中宇部岡ノ辻の墓地

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記事作成日:2017/5/4
最終編集日:2018/12/31
直近に記事化を行ったコンクリート竪坑と同一報告者からの依頼物件である。
依頼内容は次のようであった。
「南小羽山へ上がる道の直角カーブのところから細い枝道がある。そこから護国神社の裏手に出るもの凄い坂の途中に平坦な道が伸びていて、その先に見たこともない家のような形をしたお墓がある。」
上記の位置説明は私がまとめたもので、実際には直近の依頼を受けたときと同様、依頼者に直接会って地図で概略の位置を示されていた。直角カーブとは市道真締川南小羽山線の起点付近にある折れ点のことであり、枝道は市道維新山西山線、もの凄い坂とは牛転び坂のことというのはすぐ理解できた。

市道と牛転び坂に向かう地区道の分岐点より手前には刈川墓地が知られる。エビの養殖と博覧会出展で名を成した植木林平の頌徳碑があることで知られ、炭鉱に関する興味深い石灯籠もみられることから、墓地を忌避していた初期の頃から幾度か訪れていた。しかし依頼者の墓地はそれとは異なり、牛転び坂の途中にある細い道を進んだ先の無縁墓地という。坂を記事レポート向けに撮影したとき大概周囲を注意深く観察しているので、恐らく私有地へ向かう踏み跡とみなしていたのだろう。

家のような形の墓と聞いて私が想起したのは、桜島で見かけた墓である。この調査依頼を受けた一週間前に鹿児島への旅行があり、桜島を一周した。そこで屋根のついたかなり大きな墓をいくつも見かけた。それは土地柄を反映してそのような形状になっていた。火山灰で埋もれてしまうのを避けるためである。しかしおよそ火山灰とは無縁な宇部の地にある「見たこともない家のような形のお墓」の想像がつかなかった。

自転車で北小羽山あたりまで訪れる身には、この辺りはまったくの近場である。依頼を受けた数日後に現地調査し、果たしてそれらしきものを見つけてきた。この記事レポートは結果報告に代えるものである。
さて、本件をどういう記事タイトルで書いたものだろう…墓地の名称が分からないので、仮に字名である岡ノ辻を採用した。ただし岡ノ辻という地名はここよりも西岐波地区の方が著名なので、分かりやすいように大字併記の「中宇部岡ノ辻の墓地」としている。
ここまでの記述は今後もし続編が作成されたなら総括記事に変更し以降の記述を時系列記事に分離する

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時系列ではコンクリート竪坑を調べたその後のことであった。一旦市道真締川南小羽山線の直角折れ点まで戻り、そこから牛転び坂の麓まで自転車を漕いだ。
既に記事公開されているから分かるように、牛転び坂はとてつもない急な坂である。自転車を漕いで進もうなんて考えは早々に捨て去り、市道分岐から押し歩きした。
坂道は字岡ノ辻と字西山の境界にあたり、急な丘陵部を斜めに登るような経路となっている。そのため坂を登るとき右側が崖下、左はなだらかな丘である。この丘に向かう道がある筈なので、注意深く観察しつつ自転車を進めた。

入口と思われる部分はすぐに分かった。
写真は坂道の上から撮影している。坂の麓の正面に見えるのが刈川墓地だ。


道と呼んでいいかどうか分からない平坦な線形が護国神社の方に向かって伸びている。写真には入っていないがこれより高台側は民家なので、この道に間違いない。

現在地は以下の航空映像のポイントした場所になるだろう。


自転車から離れるし長丁場になりそうなので施錠した。
この道で間違いないだろうか…まずは歩いて先を偵察である。


先に畑が見えてきたところで足が停まった。
畑に人の姿が見えたのだ。


ここは私有地だと思い一旦引き返した。場所が違うのかも知れない。ただの個人の畑地に向かう小径だったらトラブルの元だ。

周囲は殆ど笹藪で、畑の始まる場所からはあまり見かけないコンクリート杭が打ってあった。
これに番線などを固定して囲っていたのだろうか。


日を改めて誰も居ないときに探索しようか、それとも思い切って話しかけてみようか…お守りの名札は自転車を離れる前に装着はしていたが、奇妙な形のお墓があると聞いて調べに来たというのをどう説明したら良いものかは容易な話ではない。

