恩田地区の生活道

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記事編集日:2015/1/24
ここでは、恩田地区にある生活道およびかつて存在していた農道などのうち、私自身が幾ばくかの知見を持つものについて総括的に記述する。
恩田地区の概要および地名についての考察は以下の記事を参照。
派生記事: 恩田について
随所で述べているように、恩田地区は幼少期から社会人に至るまで当サイト管理人がもっとも長期に渡って暮らした地である。そのため恩田へ越してきたときから野山へ去りゆくまでの変化や当時の道なりについて知見がある。本編は単なる現在における生活道の観察のみならず個人的な関わりや郷土の変遷を記録も意図しているので特段の必要ある場合を除いて個人的関わりの記述を分離せず本編に盛り込んでいる。

生活道の分割法や記事上での進行は当時もっともよく通った方向に倣っている。何らかの名称を与えられた生活道の殆どは勝手呼称であり一般的な名称ではない。町内に今なお実在していても個人的関わりのなかった生活道については記述しない。掲載された地図における記号などの表記法については以下を参照。
派生記事: 生活道・その他の道|記述法
《 恩田町1丁目 》
恩田町1丁目の生活道については国道190号の北側、恩田児童公園の近辺に限定して記述する。恩田児童公園に関しては以下の派生記事を参照されたい。
派生記事: 恩田児童公園
この区域は市街部へ自転車で出かけるときたまに通った道、中学生時代に僅かな期間遊びに行っていた児童公園へ向かう道のみである。2丁目と並んで国道の北側は後述する恩田公会堂など一部の場所以外は生活圏外だったので認定市道以外あまり記憶がない。
1丁目および2丁目は、恩田地区の中でもっとも早く住居表示変更がなされた地域だった。小字絵図でも昭和40年代作成と思われる版では既に恩田町1丁目、2丁目と記載されている。

以下に恩田町1丁目のマップと記録対象としている生活道を示す。
芝中第4踏切以西は芝中町に入るが便宜上ここに含めている


マップで示された領域の地勢について。国道190号は宇部線を跨ぐために恩田側・芝中側から盛土されている。A〜B区間には昔からの家が散在するので、ここが元々の地山レベルと考えられる。
D地点はB地点よりも家屋一軒分程度低い。この区間に下り坂がみられる以外、恩田児童公園から芝中町へ至る生活道はほぼフラットである。
恩田児童公園への道(A→C) 】
国道190号を外れて恩田児童公園へ向かっていたと思われる道である。
写真は国道からの分岐点付近。


小学校時代の遊び場は専ら恩田小学校のグラウンドだったが、卒業後より中学1年生までは友達と恩田児童公園へ数回遊びに行っている。[1]当時通った道は定かではない。特にC〜D間は昭和後期行われた宅地整備によってできた新しい道であり、A〜Bの国道下の通路も昔は存在しなかった。当時通ったと思われる経路を記述している。
恩田町1丁目〜芝中町の道(B→D→E) 】
B〜D〜Eの経路は児童公園へ行くときや市街部へ向かうとき自転車で数度通っており、昔からの道である。
写真は国道立体交差を笹山町1丁目側から撮影。


児童公園へ通っていた時期はまだA〜Bの道など国道から相互に行き来する経路がなかったため、笹山町側から国道の立体交差部分を通っていた。この道は地元管理道である。マップのD〜Eにおいて芝中第4踏切より先は芝中町に含まれるが便宜上恩田地区の生活道として記述している。

昔からの関わりはまったくないのだが、B地点から国道に沿って伸びる里道に芝中第3踏切があり、この踏切を利用する民家の居住者がなくなったために第4種踏切として整備されていながら通行者が居ない廃用踏切として知られる。この踏切を知ったのはここ数年のことで、別途記事を作成している。
派生記事: 芝中第3踏切
芝中町側からもこの踏切に接近する里道はあるものの、アスファルト舗装された駐車場のような場所で分断され相互に行き来はできない。[2]

