松崎の用水路・第一次踏査【1】

用水路インデックスに戻る

現地撮影日:2016/3/20
記事作成日:2016/4/23
どうにか時系列記事の第一編を公開する目鼻がついた…とは言ってもこれは書き出しなので実のところまだ今からなのだが…
概要については総括記事を先行公開していた。仕事のスケジュール、私自身の気分の兼ね合いもあって先送りになっていた。この間に魅力的な物件にいくつも接し、記事化を待つ写真ばかりが溜まっていた。

現在の総括に書いている通り、この物件の精確な素性はまだ分かっていない。何がどんな状態で存在しているのかを取りまとめてネット界へ送り出す必要があり、他物件を差し置いて記事化した。
《 一枚の写真から 》
3月19日の夕刻のこと、夕食を終えてデスクに向かい寛いでいるときFBメンバーから一枚の写真がメッセージ経由で舞い込んだ。
ここは、どこでしょう?
承諾を得て写真掲載しています…写真は若干リサイズしています


FBで繋がりのある方々は概ね地元ネタに関心を持ち、私がするように市内の至る所で見つけた興味深いものを撮影し報告してくれている。わざと分かりづらいアングルで撮影した画像を送って場所を当てるなんてことも結構ある。それでも主要な案件は殆ど見てきているので、大抵は何を撮ったものかを当ててしまう。しかし今回送られてきた写真は初めての例外的なものとなった。

最初この写真を見たときの私の脊髄反射的な反応はこんな塩梅だった。
あっこれは常盤用水路だな…
深山に入っていてたまたま見つけたのだろう…
しかし常盤用水路については(当サイトでは記事掲載を保留しているものの)FBページを含めて何度も語られている。私にとっては何が何処にあるか水路の管理者並みに熟知している案件だ。そんな私に常盤用水路のような「簡単な」ネタを判じ物として送ってくる筈がない。それにも増して気づいたのは、これは常盤用水路とは違うのではないかという雰囲気だった。

ぱっと見たところは中山観音廣福寺の裏手かもう少し上流側にある常盤用水路の隧道部分に見える。サイズからして灌漑用水のトンネルであることは確かなので、あれでも撮影アングルが異なるため別物のように見えているのかも知れないと思った。そこで念のため手元にある常盤用水路の写真を参照したところ大きな違いに気づいた。
ポータル部分がレンガ積みになっている。
常盤用水路のポータルはどれも大きめの石材を積んで造られている。例えばこれはNo.3隧道上流側のポータルの写真である。


常盤用水路には9ヶ所の隧道があるが、ポータルはどれも共通の仕様で [1] レンガ積みのものはない。このポータルが建設当時のものか後補なのかは分からないが、少なくとも提示された写真とは明らかに違っていた。

提示された写真は常盤用水路ではないと判明した時点で私は軽い驚愕を覚えた。今まで私が市内を観察した限りでレンガ積みポータルを持つ灌漑用水隧道を見たことがないからだった。レンガ素材が使われた構造物は一般にコンクリート素材よりも古い。常盤用水路の竣工は昭和18年なので、写真のレンガ積み隧道はそれより更に古いものを想像させた。

写真で見る限りレンガ巻き立ては2層構造になっていて外側は笠石部分から柱までキチンと拵えられている。一私人が尾根を越えて水を導くために掘ったという安直な造りではない。かなり大規模な工事だったのではないかと思われた。そして…それほど古い灌漑用水隧道について最近触れた郷土資料の中に「もしかするとあれでは…」という心当たりがあった。

私は写真から物件の場所を特定することができず、ギブアップ宣言しつつ次のように返答した。
うぅむ…周囲の様子を見る限りでは常盤用水路のNo.3隧道のように見えたけど、ポータルが違いますなあ…灌漑用水路の隧道は間違いなさそうですが、市内ではこの種のは見たことがありません。市外ならまず分からん…
まさか…浜田から請堤に水を導くために秋富重太郎が設計した明治期の導水路ってことはないよね?
あれは多分既に喪われていると思うので…もしそれだったら一大事なんですが…
この太字の部分はいささか説明が要ると思う。藤山村時代、開作地に回す灌漑用水の不足分を汐差川から賄っていたことが記録されている。浜田で堰いて水位を上げ、現在は岩鼻児童公園となっている場所にあった請堤に貯えたという。一連の導水路と請堤は明治期に施工された大工事であったことが文献に示されている。[2]

