丸信

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記事作成日:2014/8/29
最終編集日:2019/6/21
丸信(まるしん)は、かつて山口県を中心に展開していたスーパーである。
写真は2001年に宇部井筒屋の屋上から常盤通りを撮影した映像から丸信宇部店が写った部分をカットした映像。
大元の撮影画像はこちら…ただしリンク切れする可能性あり


丸信の概要については[a1]に包括的項目がある。そこにも述べられているような事情により、既に丸信の店舗は他社に経営譲渡されたり閉鎖されたりで存在しない。ここでは市内に限定して丸信というスーパーに共通する補完的事項を述べ、市内の各店舗については個人的関わりを記載する。
《 共通事項 》
【 隆盛期 】
客が買い物カゴを持ち、陳列棚から欲しいものを手にとってカゴに入れてレジを通過するスタイルのいわゆるスーパーマーケットは、昭和40年代から市街部に現れ始めた。
もっとも当初からすべての商品を丸信が一手に扱っていたのではなく、魚や肉類は対面販売を行う専門店が店舗内に入る形で提供された。これは当時まだトレーに盛る形での販売形態がなく、魚は買い物客が現物を見て三枚におろしてもらったり、肉は好きな分量を告げる形の量り売りが一般的だったからである。

店主を介した相対販売ではなく自分で選ぶ点、野菜や魚肉その他の商品に至るまですべて一箇所の買い物で済む点で利便性が評価され、個人経営の商店を凌駕する形で少しずつ広がり始めた。この流れは核家族化が進み新しい住宅地が市街部で収まりきらず郊外へ延びるにつれてドーナツ状に他地区へ波及した。宇部店より遅れて恩田店が昭和50年代に開店したことに象徴的である。
【 グリーンスタンプ 】
買い物金額に応じて客にプレミアムを与える方式として、丸信はグリーンスタンプ[a2]と提携していた。恐らく当初から100円毎に1枚のスタンプがついた。写真は最後期に印刷されたグリーンスタンプである。


最初期のスタンプはこれより若干大きく白紙に印刷されていてエッジは切手状の目打ちではなくミシン目方式だった。裏糊はなく独自に糊を着けて貼る必要があった。後に小ぶりで裏糊のついた黄緑色の紙に変更された。
当初はレジ係が買い物金額相当のスタンプをちぎって客に渡していたが、買い物客が増えるにつれて効率化のためにサービスカウンターへレシートを提示しスタンプを受け取る方式に変更された。
買い物客は丸信の用意した台紙(無償で何冊でももらえた)にスタンプを貼り、冊数に応じてグリーンスタンプ社の提供するカタログに掲載された商品に交換できた。買い物の金券として使うことはできなかったが、現在多くのスーパーが取り入れているポイントシステムの嚆矢と言える。

現在と同様、特定の日にちや曜日、一定以上の買い物金額など条件を満たす場合にスタンプ倍渡しなどのサービスデーがあった。特に隆盛期において土曜市と称して買い物金額に対しスタンプ5倍進呈というイベントがあった。写真は恩田店において土曜市を案内するハガキである。


特に土曜市と盆休み前や大晦日前が重なるときは買い物金額も膨れあがり、大量のスタンプが払い出された。グリーンスタンプは1シートが縦5枚×横10枚構成で、多額の買い物のときは数シート渡されることもあった。
スタンプの台紙は1ページに25枚貼れるようになっており、1シートを半分に切れば2ページに貼れた。もらった都度貼るのは面倒なので多くの家庭ではスタンプを引き出しや小箱にしまっておいて、暇なときに貼っていた。グリーンスタンプを台紙に貼るのはしばしば子どもの仕事になった。小額の買い物では数枚がストリップ状に繋がった状態で渡されるので、最初にそれらを分類して1ページに収まるようスタンプをジグソーパズルのように組み合わせて貼るのは一つの頭脳的遊戯だった。また、グリーンスタンプは裏糊が着いていたので小皿に水を入れて指先で湿しただけで貼れたが、この作業を根を詰めて行うと右手の人差し指が黄緑色になって困った。

