子落とし坂

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現地撮影日:2015/9/13
記事公開日:2020/6/4
子落とし坂[1]は岡ノ辻と萩原の間にある非常にきつく曲がりくねった坂道である。
写真は岡ノ辻側から俯瞰するアングルで撮影したズーム写真。


坂道の中央付近をポイントした地図を示す。


この坂道は市道岡の辻新浦線の一部である。坂を登り切った直後に山口宇部道路を跨線橋の形で渡るのは奇妙だが、これは昭和40年代の終わりにかつての山口宇部有料道路が地山だった部分を掘り割って通されたためである。
《 現地の映像 》
市道レポート(現時点では写真採取のみで未作成)では起点の岡ノ辻から坂を下る方向に撮影されているので、本記事では坂の麓から登る方向で掲載する。

坂の麓で岡ノ辻に登る本路線と江頭川に沿って迫田坂に向かう道(市道迫田長谷線)に分岐している。


写真からは分かりづらいが上の写真のカーブミラーがあるところで水路同然の江頭川を横切っている。即ち本路線は近傍のもっとも低い位置を流れる江頭川を横切って登り坂になり、そこから一気に岡ノ辻へ登る。このことが坂の高低差を大きく感じさせる要因となっている。

登り始めの部分。


この辺りまでなら普通のママチャリでも加速することで乗って進める。
縦断勾配よりもむしろカーブのきつさが印象的だ。


同じ場所から振り返っての撮影。
カーブ半径が小さいので、坂を下る方は極端な内回りになっていながら登る側は倍くらいの車線幅が確保されたアシンメトリーな状態になっている。


上下線の道幅が等しくなり縦断勾配がきつくなる。
自歩道は確保されてはいるが、この辺りがギアなし自転車の限界地点だ。


現在は坂に沿って南側が住宅地になっている。平成初期頃までは家はなかったと思う。

下り方向を撮影。
道幅を狭く見せて減速を促すラインは近年追加設置された。


麓部分より明らかに勾配がきつい。この勾配が殆ど緩むことなく続く。


歩道の中央に蓋付き側溝がある。かつては側溝が歩道の端にあたる程度の幅しかなかったようだ。
民地側に擁壁を築いたとき追加舗装された模様


もっと縦断勾配のきつい区間。カメラは水平より若干上向きに構えている。
坂を降りてくる車が落ちてくるように見える。


最後の部分は道を蛇行させて縦断勾配を緩和する余剰地もなかったからか、強引に直線で繋いで実現している。


岡ノ辻側からみれば坂の下り始め部分となる。
かなり坂は緩くなるがそれでも民家の建築ブロックの水平線で勾配が推測できるだろう。


下り始め位置からの撮影。
このように坂の上からズーム撮影すると水平な擁壁の天端に対して如何に坂がきついかが分かるだろう。


以下、時期を変えて撮影した写真を補足的に載せる。

西岐波住宅から撮影された子落とし坂の麓部分。
この辺りは西岐波住宅の整備に伴い道路も整備されている。


この道は大型車両などの通行制限はなく、バス路線になっているため毎日市営バスが喘ぐように坂を登っている。[2010/11/14]


対面交通でバスも通る坂としては東小羽山にきつい坂道があるが、子落とし坂は市営バスが通る市内で最急勾配の坂道である。

現在のようなバスも通れる対面交通の道として整備拡幅されたのは昭和中期以降と思われる。適宜曲線を挿入し距離を稼ぐことで平均的縦断勾配を緩めようとしたようだが、もっともきつい場所では恐らく縦断勾配が10%を越え、冬期の路面凍結時は凍結防止剤を散布しなければ殆ど通行不可能となる。

子落とし坂の中間地点付近から立ち止まった状態で周囲を動画撮影。

[再生時間: 18秒]


山口宇部道路の立体交差を過ぎた坂の最上部から坂の麓までを車載カメラから動画撮影。

[再生時間: 51秒]


車載動画撮影としては初期のもので、坂の麓となる市道迫田長谷線との分岐点はまだ斜面が土のままである。なお、同じものをFBページに掲載し多くの読者コメントが得られている。[4][5]
《 通行時の注意 》
これほどの勾配がありながら現地にはドライバーへ急勾配を告知する情報は何も提示されない。道路管理者により設置されることが多い上り急勾配あり(212の3)や下り急勾配あり(212の4)の警戒標識[3]はいずれも設置されていない。
こういった本標識でなくとも坂を下る車両に対して「この先急坂急カーブあり」の告知板が望まれる。慣れた地元ドライバーはまだしも、地形的にみてすぐ先に急坂があるとは思えない場所なので岡ノ辻方面から走ってきた初めてのドライバーはかなり慌てる。

