《 丸河内の私設の祠 》
現地撮影日:2014/3/18
記事作成日:2014/3/19
本路線のカーブの中ほど、市道上梅田丸河内線との接合点付近の植樹帯に小さな祠がある。記事作成日:2014/3/19
現在は旧道側を向いているため気付かれることは少なそうだ。
それでもこの祠まで手を合わせに行く人があるせいか、自然な踏み跡ができていた。
屋根はトタン葺きの堅牢なもので、その造りからは割と近年補強されたようである。
中には毛糸の帽子状のセーターを着せられたお地蔵様が一体格納されていた。
2015年の秋口に訪れたときの映像。
春夏には周囲は草に覆われる。しかし祠までの通路のみ通れることから手を合わせる人はあるようだ。
本路線にまつわる改良工事のところで少し述べたように、この祠は当然ながら私たちが現場工事に着手する前からあった。設計では改良区間の国道と旧道(市道部分)のこのエリアはマルチング(成形された白っぽい砂利を一面に敷き詰めること)となっていたが、祠をどうするかについての指示は設計図書にはなかった。現場代理人は触らないようにしておこうという判断だった。
現在は墓石を含めてどのような種の史跡も「昔の人が必要だと思ったから設置し大事にしてきている」という認識だが、当時はこの種のものは邪悪な霊が宿っていて憑いてくる場合もあるので手を合わせない、近づかない、視線をもっていかない等のように親からは一貫して否定的に教えられた。そのため比較的長期間この現場に滞在していたものの頓着したことがない。ただ、行きがかりに立ち寄って拝んでいる人の姿はあったように思う。現場に滞在している間、この祠に関する情報はいっさい耳にしたことがない。
【 記事公開後の変化 】
現地撮影日:2017/10/24
項目記述日:2017/10/26
山陽小野田市のサンパークへ行く便があり、運動を兼ねて自転車で向かう途中に現地で撮影してきた。項目記述日:2017/10/26
祠自体に殆ど変化はなかったが、現地へ向かう通路にかなりの草が生えて踏み跡が淡くなっている。道路建設に携わった想い出の地でもあり、この方面に自転車で訪れた折りには周辺の景観も含めてこの祠にはかならずカメラを向けている。
祠の内部にお地蔵様が格納されていることを視認したのみであり、台座に刻まれた文字などの詳細はいっさい調べていない。それほどの重要度がないことは外観から推測できたし、何よりも祠の中へ顔を突っ込んで調べていると賽銭泥棒と疑われかねないからである。市境付近に存在するということもあり、厚南地区の郷土マップに掲載はされていない。
詳細な経緯を知ることは殆ど絶望的と思われていたのだが、再度この案件について運営ページに投稿したところ、丸河内に在住の方が昭和50年頃に据えた私的なお地蔵様であることが地元在住者により指摘された。[a1]
かつて旧道カーブの角に大きな松の木があってそこに祀られていたらしい。恐らく初期の中原改良工事で若干位置を移動されている。お地蔵様が置かれたことで逆に事故が増えたと言い合っていた学童があり、それ故に古くから設置されていたものではないとのことだった。
上記のような経緯であることに加えてお地蔵様の造りがごく簡素であることから、この場所に何らかの関わりがあって据えられたお地蔵様ではないかと考えられた。一般的なお地蔵様は不遇の死を遂げた無縁仏を合祀したものが多い。この場所での不慮の事故となれば、近接する丸河内池での水難が想起された。
しかし台座部分には無縁仏の合祀によく見られる三界萬霊の文字が見られない。更に設置が比較的近年ということもあって、この場所での交通事故(もちろんかつて国道の本線であった旧道)にまつわるものかもと思われた。
更にその後の報告で、当時の小野田市内在住のある土木建設業者が工事現場で掘削作業中にお地蔵様が掘り出されたため、この場所に祠を造って祀ったということが分かった。したがってこのお地蔵様は丸河内溜め池での水難や国道での交通事故とはまったく関係がないとも言える。お地蔵様の据え付け後も暫くは設置者自身によって供花やお賽銭の管理をされていたようである。
土中から掘り出されるとはまるで常盤池本土手の飛び上がり地蔵尊を思わせるものがある。掘り出された別の場所が何処かまでは分からないが、案外この近くであり、例えば最初期に本路線の経路を対面交通仕様に拡幅工事したとき出土したのなら、その設置位置からして塞の神を祀った石仏ではないかとも思える。付近を市境が通っている以上、地勢的にも小さな峠だったと考えられるからである。峠は昔からムラ境であることが多く、こういった場所から入ってくる邪悪なものを阻止するために庚申塚や道祖神のようなものがしばしば設置される。
