市道上中堀岬線・横話

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市道そのものには殆ど関連性がないが、沿線にまつわる私固有の裏話をまとめて収録している。
それぞれの話題は収録元の市道上中堀岬線の道路レポートから呼び出されている。この記事のみを単独で読んでも理解できない場合があるのでご了承いただきたい。
《 丸久末広店 》
現地撮影日:2012/5/20
記事編集日:2015/1/24
情報この記事は分量が多くなったので独立記事への昇格を検討中です。変更後には独立記事へのリンクテキストのみ残して移動されます。

市道恩田八王子線の末広町付近に、かつては小規模スーパーで現在は改装された建物がある。
それはこの場所を起点とする市道上中堀岬線のすぐ横に存在する。


表題の通り、この建物はかつては丸久末広店だった。
後で述べるように開店の期日は手元の資料を調べることで正確に分かるが、いつ閉店したか覚えていない。

横から撮影している。
出入口は建屋の両端2ヶ所にあった。その中間の屋外に特売品などが積まれていたのは現在のスーパーと同じだった。
夜間は双方が入口・出口専用になっていた


屋根の色や看板が替わっているが、建物自体は旧来のまま使用しているようだ。
現在の施設に自分との繋がりはない…写真だけ撮っておいて言及せず申し訳ないが…

このスーパーの開店は自分にとっては2つの意味で驚きだった。丸信恩田店や現在のアルク恩田店が元ボウリング場だった建物を改装して造られたのに対し、丸久末広店は田んぼだった場所に全く新しく店舗が造られたこと、もう一つは開店1年くらい位前に自宅から南の方向へスーパーが出来る夢を見ていたからだった。
夢で見たのはこの場所ではなく市道長沢源山線沿いのかつて平屋があった場所

末広店が営業開始した昭和50年代後半は従来のデパートよりは小さく、個人の小売店よりは多彩な商品を扱う小規模スーパーの全盛期だった。背景に時代の流れがあったのか、店舗関連の法規制緩和に依るものかは定かではない。同規模同時期の新規店舗として丸久清水川店が存在しており、短期間にかなり濃い出店攻勢をかけていた。
セブンやローソンなどの大手コンビニ店舗が出現するのは平成期に入ってからのことだった

当時恩田に住む家からは離れていたにもかかわらず、私は結構この店へ買い物に行った。もっとも物理的な距離では赤岸にあった丸信恩田店の方がずっと近かった。両方の折り込み広告が入るので、欲しい商品がある方でまとめて買い物していた。
末広町は恩田からは自転車の射程距離なので、車で買い物に行くことは滅多になく殆どママチャリで出かけていた。特に多かったのは、小野田へ家庭教師に行って宇部岬駅から家へ自転車で帰るときに立ち寄るパターンだった。帰りは宇部岬駅で降りるのは午後9時を回っていたが、丸久末広店は10時まで開いていた。

店内の広さは丸信恩田店など当時一般的だったスーパーの半分以下で、それでいて商品の種類は殆ど変わらなかった。単一商品の数量は沢山置かないかわりに種類を重視していて、現在のコンビニの基礎的手法とも言える。陳列棚の間のスペースが狭く、買い物カゴを持ったままお客同士がすれ違えなかった。最初は慣れるまでかなりの圧迫感があった。
個人商店と違い、レジ係はパートの女性なので毎回殆ど異なりなかなか顔を覚えられなかった。お一方ほど学生期の自分よりずっと年上の髪の長い女性がいらして、学生の私が色物タオルを買ったとき「洗濯するとき気を付けちゃないと色移りしますよ」と教えて頂けたのが印象的だった。
今思えばあの当時から年上の女性志向だったんだろうか…

現在では丸久と言えばアルク、そしてポイントカードを連想するのだが、初期は他のスーパーと同様に買い物金額に応じたチケットを発行していた。このチケットはかつて則貞にあったスーパー白鳥と同じだった。[1]その後いつだったかは分からないが現在のカードシステムに移行した。

私が利用した中では、丸久は買い物の金額に応じてカードにポイントが磁気記録され、一定額に到達したら金券が発行されるシステムを確立した最初のスーパーだった。従来スーパーのようにチケットを台紙に貼るパターンの場合、レジで台紙をもらっておく必要があったし、何よりも貼る作業がとても面倒だった。ポイント制になっても手元にある白鳥スタンプは暫くの間台紙に貼って使うことができたし、サービスカウンターでポイント入力もできた。

カードの作成は無料で、ポイントを貯める目的だけなら未成年でも作成できた。それで私はすぐに自分専用のポイントカードを作成し、買い物でレジを通るとき提示した。レシートには現在のポイント高が印字された。500ポイントを越えると専用のチケットが印刷され、レジ係は500ポイントの数字を囲むように長方形を波立たせた形の赤いゴム印を押して客に渡していた。これは次回の買い物で金券代わりに使用できるので、かなりのお得感を醸し出した。
現在のアルクでも同様である…いち早くポイントカードを導入した丸久が成長した遠因かも知れない

これは当時丸久末広店で作ったカードで、紛れもなく初代のデザインである。ナンバーを刻印した部分が強度的に弱いせいかひびが入り、一度真っ二つに割れてしまったので粘着テープで補強している。
ローン機能は付属しないので番号を知られてもどうということはない


