富朝

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記事作成日:2016/3/31
最終編集日:2019/7/22
富朝(とみあさ)は、昭和後期から平成初期にかけて常盤通り市道参宮通り線起点の角地付近に営業していた百貨店である。
昭和49年度版の国土地理院による航空映像で富朝の位置図を示す。


残念ながらこの場所で営業していた富朝を自分で撮った写真はない。
著作権者のある写真は数枚知られている

写真は勤労青少年会館より富朝のあった場所を撮影している。


後述するように富朝は初期と後期で営業拠点を変えている。個人的には常盤通りに面した場所においての関わりがもっとも多かったため、以下では常盤通り時代のものを中心に記述する。
《 成り立ち 》
最近、初期の営業拠点について新たに寄せられた情報を元に再構成している。調べるべき内容が若干あり、この項目の記述は変動するかも知れない。
【 初期 】
現在の中央町1丁目に富朝の店舗が存在していたことが報告された。
概ねこの場所である。


ゼンリンの地図では富朝食料百貨店と記載されている。その位置は概ね上記のポイントされた辺りと思われる。
ただしこの場所が富朝としての最初期の営業拠点であったかは地図の発行年を調べる必要がある。

現在のこの場所の映像。
月極駐車場と公衆トイレ用地となっている。


市道常盤通り宇部新川駅線(シンボルロード)と市道上町線(上町通り)に挟まれたこの場所は鋭角三角形状の領域となっている。富朝の店舗は(昔ながらの店舗がしばしばそうであったように)その敷地外周一杯に建物があったという。2階に卓球場があり、地階に喫茶店があったことが報告されている。[4]

昭和13年において常盤通りと沿線にあった主要な店舗を記載したマップが宇部市立図書館の公開可能な絵図の引きだしに保管されている。そこには常盤通り(言うまでもなく昔の)沿いに富朝という店は見当たらない。常盤通りの角地付近に店を開いたのは少なくとも昭和13年以降となる。恐らく50メーター道路としての常盤通りを整備した後と思われている。

富朝食料百貨店の記載があるゼンリン地図(版権上ここには掲載できない)の年代は昭和40年頃のものと推定されている。欄外の広告に店舗の所在地として新天町2丁目の印刷がある。新天町という町名が誕生したのは第2次住居表示が実施された昭和40年である[1]から、富朝の店舗はこの場所で同年代くらいまで営業していたことになる。しかしその頃には常盤通りに面した場所に店舗を構えていたように思われる。

単一の店舗ではなく複数の支店を開いていたのかも知れないが、現在の中央町2丁目の店舗が閉鎖された時期や常盤通りに面した店舗が営業開始した時期はまだ詳しく調べられていない。この場所にあった富朝の後にはベスト電器の店舗が入っている。富朝が創立者の名前なのか単なる屋号なのかについても詳しいことは分かっていない。
【 昭和中期 】
ここでは、常盤通り沿いにあった時代の富朝について記述している。殆どは昭和40年代後半の私の古い記憶を元にしている。

現在は携帯電話の営業ショップと月極駐車場になっているが、富朝は携帯ショップの立地そのままに一致するのではなく、むしろこの敷地の外側を囲むL字型をしていた。そしてL字型の接する常盤通りと参宮通り線に出入口があった。L字型にあたる真の角地に何があったかは覚えていない。携帯ショップ以前はガソリンスタンドだった。

当時、自家用車は少しずつ庶民のものになっていたが、裕福な家庭でも精々一台だったことから店舗専用の駐車場は恐らくなかったと思う。まだ郊外の大型スーパーが皆無であり、日々の買い物が主婦の役割でありながら専業主婦で車の免許を持つ人は殆どなかった。市内の概ね何処でも歩いていける範囲に個人商店があり、野菜は八百屋、魚介類は鮮魚店といった分業が確立していていくつかの店を梯子して買い物していた。それが富朝だと一箇所で済むので、手間が省けるならばバス代を払ってバスで買い物に行っていた時代である。

従来の小規模な小売店では購入する品数も限られているので欲しいものを手に取って店番の人が居るカウンターへ持って行って精算していた。百貨店では必然的に買う品数が増えるので、店側があらかじめカゴを用意してその中に欲しい商品を入れてレジで精算するシステムに移行しつつあった。私の知る限り富朝は市内でもかなり初期にその方式を導入した店だったが、それでも現在ほど完全ではなかった。

