市道亀浦線・横話

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ここでは、市道亀浦線の派生的記事をまとめて収録している。
《 県道取り付け道 》
大した派生的話題ではないが、本路線には県道宇部空港線に面する別の取り付け道がある。実際の取り付け部分よりも北側、大沢西交差点寄り側である。
県道からの接続部を地図に示す。


大沢西交差点から来た場合、ここからだと終点付近の経路には直線的に接続される。


元からの市道亀浦線とほぼ同じ規格の道だ。


T字部分から振り返って撮影。


このような道路形態の場合、どちらか一方のみを市道の路線として指定されることが多い。そして実際、市道亀浦線としてはこれより空港寄りにある取り付け道部分のみが市の管理で、この区間は地元管理の道となっている。
ただ、単一の認定市道で枝道部分を持つものも一応存在する。枝線の先に市の管理する公園などの施設があったり、枝道部分にも同程度に通行需要や民家があったりする場合[4]だ。この場合も枝道部分が相応な長さを持つときは本体部分から切り離し、別の認定市道名を与える場合が多い。
《 市村境界石【2】 》
市道亀浦線の途中に市村境界とだけ陰刻された直方体の石がみられる。


材質は恐らく花崗岩でかなり整形された四角柱をしている。
電信柱に寄り添うように設置されていた。
電柱を建てるとき動く筈だから後から据え直したものであろう


彫りはそれほど深くないものの文字がハッキリと読み取れる。
読みやすいように墨入れしたようである。


これはかつての宇部市と西岐波村の市村境界として設置されたものである。西岐波村が宇部市に編入されたのは昭和18年なので、石碑はそれ以前のものと言える。

宇部市と西岐波村の境界は黒岩付近までは周防国・長門国の国境に一致することが分かっているので、鍋島から北側に向かって市村境界の石碑を辿ることで昔の国境を調べることができる。[2]
記事を制作する現時点でこれと同じ市村境界の石碑は他にもう1ヶ所だけ確認されている。サイズは若干小さいが同様の形状なのである程度量産されて国境に沿って設置されている可能性がある。具体的に何処へ何ヶ所くらい設置されていたかの調査は今後の課題だ。
《 亀浦古墳 》
市道亀浦線の終点から更に海へ向かう里道を進むと右側に亀浦古墳がある。


里道に沿って空き地が続き、その一番海側に土塁が遺っている。


現地の説明板。
この土地自体は市が一個人から買い上げたものとなっている。


古墳の周囲は簡単な木杭とロープで囲まれているだけで近づいて観察できる。


マウンド状に盛り上がった土の上に木が生えているだけだ。
ここから古墳をイメージするのは難しいかも知れない。


里道の反対側から撮影。


確かに古墳と言えば教科書に載っているような広大なマウンドを思い浮かべる。現状はやや大きめの「土まんじゅう」と言える。そして同様のより小さな土まんじゅうは、かつては市内でも割と多く観察されたようだ。[1]

実際に現地を訪れたという人は多くないにしても、亀浦古墳の存在自体は小学校の副教材などでも紹介されている故に知名度は高い。ただし本体記事側でも述べたように本路線の終点付近に駐車場がなく車で訪れることができない。道中に「亀浦古墳 この先100m」のような案内板が設置されていないのも駐車場の問題からだろう。

亀浦古墳のある場所は海に面した高台で、高波を避けて暮らしつつ海産物の採取が容易だろう。近隣の塚穴と並んで昔から人の営みがあったことを窺わせる。このことは後述するように”亀浦”という地名の由来を考える上ではあまりに古くから人の関わりがあった地であるため考察を困難にする一因となっている。
《 境界石 》
亀浦古墳から更に先へシングルトラックの道を進むと、正面に石柱が見えてくる。


すぐ傍に携帯会社の電波塔と思われる塔が建っている。
割と最近設置されたものらしい。


国境と刻まれた新しい石碑。
その横に説明板が設置されている。


説明板にある通りこの国境石は、かつて鍋島が周防と長門の国境だった目印の代償として設置されたのである。


国境石はこれ位の大きさだ。


反対側から撮影。
別の面に刻まれた周防の文字は背後が狭く撮影できなかった


この国境の石柱から始まって先の市村境界と辿っていけば、周防と長門の国境が何処を通っていたかを推定できる。国道190号の中央分離帯には移設された国境石が存在するし、その北側にある昔の生活道にも市村境界の石碑が見つかっている。

