飛び上がり地蔵尊

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記事作成日:2017/12/26
最終編集日:2021/5/1
飛び上がり地蔵尊とは常盤池の本土手西側にある2体のお地蔵様が格納された祠である。
写真は本堂と手水舎。


位置図を示す。


由来を知らない人々にとっては些か奇っ怪に思えるお地蔵様の名称である。現地の御堂や資料などでは「飛上り地蔵尊」となっているが、近年の看板などでは「飛び上がり地蔵尊」の表記が優勢である。本項でも飛び上がり地蔵尊の表記を採用する。
《 歴史 》
常盤池の築堤は江戸期まで遡る。飛び上がり地蔵尊は常盤池の要とも言える本土手に祀られている。常盤神社とあわせて常盤池を代表する一つの信仰対象として扱われているため、大変に歴史あるお地蔵様と思われがちだが、実のところ飛び上がり地蔵尊がここに誕生したのは常盤池築堤よりずっと後のことで、昭和初期である。

飛び上がり地蔵尊の由来については多くの書籍[1]で取り上げられている。祀られている2体のお地蔵様は、それぞれ部分的にこの地で発見されたものである。これには昭和初期の大渇水で常盤池が殆ど干上がるという危機的事態が関与している。概要をまとめて以下に記述する。
築堤直後から水が溜まらず慢性的な渇水に悩まされてきた常盤池であるが、その問題は昭和時代に入ってもなお続いた。特に昭和4年の旱魃は深刻で、灌漑用水の需要期になっても一向に雨が降らなかった。雨乞いの踊りや千把焚きも効果なく、ついに常盤池の樋門から水を取り出せないほど水位が下がってしまった。既に受け付けられた田の苗を救うためには樋門より下にわずか溜まっている水を動力で汲み出すより他なく、東見初炭鉱でポンプに関する知見を持っていた松本佐一氏がポンプの据え付けに乗り出した。

松本氏がポンプの据え付け場所を探している最中、雑木林の中に丸い石を見つけた。それはお地蔵様の頭部であった。以前より松本家では不幸が続いていて、高千帆のお寺で「家の近くに胴のない地蔵様がある筈なので整えてあげれば幸いが来る」と告げられていたという。もっとも当時はいくら探しても見つからなかった。松本氏はお告げを思い出し、さっそく地区の人と相談し胴体部分を造って一体のお地蔵様として安置した。

ポンプを据え付けた後もなお雨に恵まれず、30馬力のポンプを2台に増やして汲み上げた水を下木場(常盤用水東幹線)に流した。梶返や恩田方面の水を供給する切貫樋門でも20馬力のポンプ1台を据えて給水した。この甲斐あってもっとも稲に水が必要な時期の危機的状況を乗り切ることができた。

9月21日のこと、ポンプによる過度の水の汲み出しに起因したのか本土手が突然半分崩落してポンプが泥の中に埋没しかかってしまった。再び地区の人々と協力してポンプを取りだそうとしたとき、その下から地蔵の胴体のようなものが浮かぶように見えた。重い胴体部分を協力して引き揚げると、何とそれは前に見つかったお地蔵様の頭部と一対になるものだった。地区の人々は再び驚きこの地蔵様の欠けている首から上の部分を復元し、先に安置していたお地蔵様と一緒に祀った。

御堂にお地蔵様が2体あるのはこのような経緯であり、特にポンプを救出しようとしたとき泥水の中から恰もお地蔵様の胴体部分が「飛び上がるように」見つかったことから現在の名前がついている。
御堂の中には確かに類似する2体のお地蔵様が祀られている。


お地蔵様それ自体は後述するように以前から祀られていたものであるが、渇水を契機に奇なる巡り合わせでお地蔵様を修復して祀ったのは松本佐一氏ということになる。

一連の経緯は御堂の中に設置された松本佐一氏による趣意書(詳しくは後述)に書かれている。
また、御堂の外には昭和中期にこの近辺を改修したとき当時の星出市長によって書かれた飛び上がり地蔵尊の由来書が石碑の形で据えられている。


したがって飛び上がり地蔵尊の大元となったお地蔵様は、いずれも更に以前からこの地に祀られていたものである。飛び上がり地蔵尊として祀られる以前は何処にあったのだろうか。また、どうして林の中や本土手近くの池の底に転がっていたのだろうか。更には池の中からお地蔵様が偶然現れることは起こり得るのだろうかといった疑義が生じる。
【 再発見されたお地蔵様は何処から来たのか? 】
地蔵尊の御堂には紛れもなく2体のお地蔵様が安置されている。本土手付近で2度にわたってお地蔵様の一部が見つかったのは明らかなのだが、特に何故頭と胴体が分離したお地蔵様が本土手近くの水中に埋没していたのかという疑問が生じる。この原因は、以前から本土手に祀られていた地蔵様が狼藉者により首を刎ねられ池へ投げ棄てられたためと考えられている。

築堤後の初期に本土手へお地蔵様を祀ったという記録は、発起者の松本佐一氏が御堂に納めている建立趣意書に見られる。これには常盤原に棲み着いていた大蛇を鎮めるために本土手へ地蔵様を祀ったこと、悪戯小僧により祀られていた地蔵の首と胴体が切断され池の中へ投棄されてしまったという顛末が記載されている。[2]

