山口宇部道路・横話【2】

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(「山口宇部道路・横話【1】」の続き)
《 宇部料金所跡 》
現地撮影日:2014/5/11
記事公開日:2014/6/29
臨空頭脳パークへの分岐路を過ぎたすぐ先で若干道幅が広がり、道路が雑然としたまま放置されている場所がある。


これはかつて山口宇部有料道路時代、もっとも終点寄りにあった料金所の跡である。

位置図を示す。


これだけでは一体かつてここに何があったのかは分からないので過去の映像を…と言いたいところだが、あいにく既に撤去が始まっている写真しか手元にない。

2008年9月に撮影した料金所の建屋である。
残念ながらこの一枚しか撮影していなかった。


この写真は野山時代、終点方向へ車で向かっている折に先の宇部市案内図前の空き地へ車を停めて撮影したものである。撮影日時点で既にブースは用を為さなくなっていたので、間違いなく撤去されると思って撮影しておいたようだ。
かつては対面通行の中央部に係員が詰めるブースがあり、発券や精算を行っていた。その後ETCの導入[1]と料金所の集約により、有料化時代にはブースが撤去され写真のような状態が長く続いていた。写真では小さく見づらいが、左側に出ている看板には「料金所ではないので通過してください」の表示が見られる。

料金所の屋根部分自体も無用の長物だが、撤去するための作業用スペース確保が必要だった。
湾曲している車線表示は、本線を迂回させたときの痕跡であろう。
迂回時期に通行したことがないので詳細は分からない


路側部分に余裕がなくこんな場所で停止して写真を撮るのは危険なので、反対車線側にある余剰スペースに移動した。
そこは車数台分停められる場所があり、市街地から訪れたドライバー向けに宇部市案内図が設置されている。


有料道路時代の早期に設置されたものなので内容は古い。
残念だが今ではこんな場所に停まって確認する人は居ないだろう。


本路線自体も当然ながら山口宇部有料道路のままである。
山口厚生年金センターは管理主体が変わっているし、野外彫刻美術館の追記はあるがときわミュージアムの記載がない。何よりも今はもう居ないカッタ君の記述が寂しい。


自転車は案内図の前に留め置き、料金所があった場所へ接近してみた。
その前後区間だけコンクリート舗装になっている。


写真左側の空き地は料金所時代には駐車スペースがあったと思う。
プライベートな目的で利用したことが数回ある


路面に半円形状のコンクリート充填跡が遺っている。この部分が係員の常駐するブースがあった場所だ。


かつての駐車スペースが何かに再利用される可能性はあるかも知れないが、一通り撤去の終わった現地は料金所の痕跡を遺したままで運用されるだろう。
《 片倉I.C. 》
現地撮影日:2014/5/11
記事公開日:2014/6/30
片倉I.C.は山口宇部道路の西岐波地区に存在する変則のインターチェンジである。
写真は上り線から県道へ出るランプ部分を撮影している。


撮影ポイントを地図で示すと以下のようになる。


詳細な記述は[2]に項目があるので補完的に記述すると…

本インターチェンジは上記撮影位置から県道に向かって下るのと、県道から乗り入れるランプのみが存在し、山口方面への乗り入れや山口からの退出はできない。この状況は有料道路時代から同じであったが、ランプの形態については宇部料金所の廃止に伴い、平成期に入ってから変更されていると思う。[3]
詳細は個人的関わりとして後述する

上り車線側から反対側のランプを撮影。
接続箇所は退出用ランプと同じ場所で、本線の下をくぐってここへ出てくる。


元々、山口宇部有料道路時代の利用頻度が少なかった上に有料時代は片倉I.C.から出入りしたことが一度もない。このため当初はどのような構造になっていたかが分からないが、ある時期を境にきわめて頻繁に通るようになった。詳しいことは覚えていないが、確か宇部料金所が廃止されたのに合わせて片倉I.C.から大沢方面まで無料で通れるようになったことと関連があると思う。