周防と長門の国境ラインは鍋島付近に始まり現在の島根県境のある地点に向かっている。
かつての国境を同定するためのどんな遺構が存在するか検証しつつトレースするのは壮大な課題である。結果は散発的には知られているものの現時点でどれほど精密なデータが得られているかは分からない。対象範囲を宇部市に限定してもなお判明している国境部分はラインではなく散発的な点でしかない。
《 亀浦について 》
亀浦(かめうら)は市東部にある地名で、現在でも亀浦1〜4丁目として現在の住居表示の一部となっている。
写真は国道190号亀浦交差点の地名表示板。


現在の亀浦には小字としての亀浦でない部分も含まれている。亀浦から派生した小字は多い。本路線の起点は先亀浦であり、宇部線より北は東亀浦、県道宇部空港線と市道丸山黒岩小串線の交点付近は中亀浦で、その北側には亀浦入口という小字も存在していた。

浦島太郎の物語として知名度の高い亀という語を含むため、亀浦という地名にロマンを感じる人は多い。名脇役として登場する竜宮の遣いとなる亀を想起させる。この地で遙か昔、漁師を助けた亀の話でもありそうだと感じられるだろう。市内において亀が人間の助けとなった伝承は確かに存在する。亀浦ではないが、持世寺温泉の泉源はたまたま持世寺川の水底を徘徊していた一匹の亀によるものとされる。[5]

しかしこの地で亀と人との関わり合いを明確に伝える著名な昔話や伝承は知られていない。もしかすれば地元の長老によって語り継がれてきた話はあるかも知れないが、遺憾ながらそれが亀浦の地名の由来である可能性は低い。多くの場合、後世に地名を遺したいと願った当時の人々による附会である。
そのようなことが言えるのも、開拓して新規に人々が暮らし始めてからの歴史が浅い土地は別として、昔から人が暮らしていた地名が動物そのものに由来する事例が極めて少ないからだ。その土地に固有の地勢(崖や急な坂など)に由来してつけられる場合が最も多い。

「亀浦」の「浦」が海そのものを指すことに疑いはない。これは海に面した地によくみられる呼称であり漢字表記である。しかし「亀」は必ずしも生物の亀ではなくその音あるいは似た音を借りて漢字表記している可能性もある。
最も有り得そうなのが「瓶(かめ)」であろうか。実際、本路線の終点付近に亀浦古墳が存在している。一説として亀浦古墳の甕に由来するのではないかという指摘があり、この他に陸生の石亀が多い場所だった、海亀がよく上がってきた場所という説もある。[3]

あるいは「かめ」に似た音の「上(かみ)浦」も考えられる。どこか基準となる地があって、そこよりは上の地にある浦という考え方だ。音の一部を省略したり、訛って伝承されることは地名に限らず普通に起こり得る現象だ。

今、亀浦をキーワードに検索してみたところ、鳴門市に亀浦(かめのうら)港という県道名にも使用されている地名が見つかった。亀も浦も海に関するキーワードであり、何かの特性を持つ浦が地名の由来になったと想像される。
開拓などで人が住み始めてから時代が浅い場所ならともかく、いつから人々の暮らしが営まれていたか定かでない程に古い地名の由来に対しては誰も確定的な正解を見つけることはできないだろう。

先に周防と長門の国境の話題が出てきたので関連づけて述べると、現在の宇部市において旧西岐波村・東岐波村が周防国に属するものの、宇部村領域の殆どは長門国である。ただし現在の亀浦1〜4丁目のうち3丁目と4丁目の一部には周防国に属する領域があり、[6]住居表示改定後の地名において亀浦以外ではあすとぴあのみである。
出典および編集追記:

1. 梶返の塚穴川や石原付近にも小さな土まんじゅうがあったようで、昔の埋葬跡と考えられている。

2.「FB|宇部マニアックス」2013/8/26投稿分の読者コメントによる。(要ログイン)
ただし鍋島本体は古くから周防と長門、宇部村と西岐波村の境界としての目印だったとされているものの、鍋島本体は長門国の岐波へ属していたとされている。「ふるさと歴史散歩」p.85

3. 常盤池の底に沈んだ常盤原にはかつて亀ヶ淵と呼ばれる地があったとされる。現在には伝わっておらず伝説めいた地名だが、他地区の海沿いに亀の語を含む地名がなく、亀が多かったという説を補強している。現在の八王子先にある亀ヶ瀬は漁場の一つとして知られていた。
また、草江付近の海岸で昭和初期大亀が生け捕りにされ見せ物とされていた史実があり、付近一帯に亀が泳ぎ着いていたのは確からしい。

4. 前者としては図書館への出入口を枝線に持つ市道真締川東通り線、後者の例では市道新町線などがある。

5. 持世寺温泉上の湯(かみのゆ)はかつて亀の湯であった。そこには上記のような伝承がある。(上の湯総支配人の談話による)

6.「Wikipedia - 周防国|領域

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