椎ノ木峠トンネル

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記事作成日:2020/1/8
最終編集日:2020/2/21
椎ノ木峠(しいのきとうげ)トンネル[1]は、山口市仁保津の山口農高北側にある椎の木峠付近に存在する灌漑用水トンネルである。
写真はトンネル内部の様子。
後述する現地ロケで山口市教育委員会の許可を得て内部へ潜入したときの撮影


トンネルの下流側坑口の推定される位置を示す。


下流側坑口横に尾根を堀割で横切る道があり、恐らく椎ノ木峠と思われる。北側にある川は尾根を避けてかなりの勾配で東へ流れているが、この水を尾根の南側へ導くために掘られた灌漑用水のトンネルである。地域の有力者が新田開発を目的に計画し、多大な苦労の元に掘削された。その歴史的背景やトンネルの持つ精密さから山口市の指定史跡となっている。

なお、本件は灌漑用水のトンネルであるため本来は用水路カテゴリへ収録すべきであるが、宇部市外の単独物件であり、水路トンネル以外の関連する構造物も取り上げていることから隧道カテゴリに収録している。
《 成り立ち 》
以下は現地に存在する説明板や後述する番組で放映された内容に基づき、個人的に理解するところを記述している。特に人物像や周辺地域の歴史的背景や土壌について考慮せず記述しているため、この辺りを割り引き参考程度に留めておかれたい。
【 地理的要因 】
仁保津地区の南側を流れる椹野川は水量の豊富な河川であるが、上流の集水域が広いためにひとたび豪雨に見舞われると河川の近接区域は水害を受けやすかった。このため椹野川沿いでは水を導入するのが容易でも稲作どころか生活も脅かされがちだった。安定した生活を営むには洪水の影響を受けづらい河岸段丘の上層部に田も生活拠点も構える必要があった。

河川から離れることにより洪水リスクは遠ざかったが、田へ回す水を椹野川から採ることができなくなり別途灌漑用水を整備する必要があった。生活拠点を移した北側にはやや大きな沢地があり、そこにある川(名称不明)は流路途中でやや東側へ屈曲して椹野川に注いでいた。この水を生活拠点に近い田へ導くには尾根を一つ越えさせる必要があった。

そこで水量のある川の上流部にいくつかの溜め池を造って水位を上昇させ、高い水頭を保った状態で尾根にトンネルを掘削し田へ導くことが検討された。北側にある4連続の溜め池(名称不明)は、この計画で3つが追加された。この構造は築堤の土量を限定した上でできるだけ多くの水を貯め置くための工夫であり、同種の造りは宇部市内の栄ヶ迫池にもみられる。
【 隧道建設の苦労 】
この灌漑事業は上郷の庄屋だった林勇蔵により1851年(嘉永四年)に手掛けられている。現代では周囲に家が建ち並び地勢も改変を受けているため分かりづらいが、椹野川の河岸段丘で水害の影響を受けない高台はこの上なく新田開発に適した場所だった。

溜め池の築堤、用水路の整備、そして山を穿つトンネルで構成されたはずである。溜め池の築堤建設位置と用水路の水頭設計は、需要地まで自然流下させるために充分な測量が行われたと想像されるものの、工事自体の難易度は殆どトンネルに絞られたであろう。実際、最初に採炭に伴う掘鑿技術を持つ有帆の坑夫が雇われたが、硬い岩盤に当たり工事が殆ど進捗しなくなっている。後に岩盤掘鑿の高い技術を持つ蔵目喜鉱山の堀師に従事させて延長66メートルの隧道工事を5ヶ月半で完成させている。

トンネル自体はそれほど大きなものではないが、連続的に山の向こう側から灌漑用水を安定供給できるようになった成果は大きく、この用水だけで開発された新田は現在の単位で10ヘクタールにも及んだ。灌漑用水路は現在も使用されているものの、早くから増強の必要性が認識されていたのか、明治期には北側に追加のトンネルが掘削されている。
《 現地の概要 》
後年の水路改修により、現在では下流側坑口の観察のみが可能となっている。用水路の線形は昔のままでコンクリート水路に改修されている。