個人的関わりになるが、野山へ引っ越した後も厚生年金センターで開催するバドクラブ、当時受け持っていた家庭教師などで車で恩田や則貞方面へ行く機会が頻繁にあった。しかし当時はその方面へ向かうもっとも近い道としては、開墓園を通る狭くて曲がりくねった道(市道常盤公園開片倉線)しかなかった。片倉I.C.からの乗り入れは当時からできていたが、料金所を通るので有料だった。
料金所が移動したことで片倉I.C.から無料で通れるようになったことは、当時の友達から教えてもらった。
曲がりくねった昔の道を通らずに片倉I.C.から宇部有料道路の無償区間を通れるようになって平均速度が向上し、往復の運転時間がかなり短縮された。もっとも多いときでは週に2〜3回通ることもあった。本来は有料道路でありながら特権的に無料で通行できているようでかなり快適だった。[4]

個人的には生活拠点を市街地へ移している現在では野山から大沢方面へ向かうあてがなくこの経路を通ることはまったくなくなった。なお、将来的に県道西岐波吉見線の記事を作成した折に片倉I.C.を県道側から撮影した写真を含めて本項目を移動するかも知れない。
《 上の原橋 》
現地撮影日:2014/5/11
記事公開日:2014/7/2
上の原(うえのはら)橋は、西岐波区上の原にある山口宇部道路の短い橋である。
写真は上り線側から撮影。


位置図を示す。


この橋自体は一つの谷地に伸びる農道に架かっている。すぐ先で市道片倉浜田線と立体交差しているが、その部分は橋ではなくボックスカルバート構造になっている。

欄干から真下を撮影している。
果樹園に向かう農道のようで、未舗装路である。


一旦橋を横切り、反対側から撮影している。
橋の名称を記すプレートが下り車線の起点側に見えている。


上の原橋という名称のみのプレート。
片倉高架橋と同じタイプである。
地覆部分のマーキングはクラックに伴う補修範囲を明示したものだろう


これほど近くでしげしげと眺められたのは、プレートが取り付けられて以来のことかも知れない。


上の2枚の撮影には随分と苦労した。プレートからある程度離れて正面に立たなければならないのだが、そのためには下り車線の相当遠くまで車の姿が見えなくなるまで待たなければ危険だったからだ。

橋から東側の眺め。
電柱を伴って伸びている舗装路が市道片倉浜田線で、上の原橋は手前に折れ曲がる農道に架かっている。


市道部分はボックスカルバート構造なので、山口宇部道路のこの近辺は盛土した上に通されたようだ。
何故ここだけ橋りょう構造になったのかは不明だが、コスト面によるのだろう。


起点側から撮影。
たまたまこのとき上下線ともまったく車が見えなくなり道路センターから撮ることができた。


自転車の元へ戻るとき、上り線側にもプレートが取り付けられていることに気付いた。
橋の名を記した同じ銘板なので、架橋年月は分からなかった。


片倉高架橋と同じくこの銘板を見るにしても精々助手席に乗った人がチラ見する程度だ。一般道よりは高速に走っているドライバーが橋の名前を確認する余地はない。まして橋の前後には片倉高架橋のような橋名の立て札もなかった。
昭和初期・中期頃には普通だった重厚な親柱やプレートはなくなった代わりに、上下線の欄干端部に橋の漢字表記・平かな表記・施工年月・河川や路線名を記した4点セットを設置するのが通例である。山口宇部有料道路は道路の機能面が最優先される昭和50年代の施工で、まして車しか通行しない道の橋なら、名称だけ分かれば足りるとされたのだろう。橋の名称ですら関係者くらいにしか知られていないのではなかろうか。

(「山口宇部道路・横話【3】」へ続く)
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 山口宇部道路|ETC

2.「Wikipedia - 片倉インターチェンジ

3. 県道西岐波吉見線の片倉I.C.乗り入れ口付近に古いランプの痕跡のような舗装路部分が遺っている。詳細はまだ調べていない。

4. このことについてブログで記事を書いている。
Yahoo!ブログ - 有料道路をタダ乗りしてるけど何か問題でも?
旧料金所の写真を2008/9/27に撮影しブログ記事は2008/10/1に書いているので、恐らくこの区間を利用し始めた初期に記事目的で撮影したものと思われる。
なお、終点〜片倉I.C.における道路事情(速度取り締まりの件など)に関する知見の殆どはこのときに得られたものである。

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