市道琴芝町4号線

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現地踏査日:2012/6/13
記事編集日:2015/3/10
4号線があるわけだから、当然琴芝町線琴芝町2号線琴芝町3号線も存在する。これら3路線はいずれも市道栄町線に起点を持つ市街部の直線的な路線だ。
そんな中で何故か4号線だけは同じ琴芝町にありながら市道栄町線の終点となる県道琴芝際波線よりも北側に存在する。もっともそのことが4路線ある中から本路線を代表させた理由ではなく、後に紹介することとなる別路線との接続と、この近辺の地勢における小さな特異性から記事制作に至った。

市道琴芝町4号線の起点をポイントしている。


地図で示される通り、起点は県道琴芝際波線に面している。神原交差点より200m程度県道を進んだ場所で、ここから伸びる道は一本しかなく迷うことはなさそうに見える。
しかし県道を車で走っていれば、こぢんまりとしたこの市道の存在に気付くのはかなり難しいだろう。

ここである。
県道の歩道に立って撮影している。ミラーの存在から右へ入る道が分かるだろう。


逆方向から撮影。
ここから200m前方に神原交差点があるのだが、沿線のイチョウ並木が元気過ぎて直接は見えない。


以前も紹介した認定市道の簡素な見分け方。
県道の路肩にミラーが立っており、その支柱部に「宇部市」のステッカーが貼られている。
県道の反対側に保健センターの敷地内に据えられたオブジェが見えている


ステッカーの文字は、山口県・宇部市・地元管理の3種で9割を占めると思う。いずれも設置されている場所にかかわらず、そのミラーを利用する道が管轄する主体を意味する。この場合は県道に出る細い車がミラーを利用するので、この道が認定市道ということが分かるわけだ。[1]

さて、それでは短いながら出発してみるか…

地元の方および事情を分かっている人たちにはそう大したことでもないのだが、地図オンリーでここへ来た人なら場合によっては小さな驚きを感じるかも知れない。

こんな所にいきなり登り坂?


市道の幅はかなり狭く、入口に車両通告制限系統の標識は設置されていない。大型貨物やバスが通れないのは明白で、いわゆる「見りゃ分かるだろう」規制ということだ。まあ、このような市道なら他にいくらでもあるので驚くに値しないが、この場所でのこの登り坂は意外感がある。

それと言うのも神原交差点から北に向かう国道490号は殆ど体感されない平坦路だし、ここから100m程度西にある琴芝通り(市道琴芝通り南京納川津線)とて琴芝交差点より北側に目立った坂道はないからだ。
実は緩やかな登り坂になっている

坂と言っても自転車をフーフー言いながら漕ぐほどきつくはない。しかしペダルを踏み締めなければ進めず、跨っているだけでは自然に県道まで転がり落ちてしまう勾配だ。


登った途中から振り返っている。概ね民家の半軒分くらいの高低差だ。


登り坂は次第に緩くなり、最終的に県道から家屋一軒分程度登ったところで平坦になる。
周囲は民家が並び、比較的新しく建った住宅やアパートも見える。まるで地区道のような細い道だ。


前方に子どもたちが自転車に跨って座談会をやっていたので、暫く待機し解散(?)してから撮影している。
何でもない市道を撮影する方が不自然で子ども目当ての変質者と勘違いされないため
市道は若干幅が広くなり、今度はゆるゆると下り始める。


終点が見えてきた。その接続場所を目前にして再び狭くなる。


ここが終点。
接続するのは市道琴芝梶返線で、正確なT字型ではなく捻れて接続している。


写真枚数が少ないので、終点から眺めた琴芝梶返線も追加しておこう。
左側はやや下って琴芝通りに向かう。


右側はもう少し緩やかに下って国道方面に向かっている。


こちらを向いて立っている標識は、子どもたちの登校時間に車が乗り入れできないことを示している。



終点から振り返って撮影。
100mちょっとしかないごく短い市道であった。


これほど短く狭いので、撮影中は近所の子どもたちを除いて通行人はなく、車も全く通らなかった。
そして私自身、琴芝近辺は庭のようによく自転車で通行するのだが、この道は殆ど通ったことがない。車では一度もないし、自転車でも今回が2〜3度目という状況だ。何処へ行く近道にもならないし、わざわざ労力を要する登り坂がある経路を選ぶ理由がないからだ。県道側の標識も皆無なことから、かなり地元管理の地区道に近い認定市道とも言える。
もっとも整理番号は400番台だから当初から認定市道とされていたようだ

