松崎の用水路

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記事作成日:2016/4/9
最終編集日:2021/3/28
ここでは、岩鼻公園の北側、松崎町と浜田2丁目の間を連絡するレンガ造りのポータルを持った水路隧道を主体とする用水経路を松崎の用水路として記述する。
写真は松崎側の水路隧道ポータル部分。


松崎側の坑口が推定される位置はこの辺りである。


用水路とは言え松崎側には坑口を出た先に井戸のような形をしたコンクリートの円筒水槽に接続され、底から水が流れるようになっている。トンネル自体は大迫池の入江の一つに繋がっている。
隧道の長さは目測で約50m、最大土被りは10m近くある。ポータル部分はレンガ積みの精密なもので、かなり大掛かりな工事だったように思われるが扁額がないためトンネル名や竣工年は不明である。藤山校区の郷土マップに記載はなく、既読の郷土関連の書籍にも一部関連がありそうな記述が若干見えるのみで、現在のところ建設時期など詳細がよく分かっていない未解決物件である。

松崎を経由する灌漑用水路としては、明治期に中山川の水を浜田井堰から取り込み居能開作へ導くものが知られる。この用水路は秋富重太郎が設計し、明治8年に完成して一部には隧道区間を含むとされる。現在の岩鼻西児童公園のところに存在していた請堤へ送水するものであった。[1]隧道ポータルの外観から、発見された当初は明治期に造られた請堤への用水路の一部ではないかと思われたが、現在では否定されている。

大迫池には流入する自然河川が皆無であり、貯留される水は専ら自然降雨である。しかし居能開作による耕作地拡大で水需要が増えてきて、戦前に動力ポンプを厚東川に面した松崎へ据え付け、潮が混じらない時期を見計らって河川水を汲み上げて大迫池へ貯留していたことが分かっている。ポンプ場や河川水の導水経路は判明していないが、貯留された河川水を松崎側で使えるようにトンネルを掘った可能性が強い。

この仮説通りなら、トンネルは居能用水として河川水を汲み上げていた時期と考えるのが妥当である。ただし地元在住者への聞き取りでもトンネルが掘られた時期は明らかになっていない。
《 用水路の概要 》
推定される用水路の経路を地理院地図に重ね描きした画像を示す。は後述する取り出し口の桝、赤破線は隧道区間、青点線は管渠、青の細実線は開渠を表している。
流路のGeoJSONデータは こちら


現在はまったく使用されておらず実線で描かれた開渠部分も木の葉に埋もれて明瞭ではない。
数年前に大迫池へ溜まり過ぎた水が隧道を経て松崎側へ流れ出し斜面が崩れて市道を塞ぐ案件があったため、後に市道沿いの暗渠までの排水路が造られた。この部分はかつて請堤に水を送る用水路へ繋がっていたとされる。
《 アクセス 》
上記の地図だけでは目印になるものがなく分かりづらいため、現地案内を兼ねて画像で解説する。
【 松崎側坑口 】
市道岩鼻浜田線を北へ進むと、厚東川に接近して護岸沿いに進む場所へ出てくる。


上空を鉄塔西宇部線が横切っている場所のほぼ真下である。

私設のカーブミラーがある場所から右へ入ると、コンクリート蓋の掛かった側溝(前述の後年施工された部分)に沿う細い道がある。
この側溝を辿るように山の中へ分け入る道である。


素堀りの溝を辿って沢地を遡行するとやがてほぼ正面にレンガ積みのトンネル部分が見えてくる。この道自体はトンネルの前で不明瞭になっている。

隧道部分の松崎側はポータルこそ堅牢なものの内部は一部壁や天井部分が崩落して土砂が堆積している。保存状態が不明なうちは決して隧道内部への潜入を行わないよう強く推奨する。

危険この場所は生命にかかわる重大事故の危険があります。決して不用意に接近なさらないで下さい。

続けて大迫側のポータルを見たい場合は隧道内を通るのではなく一旦尾根に登る必要がある。
【 大迫池側坑口 】
松崎側からの細い道はポータル手前で途切れているように見える。実際は一旦切り返して住宅地に面する斜面の上を通るようになる。明瞭な遊歩道にはなっておらず恐らく私有地内通行と思われるが、公園の散歩で歩く人は相応にあり通行は概ね問題ない。ポータルの横から直接斜面を登ることでも遊歩道に到達可能ではあるが、近隣にシイタケの榾木が並べられている場所があり、明白に私有地と思われる場所には立ち入らないようにする。