動力源を持たない自転車やリヤカーなどの乗り物で坂を下らないことを勧める。加速し過ぎて危険である上にブレーキパッドが早く摩耗する。自転車に乗ったままフリーフォール状態で坂を下って大怪我をした事例が報告されている。

上りに関して通常の四輪は問題ないにしても、非力な原付では登坂できない事例も起きるようである。車種に関しても坂の前後に通行制限の標識類は与えられていない。
《 成り立ち 》
床波方面から昔の宇部市の中心部だった上宇部方面へ海産物などを運ぶ行商人によって歩かれた道と推測される。草江方面からはかつての周防長門の国境に沿う尾根伝いの道があり、現在の岡ノ辻交差点がある場所は両者がまみえる主要地だったと考えられる。ただし床波より直接上宇部方面へ向かう場合は、この北側にある迫田坂を経由するルートが主要であった。

岡ノ辻へ上がる最終局面に現れるこのきつい坂の名前の由来は、子どもを連れて歩く親も思わず手を離して落としてしまう程の厳しい坂だった[2]ことによる。この伝承が決して誇張でないことは、舗装拡幅されたこの坂を実際に歩いてみることで体感される。地勢的には洪積台地の端にあたり、[4]坂道の発生要因としては、台地の端にある岡ノ辻へ最短距離で垂直に登る自然発生的な踏み付け道が他の経路を凌駕して頻繁に通行されるようになったことによる。

現在ある対面交通の道は、基本的に昔からあった道筋を拡幅して造られているが、坂の中ほどで一部経路が異なる。拡幅は昭和40年代の始めで、坂の下側から拡げていったようである。[6]山口宇部有料道路が建設された昭和40年代後半には坂を登り詰めた場所に大きな堀割が造られ跨道橋となっている。
《 個人的関わり 》
この坂道の最初の出会いは紛れもなく大学卒業直後の頃、当時東萩原に受け持っていた家庭教師の生徒宅を訪れるときの自分自身の車運転による。それ以前では親父の運転する車でもこの道を通ったことがない。
この方面に誰も知り合いが居なかったことによる

最初に自分の運転でこの坂に差し掛かったときの驚愕振りは大変なもので、キチンと舗装されラインも引かれている対面交通ながら山道でも滅多に見かけないほどの勾配と酷いカーブの連続に「非常識な道」と評価していた。当時は免許を取ってまだ日が浅いためでもあり、週に一度この坂を下るのに馴れるまで相当かかった。初めて通ったときから分離された歩道はあったが、道路幅は現在より若干狭かったようにも感じられる。
坂道に名前が与えられていると知ったのは後年、郷土資料をあたり始めた時期である。

現在は自転車で西岐波方面へ行く場合、乗って下るにはあまりにも危険なためこの道を通らず多少遠回りでも安全な道を選択している。現地の写真は殆どが坂を登る方向のものである。
車の場合、萩原方面に車のメンテナンスを依頼するときなど何度も通っている。

個人的にこの坂の名称を記した標識の設置を提案する。往来する車からしげしげ眺められては事故の元なので、見えやすい位置に「子落とし坂」とだけ表記するか、あるいは歩道の端へ命名の由来をサッと書いた説明板を置くと良いと思う。
出典および編集追記:

1.西岐波ふれあいセンターに設置されたイラストマップでは子落し坂として記載されている。


本記事では「落とし」の正則な送り仮名のままで記述している。

2. 由来の収録された書籍が何だったか失念している。判明次第ここに追記する。文献によって「手を離して」「背負っていて」落としたなどと若干の差違が存在する。
なお、名称だけからだと恰も親獅子が子どもに試練を与えるために坂の上や崖から突き落とすが如き説話が想起されるが、そのような伝承はない。

3.「Wikipedia - 日本の道路標識|種類|本標識|警戒標識

4.「FBページ|2015/8/19その1」および「FBページ|2015/8/19その2

5.「FB|2015/10/4のタイムライン

6.「地理院地図|CG683Y-C14-5(1968/6/23)

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