グリーンスタンプの引き替えは丸信が取次窓口になっているだけなので、カタログを見て商品を取り寄せるにしてもかなりの日数を要した。母は電気ポットを交換してもらったことがあると話すが幼少期のことらしく私は記憶がない。現在、私も親もグリーンスタンプを貼った完了台紙を一冊も持っていないので既に何かの商品に交換したものと思われる。後年、グリーンスタンプは発行停止となり、代わりに図書券のようなカードの形で交付されるようになった。
現物が数枚存在する
【 衰退期 】
[a1]にも記載されている通り、丸信は他のスーパーマーケットとの競争激化を主な理由として倒産している。とりわけライフスタイルの変化により買い物形態の変化に追随しきれなかった感が強い。
各店舗の誕生当初は対面販売からの過渡期であり、買い物の簡素化という需要にマッチして個人商店への買い物客を取り込み成長した。その後同形態のスーパーが乱立し、規制緩和とも相俟って中小規模の同様な店舗が急増した。それらの店舗は市街部からはやや離れていたが、種類は減らさず必要十分な量に限定した商品をストックしていた。当時は依然として買い物は主婦の仕事という意識が強かったものの、外で働く女性が増えて車の免許を持つことが多くなった流れを受け、それらの店舗は当初から駐車場を確保していた。

丸信恩田店は後発であり、元がボウリング場だったこともあって駐車スペースは充分にあった。しかし当初は徒歩ないしはバスでの買い物を前提としていた丸信宇部店には特に駐車スペースが殆どなく、主力店舗でありながら少し遠くても広い駐車場で容易に駐車できるスーパーへ流れてしまったのは否めない。[a3]そして市街部に無料で車を停められる場所の欠如は、丸信のみならず特に常盤通りに面する他すべての商用店舗が抱える脆弱となっている。
出典および編集追記:

a1.「Wikipedia - 丸信

a2.「Wikipedia - グリーンスタンプ

a3. もっとも手を拱いていた訳でもなく、丸信時代に立体駐車場を整備している。しかし品揃えや価格面で同程度であれば決定的な対抗力とはならなかった。
《 宇部店 》
かつて丸信宇部店の存在した場所を地図で示す。


複数店舗を展開するようになった後年では丸信宇部店と呼ばれていたが、昭和36年3月14日の設立当時は株式会社宇部丸信であった。[b1]ちなみに株式会社大和の創立は昭和35年6月9日である。

現在はレッドキャベツ宇部店となっていて、内装と外観を変更しただけで建屋そのものは火事による再建後の丸信時代の建物をそのまま使っている。
かつては市道参宮通り線に面した角地に富朝というレジ方式スーパーの萌芽とも言える店舗が恐らく丸信宇部店以前から存在していた。現在では同形態のスーパーが隣接することは有り得ないが、富朝は店舗内に対面販売方式を多く残しており、そのため丸信宇部店との競合はそれほどなかった。

丸信宇部店の店内は、常盤通り側から入店したとき一番手前にレジ台が並んでいた。陳列棚のメインの通路は2〜3本ほど奥へ伸びていた。向かって左側に2階への階段があった。中ほどに踊り場があり、休憩用のプラスチックベンチと灰皿が置かれていたと思う。
商品の配置までは覚えていないが、1階か2階の新天町アーケード街側に寝具などが積まれていた。現在のレッドキャベツ宇部店には3階があるとされる。しかし再建時代以前の店舗には3階はなかったと思う。少なくとも3階に上がれるようになってはいなかったし、屋上も開放されていなかった。
【 火災 】
丸信宇部店は平成初期に火事を出して一時営業困難に陥っている。平成元年12月7日のことで、延べ4,068m3を全焼し被害額は5億を超えた。火災の原因は分かっていない。[b2]

