鹿背隧道

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記事作成日:2022/10/24
最終編集日:2022/10/25
ここでは、萩往還路の悴坂垰の下を通る鹿背(かせ)隧道について記述する。
写真は北側正面からの撮影。


地理院地図で北側坑口の位置を示す。


地理院地図では萩往還と名所を示す記号がみられる。一番長いトンネルの記号が現在県道32号萩秋吉線(かつては萩有料道路)の萩往還トンネルで、鹿背隧道は重なるように描かれている短い方のトンネルである。

遠方であり現地には最終編集日時点で2度しか行けていない。記述内容も写真も限定されるので、末尾に萩往還の悴坂垰についても少し記述している。
《 概要 》
以下、解説文の殆どを現地に設置されている案内板に依っている。

萩往還のほぼ下を通る石積みのトンネルで、延長は182mである。明治16年(1883年)に着工し18年に竣工した。この時期に掘削された道路トンネルとしては非常に精密で、ポータルと内部のすべてが石材で覆われている。同時期の施工である佛坂隧道が岩盤をくり貫いただけの素掘りで勾配も線形も不規則であったことを思えば、高い技術力と資材が投入されたことが窺える。

内部の様子。
全面にわたって概ね均質な石材で覆われていることが分かる。


隧道の幅は約4.2mで高さは約3.9mである。このため現在でも普通車が余裕で通行できる。現在の萩道路の旧道区間という位置づけであり、恐らく萩市道である。車両の通行に関しては、隧道手前400mの位置に高さ制限(2.4m以内)の標識が設置されている。

南側坑口を撮影。


ポータル上部には右書きで鹿背隧道の扁額がある。


鹿背隧道は、建設時期の古さと精密な造りから国の登録有形文化財となっている。隧道を出たところに登録有形文化財プレートが貼られた説明板がある。


内部の写真でも分かるように、鹿背隧道は現在もクルマや歩行での通行が可能でありながら内部に照明灯や保安設備などがない。隧道全体が登録有形文化財であり、現状を変更する設備を追加することが困難なためである。隧道は直線でありクルマはライトで内部を照らせるし仮に対向車があれば中へ入らずに待機できる。自転車や歩行での通行には注意が必要である。(→通行にあたっての注意

隧道内部の側面には、一定間隔で金具のようなものが埋め込まれている。
これは昼も夜も暗い隧道内部を歩いて通行する安全のために、燈火などを設置していた当時の名残りかも知れない。


現在は隧道の前後も含めてアスファルト舗装路である。しかし明治期の隧道なので、最初期は未舗装路だった筈である。
隧道内部の両側には、砕石と舗装を行わず排水目的で遺された溝がある。


他にも隧道内に何か顕著なものがあるかも知れないが、2度しか訪問しておらず充分に観察し尽くされていない。
《 通行にあたっての注意 》
鹿背隧道は高さ制限以外に車両の通行に制約はない。ただし安全かつ高速で通過できる萩往還トンネルがあるため鹿背隧道へわざわざ乗り入れる車はまずない。通行する際は隧道内部を歩いて通過している人があるかも知れないことに留意する。

歩いて通り抜ける場合は相応な覚悟が必要である。前述のように隧道内部に外灯が設置されていないため、進むにつれて外からの光が喪われる。前方を照らすにはまるで役不足だが、足元だけでも照らす懐中電灯の携行を推奨する。隧道中央部では完全な暗闇であり、目を開けても閉じても見えるものが同じという異様な体験ができる。歩行の難易度は、目を閉じて歩いても開けて歩くのとほぼ変わらない。路面は舗装されていて出っ張りはなくつまづく心配はない。ただし側面付近は排水側溝があるので、壁に近づくときは足元に注意する。いずれにしろ暗闇が苦手な方は無理して歩いて通らない方が良い。

説明板がある側の坑口付近には「トンネル内歩行注意」の立て札があるが、内部を歩いて通る人が殆ど居ないため藪に埋もれている。
2011年の撮影であり現在は変わっているかも知れない


歩行での通過時にうっかりものを落とすと、懐中電灯を持っていても探すのが困難になる。ポケットに入れた車のキーやハンカチなど落とさないよう注意されたい。
《 Googleストリートビュー 》

《 個人的関わり 》
萩往還トンネルに関しては、萩有料道路時代から何度か通っている。萩市内に向かうのに川沿いを下るよりも明らかに近く、有料とは言っても金額がそれほど高くなかった。地図を見て萩往還トンネルの上に短いトンネルがあることは知っていたが、それが歴史遺産として価値のある鹿背隧道と知ったのはそれよりもずっと後のことである。

撮影目的での初訪問は2011年11月である。恐らくブログか何かをネットで見て現地に行っている。隧道に外灯が備わっていないと知らずに手ぶらで行って真っ暗闇の中をそのまま歩いて通過した。帰りは萩往還本来の悴坂垰越えを歩いて戻った。

当時、手持ちのカメラで隧道に入るところと出るところを部分的に採取した動画がある。
カメラを手持ちで歩きながら採取しているため、手ブレが酷い。CCDイメージセンサを搭載していないカメラだったので隧道に入ると真っ暗なままである。



2011年は当サイトを立ち上げた年である。カメラを持って県内あちこち気になる場所に行って写真を撮っては記事を作成していた初期だった。写真の撮影枚数は現在に遠く及ばないが、それでも動画で撮っておこうという気持ちになったようである。YouTube へのアップロードも比較的早かった。
【 隧道どうでしょうのロケ 】
2019年に山口ケーブルビジョン「にんげんのGO!」の継続編である”隧道どうでしょう”のシーズンIで最初に訪れた記念すべき隧道である。ロケは2019年4月16日に行われ、6月中旬に放映された。この総括記事に載せている比較的鮮明な画像は、ロケの最中に手持ちのカメラで撮った画像である。

2022年10月24日より隧道どうでしょうシーズンIの再放送として、前後に枠取り(10月19日に採録)を入れる形で放映開始している。
《 地名としての鹿背(悴坂)について 》
手許に相応な資料がないので、以下は純粋に地名の読みと一般論に基づいた考察である。

鹿背隧道の前に萩往還の悴坂(かせがさか)垰があったことから、隧道名の「鹿背」は音を借用した当て字と考えられる。鹿や背に意味はなく音を表すもっとも無難な漢字を当てたのだろう。その前身である悴坂垰も「『かせ』のある坂」であって「悴」の漢字にこの地名の由来を率直に表したものとは思われない。

地名に「悴」の字が用いられた例は他に知られていない。特にこの漢字をあてて「かせ」と読ませた理由は、萩往還を通って萩に最後の別れを告げて処刑地へ送り出されることとなった心境に擬えているように思われる。憔悴(しょうすい)しきった心中が想像される。

文化地名と捉えれば、悴坂をこの字で代表させたことに不自然さはない。地名としては大字椿字悴ヶ坂となっている。[1]しかし一般に殆どの地名は地形由来であるから、読みの「かせ」が何かの地形を代表している可能性もある。市内小野地区には飢坂(かつえざか)といった字名が知られる。「かつえる」は、極度な空腹を意味する方言であり、痩せた土地や崩れやすい地質が想起される。この読みに類似する「つえ」として崩ヶ迫(つえがさこ)という地名が同じく小野地区にある。これは「潰(つい)える」の転訛であり、山口市の杖坂という地名に代表的である。

「かせ」の読みの大元が「かつえ」にあったかどうかは分からず、些か附会かも知れない。
出典および編集追記:

1.「山口県地名大辞典」(角川書店)p.1300

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