この導水路については私も関心を示し、今どうなっているかの探索を試みたことがある。しかし先述の[2]以外にこの導水路について言及した文献がなく、何処を通っているやらの手がかりも得られなかった。それで大迫池が拡張された折りに失われたのだろうという個人的な推論を行うにとどまっていた。
現在ではこの推論のうち一部は誤りであることが判っている

まさか…さんざん悩んで考えた挙げ句に写真は市内の物件ではなかったなんてオチはないよねと思って、念のために一体何処で見つけたものかメッセージで訪ねたところこんな回答があった。
岩鼻公園の北側からけもの道を下ったところです。浜田に近いですよね。
奥をみたら水路になってて先は明かりが見えてましたよ。
疑って申し訳ない…やはり市内だった。それも岩鼻公園に近い場所となればそのものズバリだ。本当に明治期に造られたあの導水隧道の可能性がある。現存しているとは殆ど知られていないのではと感じた。

すぐにでも詳細な調査を開始…と行きたいところにいくつかの制約があった。20日は午後から郷土史関連コアメンバーによる超重要な会合が予定されていたこと、それから最大の制約事項だが主力のカメラを修理に出していてまだ戻ってきていないという点だ。
会議は午後1時からなので午前中に行けば間に合う。カメラは…同コアメンバーから譲っていただいたサブのカメラが手元にあるが、使い慣れていないしバッテリーの予備がないので充分な撮影ができないかも知れない。

すぐに消えてなくなる物件ではないものの、それがどんな状況で存在しているのかを自分の目でいち早く検証したかった。それで午前中の家仕事は適当に切り上げ、踏査後は直接会場へ向かうこととして現地へ自転車を走らせた。
《 現地へ 》
翌20日の天気は快晴。寒いかも知れないと思って羽織ったウェアはまったく無用なほどの気温だった。
総括記事でも書いているように、場所は松崎町で既に記事レポート済みの市道岩鼻浜田線沿いから少し入ったところにある。一連の詳細情報は昨日のうちに詳細を聞いていた。
本物件のみが目的なので、何処にも寄り道せず一路自転車を漕ぐ。天気が良いものの浜田までの往路は一貫して向かい風で、現地到着前に相当くたびれてしまった。

ダンプトラックが停まっている家のところに進入路があって、西宇部線の鉄塔が見える場所で、この先通行止めの標識が出ているところは…遠くからでもすぐに分かった。


この先の地区道は一度も自転車で入ったことがない。坂道だし先で行き止まりなのが地図で分かっているからだ。


この辺りへ来たのは、前方に見える西宇部鉄塔の建て替えを前に旧鉄塔を撮影したときの一度きりである。この先に水神社へ上がる急な坂道があってその先から索道が伸びていた。もっともその時は請堤への導水路のことは知らず純粋に鉄塔を撮影してきたのみだった。
さて、この先行き止まり看板のすぐ横に山の方へ登っていく踏みつけ道が見えていた。報告によればこの先にあると聞いていた。長丁場になると思ったので自転車は進入路ではなく踏みつけ道の上側に置いた。

見たところごく普通の山道である。ある程度通る人はあるのか、周囲は草刈りされ枝は片付けられていた。


小さな沢地を遡行するようなイメージである。
すぐ横に素堀りの排水路があったが恐らく関係はないだろう。


何の種類であろうがおよそ隧道が何処にあるかは分かっている。沢地を下から辿っていって斜面の傾斜がきつくなり始めるその場所だ。
踏み跡は次第に淡くなっていてその先にいくつかの沢があった。そのうちから素堀りの排水路がある沢を選んで遡行していると…
あれだ…
写真でも微かに見えているのが分かるだろうか。


山道らしき踏み跡はそのポータルの近くで終わっていて何処にも伸びている様子がなかった。
それ自体おかしなことなのだが、報告のあった隧道ポータルはそれ以上に不可解な状況におかれていた。


先々で隧道セクションからも参照できるようにラベルをつけておこう。
《 不可解な水路隧道 》
隧道の出現は如何にも唐突である。沢地の上端部から掘削しているのは分かるとして、本当に水路隧道なのだろうかという疑念を持った。


正面から撮影している。暗がりの一部に白い点が見えることから分かるように、反対側の明かりが見えていた。
そして隧道の手前が何とも奇妙なことになっていた。


隧道を出たところで水路は円筒形の井戸に繋がっていた。
これは一体どういうことだろう?


