琴川橋

道路橋インデックスに戻る

記事作成日:2017/12/26
最終編集日:2020/5/20
情報この総括記事は内容が古くなった旧版を元に再構成されています。旧版は こちら を参照してください。

琴川(ことがわ)橋は、かつて厚東川の岩鼻と東割を連絡していた市道の道路橋である。
写真は岩鼻側からの撮影。


橋の中央部分をポイントした地図を示す。
後述する理由により、最終編集日より期間が経過した後は橋がなく厚東川の中央を示しているのみかも知れない。


橋の左岸側が市道岩鼻東割線の起点になっており、橋自体の管理も市に帰属する。

橋の幅が狭く往来需要に対応できていないこと、橋の高さが低く橋脚が多いため洪水に対して脆弱であることから、上流側に新しい橋(新琴川橋)が建設されていた。新しい橋の供用開始と同一日に琴川橋は閉鎖され、その翌年2019年より撤去工事が始まった。

この総括記事を作成している2020年4月時点で琴川橋の撤去工事が進行中である。以下、橋が撤去される以前の状況について記述する。
《 琴川橋の詳細 》
以下は、琴川橋が現役供用されていた時期の撮影である。ただし部材などを撮影した写真には供用終了後に撮ったものも含まれる。

左岸、市道岩鼻東割線の起点からの撮影。


東割側からの撮影。


橋脚は初代の形状を再現するように、岩鼻側は4本のコンクリート脚がセットになった櫛形をしている。
他方、東割側は通常の長方形状の橋脚にコンクリートで根巻き補強した形となっている。


これは厚東川の流量が通常状態である場合、幅の広い河川の東割寄りを流れているからである。この部分は干潮になっても干上がることがない。他方、岩鼻側から3分の2程度の区間は潮が満ちたとき海水に浸るのみである。
豪雨のときは当然ながら川幅一杯に水が流れる

琴川橋の欄干は異様に低い。橋自体も低いのだが、初期の欄干の高さは数十センチしかない。このため転落防止で鉄パイプを追加設置して運用されていた。


この鉄パイプは供用開始終了後にすべて取り払われている。したがって閉鎖後の渡り納めイベントでは鉄パイプのないオリジナルな状態での琴川橋が撮影できている。
《 橋の歴史 》
以下、資料で判明している範囲で橋の歴史について記述する。
【 渡し船時代 】
この近辺における最初期の地勢は、左岸側では松崎や岩鼻など突端を示唆する地名からも推察されるように西側へやや張り出した緩い岬だった。他方、右岸側は妻崎開作という地名からも分かるように海であり、現在の厚東川に相当する河川の河口部はもっと北側だったので、この地の往来需要が発生したのは妻崎開作以降ということになる。

開作により厚東川の川筋が定まった後、自然発生した人の往来路を元にいくつかの場所で船渡しが行われた。この地にはまさに琴川橋の架かっている両岸に木屋(きや)の渡しがあった。[1]


右岸側には記念碑が設置されている。木屋はこの辺りの小字名ではなく名称の由来は未だ調べられていない。材木運搬に由来するのかも知れない。
【 架橋の背景 】
初代となる木橋の琴川橋が架かったのは明治41年のことで、上流にある沖ノ旦橋や下流にある国道の厚東川大橋よりはるかに早い。何ヶ所も厚東川の舟渡しがありながら琴川橋が比較的早期に架橋されたのは、現在の山陽本線の前身である山陽鉄道の駅招致が大きな要因であった。

山陽鉄道が下関まで通じたのは明治34年のことで、当時は現在ある厚東駅は舟木駅と呼ばれ、現在の宇部駅はまだ駅として存在していなかった。それまでの人や商品の輸送は海路の船便か陸路では街道を利用した馬や飛脚に頼っていた。

鉄道輸送は煙害による火災や灰の弊害は確かにあったが、海路のような天候に左右されず、陸路でも最高速であったために羨望の的だった。開作により人々が住み着き始めていたし、何よりも明治期には石炭採掘で宇部村・藤山村の人口も増加に転じていたことであり、駅の設置が渇望されていたと想像するに難くない。

宇部村・藤山村・厚南村は宇部駅の設置を陳情したが、その折りに「厚東川に橋が架かりそこに繋がる道路ができること」が前提条件として課せられた。これを受けて三つの村は合同調査を開始したが日露戦争にかかり頓挫している。
以上の記述は山陽本線や宇部駅の総括記事を作成した折には移動する

日露戦争後、厚東川架橋組合を造り一株15円の組合株千株を募集して着工し、初代の木造の琴川橋が架かったのは明治41年のことである。[1]架橋には居能の船大工たちが榮橋を架けた技術を活かして竣工させている。[2]