隧道の延長を切り詰めるため、小さな沢地を限界地点まで堀割を造った上で隧道を掘っている。そのことは隧道ポータルと内部の観察で分かる。写真はロケ時の初めて現地へ到達したときの撮影。
事前に許可申請してあったためコーンとコーンバーが取り除かれている


入口部分は補強のために棒状の石材を門型に配置し、それより奥には壁面に掘削時生じた割石を乱積みしている。天井部分も棒状の石材を並べて配置し、隧道の始まる区間にある土被りの薄さ故に天井部が崩落するのを防いでいる。
同様の構造は人力掘削された水路隧道に普遍的である


乱積み区間を過ぎると隧道の断面は底が平坦な円形に変わる。


底面は平滑でありながら側面や天井は荒削りで、作業者が鑿と鏨を振るうことができる程度の大きさで施工されている。
隧道は内部で微弱ながら蛇行している。これは方向性を失うことなく少しでも掘削の容易な部分を見つけながら掘り進んだためと推察される。

特に注目すべきは、天井や壁面に対して底面が非常に精密に削られている点である。資料によれば、隧道の延長66mに対して入口と出口の高低差が32cmであり、僅か5パーミル弱の勾配をもって施工されている。この勾配で円滑かつ連続的に灌漑用水が自然流下するには相当に底面を精密に造らなければならない。用水の需要地である仁保津の高台と水源地の溜め池との高低差がそれほど採れなかったためではないだろうか。

用水の供給元である溜め池と需要地の田との高低差を求め、最適なルートと高さを決めた筈である。尾根があるため直接の見通しが利かず、殊に隧道掘削開始場所の高さを決めるのは現在でも容易ではない。水盛りを用いて水平状態を作出し、[2]逆勾配にならないように溜め池側の高さを決めたと思われる。

隧道の掘削時も底面が同様の勾配を保っていなければならない。どのようにして勾配を割り出したのかは資料の精査を要するが、最初は潜入して作業できる範囲で掘り進み、天井や壁面を整形し、最後に底面を整える段階で勾配を精査しながら削っていったのかも知れない。
【 上流側坑口 】
後年トンネルは改修され、現在は導水管を埋設した上で埋め戻されているため掘削当時の原形は保たれていない。現地の説明板で断面図が記載されている。


説明板では上流側は10m以上も盛土され牧草地と記述されている。これは山口農高が所管している畜産農場であろう。初回訪問時も再訪時もこの場所を訪れていないため、現状がどうなっているかは不明である。
《 周辺の関連する付帯物 》
椎の木峠トンネルの下流側には山口市教育委員会の設置した説明板があり、トンネルを案内する標識柱が道路より低い位置に据えられている。その他近接場所にある椎の木峠トンネルに関係する付帯物を個別に記述する。
【 林勇蔵翁座像 】
国道9号より椎ノ木峠トンネルへ向かう途中の上郷公民館のすぐ下に、灌漑事業で貢献のあった林勇蔵翁座像を案内する立て札がある。公民館へ向かう登り坂の途中から鳥居が見える。


林勇蔵翁の座像の他に、塞の神と猿田彦を祀った祠がある。いずれも何処の地域でも普遍的にみられるものだが、祠がコンクリート製で屋根にタイルを貼り付けているのが珍しい。少なくとも宇部市内では同種の祠を見たことがない。
【 藩主巡覧記念碑 】
椎の木峠の最高地点少し手前から登っていく道があり、そこに藩主巡覧記念碑を案内する立て札が出ている。


きつい坂を登る途中の右側に水利関連と思われるキュービクルがある。坂を登った場所に同じく藩主巡覧記念碑は右の方へと案内する立て札があるのだが、二度目の訪問時に先をくまなく探したものの石碑を見つけることができなかった。藪の中に隠れているか立て札が動いてしまって誤った向きを案内してしまっている可能性がある。
案内板の管理者は現地視察して立て札の修正などが求められる
《 アクセス 》
山口農高の奥にあるので、国道9号を経て山口農高に向かうように車を走らせる。農高に入る道(15-3-201 山口市道農学校線)には国道側に案内看板が出ているし分岐点には校章を模したモニュメントが据えられているのですぐに分かる。


