笹山町1丁目の生活道【3】

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(「笹山町1丁目の生活道【2】」の続き)

《 宇部興産常盤工業用水管路 》
現地撮影日:2013/11/24
記事公開日:2014/9/18
情報この記事は生活道としての観点から記述しています。
工業用水管路としての記事は こちら を参照してください。

恩田小学校通用門を過ぎたところから国道190号の芝中跨線橋を通らず畑地を横切る昔からの道がある。
写真は芝中側の末端部。


宇部線に近い側の末端部を中心にポイントした地図を示す。


地図には記載がないがここから東北東へ延び恩田小学校の通用門前まで到達する農道がある。この区間には宇部興産(株)常盤工業用水管が埋設されていて、幼少期から現状と同じ農道状態だった。
総括記事でも記述した通り2014年夏頃から農道沿いの遊休地にアパートが建つことになり地盤整正のための工事が始まっている。この過程で農道が失われるか現状が変わると考えられたので造成前に撮影しておいた写真を元に記事化した。変わりつつある景観の記録を目的としているので特筆事項のある場所以外は写真のみ配置している。

上記地図中心ポイントから南側を撮影。
市道五反田笹山線が芝中第一踏切で宇部線を斜めに横切っている。右への道は恩田1丁目へ向かう地元管理の道である。
この写真のみ2011年の撮影


通路としての個人的関わりは恩田小学校側から芝中第一踏切方向への自転車通行が殆どだった。午後からの撮影だと逆光になるので、本編では工業用水道の流下経路に対しても逆から撮影している。

芝中側の末端部には、ほぼ間違いなくこの通路に関して言及していたと思われる古い立て札がある。


コンクリート柱に鉄板を取り付けていて全体が酷く赤錆になっていて何が書いてあったのかまったく読み取れない。


この立て札は自転車で通っていた学童期時代から気付いていた。当時は何かの文字が読めていたかも知れないが今となっては思い出せない。恐らく車は通れない等の注意書きだろう。
2014年8月に訪れたときには農道の両端部に造成工事の案内板が設置されていた。造成地は芝中寄りの区画で市道五反田笹山線は工事用車両が通れないので、境界線の位置によってはこの農道部分は無傷で遺るかも知れない。しかし恐らく農道と同じ高さに盛土して境界部分にブロック塀かフェンスを設置すると思われる。その暁には立て札の正体が解明されないまま撤去されるだろう。

撮影当時は休耕田状態のまま永らく放置された草原状態だったが、2014年8月末の時点では既に右側の敷地には土砂が搬入されている。


畑が拡がり始める辺りから農道部分の地面に細かな石やタイルの散乱がみられる。


足元を撮影。
使い古したタイルを割って地面に撒いたような痕跡がみられる。


これは不燃ゴミを投棄したのではなく通路の足元を安定化させるために行われたものである。[1]

特にこの農道に関しては露出した栗石やアスファルト片も目立つ。
アスファルト殻は別の場所で施工されたものを移したのだろう。砂礫類はもしかすると工業用水管を埋設するとき出てきたものかも知れない。


小さな分岐路に出会う。
ここを左に曲がれば国道下を通る立体交差の道へ出られることが分かっている。しかし幼少期は一度も通ったことがない。


至る所で栗石やアスファルト殻が露出しているためにお世辞にも自転車で通ったときの乗り心地は良くなかった。この状況も学童期から同じである。
それにもかかわらずここを通ったのは経路全体の起伏が少なく直線的な近道だったからだ。


私有物だが左の畑の中にある煉瓦造りの小屋は如何にも古そうである。
ただし学童期にはそこまで目を向けておらず当時からあったかは分からない。


この農道の中間点よりやや小学校へ寄った側に工業用水管理用のマンホール(No.21)がある。
これも学童期には頓着していなかった。


マンホールを過ぎたところから小学校へ向けて僅かながらの上り坂になっている。


農道部分の小学校側末端部。
家が建つにあたって接道条件を整備したためにここから国道接続部までは幅広のアスファルト舗装路になっている。学童期はこの部分も同様な農道だったと思う。


農道部分を振り返って撮影。
No.21マンホール付近で僅かに屈曲している。


ついでながら国道接続部までを撮影しておいた。
幅広な舗装路に面して醤醤なる店舗がある。学童期時代は存在せず開店は昭和50年代半ばだったと思う。


国道接続部付近にNo.20マンホールがある。
正面は国道190号と歩道、その右横が恩田小学校の通用門である。


店舗横の恩田小学校グラウンド沿いの経路は恩田小学校の南門から通用門へ至る道で、ここが末端部である。


学童期に通ったときの状況としては、国道190号沿いにずっと歩道を通り、恩田小学校の通用門を過ぎた先から跨線橋まで登り坂を漕ぐのが嫌でこの農道側へハンドルを切っていた。[2]芝中第一踏切を渡った後、市道名切笹山線経由で市街地へ行っていた。
長く暮らしてきた恩田町5丁目の生活道とは異なりそれほど回数多くは通っていないし農道を通るときの想い出自体も殆どない。仮にこの農道が大幅に姿を変えたとしても今ほど映像の記録を遺せたからこれで足りるだろう。

出典および編集追記:

1. 舗装されない昔ながらの農道では、雨降りのとき通路が荒れないように割った貝殻やタイルを撒いて安定化させていたという。同様のことは他の地区でも一般的だった。
小串地区在住民の聞き取り情報による

2. 学童期は5段切り替えギアの自転車なので坂を登ることはできたが体力がなかったこと、自転車で未舗装路を走るのに慣れていたので坂道のアスファルト路よりは平坦な砂利道を選んだようだ。

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