国道190号の宇部線立体交差部分は私たちが恩田へ越して来た当時から同様だった。立体化はかなり早期に着手され、旧郷土資料館に置かれている宇部鐵道の芝中橋の親柱はここに設置されていたと思われる。それ以前のかつて平面交差していたときは芝中第2踏切だったと考えられている。[注釈]一連の踏査と考察については限定公開記事としている。
派生記事: 芝中町の踏切
宇部線との立体交差の兼ね合いで国道がスロープになっているため沿線には店舗が少ない。1丁目内には国道や市道沿いに事業所や店舗が偏在するものの個人的関わりのあったものは僅少である。
出典および編集追記:

* この仮説は恐らく誤りで、現在国道が立体交差となっている場所に踏切は(恐らく里道も)存在しなかったと考え直している。芝中第2踏切は、現在の市道五反田笹山線の芝中第1踏切より僅か10m程度北側にあった里道の踏切であろう。この里道は現在もなお一部が遺っているが踏切は早期に取り払われたようでまったく痕跡はない。(2017/7/13)

1. 小学時代の遊び友達は恩田小学校から近い場所にあったので在学中は小学校で遊ぶことができた。中学生になると小学校グラウンドへの出入りが禁止されたので遊び場を児童公園に求めた。

2. この踏切前後にある道は生活道ではなく私設道路の可能性がある。亀浦地区には民家に通じる現役の踏切が存在する。
《 恩田町2丁目 》
恩田町2丁目は1丁目の東側、国道190号恩田交差点より北側の地域である。小学校時代、子ども会の集まりで恩田公会堂へ多数回往来しており、そのとき通った生活道を中心に記述する。

恩田町2丁目のマップ。
市道名は関連性のある路線名のみ記載している


現在も多くの区間が健在で、生活道の周辺には畑も若干残っている。
地勢としては国道より恩田公会堂付近まではほぼフラットだが、公会堂と最寄りの市道恩田則貞線とで家屋一軒分の高低差が生じている。公会堂付近がいわゆる恩田山の北端のラインとも言える。
恩田公会堂の道(A→B→C→D)】
恩田に住んでいた頃に恩田公会堂へ行き来した最も通行頻度が高い生活道である。
写真は市道清水川恩田線分岐点の先にある駐車場門扉。


A〜B区間はかつて農道のような道があった筈だが、隣接する民家の解体で農道部と共に払い下げられたのか現在は駐車場になっている。ただし駐車場の端にはフェンス門扉があり行き来できるようになっている。
市道恩田則貞線から恩田公会堂へ至る道(E→D) 】
公会堂の北側を通る市道から分岐する車が入れる道もある。荷物を搬入する場合はここから入っていた。


自分自身も車ではないが自転車で通行した記憶がある。市道恩田則貞線へ出て青果市場前を通って帰ることもあった。
市道恩田則貞線の派生記事から該当部分を移植している
小路1(G→C) |小路2(B→F) 】
この2つの路地は存在は知っていたがあまり通った覚えがない。G〜C区間は当時未舗装路だったが現在はアスファルト舗装となっている。

付近の認定市道については、以下の記事を参照されたい。
派生記事: 市道恩田則貞線【1】|市道清水川恩田線
この他、C地点のクランク部付近から市道宇部新川恩田線側に出る地図上にない細い路地があるが通った記憶がない。また、地図に記載されていながら塗られていない認定市道以外の生活道は通った回数が少ないせいか殆ど記憶に残っていない。

マップに記載されている事業所や店舗は、恩田へ越してきた当初から存在していたものや新しくできたものが混在している。特に個人的関わりのあったものについては別途派生記事で記載する予定である。
《 恩田町3丁目 》
恩田町3丁目は2丁目の北東側、字見内を含む地域である。平成期に入って野球場がプロ野球のオープン戦対応可能に改修されたとき周辺が広い駐車場になり、昔の生活道の位置関係が分からなくなった。現在駐車場となっている場所の殆どはキャベツ畑で水路沿いの道と畠の中を通る道があった。

