真締川・砂どめ井手

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記事作成日:2014/11/23
最終編集日:2020/1/2
砂どめ井手は真締川の上流から4番目にある井堰[1]で、その名の通り主に上流からの流砂を止める役割を果たしている。
写真は正面からの撮影。


地理院地図で位置を示す。
拡大操作すると井手を表す横線が現れる


上記の地図でもかなり横幅がある堰堤として記載されている。既に相当量の砂が溜まっているようだが、堰堤の上流側へから接近して確認する手段がない。

平成期に造られた真締川ダムの余水吐を除けば、砂止め井手は真締川において最大の落差が発生する箇所である。ダムの下流にあたるので、常時河川の水が滝となって流れ落ちている。昭和中期まで子どもたちが水遊びしていたという話もある。

また、砂止め井手は宇部に初めて本格的な上水道建設案が持ち上がったとき、水源地として最初に検討された場所である。[要出典]旧宇部村エリア(川上村)にあるため水利権交渉が容易で、需要地の市街部まで比較的近く建設コストが少なくて済むため当初は多数派であった。しかし「宇部村内の水は(水利権の兼ね合いから)いつでも採れる、今水量豊富の厚東川の水を利用しなければ先々では難しくなるかも知れない、ぜひ厚東川の水を利用したい」として水源地の変更を主張したのが渡邊祐策翁であった。
《 概要 》
前述のように、宇部の街へ水道建設を行おうとした大正期の祐策翁のエピソードがあり、このときの記録に砂止め井手の語が現れているので、初期の井手は大正期には既に存在していたとみられる。ただし現在ある高さ6メートル近いコンクリート製のものであるかは分からない。これより下流側に中央部を破壊されたコンクリート構造物があるのでそれが初期の井手かも知れない。採石所(宇部協立産業株式会社、以下「協立産業」と略記)が近くにあるため、採石にあたって土砂が河川へ流れ込まないように現在の高い井手を責任施工した可能性もある。

左岸側から堰堤上部から撮影。
越流部は特別な機構はなく堰堤を越えた分がそのまま流れ落ちるようになっている。
脱出不能となる可能性が高いので決して堰堤流水部への下降を試みないこと


砂どめ井手の下流10m程度のところに中央部が削られたコンクリート堰堤がある。
これが初期に造られた砂止め井手かも知れない。


堰堤は中央部が破壊されているため、現在のより高い砂止め井手を上流側に造った後で流下を妨げないように壊された可能性もある。ここで分断されているため、足を濡らさず堰堤を渡って対岸へ移動することは不可能である。

恐らく砂どめ井手と直接の関係はないが、管理道から河床へ降りる斜面に未知のコンクリート塔のようなものが藪に埋もれている。
管理道側からはその存在すら分からない。


まだ充分に調べられていないが採石場で初期に使われていた貯留ヤードではないかと思われる。このコンクリート塔の斜面下部に分水桝のような遺構が発見されたものの殆どが土砂に埋もれていて詳細は未確認。

落下口付近は滝壺のように若干深くなっている。
この場所は昭和中期頃まで子どもたちの水遊び場にもなっていたようである。


やや離れた位置から撮影。


後述するように、正面から撮影できるこの場所へ到達するのも困難である。これより下流側は夥しい枯れ竹が垂れ掛かっていて川筋すら判読しづらい程である。井手より上流側は両岸共にイバラやツル系植物で覆われていて地山も確認できない。対岸へ移動する方法はない。
堰堤の裏側は長細い堰き止め湖のようになっている。既に相当量の土砂が堆積しているように思われるが詳細は未確認。また、堰堤中央下部には排砂孔が設置されているように思われる。ただし開閉のための機構は見当たらなかった。
《 アクセス 》
砂どめ井手は真締川に存在する11ヶ所の井手のうちもっとも接近が困難である。堰堤の高さは6m以上に達し、堰堤の上部は斜めに切り欠かれており、不用意に踏み込めば脱出不能となる。現地より手前からは徒歩のみのアクセスとなり、河床へ到達するには落ち葉で滑りやすい藪の斜面を降りる必要がある。川底は角張った大きな岩が多く、鉄筋が隠れている場所もあり転倒すると大怪我を負う恐れがある。