まあ、とにかく行ってみよう。そもそも現地を調べるためにここまで自転車を走らせたのだ…

私の姿が見えると思われるところまで出てきた。
まだ気付いていらっしゃる様子はない。


このとき畑仕事をなさっている奥に目的のものらしきものが見えた。
ズーム撮影している。何か石碑のような感じだ。墓石もあるがあの形をしているものは石碑のような気がする。


そのことで場所は間違いないと確信した。あれを見たいと言えば取りあえず説明はつく。
私の姿に気付いて頂けたところで簡潔にこうお願いした。
「済みません…古い石碑を調査している者でございます。この奥に見えている石碑を観察したいのですが。」
「ああ、いいですよ。どうぞご覧下さい。」
尋ねてみたいことは後から出て来るだろうが、まずは実地に観察だ。それは遠くから見えかけていたように確かにお墓のようでどうも違う感じもしたのである。


依頼があったのは間違いなくこのことだ…と確信できる対象物を見つけた。
家のような形をしたお墓と言われれば確かにそうである。


しかしそのサイズを見て私はすぐに八王子神を祀った祠だろうと推測した。前述のように桜島のお墓のことが頭にあったので、相当な大きさではないかと思っていたのである。
この種の祠は実のところかなりありふれている。上記の写真のようなものは初めて見たという方は多いかも知れないが、それは現代人の行動範囲が狭いからに他ならない。

家のような形をしたこの祠は花崗岩を組み合わせて造られている。屋根のような部分と本体の壁部分、両開きの扉を備えているのが典型例だ。石の扉は軸部分で回転し手前に開くようになっている。そして中には幣などが格納されていることが多い。
八王子神ではなく別の神を祀ったものもあり得る。しかしムラ境や峠は別として何でもない里山の端や畑地に据えられたものは大抵が八王子神のものと思う。ここに言う八王子神は原義のものから転化したいわゆるマムシ避け祈願である。
治療法が確立しない昔はマムシに噛まれると即座に生命の危険に晒された。山野を切り開いて田畑にするにあたってマムシの害は深刻な問題だった。当時は祈るしかない時代なので、このような祠を据えて災難に遭わないよう祈った。あるいは砂を備えて祈り、その砂を撒けばマムシが来ないと信じられていた。このため畑の近くはもちろんどうかすれば家の庭先にも祠を据えていた。現在でも昔から伝わる祠がそのまま庭の片隅に遺っている家が結構ある。[1]

したがって正体が何であるかはほぼ解明できたとして、かなり不自然さを感じさせる要素があった。
祠の殆どが土中に埋もれているのである。


今まで見てきた八王子神の祠は、看る人が居なくなったものも含めて石の扉は原型をとどめていた。しかしここの祠は半分くらい埋もれているせいか形状がよく分からない。通常のものに比べて高さが低いように思える。ここまでなるには相当長い間放置されていたに違いない。そのことは近くに散らばっている墓石と思しきものの現れ方からも推察された。

墓石も混じっていることは確からしい。かなり一般的な形状の墓石もある。そのどれもが既に看る人が居なくなったようで草むらに埋もれていた。


墓石と判明しているものを調べるなんてのは些か悪趣味だろうか。私はそこに散らばっている墓石を確認しようとその方へ移動しかけた。そのとき俗人から言わせてみれば「祟りだ!」と決めつけられそうな事象が起こった。
痛ッ!!!
足の裏に激痛が走った。鋭く尖ったものが突き刺さる感じで、堪えきれず悲鳴を上げた。

何ということだ…
名前は分からないが、針みたいに尖った枝を隠し持った枯れ木を踏み付けたのだ。


靴は厚底のスニーカーを履いていたが、枝はやすやすとそれを貫いて靴下を履いた上から足の裏へ深く突き刺さった。ただちに靴を脱いで靴下をまくり上げた。
幸い出血はなかった。しかし尖った部分の衝撃で最初はグッサリと刺さったと思った。枝は滅法丈夫で、足で踏み付けたところで全然変形もしなかった。まるで針金みたいな忌々しい木の枝だ。[2]万が一でも裸足で踏み付けたなら易々と皮膚を貫いてしまっていただろう。
抜いた直後の映像はこちら

これは墓石なのだろうか。
見たところ猿田彦を祀った石碑に外観が似ている。


猿田彦の石碑は将棋の駒の如く上部が三角形をしているものが多い。矢印に近い形状で三角形の外側がやや出っ張っている。一説にこれは男性器を模したものと考えられている。道祖神と同一視され祀られているものも多い。庚申塚となっているものは、猿田彦の申(さる)の音からの転用である。

