琴崎橋・渦橋(旧橋)

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現地踏査日:2012/4/22
記事公開日:2012/4/24
この記事では、琴崎八幡宮の御旅所付近にある琴崎橋・渦橋の旧橋の遺構を掲載する。
2つの現役橋は近接しており、旧橋は事情あって両者とも同じ位置に移設されたので、同一記事として扱う。なお、現役で供用されている琴崎橋および渦橋は以下の記事を参照されたい。
派生記事: 琴崎橋渦橋
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琴崎橋は国道490号が拡幅整備された平成期に、渦橋はそれ以前に市道が整備された昭和後期にいずれも現役橋としての生涯を閉じ、琴崎八幡宮の御旅所に至る石段の前に安住の地を授けられた。

市道山門参宮通り線と地区道との合流地点から振り返って撮影している。
ここに琴崎八幡宮の御旅所がある。


地図でこの場所をポイントしてみた。


この石段の先に琴崎八幡宮の御旅所がある。
地図でも石段が簡略表記されている

御旅所へ向かう石段の延長として小さな石橋が架かっている。その両脇には元の石橋に対して不相応に大きな親柱が据えられている。


達筆な陰刻でちょっと読みづらいが、立派な親柱には平かなで「ことさきはし」と陰刻されている。
しかしその手前には「渦橋」と読める比較的新しい花崗岩柱が建っている。


渦橋の説明書きとして書かれている、
かつては西日本三名橋の一つだった
…については(現在架かっている渦橋の項目でも触れたように実のところどういうことなのかよく分からない。西日本三名橋どころか、単に「渦橋」で検索しても同じ名前の橋すらヒットしない。
以前、ネットのドキュメントか図書館の書籍で読んだ記憶によれば、次の点を指摘されていたように思う。
・架けられてから歴史が古い
・石橋の形状が極めて秀麗
・時雨川のこの場所の由来
この説明柱の裏側はこうなっていた。


親柱は琴崎橋のもの、しかし架かっている橋の説明は渦橋になっている。 この一見矛盾している状況に初めて訪れた人は戸惑うかも知れない。
これは説明するよりも写真を見て頂く方が分かりやすいだろう。

以下の4枚は3年前、私が初めてここを訪れたとき撮影したものである。
今と違う状況が分かるだろう。
後から思えば良いタイミングで撮影していたものだ


石段の手前に初代の渦橋は架かっていたし、橋の名前を記した石柱も建っていた。しかし琴崎橋の親柱が今の位置にない。
最初の写真だけ見れば、せっかく古めかしい琴崎橋の親柱が据えられていながら、平成14年に建てられた渦橋の説明柱が邪魔をしているように見えるが、実は新しく見える説明柱の方が先に建っていたのだ。

かつての渦橋に備わっていた親柱。
橋に対して相応なサイズである。あまりにも古く、彫られている文字を読み取りづらい。


渦橋本体には、同様の親柱が4体備わっていた。しかし琴崎橋の親柱は…


こんな感じで、暫くの間組み立てられることなくすぐ傍に存置されていたのである。


以上の4枚の写真を撮影したのは2009年の4月上旬だった。

一連の状況から推測されるように、琴崎橋の親柱が移設されたのは渦橋が移設されたよりもずっと後のことだったのだ。
先に掲載したYahoo!の地図において、現在より10年以上遅延がある航空映像モードにしてみよう。琴崎八幡宮前の国道は未だに対面交通となっていて、陸橋が見えている。その手前に時雨川を横断する橋も僅かながら見えるだろう。この区間が4車線化される比較的最近になって初代の琴崎橋が撤去され、親柱がここに運ばれたのであった。
この記事を公開後に航空映像が更新されるかも知れない…

即ち順序として、まず渦橋が撤去されたときこの場所に移設された。代々、西日本三名橋と呼ばれるような橋なら、部材を捨て置くようなことはしないだろう。そこでまずは渦橋本体を御旅所の前に据え直した。渦橋の意匠といいサイズといい好適だったのだろう。
それから更に時代が下り、平成期に入って国道拡幅で琴崎橋も役目を終えるときが来た。琴崎橋は渦橋ほどの名橋とはされなかったながらも、参宮通りを経て琴崎八幡宮に参拝する多くの人が最後に渡る橋だった。恐らく橋を造った当時の人々も、永代ここに在って参拝客を渡し続けると願っていただろう。そうであるが故に、それほど幅もない時雨川に対して大変に立派な親柱を備えた橋が造られたのだ。
国道拡幅で琴崎橋が撤去されることに関して相当な議論があったのではなかろうか