注意この物件への接近は危険を伴います。現地踏査をなさる方は自己責任において慎重に行動することを強くお勧めします。

【 上流側からのアクセス 】
冒頭の地図の通り、砂どめ井手は真締川が協立産業の採石場敷地内を流れる区間の下流寄りにある。徒歩または自転車で往来可能な道はあるが、採石場が稼働している平日中は重機などが往来していて危険なため立入禁止となっている。ただし採石場は日曜祭日は休みなので、東小羽山町側から降りることが可能。[2]

写真は上流側から訪れたときの里道の末端部。
東小羽山町側を向いて撮影している。


ただしこのルートは重機など一般人には危険な物品が置かれているヤード内を中を進むこととなり、また真締川沿いとなる道を見つけるのが難しいため勧められない。
【 下流側からのアクセス 】
元眞寺から先の真締川沿いの道を進む方法である。この道は里道で車での進行も可能であるが、最後の民家を過ぎた先から道が荒れている。写真は四輪が転回可能な最後の場所。


元眞寺とこの場所の間に上流より5番目の井手となる北畠井手がある。
四輪の通り抜けできない行き止まりの道であるため、車で進行すると不法投棄の嫌疑を掛けられるかも知れない。元眞寺からそれほど距離もないので、寺の前に車を停めて歩く方が良い。

畑地を右側に見る辺りから登り坂となる。道普請は殆どされておらずほいとを隠し持った雑草(コセンダングサ)が繁茂しているので気になる方は用心する。春先から夏場にかけては進攻自体が困難となる。
坂を登り切った辺りにチェーンの張られた柵がある。立入禁止と掲示されているが土日休日は稼働していないため先へ進攻して良い。
このチェーンと立入禁止のタグは取り除かれている…近年の変化を参照


この柵を過ぎると右からの採石場の管理道と合流する。この辺りから左側を流れる真締川より砂どめ井手を流れ落ちる水の音が聞こえるようになる。
井手のある場所は、砂防管理地区を示す立て札のある手前である。


少し藪の薄い場所から眺めれば砂どめ井手の堰堤部分が見える。
【 河床への下降について 】
河床までの高低差は10m近くあり、安全に降りるのは難しい。斜面の傾斜がきつく落ち葉が大量に堆積していて滑りやすい。手がかりとなる生きた竹や樹木にも乏しく、採石地らしく斜面の下の方には黒くて硬い岩が大量に転がっている。昇降のための用具は要さないが、ある程度の場数を踏んでいなければ立ち往生してしまう。

堰堤のすぐ横の斜面から降りて体勢を確保する。そこから手がかりとなる生きた竹や樹を見つけながら井手より離れる方向へ斜めに降りていく。


斜面の中ほどまで降りたところ。
特に斜面の下側半分が痩せていて最後の河床へ降りる部分が難しいため、無理をしないこと。


登りは下降よりも体力を要するが容易である。先述のコンクリート塔のようなものの周辺は藪と地形の起伏が激しいため避けてそれより上流側で登るようにする。


当然ながら両手を空けて足掛かりの良い靴を履き、相応な体力と身のこなしが前提である。
《 その他 》
冒頭部のエピソードを含めた考察をここにまとめて記述する。
【 砂止め井手を水源としていたらどうなっていたか? 】
宇部市の人口が急上昇し、井戸水からの取水では賄いきれなくなった。このため真締川(新川)から汲んだ水を生活用水を利用することが頻繁に行われ、水質の問題から深刻なコレラ蔓延の遠因になった。このため近代的な上水道が求められることとなったのだが、最初期はその水源地を何処にするかの問題があった。

近隣地区を視察した結果、渡邊翁は真締川ではなく厚東川に水源を求める提言を行った。当時としては最寄りでも宇部市エリア外となる藤山村からの取水となり、しかも距離があるためにコストが嵩むのは明らかだった。このため市内の川上地区にある砂止め付近からの取水が検討され、元はその案が大勢だった。しかし渡邊翁は厚東川からの取水を主張し、現在でも真締川の水は灌漑用水にしか利用されていない。
公的施設で真締川の水を発電や工業用水に利用した歴史は一度もなく現在も同様である