大迫池側はポータルへ接近する道がまったく存在しない。岩鼻公園へ向かう尾根伝いの道の途中から外れて斜面を下降することになる。したがって藪漕ぎまたは踏み跡の淡い山歩きの経験がない方の接近は推奨しない。降りる場所の目印になるものはないので、松崎側のポータルの場所を推測した上で下降開始する必要がある。

大迫池側は隧道の長さを切り詰める目的で沢地の一つを遡行する形でぎりぎりまで堀割を造っているため、ポータルの周辺は極めて急峻である。沢地であり周辺は水気が多く極めて足元が悪い。


堀割を直接下降するのはリスクが大きい。遠回りでもポータルから一旦離れた場所へ降りて堀割をたどる方が安全である。堀割には夥しい木の葉が堆積しており、足元の地面の状況が分からない場所が多い。倒木も著しく、汚れても構わない服装が必要である。足元は長靴装備が望ましい。
岩鼻公園の散歩道と鉄塔の索道は松崎と大迫の間の尾根を伝う形で伸びているので、撤収時は方向さえ間違わず尾根を目指せば迷う心配はない。
《 記事制作後の変化 》
現地そのものに変化はない。

別の文献を参照することで、最近この隧道は厚東川の水を汲み上げて大迫池へ貯留するための導水経路だったのではないかという説が浮上した。特に隧道の手前にある円形のコンクリートはポンプ所の土台だったのではと思われた。

戦前期は居能開作に供給する灌漑用水が充分ではなく、新開作(居能)用水として厚東川に水利権が設定されていた時期があった。動力ポンプが普及し始めた頃に取り付けを行い、海水が混じらないように干潮時に厚東川および中山川から流れる河川水を汲み上げて大迫池に溜めていたという。このポンプ所は戦後の混乱期にポンプの盗難に遭いそのままとなった。しかし居能開作に工場が進出した頃から宅地化が進み灌漑用水需要が減って大迫池の水のみで賄えるようになったため、動力ポンプが復旧されることがないまま水利権も自然消滅している。[2]

円形のコンクリートの外観より中継ポンプ所が存在していた可能性はあり得る[3]が、動力ポンプで汲み上げて大迫池へ貯留していたという事実はあるにしてもこの場所とは断定できない。ただし隧道を利用していたと考えるなら揚水高を大幅に切り下げられるため最も効率的な場所とは言える。厚東川より汲み上げる導水管の遺構などは確認されておらず、護岸工事などで既に喪われている可能性がある。本件に関しては地元聞き取りなど更なる情報が必要である。(2017/1/27)
【 大迫溜め池の用水取り出し口 】
2月1日、現地の再撮影を行う折に地元在住民への聞き取りを行う機会に恵まれた。この過程で隧道は大迫池の水を松崎地区方面へ取り出すためのものであることが判明した。ただし隧道の建設時期は明らかになっていない。また、厚東川の水を汲み上げるポンプ所は少なくともこの場所には存在していなかったという。(2017/2/2)

同年12月に現地へ再撮影に行き、たまたま竹の伐採を行うために現地入りした土地所有者から話を伺うことができた。この方は2月に接触した地元在住者とは別の方である。
前回接触した方からの聞き取りと同様、隧道は大迫池の用水を松崎側へ取り出すための経路であることが確認できた。しかし建設時期は分からないということだった。用途廃止した後、隧道より松崎側に池の水が流出し斜面が崩れ、市道が一時通行止めになった話もご存じだった。厚東川から水を汲んで大迫池へ回していた件については、ポンプ場は何処にあるか分からないものの少なくともこの場所ではないらしい。また、隧道のあるこの場所は聞き取りを行った本人ではない別の方の私有地である。隧道観察などで現地に入るのは問題ない模様。隧道の最上部に境界杭があり、それより大迫池側は市有地(岩鼻公園)となっている。この隧道を含めて浜田地区に郷土関連の研究を行っておられる方があり、事情を知っているかも知れないとのことである。(2017/12/22)