表側から撮影したところ。
江戸期の年号が見えている。中央には南無阿弥陀仏のような文字があることから、これは素直に墓石と考えられる。
拡大画像はこちら


自分の中では、最初期の墓石の典型例は上部が万年筆のペン先のように尖っていて仏像が陽刻されている小振りなもので、その次に長方形の石材上部を丸くして前面に戒名などを彫ったタイプである。断面が正方形となるよく磨かれたタイプのはずっと後年のものだ。有力者などではもっと凝った墓石もあったが、庶民の墓石としては概ね形は似通っている。

ここには典型的なタイプの墓石、猿田彦や道祖神を祀った祠のように見えるものなどが混在していた。今まで市内にいくつか墓石の集まる場所を観てきたが、ここに集まる墓石群はそれらのどれとも異なっていた。何か特殊な事情を持っていそうだ。


正体が概ね分かったところで私は現地から引き揚げようとして、最後にこの畑の持ち主と思われるあの方に挨拶がてら尋ねた。
「家のような形をしたものなど他にない種のものが多いですね。いつ頃からのものでしょうか?」
「私にも分からないんですが…ここへ来た30年くらい前から今のような状態でした。」
私は再度調べに来るときの繋ぎを作っておこうと思った。
「また調べに来ることがあるかも知れませんが…」
「いいですよ。同様のものをお探しなら、この畑の一つ下にもお墓があります。古い石碑とか混じっているかも知れませんよ。」
「この坂の下にある刈川墓地ですか?」
「いや、それとは別にこのすぐ下にあります。藪の中に墓石がいくつか遺っています。」
畑から下は斜面になっていて道はなかった。疎らな雑木林の中を適当に歩いていると先の方に墓石群を見つけた。


これは先に見たものよりも新しい…とは言っても殆どが既に看る人が居なくなった無縁仏のようであった。


この墓地の端は下から登って来る道に続いていた。
すべてが無縁仏というのではなく一部は今も手を合わせる人があるようだ。


坂を下っていくと民家の裏手へ続いていた。里道ではなくもしかすると私設の墓地かも知れないと思い下までは辿らなかった。特殊なものは見つからなかったので再び先の畑地まで戻った。

もう一つ、畑の端に奇妙な墓石があった。
4枚上の写真にも写っているこれである。


それはちょうど畑の角に据えられているので、境界石かと思った。しかしよく見ると何か文字が刻まれている。

最初の三文字に「南无阿…」までが見えている。
无は無の異体字なので、これも墓石と考えて間違いないだろう。とても簡素な造りである。


この墓石より外側は草地で内側は明白に畑の土だ。墓石が境界石のように機能している。ちょっと考えられない。同様の事例を他で見たことがない。先に墓地があり、看る人が誰も居なくなった後年に土地を再利用しようとしたとき、墓石の存在に憚って手前までを畑にしたように思える。

最初の疑問に立ち返って家のような形をしたあの祠の正体は、八王子神ではなくやはり墓石の一形態なのかも知れない。墓地以外の場所で多くの祠を見てきたものの、墓地そのものの観察は殆ど行ってきておらず知見に乏しいからだ。それにしてもどうしてこれほど多種多様なお墓がここに散らばっているのかは想像もつかない。

ここで見てきたものについて合理的な説明を与えるには、自分自身もう少し多くの事例を観察する必要がありそうだ。新たな知見が得られれば本編に追記しよう。
出典および編集追記:

1. 西梶返や大沢、上宇部地区に民家の庭先へ据えられている事例を見ている。私の母方の本家では庭の片隅に同種の祠があった。
よく分からないものなので近づかないように言い聞かされていた

2. この尖った枝を持つ低木はカラタチと思われる。鋭い棘を持つことからかつては部外者の侵入を防ぐ意図でしばしば生け垣などに利用された。しかし後年建築ブロック塀が普及したこととその鋭い棘が嫌われ現在では身の回りにカラタチの樹そのものがかなり減少している。この地に永年手が加わっていないことの傍証とも言える。なお、棘を踏み付けて痛い思いをしたことは祟りや罰とは無縁であるが、遙か昔に墓荒らしをする盗賊や野生動物の侵入を防ぐ目的でカラタチが植えられた可能性はあるかも知れない。

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