この項目は当初「未知の祠」として作成していたが、FBページで題材にしたことで詳細な情報が寄せられたため「丸河内の私設の祠」と改題して内容も若干編集追記した。現地は道路改良が完了した区間であり、祠のある植樹帯領域も交通にまったく支障ないことから今後も永く遺り続けるだろう。
《 旧道区間・山陽小野田市側 》
本路線の終点より先は現山陽小野田市内であり、市道収録の対象外である。しかし旧道としては一続きであったので山陽小野田市内側の様子も写真を掲載する。後述するように現在は本路線沿いに市境標識はない。
大手家電店の駐車場および建屋となっている。
旧道のセンターラインや路側帯はそのまま遺っている。
宇部市道へ払い下げられていながら、現在はこの家電店駐車場への通路のように機能している。
家電店の建屋の切れる先で現在の国道に合流し、一部は既に歩道や植樹帯に削られている。
国道の歩道へ飲み込まれる地点では、自歩道との相互往来ができるようにガードレールが切られている。
また、一段高いところにある集合住宅へのスロープが確保されている。
自歩道側から振り返って撮影。
この区間は国道から分岐して市境に至る本路線よりも若干短い。市道路課の地図では経路として表示されていなかったので、短いながらも山陽小野田市道となっているものと推測される。丸河内交差点を経て小野田市街部へ降りていく道(山陽小野田市道公園通り丸河内線)に含まれているか別路線扱いとなっているかは分からない。
《 旧市境標識 》
本路線の大きなカーブ外側に市境標識が設置されていたことを記憶にとどめている人はまだ多い。概ねこの辺りに建っていたと思われる。
私の記憶する限りでは、古い市境標識があった時代は現在の家電店がある場所は長門製作所の敷地で、道路に沿ってブロック塀が並んでいた。標識はそのブロック塀へくっつきそうな位置に建っていた。高さは2m程度の白いポールで、標示板20cm×40cm程度、青い枠線の中に「小野田市」とのみ書かれていた。
長門製作所の建屋は明らかに宇部市と小野田市に跨がっており、その独特な位置関係故に覚えている市民は多い。うちの親は「長門製作所は宇部市と小野田市の両方に税金を払わなければならず大変」とまことしやかに語っていた。じゃあ何で市境に跨がるように建てたんだろうと子供心にも不思議な気がしていた。
長門製作所はその後移転し、現在は家電店の敷地となっている。このときブロック塀と共に市境標識も撤去されたため元の位置はまったく分からなくなっている。現在の国道の市境標識は中原改良で新規に造られた道の中央分離帯へ設置されている。その位置は本路線にあった市境標識より随分と小野田側寄りになっているのが奇妙かも知れない。このことは地図で市境ラインを観察すると判明する。長門製作所の横にあった元の市境標識から東側は本路線を素直に横切るものの、その先で直角に折れて現在の国道改良区間の中を通るようになる。即ちこれは最初期の丸河内池の岸辺をなぞっている。現在の国道にある市境標識は、元の岸辺ラインと国道の中央分離帯ラインとの交点に設置されたものと考えられる。
丸河内池溜め池の岸辺をなぞる形で市境に設定したのは、溜め池の慣行水利権の問題からではないかと思われる。[b1]厚南地区が宇部市へ併合される以前の厚南村時代から丸河内近辺は物理的な境界よりも地域としての結びつきが先行していた。そもそも厚南村は厚東川の西岸であり大きな河川に分断されるため、小野田市側へ合併する方が合理的という考えも多かった。更に厚南村の西の端にあたる丸河内地区は小野田の若山に隣接し、昔から小野田市街方面との結びつきが強かった。宇部市へ合併する案が提示される頃から小野田側へ帰属することを希望した人々がある。そして現在でも字丸河内は宇部市と山陽小野田市に跨がって存在する。宇部市側にも字若山があるのは同じ理由と推察される。
なお、以上の記述は将来的に「宇部市の市境」に関する項目を立てた折には移動する予定である。
出典および編集追記:
b1. 山口市境にある黒谷池と山立石池を分け合う形で設置された市境において特に顕著である。
b1. 山口市境にある黒谷池と山立石池を分け合う形で設置された市境において特に顕著である。