カードの裏面。本社の住所が違うし郵便番号が旧タイプである。


別に驚くべきことでもないのだがこのカードは私がアルクへ買い物に行くとき現在も使っている。この記事を書く前に夕食を買い出しに行ったのだが、そのときもこのカードを財布に入れて行った。
この”初代カード”で今も買い物している人はかなり少ないと思う。もっともこのカードを出したところで別にレジ係の人は驚嘆したりはしてくれないのだが…[2]

丸久は現在純粋にその名を冠して展開している店舗は少なくなり、殆どが「アルク」と呼ばれるブランドの店舗となった。
なくなったわけではない…現在も東平原にある店舗は丸久である
余談だが、丸久は昭和60年代初頭には県内でも少しずつ現れ始めたコンビニエンス分野にも参入し、「パコール」という店舗を展開していた。市内には恐らく一店舗もできなかったが、学生の集う山口大学近辺には平川店が造られよく利用していた。

冒頭にも述べたように、物持ちの良い私のことなのでその気になれば丸久末広店が正確に何月何日オープンしたのかを調べることができる。オープン数日前の特売折り込み広告を保存しているからだ。
日記帳に挟んでいる…現物を持っている人はもう誰も居ないだろう
ただ、調べるためには机を移動して押し入れの段ボール箱を引っ張り出し、該当する時期の日記帳を探さなければならず重労働だ。いずれはこの作業に取りかかるので、資料が採取でき次第、追記しよう。[3]
出典および編集追記:

1. チケットは横長の長方形で白地に薄水色の白鳥がデザインされたものだった。裏糊はなく自分で別途糊をつけて台紙に貼っていた。白鳥チケットと共用だった理由はよく分からない。チケット関連業務を白鳥に委託していたのかも知れない。

2. シールが剥がれ割れかけたカードを見てレジの方から「年季の入ったカードですね」と感心されたことがある。しかしカードを作り直しましょうかと言われたことは一度もない。割れているのをテープを貼って今も使っている位だから古いカードに愛着がある買い物客だと理解して頂けているのだろう。また、別のディスカウント系ストアで間違ってこのカードを出しかけたとき初代のカードと分かったらしく妙に珍しがられた。

3. 最近、この広告が日記帳の間ではなく別途の雑物を突っ込んでいた段ボール箱の中から見つかった。このことより丸久末広店のオープンが昭和57年8月20日だったことが判明した。
《 みさき公園 》
元記事の市道上中堀岬線とは無関係だが、行き止まり付近から岬駅通り線に抜けられる地元管理の道を走っていて奇妙な公園を見つけた。
「通り抜けられそうに見えた」最も鉄道側に近い道だ。


四輪が抜けられないことを確認後引き返そうとして、この地区道に面して小さな公園らしき空間を見つけた。
「みさき公園」という公園名の標識柱が立っていた。


およそ公園を標榜するなら一定の広さを持ち、寛げるベンチがあって草木が植えられていて、若干の遊具もできれば欲しいところだろう。
ところがこの公園は…
ベンチ3脚のみ…


しかも園内は草ぼうぼう…
一応、フェンスで囲まれて公園らしき空間は確保されているのだが、誰か利用する人があるのだろうかと思われる存在だった。
まさか市の整備する公園ではないと思うけど…

《 上中堀について 》
記事作成日:2015/2/6
路線名に含まれる上中堀(かみなかぼり)とは、起点付近にかつて存在した小字である。南北を通る市道恩田八王子線を境に東側のごく狭い三角形状領域が上中堀、その南側が荒手上で、メインの道を挟んで本路線が延びる側は末広町として記載されている。
この付近には馴染みがなかったから詳細は分からないが、末広町という町名が誕生したのは昭和50年代に入ってからだったと思う。前項の丸久末広店の開店と時期があまり違わないかも知れない。新聞か何かであの辺りを末広町という名前で呼ぶようになったというのを知ってからほどなくして丸久の店舗に末広店という名称が与えられた。
したがって恩田校区内ではありながら上中堀という地名には昔から聞いたことがなく、小字絵図を見て初めて知った次第だ。絵図では市道恩田八王子線より東側は末広町と記載されているので、かつてはこの領域にも字上中堀が含まれていたかも知れない。

上中堀は赤岸、新堀、五反田という沢地の下流側にあり、現在も水路の形で中川が通っている。かつてこの辺りには昭和初期まで比較的大きな遊水池ないしは沼地があった[1]ようで明治期の地名一覧として五拾目山小村内として中川浴筋の記載がみられる。[2]中川の由来と共に上中堀も古くから存在していた河川にまつわるものと思われる。海に近い場所であり、堀のつく地名は河川などの水量が増えたときの余剰水を集めるダブないしは堀が存在していたところによく見られる地名である。

本路線以外に上中堀という地名を現在に伝える構造物や地名標示板などはまだ知られていない。
出典および編集追記:

1. 昭和12年度版宇部市街図による。宇部岬駅の北側に池と川筋の記載がある。

2.「山口県地名明細書」(山口県文書館専門研究員 田村哲夫著)p.135

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