丸信宇部店の火災は恐らくこの記事を書くまでにおいて戦後宇部市が体験したもっとも甚大な火事だったと思われる。丸信で買い物したことがある客ならずとも現在でも多くの宇部市民の記憶にあるところだが、私自身は当時学生で市街地の変遷にまるっきり関心がなかったからか、被災後の丸信の建物を一度も見たことがない。
殆ど記憶に残っていないだけかも知れない

丸信店舗をどのように再建するかについて議論はあったようだが、結局同種同規模の建物を建築し翌年に営業開始している。記憶では元から丸信には白・青・赤のコンセプトカラーがあって初期の店舗では常盤通りに向いて大きなマルの中に「信」の字を配したロゴがあった。火災後では3階部分の側面にロゴマークとマルシンの文字が並ぶスタイルとなった。

丸信宇部店に勤めていたとか一緒に買い物していた人々などは居ない。松山町に住んでいた幼少期、隣の叔母さんとは家族全体で懇意に付き合っていたのだが、一緒に買い物へ行った記憶はまったくない。
この叔母さんについては別のところで記述を遺す予定である
出典および編集追記:

b1.「続・宇部市民手帳」(ウベニチ新聞社)p.139

b2.「宇部市|火災・事故 過去の主な火災災害(PDF)
《 恩田店 》
かつて丸信恩田店の存在した場所を地図で示す。


丸信恩田店は昭和50年代のはじめに第2宇部ボウルの使っていた建物を流用する形でオープンした。アイススタジアムは昭和40年代半ばあたりに営業中止したが、ボウリング場は昭和50年直前まで営業していた。スケートリンクとボウリング場という遊技場を失い、代わりにありきたりなスーパーが新設されることについては当時から賛否両論があった。丸信恩田店以前には個人の商店をはじめ、則貞にはスーパー白鳥が既に営業していたし、個人でも取りそろえ品目を拡大したミニスーパーのような店舗が現れ始めていた。しかしいざ丸信恩田店がオープンすると、地元在住民の多くがそこへ買い物場を移動・定着させたのは事実である。更には大規模店舗が近くにある地ということで、恩田地区の住宅化を加速させる遠因になった。

建物をスーパーに流用したので、一部には当時のものがそのまま遺っていた。アイススタジアムの入口および事務所部分は従業員向けの詰め所となり、スケートリンクおよびボウリングレーン部分が店舗となっていたと思う。当然ながらレーンなどはすべて撤去されたが、レジ付近の天井は丸信時代の間は元のボウリング場のままだった。即ちボウリング場時代の観覧席およびボウルラックがあった場所の天井は吹き付け天井を黒くペイントし、一部に星型のオブジェが光るアクセントライトが設置されていた。これはスーパーの室内灯に連動していたようで、買い物時代にも点灯していた。このアクセントライトはアルク恩田店に改装されるとき撤去され、天井は白く塗り直された。事務所や倉庫はその後のアルク恩田店にも引き継がれたが、2014年1月にリニューアルのためアルク恩田店は一旦閉鎖され、これらの古い建物はすべて取り壊された。したがって現在は丸信恩田店が建てられた当時の構造物は何も遺っていない。

店舗は平屋であるため丸信宇部店に比べて置かれている商品は限定された。例えば場所をとる寝具類はあまり置かれていなかった。また、刺身や肉類は丸信宇部店と同様現在のようなパック売りではなく対面販売の専門店が併設されていた。丸信恩田店がオープンする以前から魚や肉を買う行きつけの個人商店があったため、これらの商品は丸信恩田店では買わず今まで通り行きつけの店で買っていた。これらの専門店は水回りの配管的制約のため、店舗の一番奥にあった。

サービスカウンターは店舗向かって右側の入口に近い一角にあった。レジでレシートを渡された後、サービスカウンターへ提示することでグリーンスタンプを交付されていた。
正面入口から向かって左側に焼きそばやうどんなどを提供する食事処があった。この店は名称がなく恐らく丸信の直営で、丸信恩田店がオープンした当初はなく後から設置されている。この奥にトイレへ行く通路があり、その通路側と横から2段の階段で上がる店になっていた。4人掛けテーブルが3台程度、調理側にはカウンターがあった。この店の焼きそばが結構美味しく持ち帰りもできたので、日曜日などはしばしば買い物の後に立ち寄って家族の昼食用に持ち帰っていた。