小学校中学年時代、見内アパートに住む友達の家へ頻繁に遊びに行っておりそのときの道を覚えている。市道清水川競技場線の終点付近からほぼ真北に向かって下っていく道だった。この近辺は昔の道の線形はほぼ保たれているようだが、周囲はアパートが建ち並び新興住宅地となったため昔の道の面影は殆どない。
《 恩田町4丁目 》
恩田町4丁目は国道190号の陸上競技場入口より北側、恩田運動公園が大部分を占める。
したがって運動公園に付随するプールや陸上競技場、俵田翁体育館などの利用による往来と、中学校の登下校路として関わりがあった。

恩田町4丁目のマップ。


地図には現れないが市道野原線はこの周辺の高台東端をなぞっている。即ち恩田運動公園の東は比較的深い沢地となっている。高低差は家屋一軒半程度ついている。運動公園の区画内は早期に整備されたためか全般にフラットである。

国道190号の競技場入口分岐から北へかなり幅の広い道が伸びているが、国道接続部の一部が市道野原線に指定されているだけで出入口から北側は園路とされている。もっとも造られた当時は車を通していたらしく、現在でもアスファルト路面の中央に区画ペイントの痕跡が認められる。この区間は私たちが恩田地区へ越してきた当時から既に車で通行できなかった。現在も許可車および競技大会などのイベント時を除きこの区画に車が往来することはない。

平成期はじめに市道神原町草江線の清水川〜恩田東交差点区間が造られたことにより一部の区間が失われた。また、その後宇部市野球場の改築で球場の南側にあった外周路も大半が失われ、草地だった部分も駐車場に改変されるなどして殆ど原形を残していない。ただし恩田運動公園のうちプールや陸上競技場は殆ど更新されておらず登下校で慣れ親しんだ多くの道や水路は健在である。水色の実線および点線は用水路で、点線部分は暗渠を示す。
特にC〜D区間に沿って流れる水路を「黄金水路」と勝手呼称していた…詳細は本編を参照

恩田町4丁目に存在する道部分は生活道路というよりは恩田運動公園の一部である。およそ歩行可能な通路は殆ど歩いた経験があるが、最も頻繁に通行されたのはマップに記載されたA〜D区間で、中学校時代の登下校路として3年間徒歩または自転車で通行した。
平成期に入って市道神原町草江線が清水川交差点の先から恩田東交差点まで造られたとき、交角が浅かったためA〜Bは半分以上が道路敷にかかり失われた。このうち市道恩田則貞線と交わるB地点から幅広の道へ出てくるまでの数十メートルは市道神原町草江線の枝線として扱われている。[1]
B〜Cの一部は地図では球場のスタンド端を通るように記載されているが、これは野球場の改修工事に伴って外周が拡がったからである。改修以前は幅の広い砂利敷きの外周路だった。以前はそのまま恩田プール前まで同じ幅の道があったが、運動公園の駐車場が造られたとき園路が潰され道がなくなっている。
通ることは一応可能

以下の記事を予定している。
【 市道神原町草江線・枝線(A→B) 】
【 恩田運動公園を通る登下校路(B→C→D) 】
認定市道については、以下の記事を参照されたい。
派生記事: 市道野原線
国道沿いの北側には個人的関わりがあった店舗などが存在する。いずれ派生記事で記述する。登下校路以外で通行可能な道や各種施設(陸上競技場や市営プールなど)については、恩田運動公園の項目で別途述べる予定である。
出典および編集追記:

1. 市道路河川課の認定市道路線図による。この枝線区間も市道神原町草江線としてピンク色に塗られている。
恩田町5丁目
情報この項目は分量が多くなったので単一記事に分割されました。記事の移転先は項目タイトルに設定されたリンクを参照してください。

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