神仏に属するものは、神仏の御許へ還す。そう考えるなら琴崎橋の親柱を御旅所に向かう石段の前に据えるのは全く理に適っているだろう…見かけは不釣り合いながら小さな渦橋に不釣り合いなほど大きな親柱が備わっているのはこういった事情からなのだった。

なお、琴崎橋の親柱が搬入された後暫くそのままにされていた理由はよく分からないが、放置していたのではなく組み上げて祈念の儀を執り行う日柄があったのではと推測される。することは石材の据え付けだが、何千何万という人々の想いを抱え視線を浴びて働き続けた琴崎橋である。普通のブロック据え付けのように軽々しく扱えなかったのではなかろうか。

渦橋本体を横から眺めたところ。
石橋は微妙に上方へ反っている。この微妙なカーブが渦橋の持つ秀麗さとされている。実際、この形状に加工するのは当時の技術では大変な労力が要ったはずだ。


改めて渦橋の親柱のうち、文字の読み取れそうなものを角度を変えて2枚撮影してみた。
あまりにも古く表面が削れて文字の掘りが浅くなってしまい完全には読み取れない。


江戸期の年号を思わせる文字が見受けられる。
厳密に調べるには表面に半紙などをあてて魚拓の要領で文字を採取する必要がある


橋としての形状を際だたせるために、時雨川を模したと思われる河原も造られている。


移設された琴崎橋の親柱。
下に置かれているのは欄干に使われていた石材だろうか…


漢字表記では「崎」の字が「ア」、いわゆる「立ち崎」になっている。


琴崎橋の完成は大正13年12月というから、石材による永代橋の中では市内でも際だって古い部類に入る。


親柱の背面には、かつて欄干を接続していたと思われる穴を塞いだ痕があった。
背面に何やら文字が刻まれているようにも見えたが、痕跡が淡くて読み取れない。


渦橋の謂われもだが、そもそも「琴崎」という名称の由来も想像を巡らせるものがある。「崎」が岬を意図することはかなり想像つくものの「琴」が地名に結びつかない。そうでありながら市内には琴崎の他に琴芝町があるし、厚東川に架かる橋に琴川橋が知られる。しかし国内レベルでも琴の字が地名に現れる例はそう多くはない。
私自身「琴平」「琴似」くらいしか思いつかない

地名の由来を突き詰めるのは大変に難しく、新しくできた地名以外は完全な回答を得ることは不可能である。したがって私的な推測の域を超えないのだが、私は「琴」自体も岬を意味しているのではと考えている。
このあたりの考察は、琴芝の地名由来を考えた以下の派生記事に述べている。
派生記事: 琴芝の由来
地名は一般には漢字表記よりも音優先であり、後世には佳字で表記替えすることが普通に行われてきた。琴崎も後世に美麗な漢字を充てたのが成り立ちではとも考えられる。地勢的には宇部の市街部は確かに瀬戸内海に対して岬状に張り出している。

御旅所の石段から見下ろして撮影。


この石段の上に御旅所があり、秋の例祭のときには賑わうらしい。


この日は昼前までかなり雨だったせいか石段は適度に潤っていた。
カルシウム分を補給するためか、カタツムリが徘徊しているのを目撃した。最近かなり珍しくなった気がする。
私自身これほど大きな個体を見つけたのは何年振りだろうか…


なお、本ホームページでは寺院および関連する遺構を取り扱わない(と言うか予備知識が殆どなく安易なことを書けない)ので詳細は割愛するが、御旅所とは神社の祭礼で神様が宿泊・休憩なさる場所とされている。
「Wikipedia - 御旅所」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%97%85%E6%89%80
思い切って大変安直なことを書いてしまえば、市内に限って言えば○○八幡宮と呼ばれている場所では、本堂から若干離れた場所に御旅所が付随する。参道の延長線上に古めかしい直方体の石のベッドのようなものが見えたら、それは石棺ではなく御旅所と呼ばれるものである。
末信正八幡宮や松江八幡宮で同様の御旅所が観られる
以下に琴崎八幡宮の御旅所を案内する看板と、現物の写真を一枚ずつ載せておく。


琴崎八幡宮と言えば本堂ばかり注目されるが、御旅所は例祭のとき以外殆ど注目されることはなくひっそりとしている。この横を通る地区道の坂も同様の石積みが見られ、喧噪を避けて静かに古き良き時代に身を置きたい方には訪ねる価値あるスポットだろう。

参宮通りという名の通り、琴崎八幡宮を参拝する人々を渡してきた琴崎橋、多くを知られず名前と深遠なその形状のみを今に伝える渦橋…両者は同じ時雨川の橋ながら、生まれたときも役目を終えた時期も違っていた。しかし琴崎八幡宮という「橋架け役」によって再び御旅所の階の前という地にまみえ、終焉の地を得たことは”偶然の必然”であるように思われたのだった。

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