市道を進むと左側に林勇蔵翁座像の案内看板があり、枝道を入った先に上郷公民館が見える。
座像や祠までは上郷公民館に車を停めて歩いてすぐのところにある。


山口農高入口との分岐点で左側の道を進み、学校のグラウンドの端まで来ると学校敷地に沿った右からのT字路に出会う。


このT字側の手前に椎の木峠トンネルの説明板が設置されている。


低いところを流れる細い水路に沿って踏み跡があり、歩いて2分程度のところに下流側の隧道坑口がある。


隧道周辺に危険は特になく、内部を含めて立入禁止の掲示は出ていないが、隧道の手前にセフティコーンとコーンバーが設置されており潜入が推奨されない状態となっている。

現地に駐車場はないが市道の往来はそれほど多くないので路肩に寄せて停める。
《 現地ロケと放映 》
この物件は山口ケーブルビジョンの自社制作番組「にんげんのGO!」の派生テーマ”隧道どうでしょう”シーズンIIの3つ目の訪問先であった。2019年9月24日に現地ロケが行われ、12月9日より放映開始している。[3]


山口農高の裏にあるということが事前に分かっていただけで、往来用か灌漑用水向けの隧道かも知らなかった。
事前に隧道内部への潜入について教育委員会の許可を得ており、内部の状況調査と詳細な映像を得るために長靴に履き替えた上でヘルメットにサーチライト装備で臨んだ。
《 詳細が調査されていない事項 》
この物件は当サイトでも特にカテゴライズされている隧道物件であるが、山口市仁保津にあって容易に行けないため再訪した後にもいくつかの未解決な点を残している。まだ熱が残っているうちに再調査を進めたいところだが、本拠地である宇部市外の物件であり、管轄内にきっといらっしゃるであろう方々に探索の余地を残しておきたい。そこで当サイトからは個人的に解明してみたいと考える点をここに課題として記録しておくことにする。
(1) 藩主巡覧記念碑の現物確認
(2) 尺八工法を採用した理由
(3) 明治期に追加掘鑿された隧道の全容
一連の疑問点は、手元に精細な資料がないことのみが原因で既に判明しているものが含まれるかも知れない。以下、詳細を述べる。
【 藩主巡覧記念碑の位置と内容 】
前述のように案内板に従って現地へ向かったものの記念碑らしきものを見つけられずにいる。特に2つ目の案内板は送電鉄塔(路線名不明)下の空き地のようになっている場所を示しており、草むらまで入り込んで探したが見当たらなかった。
写真は2つ目の案内板がある場所での撮影。
矢印の指示する方向ではなくこれより更に上へ登る必要があった…詳しくは後述


藩主が視察に来たことを記念する碑なら相応な大きさの筈で、草むらに隠れて見逃した可能性は考え難い。看板の向きが変化したか移設されたなどが考えられ、この件は解決がもっとも容易と思われる。
【 尺八工法の採用 】
前述のように、椎ノ木峠トンネルの上流側坑口は本来の流水面より上段にもう一本が掘鑿されている。説明板によれば作業用・換気口用途に掘られたとある。最初は下流側から掘鑿したとあるので、同時または時期をずらせて上流側からも掘ったことになる。このうち上流側のみを2段トンネル構造にした理由がよく分からない。可能性はまずないだろうが、当初掘鑿したもののその位置では溜め池側から水を回せないために再度逆勾配にならない程度に低い位置から掘り直したようにも見える。長さ66m程度の隧道なら人力で掘る限り酸欠が起きるとは考え難いし、明かりを持ち込んで作業するにしても別途換気用のトンネルが必要だったのだろうか。

大変に硬い岩盤を掘鑿し工事が難航したことは伝えられている。しかし上流側坑口は比較的な軟岩で掘鑿が容易だったため、さほど苦労せずに換気口のトンネルを掘ることが出来たのかも知れない。このことは現地レポートの内部潜入で最深部に到達したときかなりの崩落で岩が水路上に転がっていたことからの想起である。経年変化で2段トンネルとなっていた部分が崩れ落ちていたのかも知れない。この詳細を把握するには再度最深部まで潜入する必要がある。
【 明治期に追加掘削された隧道 】
説明板には「明治時代溜め池からの長い水路を短縮するため入口のすぐ北に追加のトンネルが掘られた」とある。新田開発の面積が更に増えて水が足りなくなったため、流水量の増大や送水効率を目的に掘削したのではと想像される。しかし後で掘り直した隧道を改良版と考えると、着手時期が明治時代とはかなり早い。[4]