この井戸みたいな円筒状のものは、昨晩メッセージ経由で送られた写真で知っていた。しかしこれが何を意味するのかについては…ううむ…
私が訪れたとき、円筒井戸のようなものの上には2本の枯れた竹が置かれていた。置いたのではなく近くにあったものが自然と倒れただけかも知れない。

枯れ竹をどけて円筒柱の縁に立っている。
直径は1.5mくらい。水路からの深さは1m程度だろうか。底に枯れ葉が堆積していた。


一瞬、もの凄く深い竪坑では…と考えかけた。枯れ葉が乗っているのは見せかけだけで、本当に井戸の如く水が溜まっているとか…

それはまずあり得ない。
枯れ葉が堆積している位置に排水口があるからだ。


如何にもそんな竪坑だったとしたら山歩きする人が転落すると危険だから対処されているだろう。
念のために傍にあった長い棒で底をつついてみた。棒はある程度水溜まりの中へ刺さったが、確かに底があった。

排水口があるとなれば、隧道を出てきた水がこの円筒柱の中へ落ち込んで少しずつあの管から排出されるのだろうか。それは絶対おかしい。これほどの幅がある水路なら、あんな小さな管径で足りる筈がない。この井戸みたいな部分は時代が下ってから造り替えたのではないかと感じた。即ち水路としてはもう使われていないのでは…
考えていても前に進まない。まずは現地データを採取しよう。

最大の関心の的である隧道のポータルへ近づく。
大変に立派な造りだ。


レンガ巻き立てと要石部分。
巻き立て部分はレンガ一本を縦横と交互に配置している。要石だけは特別に誂えた花崗岩だ。
要石部分の拡大画像はこちら


笠石部分と柱は前面より少しばかり前へせり出している。
ポータル全体を補強する役目を果たしているのだろうが、この造りが隧道ポータルの装飾性をもたらしている。


いやはや…何でこんな大層なものが誰も知らない沢地の奥に眠っているのだろう。今まで市内にいくつもの水路隧道を見てきたが、これほど緻密な設計の導水隧道を見たことがない。特に外周部のレンガせり出し部などは鉄道の隧道ポータルを思わせる重厚さがある。排水口があるから水路隧道であることはほぼ明らかなのだが、もしかすると尾根の反対側との通行や何かの鉱物を採掘するために掘った隧道だったと言われても信じてしまいそうだ。

これはある程度知られている案件なのだろうか…
開5丁目の石柱のときと同様にガラケーで撮影しメンバーに送ってみた。


恐らくこの水路隧道はもう使われていない。隧道を出たところで円筒柱状の井戸らしきもので終わっていること、その排水口が水路幅よりも異常に小さいことが根拠だ。何かの目的でこの隧道を掘削したものの、使われなくなったので後年に改変したのだろう。特に円筒井戸の部分はコンクリート製なので、元は違う構造だったのだが、流れ出てくる湧水を処理するために後から小さめの排水口を設置したように思われた。
隧道自体はまだ通じているらしく反対側の明かりは見えていた。長さがどの程度あるのか、内部はどうなっているかは…

いつの時代のものか不明な素性の知れない水路隧道の内部探索はおぞましいものがある。何が起きるかの危険が当然予測されるからだ。ただ、現地へ来て現物を目にしてしまったからには、ある程度の成果を持ち帰らなければなるまい。私は慎重を期して水路の中へ降り、両手にカメラを構えつつ隧道ポータルの内部へにじり寄った。

(「松崎の用水路・第一次踏査【2】」へ続く)
出典および編集追記:

1. No.5隧道の下流側はボックスカルバートになっていて隧道ポータルが存在しない。これは後年の改変で取り除かれたものと考えている。

2.「なつかしい藤山」p.23 にこの部分の記述がある。該当箇所のキャプチャ画像はこちら
書籍を画像処理して編集しています…無断使用をお許し頂きたい

ホームに戻る