琴川橋という名称は厚東川をもじった語であること、木橋を横からみると橋脚部が琴のように見えることに由来している。秀麗な姿の橋で人々の評判は良かったという。琴川橋の架橋によって宇部村・藤山村と厚南村を連絡する道が確保されたので、明治43年7月1日のこと山陽本線に待望の宇部駅が開業した。したがって琴川橋の竣工は、歴史的にみても単に厚東川両岸の連絡のみならず厚南をはじめとする地域の鉄道輸送の恩恵を受けることに間接的ながら寄与したと言える。

木橋時代の琴川橋は何度か流されている。特に昭和17年の風水害では、繋留から離れた舟が橋に衝突して大破してしまった。戦時に近かった時代背景もあり、改修が完了したのは昭和22年6月19日のことであった。[2]
舟渡しから橋に代わった当時も渡橋には料金が要った。大人は八厘、子供は五厘、自転車一銭五厘、馬車三銭だった。渡し船時代は五厘であったので「五厘渡しの八厘木橋」と呼ばれていた。[1]1915年に県が琴川橋を買い上げた後は渡橋料金が要らなくなった。[2]

現在あるコンクリート橋の下には、干潮時には幾度もの水害を経て流された木橋の橋脚部分の遺構が観察できる。したがって現在の琴川橋は恐らく初代の木造橋を解体しまったく同じ場所に架けたと考えられる。


更に上流にある宇部線の厚東川橋りょうは、松崎付近で最も厚東川の幅が狭まる場所を選定している。他方、琴川橋は橋の長さを切り詰める架橋位置選定についてはあまり考慮されていない。木屋の渡しがあったことから両岸に昔からの道があり、通行の便を考えて場所を変えずそのまま架橋したようである。この昔からの道とは、藤山村側は岩鼻駅前を通る現在の市道藤曲厚東川線、厚南村側は妻崎神社の前を通る道であったと考えられる。
【 コンクリート橋 】
木橋が何度架け替えられたか不明だが、昭和36年3月にコンクリート橋が架けられた。橋台や橋脚の施工は有限会社福島組で、岩鼻側の護岸左側にある厚東川の石盤が取り付けられた同じコンクリート柱に施工者の石盤がみられる。東割側には右側の「ことがわはし」の石盤がある柱にピー・エス・コンクリート株式会社施工の金属板が設置されている。これは橋梁専門大手のピーエスのことではないかと思われる。

前述のように、琴川橋の橋脚構造は岩鼻側と東割側で異なっている。コンクリート橋が架かる昭和30年代中期までには広い川幅において現在と同じような流路が定まっていたことが分かる。
《 Googleストリートビュー 》

上流の橋 上流側に架かる橋に移動 下流側に架かる橋に移動 下流の橋
新琴川橋厚東川大橋

初めて琴川橋および橋の下部を調査したときの記録。2009年4月19日と21日の作成。全2巻。
外部ブログ記事: 琴川橋【上】
《 個人的関わり 》
注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

現在、撤去工事が進められているため継続監視対象物件として自転車でこの方面を訪れたときはかならず立ち寄って撮影している。
《 近年の変化 》
・2016年の6月上旬、琴川橋の岩鼻側接続部からJR宇部線の梅光橋りょう下の間の道路整備工事が始まり下旬までに舗装を完了している。

・2017年5月頃、新しい琴川橋に向かう市道岩鼻中野開作線周辺の道路付け替えが行われた。これに伴い、琴川橋を渡るドライバーが混乱しないよう橋の中央付近に告知看板が設置されていた。


・2017年7月中旬頃に新しい橋への切り替え時期を30日午後3時とする告知看板が設置された。


この看板は橋の両端入口に設置されている。同時刻に市道岩鼻中野開作線の新しい琴川橋を供用開始するので、バリケードをそのまま古い琴川橋の入口部分へ移すものとみられる。

なお、撤去の本体工事が始まり原形が喪われ始めたため、旧来の総括記事を閉鎖し旧総括記事に降格した。琴川橋を過去に存在した橋と位置づけて新しい総括記事を作成し、旧総括記事は以後編集追記を行わない。

撤去工事は完全な撤去が終わるまで継続施工されることから、琴川橋を継続監視物件として変化を追う時系列記事を別途作成する。詳細は以下を参照。
継続記事: 琴川橋撤去工事
出典および編集追記:

1.「ふるさと歴史散歩」p.156
木屋の他に沖の旦、松崎、中渡し(厚東川大橋下流付近)、居能の渡しがあった。

2.「なつかしい藤山」p.34, 53

ホームに戻る