もし低コスト案を勘案して砂止めからの水を飲料水としていたらどうなっていたかは、その後の工業都市としての発展を勘案すればまったく明らかであろう。目先は需要に応えることができたものの、ほどなくして再び供給が追いつかなくなっていた。この辺りの事情は、常盤池の渇水問題に対処すべく、福原家直轄事業として建設が進められていた御作興に相通じるものがある。実際、上水道の水源地のみならず、常盤池の灌漑・工業用水から県営厚東川ダムの工業用水に至るまで、宇部の街の水はそのすべてを厚東川に依存しているのである。まとまった水量を持つ河川は厚東川以外になく、再び厚東川より水を導く案を再検討しなければならなかった。

沖ノ山水道の初期の取水は、沖の旦で行っていた。これは発足したばかりの宇部市にとって藤山村は隣接村であり、昭和開作の施工で宇部市とは経済的な交流も早くからあったため交渉が容易だったのではと推察される。後に末信へ取水所を移したときには厚東村との交渉が必要だった筈で、藤山村より遠く宇部市との関係が薄い厚東村と水利権交渉するのは困難だったのではと予想される。実際、祐策の後に常盤用水の建設案が持ち上がったとき、末信地区で猛烈な反対に遭っている。
【 砂止めという名称について 】
砂止め井手のある場所は大字川上字青木で、井手の名称に地名や用水路名が含まれていない。したがって当初から上流より流れ来る土砂をここで堆積させて下流に及ばないようにする目的が主だったと思われる。取水のための設備は左岸側にあったようで、現在でも僅かばかり水路の痕跡がみられる。
《 近年の変化 》
・下流側から辿ったときかつて協立産業ヤード前に立入禁止の札が下がったチェーンで道が塞がれていたが、札がなくなりチェーンも外されている。
写真は上流側からの撮影で、右側にチェーンを留めていた鉄柱が見えている。


元真寺から真締川沿いに続くこの道は里道である。一般に里道は塞ぐことが認められていないため対処されたのかも知れない。ただし単に老朽化して外れただけの可能性もある。いずれにしてもこれより先へ進むことに何ら問題はない。

・2018年10月に砂どめ井手の堰堤入口付近に設置されていた砂防指定地の標識が更新されている。


以前より標識自体は存在していたが、経年変化で真っ白になり何の標識かも分からない状態になっていた。
初めて砂どめ井手を訪れたときの踏査レポート。全4巻。
時系列記事: 砂どめ井手【1】
なお、一部の画像の品位が悪いため2019年末の再撮影後に削除され原典画像が存在しないものがある。
出典および編集追記:

* 要出典項目について。近代的な上水道の水源地候補として記述しているが、常盤池の渇水対策としての水源(即ち常盤用水路の水源地)だったかも知れない。図書館において某かの書籍で「砂止めより引水し云々…」の記述を見つけた記憶があるので、いずれかの水源地候補として砂止めが検討された事実は確かである。出典の確認待ちであるが、年明けでまだ図書館が開いていない。確認後記述を修正する。

1.「ふるさとの水」(山口県ふるさとづくり県民会議)
また「小羽山」(小羽山小学校開校10周年記念誌)p.8 にはマップに位置を記載する形で示されている。

2. 採石場が稼働していないときには徒歩での通行が容認されているようで、周辺地区の在住者は普通にヤード内を通行している。この他に「小羽山付近の史跡と伝承」では”採石現場の工事は日曜祭日は行われていないので真締川へ降りることができる”という記述がある。(p.12)

3.「FB|2014/11/23のタイムライン
《 個人的関わり 》
砂どめ井手へ向かう経路は採石場の管理道であり最近まで進攻していなかった。
初めて砂どめ井手を訪れる一週間前のこと、真締川の上流を辿っていてたまたま地元在住民に案内され管理道に入る機会があった。そのとき「この近くに砂防堰堤があるが管理道からは見えない」と教えられたのが概略の所在地特定の鍵となった。

採石場は稼働日は大型機械やダンプが行き交い危険だが、日曜祝日は工場が止まるため地元在住民は散歩などで結構通っているようである。

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