例えば洗剤のように品質が一定で温度管理も要らない商品は現在と同じ陳列棚方式だったが、生鮮品や野菜などは陳列場所に店番をする人が居て個別に応対する従来方式だった。現在のようなビニルパック類の使い切り梱包はまだなく、豆腐や茹でたタケノコは水を張った一斗缶にまとめて保管されていた。豆腐一丁下さいと言うと店番の人がビニル袋に手を入れて一斗缶から取り出し、袋をクルッと裏返して梱包していた。野菜類は大小不揃いで重さもまちまちだったので、自分の欲しいサイズのものを手にとって店番の人に渡した。味噌などは大きなプラスチックの樽のような容れ物に入っていて、欲しい量を指定する量り売りだった。グラム幾らで値段が決まるので、秤で計量し代金を計算した。その場で代金を精算することもあれば、陳列棚方式の商品と合わせてレジでまとめて精算する場合もあった。後者の場合は商品を新聞紙などに包んで輪ゴムで留め、代金をマジックで袋に書いていた。精算済みの商品はあらかじめ持参していた買い物袋に入れたが、そうでないものは店舗のカゴに入れる必要があった。以上のことは富朝に限らず当時のどの百貨店にも当てはまる。
昭和中期の買い物スタイルの記事を作成した場合は以上の記述は移動する

店舗の出入口はガラス扉で取っ手を自分で押して開けるタイプだったと思うが、買い物客が開け閉めするのは煩わしいことから寒い冬場を除いて扉は常に90度開いた状態で固定されていた。このことは多くの百貨店に共通だった。店内は概して暗く、足下は普通の土間だった。現在のスーパーと比較して天井が異様に高く、換気扇と言うか室内の空気を攪拌する大きな4枚羽根のファンがゆるゆると回っていた。漬け物などの量り売りが多かったせいか、店内至る所にそれらが混ざった匂いが漂っていた。

店内が暗いせいか、明るいところに出した方が良い榊や花などは店の外の歩道で売られていた。入荷したばかりの魚介類は発泡スチロールの容器に氷水を入れた状態で常盤通りの歩道の建物寄りに並んでいた。現在なら歩道の無許可占用になるが、当時は商慣習が優先されるおおらかな時代だった。これらの販売は富朝の直営ではなく軒先を間借りしている行商人によるものと思われる。
現在では歩道を占有しての出店は祭りのときに慣習的に認められているに過ぎない

富朝と同業種である小売り店舗に対してしばしば関連づけられたのが隣接して営業していた丸信宇部店(後のレッドキャベツ)である。丸信は宇部市拠点ではなく本部は小郡で、宇部店は昭和36年にオープンしている。富朝よりも後に営業開始したようであるが詳細は分からない。富朝が食料品中心であったのに対し、丸信宇部店は買い物客にカゴを持たせて好きな商品を選ばせレジで選択するスーパー方式を確立し、更に2階には衣服や寝具なども揃えていたので一定量の客が流れたことは否めない。

富朝ではサービス券を発行していて、100円買う毎にレジで1枚もらえた。サービス券は緑色で、裏面に集めた枚数と引き替え可能な商品の一覧が記載されていた。20枚で石けん一個、300枚程度でザブなど大箱入りの洗剤と交換できた。丸信は全店で同様に100円買う毎にグリーンスタンプ1枚がもらえたが、台紙に貼る必要があったこと、交換するにはある程度の枚数が要ったことから富朝のサービス券方式は生活必需品を求める庶民寄りのシステムとも言えた。個人の商店でも一定規模を取り扱い売り上げ高もあるところでは同様のサービス券を導入する店もあった。[2]後に多くの小売店舗が同種のサービスを導入し、後年のポイントサービスの大元となっている。
【 昭和後期〜平成初期 】
昭和50年代に入ると大規模店舗法の見直しの影響もあり、市内もあちこちに多くのスーパーが造られた。個人の営業する店舗よりは規模が大きくて品揃えも豊富だが、敷地面積は抑えた形態である。強制ではなかったが買い物客は入店すれば備え付けのカゴを手に持ち、欲しい商品を入れてレジでまとめて精算する方式が完全に確立され、対面販売は肉や魚など分量を量ったりその場で捌く必要があったりする商品に限定された。また、車が一家に一台というモータリゼーションの流れが加速したことに呼応して、買い物をすれば駐車料金のかからない専用の駐車場を持つようになった。このため価格競争力と品揃えで個人店舗は太刀打ちできず、地域に強く密着した一部の店舗を除いて競争力を失い衰退していった。殊に新天町や銀天街のようにかつて人口密度が高く徒歩やバスで用が足せていた程度のコミュニティーがあったエリアでは、駐車場がなかったりあっても料金の支払いを要する店舗は完全に取り残されることとなった。
昭和後期の買い物スタイルの記事を作成した場合は以上の記述は移動する