地蔵様が祀られていた場所は、現在の飛び上がり地蔵尊のある場所よりも東側と考えられている。現在の本土手は飛び上がり地蔵尊のある場所とみなされているが、最初期の本土手はそれより東側だったからである。地蔵様が池へ投げ棄てられたのは趣意書が作成された昭和4年時において「数十年前」と書かれていることから、明治期かそれ以前かも知れない。藩政時代において必勝祈願などの名目で据えられていたお地蔵様に狼藉を働く行為が記録されている。[要出典]
【 水中のお地蔵様が「飛び上がる」ことはあり得るのか? 】
言うまでもなくお地蔵様は石仏なのでそのままでは水には浮かない。泥水の中からお地蔵様が「飛び上がるように」現れるという表現は如何にも誇張が感じられるが、いくつかの条件が重なることで重いはずのお地蔵様が比較的容易に引き揚げられることは充分あり得ると考えている。

大事なポンプが崩れた本土手の土砂に埋没しかけたなら、更に埋もれてしまうのを阻止するために必死になって揚げようとするだろう。このような局面では、人は限界以上に重いものでも比較的短時間で引き揚げてしまう。ポンプと一緒にお地蔵様も引き揚げてしまったのかも知れない。

崩れた土砂の中のみにポンプが埋没していたなら以下の説明は事実誤認になるが、もし池の泥水混じりの中に埋もれていたなら、何とか引き揚げようと砂の中をまさぐっているうちにお地蔵様を軽々と取り出してしまうことが起こり得る。これは泥水混じりの粒子の中に重い石仏が埋もれているとき、もし周辺を充分に攪拌すれば(かなり無理な仮定であることを承知の上で)土砂よりも重い物体の石仏が浮き上がる「ブラジルナッツ効果」により説明できる。

恐らくはポンプを掬い上げようと必死で格闘している流れで、重いはずの石仏を水中から取り出してしまった動作が印象深く焼き付いた結果であろうが、今となっては憶測の域を出ない。
《 「飛び上がり地蔵尊」という名称について 》
前述のように飛び上がり地蔵尊として祀られるお地蔵様のうちの一体は、本土手崩落事件の際に泥水へ埋没しかけたポンプの引き揚げ過程で一緒に発見されている。お地蔵様はポンプ同様に重い物であり何もせずに浮く筈もない。それほど重いお地蔵様が前述のような過程で浮き上がるようにして現れたことから「飛び上がり」という些か極端な修辞を添えて呼ばれている。

詳細な経過を省略して「飛び上がり地蔵尊」という呼称で紹介されるため、お地蔵様自身が自ら飛び上がったような説明のされ方がよく見られる。例えば石炭記念館の展望台にある掲示にはそのような下りがある。


実地の出来事を正確に反映するなら「浮き上がり地蔵尊」となるべきところである。現在の名称は些か精密さを欠くが、飛び上がり地蔵尊という名称は、市外県外(そして国外からも)の来訪者が一度耳にすれば忘れないネーミングである。この呼称を最初に与えたのは地蔵様を祀った松本佐一氏本人かどうかは分からないが、それほど発見されたときの驚きが大きなものだったことを物語っていると言えよう。

余談だが、常盤公園においての各種説明板は少しずつ日本語・英語・中国語・韓国語の4ヶ国表示対応に変更されつつある。飛び上がり地蔵尊は英語では Jumping Jizo となっており、中国語では「騰飛地臧菩薩」となっている。恰も沸騰するお地蔵様のようで面白い。
《 Googleストリートビュー 》
市道常盤公園江頭線の走行途中に採取されている。

《 アクセス 》
市道常盤公園江頭線の途中、本土手西側にある。市道沿いにあるためアクセスが容易で目に付くため市民の知名度は高い。現在でも多くの人が散発的に訪れお地蔵様に手を合わせている。暗くなれば御堂には灯りが入り外灯の如く夜の間周囲を照らしている。

参拝者向けの駐車場はないが、前面の市道で飛び上がり地蔵尊の少し本土手寄りに胃袋状に膨らんだカーブがあり、その外側にゼブラが施されている。多くの参拝者は一時的にここへ車を停めている。


この胃袋状の余剰地は、かつて道路の中央に大きな松の木があり、上下線が松を避けて二股に分かれていたことによる。平成期のはじめに松が枯れたため除去され、上下線の区画を適正化した後にこの余剰地が生まれた。
一般に道路のゼブラは車を停め置いて良いエリアではないが、飛び上がり地蔵尊の御堂から近く移動を求められればすぐ対処できるため、短時間なら問題はないだろう。
以前公開していた総括記事。
周辺の写真を掲載しているが、画像が外部依存(OneDriveのリモート参照)であり内容も古くなっているので時系列記事に格下げした。修正されないままの古い内容があるかも知れない。
時系列記事: 飛び上がり地蔵尊【1】

夫婦池の本土手近くにある私設の御堂。飛び上がり地蔵尊と似たような来歴を持つことで知られる。
総括記事: ときわ観音
《 その他の話題 》
飛び上がり地蔵尊以前は、この場所は南蛮茶屋があったことで知られる。また、棚井と船木を連絡する石畳道の偉業で知られる千林尼が尼となって修行し故郷に戻ったときこの辺りに庵を構えていたと言われている。[3]現在の位置に飛び上がり地蔵尊の御堂を設置し手水舎なども整えたのは、前面の市道を拡げて本土手上を四輪が通れるようにした昭和30年代頃のことと思われる。

手水場の背面には本土手の由来を示す石碑や樋門の構造図、説明板が設置されている。詳しくは本土手の記事を参照されたい。
出典および編集追記:

1.「ときわ公園物語」p.66〜67、「宇部ふるさと歴史散歩」p.74〜75、「ふるさと恩田」(ふるさと恩田編集委員会)p.102 など多岐にわたる。

2.「霊験顕カナル地蔵尊像堂宇建立趣意書(前半部分後半部分)」に見えている。

3.「厚東 第35集」厚東郷土史研究会, p.98

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