島1丁目の生活道【2】

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(「島1丁目の生活道【1】」の続き)
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現在H地点に居る。
生活道はここから丘陵部を下るように真っ直ぐ伸びていた。その先を辿るよりも先に敷地内でとても気になるものが目に留まった。


些か生活道の記録から外れるが、もしかするとこの先なくなってしまうものかも知れず看過できなかったのでちょっと寄り道しよう。
敷地の内側にある赤茶色のレンガ塀と謎の階段である。

レンガ塀だけなら島地区には珍しくないし、他の地区にもいくらか遺っている。寄り道して記録する気になったのは、奇妙なものがいくつかあったからだ。


この場所はアパートの駐車場内なので恐らく私有地だが、レンガ塀自体は前の土地所有者のものだろう。私有物件云々よりも記録する重要性を考えて、接近し調べてきた。

レンガ塀の内側にはコンクリート製の階段があった。何故かその階段は敷地を囲むレンガ塀にくっつけて設置されていたのだ。


階段はコンクリート製ではなく恐らくレンガで積み上げた階段の表面をモルタル仕上げしたのだろう。
上部は破壊されており、断面にはレンガの破片がのぞいていた。


個人の敷地内だから詮索はできないものの、かつてこの階段がどういう用途だったのか想像がつかない。建物の一部なら、塀から離して設置するものである。階段は塀に密着した形で造られており、上部だけが何か訳あって破壊されていた。本当は全部壊す積もりだったものの、レンガ塀までひび割れが走ったので途中で壊すのを止めたのかも知れない。
ひび割れた状態で放置されるとは思えない…全体が撤去されるかも知れないと感じた一つの理由である

このレンガ塀そのものにも見慣れないものが取り付けられていた。


レンガ塀の控え柱部分に埋め込まれた鉄の部材。
鉄門扉を固定するための金具だろうか。隣接する控え柱にも金具が入っていた。


島地区のこうした遺構は歴史の証人とみなされるせいか、家屋が解かれた後も可能な限り残される傾向にある。しかしあまりにも酷く壊れて危険な場合は撤去されるようだ。実際、後で述べるように同じ1丁目にあるレンガ塀のうち半壊状態だった区間はすべて撤去されている。
控え柱に取り付けられた金具や壊された階段のような遺構が何であったかを詮索する積もりは今のところない。今私がそれをやらなくても映像として記録しておけば、誰かが必要に応じて分析してくれるだろう。何の記録もなければ、一連の遺構が撤去された後は永遠に闇へ葬り去られてしまうのみである。

さて、引き返して生活道の追跡に戻った。
《 H→D区間 》
このレンガ塀の外側に居る。
レンガの下端が敷地の高さだ。そこから下の石積みの高さ分だけ生活道は下ってきている。
レンガ塀にある白い抹消の跡は何かは不明


このすぐ横にアパートの駐車場があり、下の市道から車を乗り入れる交通需要のために道幅が拡がっている。
敷地内の雨水排水もコンクリート蓋付きの溝で特に観るべきものはない。


ここから島地区外部との高低差を埋めるためにややきつい下り坂になる。


自転車で下れば登り直しが要るし、どのみち引き返して他の生活道に向かうので自転車は留守番させ歩いた。

下の市道まで降り(市道の路線名はまだ調べていない)入口部分を横から撮影している。
片側は完全に練積ブロックで古い痕跡はないが、もう片側は間知石積みのままだ。


D地点より振り返って撮影。
間知石積みの分だけ高低差が生じているので、4〜5m程度だろう。


角に近い部分の石積みがちょっと歪んでいるのが気になった。元からこのような窪みを持っていたのだろうか…


そもそも、この石積みが昔からのものかちょっと自信が持てない。
島地区は私にとっては全く無縁の地である。何十年と過ごして変遷を眺めてきた恩田地区の生活道とは違い、昔の姿が私には分からない。下の市道は間違いなく小串の区画整理で整備されたものなので、もし石積みの状態が良くなかったなら部分的に組み直している可能性もある。

後年に手を加えている可能性はあれど、この石積みは確かに芸術的である。
現代では石材の調達はできても一枚板状態に間知石を接ぎ合わせて築く石工を探すのが大変だろう。


気が付けば間知石積みだけでなく、それを創造する石工自体が激減してしまった。理由は明らかで、現代社会が以前ほどに要求していないからである。

間知石を量産すること自体は、現代なら昔ほどの困難はないだろう。石材を荒削りする機械なら業者が保有している。しかし形状がバラバラで厳密性を欠く素材を積み上げるのには技術が要るし、それを抱える人間にも酷い労力を強いる。人という動物は重いものを継続的に抱えるようにはできていない。
更には壁面の補強目的だけなら、その後低コストで強度をもつ素材が次々と現れた。昭和中期から間知石は間知ブロック(いわゆる練積ブロック)にとって代わられた。一つずつ積み上げる原始的作業から解放される現場打ちコンクリート擁壁が幅を利かせ、更にはトラッククレーンで据え付けるだけで完了するL型擁壁の出現は、宅地造成の外観をすっかり塗り替えた。

市道山門参宮通り線の石積みでも述べたように、今後このような間知石積みは減るだけで増えることはまず考えられない。やはり自然の石積みは味があると需要が増えたとしても、今や重い石を巧妙に積める人が居ないし、何よりも手間暇かけた作業は現代社会が要求していないのであった。

自転車を待機させていたH地点へ戻った。
次はB〜Cを一辺とする同じ敷地に沿う路地となるK方向へ進んでみよう。


《 H→K区間 》
C地点と共に小さなクランクを形成しているH地点のコーナーである。
これから向かう路地との高低差は1m程度で、布積みの間知石に囲われている。舗装は端までではなく必要な部分だけ施してまだ砂利部分が遺っていた。


現在、居住者のあるアパートにカメラを向けるのも憚られるのだが、この敷地にはこんな集合住宅が建っている。区画整理で四輪が自由に通れる幅が確保されたので、家が解かれた跡地に建設されたようだ。

先ほど観たレンガ塀と奇妙な階段のあった敷地は駐車場で、完全にアスファルト舗装されている。
駐車場が丁寧に舗装されているのに共同部分の路地はガタガタ道だ。


乗って進むとパンクしそうな酷い道で、急ぐこともないので自転車を押し歩きしつつ撮影ターゲットを探す。

元の玄関部分と思われる場所に立派な石段が設置されていた。


これは先に見たのと同じタイプだ。如何にも新しいし幅が広い。本当に昔からのものなのだろうか…と疑念を抱くほどだ。
表面の研磨は集合住宅の管理会社が行ったのではと思えるほどに


反対方向を撮影。個人の住まう集合住宅部分をなるべく写さず、駐車場に停められている車のナンバーが分かるアングルは回避する…撮影もなかなかに苦労した。


同じタイプの石積みに囲まれて敷地が終わっており、そこから生活道は右へ曲がっていた。


それにしても生活道とは名ばかりの酷い道だ。撮影しつつ進んでいるので自転車には跨らず押し歩きした。

(「島1丁目の生活道【3】」へ続く)

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