市道名切笹山線・横話

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この記事は、市道名切笹山線の派生的記事をまとめて載せている。
《 芝中の御大典記念碑 》
現地踏査日:2014/3/9
記事公開日:2014/3/9
本路線と市道名切線の交点部にある小さな墓地の角にひっそりと御大典記念碑が設置されている。


所在地を地図で示す。
上の写真は南を向いて撮影している。


市道の終点側から撮影している。
こちら側の面に御大典記念と彫られている。


下の方は草に隠されて読み取りづらくなっていた。
石柱は至る所が欠けている。
草を押しのけて文字部分を拡大撮影した…上半分下半分


カーブの内側に設置されている。周辺が墓地で墓石特有の花崗岩柱が多いので紛れてしまい最近まで存在に気付かなかった。
背後にある地蔵尊は無縁仏を祀るためのものだろう


道路側の面には芝中講中と刻まれている。
同地区在住の人々により設置されたことを示すものだろう。


御大典(即位の礼)はそう頻繁に行われる儀礼ではないから、おのずから設置年の候補は絞り込まれる。
この記念碑は昭和時代なので、設置年月は3年11月だ。皇室儀礼から1ヶ月も2ヶ月も遅れる筈がないからだ。


背面は何も彫られていなかった。
上と下に細い穴が空いている。祭りのとき幟を固定するためのものだろう。
通常のものに比べて孔が小さいようだ


この石碑の傍は墓場で、特に道の角部分は無縁仏が合祀されていた。


初めてこの御大典記念碑に気付いたのは今年の1月のことで、墓参客の姿もあったので手短に撮影してそのときは帰った。このたび再度訪れたときもなるべく一般向けの墓石が大きく写り込まないようアングルには気を遣った。しかし周囲に誰も居ないので、見落としたものがないかちょっと時間をかけて記念碑の周辺も調べた。
この過程で御大典記念碑と関係在るかどうか分からないが、墓石の集められている場所と道との境に文字の刻まれた石柱が見つかった。

錆び付いた鉄柵を固定している2本の石柱である。
どうも神社などに設置されているものに似ている気がしたので、調べているうちに文字が刻まれていることが分かった。


横から写したところ。
奉納だろうか…最初の一文字はかなり明白に読み取れる。


道路側には設置時期を示す年号らしい文字が見えかけていた。しかし随分と前に設置された鉄柵がこの石柱にぴったりと固定されているため読み取れない。


鉄柵をちょっと動かしたかったが番線できつく結わえられていて微動だにしなかった。
もしかすると道路の角部分にこの墓園の入口があったのかも知れない。配置のされ方が何となく寺社の参道などに似ているからだ。
《 境界石らしき花崗岩柱 》
御大典記念碑のある場所の道を挟んだ反対側、恩田児童公園に向かう地区道の入口に境界石のような石柱を見つけた。
さて、この写真からそれが何処にあるか分かるだろうか。


ミラーのすぐ近くの植え込みである。
下半分が見えかけていた。


先に御大典記念碑の周囲を調べる中で別の石柱を見つけていた。
ここは古くからある道の交わる場所なので、感じとしては道標などがありそうな雰囲気に思えたのである。果たしてミラーの横に石柱が隠れているのを見つけだした。周囲には他に目立った石がなく、形状からしても余った間知石が転がっているのではないと分かった。

左手で植え込みを押しのけ右手で撮影している。
花崗岩柱で高さは1mくらい。表面は荒削りで残念ながら文字は何も刻まれていなかった。


道路と民家の垣根を作る植え込みであり、あまりガサゴソやるわけにはいかなかった。特に石柱の反対側は目視することもできなかったので、もしかすると文字の見落としがあるかも知れない。
しかしこれは行き先を明示した道標ではないと思う。外観からの推測だ。もし道標ならもう少し丁寧な角柱に仕立てるだろう。石柱は傍目にも荒削りなので、この場所へ建っているということに意味を持つ存在なのだろう。そうなればこの石柱は筆または字の境界ではないかと推測される。

石柱の設置された本路線は、現在では恩田と芝中の境である。小字絵図の古い作成年のものを見ると、この辺りは道を境に東側が芝ノ中、西側が下名切または上名切となっている。この石柱が3つの小字の接点を示すのかも知れないが、古い小字絵図には道路部分が記載されていないので石柱の絶対的位置が分からず確定的なことが言えない。

先述の御大典記念碑との位置関係。


本当のところがどうなのかは、芝中に関する郷土資料の存在如何によるだろう。記述がなければ、あの石柱が何であるかを説明できる人は今や本当に僅少な筈だ。そして時間が経つにつれて次第に解明の可能性は低くなり、最終的には「誰も存在の意味を説明できない石柱」となってしまう運命だ。
《 名切について 》
名切(なぎり)という地名は今のところ本記事にあるような芝中町と東岐波地区に確認されている。ここでは主に芝中の名切について記述する。

小字絵図によれば、本路線を挟んで西側の芝中町とされる地域の一部は、かつて上名切または下名切という小字だった。本路線の名称は通過する小字と終点の地名である。


この辺りは芝中町になる。振り仮名は「しばなかちょう」となっている。
しかし現在の芝中もかつては「しばのなか」と読まれていたし表記自体芝ノ中とも書かれていた。


地名明細書によれば、名切(なきり)として沖宇部村の笹山小村にある字芝ノ中配下の小名として収録されている。現在は芝中町という独立した町と認識されるが、更に昔は笹山の一部であったことが分かる。

名切という地名は現在では本路線を始めとする認定市道の名称にしか存在しない。この地名を明示した橋や踏切などの構造物は今のところ何も知られておらず、この意味で既に絶滅地名と言える。個人的にも幼少期からの関わりが薄い地で、名切という地名そのものをまったく聞いたことがない。

地名の由来はかなり明白に推測可能で、名切は波切りに通じ、「波を切る程度に浅い海に面した地」ではないかと考えている。即ち海の潮が遡行してきたとき散在する露岩で波が切れる程度に浸っていた地に由来すると思う。
現在では海岸線は遙か南へ退いておりこの辺りと海を結びつけるのは感覚的に困難かも知れないが、名切は見初に隣接していて、見初は溝状に遺った地を埋めて出来た地に成り立ちを求めることができた。
本路線および市道名切線を終点方向に辿ったとき、上記の御大典記念碑のある辺りは標高数メートルの地点である。周囲に民家が並んで確認はしづらいが、昔から海水に浸らない地山の末端部だったと思われる。

なお、東岐波の西寄りに名切池という溜め池[1]があり、恐らく同種の地名が存在すると思われる。小字絵図ではまだ確認できていない。海から遠い内陸部なので芝中の名切とは由来を異にする。浅瀬で波が切られる川の流れを形容したものだろうか。
出典および編集追記:

1. 地図によっては菜切池と表記されている。

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