既に一世紀以上が経過しているのだから、後から掘られた隧道も指定史跡に値するのではという気がする。しかしこの改良版隧道の経路は説明板には触れられていない。その理由は、明治期の改良版トンネルを更に後年ヒューム管に置き換えるなどして改変され、当時のものが残っていないからではと想像される。もし当時のまま遺っているなら、椎ノ木峠トンネルと同様に史跡とされるに値するだろう。

なお、説明板によれば椎ノ木峠トンネルの上流側はヒューム管に置き換えられ、坑口と換気口共に埋め立てられ上部が牧草地となっている。これは後から掘削したトンネルに灌漑用水経路が移ったため、最小限の機能を残して通水可能な状態においたからと思われる。断面図にあるように10m以上も盛土したなら、たとえ牧草地に人孔を設置したとしても溜桝から土砂を取り除くのが非常に困難である。作業・換気口用の2段トンネル坑口も土砂流入防止措置のみ施して埋めたと想像されるが、原形が分からない状況に埋められてしまったのはちょっと勿体ない気がする。

以上は2度にわたる現地訪問と現地にある資料のみに基づく考察と推論である。後に判明した事柄があれば随時編集追記する。
《 その後の変化 》
現地確認できなかった藩主巡覧記念碑について、読者よりその所在地と内容を伝えるメールが寄せられた。2つめの案内矢印が出ている場所で平坦な道を進むのではなく鉄塔のある高台へ更に登って行かなければならないようである。

現地には説明板と石碑があり、それによれば藩主はトンネルを視察しこの高台へ登って溜め池を眺めて休んだという。その翌年、藩主が休憩したこの場所に石碑を建てて灌漑事業の偉業を讃えると共に村人へこの栄光を忘れないようにと一首詠んでいる。
初めて現地ロケで予備知識ないままに訪れたときのレポート。
時系列記事: 椎ノ木峠トンネル・ロケ
2019年12月24日に山口市からの帰りに記事向けの写真採取のため再訪したときのレポート。ロケのときは時間的制約で訪れることができなかった藩主巡覧記念碑を探している。
時系列記事: 椎ノ木峠トンネル・第二次調査【1】
以上の時系列記事は時間的余裕のあるときに作成し、仕上がったら順次公開する予定である。
出典および編集追記:

1. 番組放映後に視聴者から「かつては椎ノ木垰(たお)と呼んでいた」という情報が寄せられている。また、時代背景からすればトンネルという語が存在せず隧道か繰貫樋などと呼ぶのが妥当と思われるが、ここでは山口市教育委員会の設置した説明板に準拠して”椎ノ木峠トンネル”と表記している。

2. この水盛りについては親父が話した仮説である。個人的には水盛りが如何なるものか現物を見たことがないので分からない。

3.「山口ケーブルビジョン|にんげんのGO!|隧どうU”椎の木峠トンネル”

4. 既に利用可能な灌漑用水隧道がありながら更に別途掘削するのは大抵がこの理由であることに依る。宇部市の御撫育用水路も江戸期に辰ノ口操貫樋を苦労して掘っていながら送水ロスが多く開作地の増大に伴い充分な水が必要とされたため昭和期に入って従来経路を大幅に短縮する昭和隧道を掘削している。
《 個人的関わり 》
前述のように山口ケーブルビジョンの自社番組「にんげんのGO!」の”隧道どうでしょう”シーズンIIにおける3箇所目のロケ地であり、現地を訪れたのはロケ本番が初めてであった。当日の行程について資料はもらっていたが、具体的に何処にあるどのようなトンネルであるか等の予備知識をまったく持ち合わせなかった。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

2019年12月の山口ケーブルビジョンにおけるスタジオ収録の翌日、帰りに記事向けの画像採取を目的にロケ時に訪れた場所を一通り訪れている。この総括記事と時系列記事での隧道内部以外の画像はこのときの撮影である。

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