僅かばかりの起伏がある地勢は、琴芝という地名の由来に一つの示唆を与えているように思われる。
別の記事から参照するかも知れないので、インデックスを付けておいた。
【路線データ】

名称市道琴芝町4号線
路線番号485
起点県道琴芝際波線・保健センター前
終点市道琴芝梶返線・交点
延長約150m
通行制限日曜・休日を除く7:30-8:30は普通車両の通行不可。
備考普通車の離合は極めて困難。

延長など各データの正確性は保証できません。参考資料とお考えください
出典および編集追記:

1. 枝道に立てられたカーブミラーのステッカーについては概ね当てはまるが、宇部市のステッカーが貼られたミラー自体は市の管理する物件への出入口に設置されることもある。
例えば市役所北側の出入口前にはそのようなミラーが設置されている
《 記事公開後の変化 》
2015年1月に側溝布設工事のため全線通行止になっていた。
2月過ぎには両側に側溝が布設された状態で舗装も更新されている。


最頂部までかなり勾配があるため、そのままでは雨のとき県道側へ泥水が流れるのを防ぐためかも知れない。


終点側の平坦路は従来通りであった。
《 琴芝について 》
琴芝(ことしば)は宇部市街部に存在する町名で、琴芝町をはじめとするその他の町も含めて琴芝校区を形成している。宇部市役所に対して北側、宇部線以北の領域にあたり、JR宇部線の琴芝駅の存在とも合わせて市民の知名度は極めて高い。
【 現代の琴芝 】
かつては県道琴芝際波線より南側に対して琴芝町なる町名が与えられていたが、区画整理は県道以北に及び、現在では塩田川と県道に挟まれた領域にのみ琴芝町1〜2丁目を与え、県道以北部分には東琴芝1〜2丁目、西琴芝1〜2丁目、更に浜バイパスから北の工学部通りまでを北琴芝1〜2丁目としている。

町名としての琴芝町は前述の通りだが、更に遡って小字時代の字琴芝となると更に限定され、現在の琴芝交差点(県道と市道琴芝通り南京納川津線との交点)の北側にある狭い領域のみを指す。派生小字として東琴芝、北琴芝があるが、それらは現在の丁目表示された東琴芝、北琴芝とはまったく異なる場所である。琴芝という町名をベースに方角を接頭辞的に使う派生地名があまりにも多くなってしまったため、場所特定の利便性は向上したものの元となった字琴芝の所在地を知る人は殆ど居ない。また、本来の琴芝とは無関係な梶返も琴芝校区に含まれるため、居住地の校区名記載を求められるとき近接する神原校区との混乱を招くことがある。

少子化に伴う児童数の減少で学校の統廃合が少しずつ進んでいる。現在は参宮通りの神原交差点を挟んで南北に神原小学校、琴芝小学校が位置しているが、将来的に両小学校は統合されるかも知れない。その折りには現在の琴芝校区・神原校区の区分も見直される可能性がある。
【 地名の由来 】
県道琴芝際波線より南側は、現在では殆ど昔からの地形が窺い知れない平坦地となっている。遙か昔、この地に殆ど人々の暮らしがなかった時代には大雨や海水の遡行に応じて水が浸る低湿地で、突出した岩盤などは殆どなかったと考えられている。他方、北側にある市道樋ノ口琴芝線柳町線、そして琴芝町4号線の通過する部分には昔からの地山が存在する。特に今たどった経路の丘陵部は、昔から海水に浸らなかった最も県道に迫っている場所の一つと言える。そして現在の琴芝という地名の元を考察するにあたっては、歴史由来と地形由来の二つの説が考えられる。

