恩田町1丁目の生活道【2】

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(「恩田町1丁目の生活道【1】」の続き)
《 恩田児童公園から芝中町へ向かう小路(C→D)》
恩田児童公園から芝中町へ向かう道もA地点からの続きとして自転車で通ったことがある。しかし現在はC〜D区間は大きく姿を変えてしまっているため当時のことが思い出せない。周囲には新しい住宅も建っていることで無闇に昔の痕跡を探そうとはせず淡々と撮影のみ行っている。

C地点からD地点方向を写す。


D地点が見える位置まで進んで撮影。
左側の石積みくらいしか記憶がない。特に右側のコンクリート側溝や柵などは完全に時代が後のもので、恐らく平成期に入ってからだと思う。


ここで左側からの道と合流する。
《 恩田町1丁目〜芝中町の道(D→E)》
D地点より東を向いて撮影している。


この先30mにある踏切は四輪が通れる幅がないので注意喚起する標識が立っている。


D地点より恩田児童公園方向を撮影。


国道から車でD地点へ到達できるしこの生活道も物理的には四輪でも通れる幅はある。しかし踏切は渡れないし、公園方向も車で通り抜けられないため結局外部からの車が入ってくることはない。

進行方向左側の石積みが高い。道幅は昔より拡がっている。


振り返って撮影。
自転車で通っていた当時の幅はこの半分程度だった。舗装されておらず農道のようだったと思う。
汚水管布設工事に伴って舗装されたようだ


宇部線の踏切前で道幅がやや狭くなる。ここにも四輪通行不可の標識が出ている。


名称は芝中第4踏切となっている。
さすがにこの踏切部分だけは昔とまったく変わっていない。汚水管も枝管なので鉄道の下は通されていないようだ。


隣接する芝中第3踏切の項目でも少し述べたように、この第4踏切自体に関して伝え聞いていることがある。
いずれ芝中町の踏切としてまとめて述べる積もりである。
リンクのみ追加した
総括記事: 芝中の踏切
踏切を渡ることで芝中町入りする。
道幅は四輪が通れる幅になる。しかし踏切が狭いので車の往来は分断されている。


上の写真で駐車場になっている場所にかつては木造平屋の民家があった。当時クラスが一緒だった誰かの家だと友達から聞いた記憶があるが、恐らく勘違いだと思う。[1]

ここの景観は明白に変わっている。今ほど開放感はない。元はもっと狭く感じられる道だった。
道の中央に地先ブロックが埋め込まれている。これは官民境界を示すものだろう。


自転車で通っていた頃、この地先ブロックがある位置にレンガかコンクリートブロックの塀が建っていた。辛うじて車は通れるものの両側が壁の狭苦しい道だったのを覚えている。見通しが悪く向こうから来る人や自転車が分からないので、充分に速度を落として通る必要があった。


塀が撤去された後、生活道の幅を拡げる形で進入路が造られ奥にアパートが建っている。お陰で生活道を通るのに見通しが良くなった。アパートが建てられたのも規定幅を持つ進入路が確保できたためであろう。[2]

地先ブロックを境にまったく成立時期の異なる道が共存している。実際に通るときは生活道も進入路も一緒である。


E地点到達。
横切るのは市道名切笹山線である。


E地点より振り返って撮影。
冒頭で述べたような事情があるため、こちら側から自転車で通ったことは殆どない。


芝中町へ出てきた後は、市道名切笹山線を通って東新川方面を経由して市街地に向かっていたと思う。自分一人のときは恩田公会堂の下を通る経路が主で、この道を通ったのは同じ方向に住んでいた友達と連れ合って市街部へ行ったときである。

その市街地へ行くことを、昔の人々は(自分や親も含めて)しばしば「マチへ行く」と表現していた。[3]マチとはそのまんま「街」を意味し、常盤通りがある付近から中央町にかけての周辺を形容する言葉である。現在こそ恩田や笹山も街並みらしくなったが、幼少期は田や畑が占める面積の方がずっと多く、市街部と対比して呼ばれる程度にローカルな雰囲気があった。

この生活道を通って友達と「マチへ行った」のは確かとしても、今思えば一体何所へ何をしに出かけていたのか思い出せない。デパートに入って玩具売り場あたりで何か面白いものがないかぶらぶらしていたかも知れない。中学生までの頃の話で、高校になると学校がバラバラになったためこの道を自転車で通ることは皆無になった。

恩田町1丁目にはこの他にも多くの生活道があるものの個人的関わりを持つものは他にはない。これ以外の生活道路をレポートすることは恐らくない。今あるこの生活道や景観が再び変わる日は必ず来るにしても、少しばかり自分の記憶と共に記録できて光栄である。
殆どの読者には最後まで訳が分からず退屈な記事だったことでしょうね…それで良いのです^^;
出典および編集追記:

1. 踏切を渡った先は芝中町で、当時通っていた小・中学校共に校区外でありクラスメートとなる可能性がないからである。

2. いわゆる二項道路に関する規定である。詳しくは「Wikipedia - 二項道路」を参照。

3. 昭和後期あたりまで普通に使っていた。田舎臭い表現だと眉を顰められることもあった。現在では殆ど耳にしない古風な言い回しである。

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