2019年8月度向けのサンデー宇部で「松崎の謎の水路トンネル(Vol.39)」としてコラム執筆した。個人的関わりで書いているようにこの物件はFBメンバーにより報告されていて、読者情報から知られたうちで最大の驚愕案件であった。そこで当サイトで記事化すると共に、将来的にコラム執筆する旨約束していた。8月度は翌月の9月21日に渡邊翁記念会館で開催される音楽祭に合わせてスタインウェイのピアノをコラムで紹介する予定でいた。しかし前月の7月度は恩田プールを配信していて現役構造物関連の題材が続いてしまうこと、8月度は体調を崩して暫く休養していてピアノの写真を撮り直しに行けなかったため、あらかたの記述が済んでいて手持ちの写真も豊富だった本件をコラム化した。なお、現地の状況が変わっているかも知れないと考えて病み上がりに松崎側からの写真を撮り直し、コラムでは殆どをこのとき撮った写真で構成している。
報告を受けて初めて現地調査を行ったときの時系列レポート。全3巻。
時系列記事: 松崎の用水路・第一次踏査【1】

カメラが修理から戻ってきて再度現地へ動画撮影も交えて再調査したときの時系列レポート。未作成。
時系列記事: 松崎の用水路・第二次踏査【1】

現地在住民からの聞き取りにより本物件の用途が明らかにされたときのレポート。全2巻。
なお、一連の記事はプライバシーの問題を含むため当面は限定公開としている。
時系列記事: 松崎の用水路・第三次踏査【1】
出典および編集追記:

1.「なつかしい藤山」(田中信久)p.27

2.「宇部の水道」p.77

3. 直接汲み上げる形式のポンプ所は否定された。何故ならば隧道のある地点から厚東川までの直高は10mをはるかに超えており、この場所にポンプを設置して河川水を吸い上げることが物理的に不可能という理由による。したがってこの地にポンプ所が存在していた可能性を考えるにしても厚東川の近くで汲み上げた水を大迫池向けに流す中継ポンプに限られる。

4. 検索の結果による。多くのページで「まつざき」の読みが与えられている。
《 個人的関わり 》
この物件は自力で見つけたのではなく、岩鼻公園の散策を常としているメンバーによって偶然に発見されたものである。岩鼻公園のもっとも高い場所に東屋があり、そこから更に北へ山道が延びている。普段歩かない道を進んで松崎方面へ降りようとした過程で発見、報告された。

ホームページの読者やFBメンバーから今まで複数回の調査依頼や物件報告が寄せられているが、それらのうちでこの松崎の用水路は最も驚愕すべき物件である。かなり明白な遺構であるのだが、郷土関連の書籍を始めとして詳細な記録が見当たらないのも謎めいている。松崎地区の在住民の要望から掘った地元管理物件ではなく、もしかすると当時の有力者が自費で私有地から掘削した可能性もある。ただし大迫池の水に関して水利権が絡んでくるので、居能用水として大迫池に河川水を汲み上げていた水利権者との関係が想起される。
《 地名としての松崎について 》
情報以下の記述部分は、関連項目が作成された折りには本編から切り離し移動されます。

松崎(まつざき)とは藤山校区の西側、厚東川左岸にある地名で、現在は松崎町を構成している。写真は配電線の電柱に取り付けられた松崎町の町名プレート。


位置的にはJR宇部線岩鼻駅の北側であり、厚東川の下流域でもっとも幅が狭まる特異的な地形として知られる。東側は大迫池を含む。
町名としての知名度はそれほど高くはないが、海が近い地形に着目されたからか早くから人々の暮らしがあったことが松崎古墳の存在により立証されている。

地名明細書では藤曲村の居能浦小村に松崎(まつさき)として収録されている。同じく岩鼻という小名も存在していたが、当時の読みは「いわな」であったらしい。後年制作された小字絵図では、現在の岩鼻駅を含めて字松崎となっていて岩鼻という小字は存在しない。他方、松崎については派生小字として沖松崎がある。

地名の由来としては岩鼻と並んでほぼ間違いなく海へ突き出た岬と植生であろう。厚東川の右岸側は開作地であり一連の地名が生まれた当時は海の一部であった。現在松崎や岩鼻のある左岸側は昔から今の地形のままだったことを裏付ける。
厚東川へ張り出した地勢からすれば堅い岩盤の存在が示唆されるが、地質的には蛇紋岩の目立つ鍋倉や向山とは異なっている。岩鼻から松崎、浜田にかけての海に面した斜面にはさざれ石状の地層が目立つ。これは遙か昔の厚東川の前身にあたる河川が砂礫を運び堆積させた地勢である。同種の地形が木田郷の県道沿いにもみられる。

現在では松崎町の読みは「まつざきちょう」となっている。[4]どの時期に濁点ありの読み方に変わったかは調査を要する。

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