琴芝の元となる地名が最初に現れるのは「琴柴八王子縁起巻(1615年)」である。この表記の通り初期には琴と書かれていた。ここにある八王子とは八王子神を祀ったものであり、後年市内の至る所に存在する八王子神は殆どここから分化したものとされる。[1]八王子縁起巻は現在の岬八王子の由来を記述するものであるが、その中には間接的に琴芝の由来となる史話が書かれている。その内容は梶返の由来と些か似るものがあり、概ね以下の通りとされる。
歴応年間(西暦1300年代)に天皇が勅使を筑紫へ派遣したとき、防府多々良浜を出て長門の国に入ったときの夜半に嵐に見舞われた。八王子、住吉の神と諸々の神に波風を鎮め給えと祈った。そのとき岬に灯が見えて無事に八王子へ避難できた。
翌朝勅使が上陸し命を救った神々を祀っているとき、この地に住んでいた与太郎と七郎の兄弟が助けに来た。[2]勅使はこの二人に神々を祀る手助けをさせ、兄の与太郎は幣使の役、弟の七郎を祭主とした。そして周囲にあった木立のを折って敷かせ、神々の心を鎮めるために船へ乗せてあった和を取り寄せて弾いた。風もおさまり勅使たちが出発してお宮が建てられた…
このお宮が現在の琴芝(琴柴)の由来とするのが歴史由来説の骨子である。

歴史由来説にはいくつかの疑義が差し挟まれている。八王子木像は現存するとされているものの、その詳細は明らかにされていない。更に「勅使が柴の上で琴を奏でる絵図」についても存在が示唆されているだけで現物は知られていない。後年造られた伝承が地名由来として受け継がれていったものと思われる。ただし伝承に登場する兄弟のうちの弟、七郎についてはそのまま七郎(しちろう)という小字が同琴芝地区に存在し昭和後期まで使われてきた。伝説上の人物とされる名は川上の後藤四郎や常盤池東岸の兵右衛門屋敷など小字名として後世に伝えられることが多く、恐らくその事例の一つであろう。

他方、琴芝の漢字表記に捕らわれずその読みと周辺の地勢に由来を求めるのが地勢由来説である。もっとも自然で日本全国津々浦々でも観測される地形由来説によれば、琴芝の「こと」が半島や岬という地形を指すとされる。コトは古い韓国語で岬を意味しており、この場所がかつて潮が満ちたときも海に向かう地形であったことに依るものという。[3]
一般には岬を意味する韓国語は갑である

例えば難読地名として有名な豊北町にある特牛(こっとい)や小野田にあるとされるコットウ鼻も同じ由来という。実際、角島に近い特牛はかなり内陸部に入るものの、大局で眺めれば岬部分にあたる。同様の考察は琴芝の他に琴崎についても当てはまるように思う。
ただし市内の厚東は厚狭の東というのが成り立ちであり全く由来は異なる

琴芝の「芝」についてはもう少し確証の高い由来が考えられ、芝中と由来を一にすると思われる。芝中もかつては柴中という漢字表記が宛てられており、この柴とは現在の芝生に見られるような単一相の植物ではなく背丈の低い草の総称であろう。樹木よりは背の低い草が優勢に伸びる地であった。芝中も琴芝も遙か昔は海水の影響を受ける低湿地だった。

個人的には地勢由来説を支持しているが、遙か昔に偉い人が上陸して柴を敷き詰めた上で琴を弾いたという話は分かりやすく大いに古代への想像をかきたてられるものがある。今や完全な正解を求めることはほぼ不可能であるから説の是非を問うよりもむしろ過去にそのような伝承があり、琴芝の由来となりそうな地勢が存在していたことを語り継ぐべきであろう。

JR宇部線の駅名をはじめ小学校名、校区名、市道の路線名や通りの名称、建物など極めて多くの場所に琴芝の名が現れる。地名の由来の厳密な解明は非常に困難であろうが、琴芝という地名が失われることは決して有り得ないだろう。
出典および編集追記:

1.「琴芝小学校 二十周年記念誌」p.3

2. 江戸期まで現在の岬八王子には殆ど人が住んでおらず見崎は琴柴村の管轄だった。したがって海難があったときは琴柴の地の者が助けに向かっていたという。「恩田」p.88

3.「山口県地名考」高橋文雄

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