トイレ通路を挟んだ奥にはプランセスのパン屋があった。入口はトイレ通路側にあり、反対側にレジと退出口があった。この店は専門店になるのだが買い物金額に応じてグリーンスタンプをつけてくれた。個人商店で売られている菓子パンはあんパンや三色うぐいすなど松月堂製パンのものが多かったが、種類が限られるので些か食べ飽きていた。プランセスのパンはその場で焼いていたので購入のタイミングによっては美味しそうな香り漂うパンを食すことができた。自分の好きなパンをトングで挟み取ってトレーに載せレジで精算する方式で、見るからに美味しそうな変わったパンが多く最初の頃はよく利用した。

昭和50年代半ばになると、中小規模店舗関連の規制緩和により同形態のスーパーが過剰気味に乱立した。住居表示変更された末広町に丸久末広店、ほぼ同時に清水川交差点の北側に丸久清水川店などができたのを皮切りに増加した。やがて当時暮らしていた恩田からは丸信恩田店より更に近い場所にスーパーダイイチ恩田店が新装オープンしたため、日々の買い物はそちらへシフトし丸信恩田店からはやや足が遠のいた。

丸信宇部店が火災に遭ったときには既に丸信そのものをあまり利用しておらず、また自身も大学下宿中で宇部を離れていたためか一大事件でありながらさほど関心は持たなかった。したがって丸信恩田店が閉店した時期、アルク恩田店として再出発した時期なども分からない。
《 助田店 》
かつて丸信助田店が存在したと思われる場所を地図で示す。
後述するように入店経験がまったくないため位置は推定である。


ここはかつて宇部電車区の車庫に向かう引き込み線があった場所で、店舗は国道に背を向ける形で存在していた。店舗への出入口は市道上町線側にあった。丸信助田店以前は映画館があったとされる。
《 その他の店舗 》
この他、市内に丸信のどの店舗があったか分からない。市外ではレッドキャベツ埴生店の前身が丸信埴生店だった。この店も丸信時代に利用したことはなく、厚狭・埴生バイパス以前に国道2号が前場地区を通っていたとき店舗があることを認識していただけである。レッドキャベツ埴生店になってからは山陽スポーツ広場のバドクラブへ行く途中に何度も立ち寄っている。

国道190号の起点近く山口市岡屋に丸信の物流倉庫があったように記憶している。現在は県営の山口物流センター倉庫となっている。
《 個人的関わり 》
最初はまとめて記述していたが、私自身しか知らない個人的な関わりについてはこの項目へ移動した。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

《 近年の変化 》
丸信そのものが今や実在しないため変化は起こり得ない。跡地などに入っていたテナント類の変化を記述する。

2019年の始めに丸信店舗の受け皿的存在となっていたレッドキャベツは、県内におけるすべての店舗を閉店し山口県での営業から撤退することを表明した。[d1]宇部市内においては宇部井筒屋が半世紀にわたる営業の幕を下ろし、常盤通りにメインとなる買い物拠点が失われた衝撃冷めやらぬ時期だった。宇部井筒屋に続いてレッドキャベツ新天町店もなくなることにより、現時点で常盤通りに面して食料品を扱う生活必需品を販売する店舗すべてが喪われた。

レッドキャベツ新天町店の後には同種の品目を扱うテナントが入ることが示唆されているが、具体的な企業や時期などは明らかになっていない。これらの店舗へのアクセスが徒歩圏だった居住者は買い物難民状態となっており、市は近隣地域でマルシェなど物品を販売する条件緩和に乗り出すなど賑わい喪失への対策を取り始めている。
出典および編集追記:

d1.「レッドキャベツ県内撤退 売上げ不振|山口新聞

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