとしても少なくとも一の坂とかつて湖底にあった集落を連絡する道だったのは確かと思う

残念ながら古道の痕跡を辿るのは非常に困難だろう。たまさか数十年に一度レベルの深刻な大干魃があれば地表に姿を現すことがあるかも知れない…しかしまさか期待するなど不謹慎であり、仮にそういう事態に見舞われたなら日常生活に難渋して恐らく古道探索どころではなくなっているだろう。

進展はみられないと思うが、もし特筆すべき追記内容が生じたなら、横話ファイルから単独記事に移行する予定である。
【 本項目記述後の変化 】
項目記述日:2017/6/11
その後国土地理院の提供するモノクロ航空映像[1]によりこの周辺の地形がかなり明らかになっている。その先は湖底まで降りるのではなく臼木方面まであまり高度を変えない川沿いの道だったようである。小野地区への往還路という意味あいで小野街道とも呼ばれていたようである。[2]

小野湖の水位変動に伴い古道部分を含めて斜面が侵食され続けている。上記写真にある湖底へ降りるコンクリート階段は既にバラバラに崩れ、路面のアスファルト部分も一部が洗い流されている。
近年、斜面の補強目的で県が大型土のうを設置して古道部分のアスファルトが完全に取り除かれた。本項目記述現時点で小野湖の水位は前項における写真より更に数メートル低下しており、大気中に露出した斜面は砂地が乾くため一層崩れやすくなっている。
出典および編集追記:

1.「小郡 1948/1/19(昭和23年)米軍撮影の航空映像
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2. 地元在住者からの聞き取り情報による。

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