富朝の場合、隣接する丸信宇部店も初期には駐車場がなかったためその点での不利はなかったが、食料品以外のものまで揃わないことや店舗の暗い雰囲気などで若い主婦などは敬遠されがちだった。丸信宇部店と言えば平成初期に不幸な火災に遭って営業休止を余儀なくされる時期があったが、富朝に延焼被害があったかなどの状況は分からない。ただ、丸信宇部店が同地に新店舗を造り直しオープンした頃には富朝とは明確に客層が分かれ始めていた。このことは後年丸信宇部店が駐車場を整備してからは加速していった。

それでも富朝は年配者をはじめ昔からの買い物客には根強く支持されていた。特に魚介類は仙崎で水揚げされたものを行商人が朝一番の列車で搬入する[3]せいか、富朝の魚と言えば鮮度が高く美味いことで評判だった。実際には富朝直営ではなかった可能性が大きいが、買い物客の流れを呼び込む効果は大きかった筈である。

平成期に入って富朝の軒を間借りする形でメルシーというパン屋の支店ができた。会計は富朝とはまったく別で常盤通りの歩道からショーウィンドウを眺めつつ欲しいパンを指さして対面販売していたが、買い上げ金額に応じて富朝のサービス券がもらえた。その店でしか見られないパン(フィッシュフィレ系とショートニングクリーム系のパン)が多く、市道参宮通り線に車を停めて買いに立ち寄る客が多かった。

この時点でまだ富朝はこの場所で営業していたから、閉店は平成初期〜中期と思われる。現代では店の存在どころか市民ですら「富朝」という名称を初めて耳にするという方が多くなっているだろう。しかし宇部に一定年数住む40代から上の世代なら富朝を知らない人はまず居ない。それほど知名度があり、昭和中期から平成初頭にかけての宇部市民の台所を下支えしてきた店と言うことができるだろう。
【 店舗の移転 】
富朝は平成初期か中期に常盤通りに面した場所から店舗を移転した。店舗の老朽化か売上げの問題だったと思われる。平成4年頃までは仕事帰りにメルシーでパンを買った記憶があるので、閉店はそれ以降である。さよならセールのようなイベントがあったかは分からないが何も把握していない。知らないうちに店舗がなくなっていたので当初は完全な閉店と思っていた。

常盤通りから市道東新川駅通り線沿いに移転したことを知ったのはずっと後のことで、自転車で市内を探索するようになってからのことである。最初に撮られたのは2015年のことだった。
写真は休日で店を閉めているときの映像。
看板のサインは点灯している


店舗名はライブマート富朝となっていたので後継店舗と推察される。常盤通りから撤退するのと同時にここへ店舗を構えたのか、以前から支店として存在していたかは分かっていない。また、個人的にはこの店舗で買い物した経験はない。

2016年のはじめにこの市道を通り、店舗が解体されているのを目にした。


その後、市内の何処にも富朝という名称での店舗を確認できていないことから閉店したようである。
《 読者から提供された写真 》
この総括記事を作成後、運営しているFBページ経由で読者から富朝店内を撮影した写真が寄せられた。以下に修正せずそのまま載せる。写真の掲載について提供者から承諾を頂いている。[5]


店舗を外部から撮影した写真はまだ知られていない。
出典および編集追記:

1.「宇部市|第2次住居表示

2.例えば五十目山町にある田中食料品店など。

3.仙崎駅を午前3時頃出発して途中駅に殆ど停まらない美祢線経由の列車があった。仙崎で揚がった新鮮な魚介類を宇部小野田方面へ届ける需要に応えたもので、実質的な行商人専用列車の様相を呈していたようである。

4.「FBタイムライン|更新通知の読者コメントによる。

5.「FBタイムライン|在りし日の富朝店内
《 個人的関わり 》
以下、昭和期から平成期にかけて常盤通りに面した場所での富朝についてまとめて記述する。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

【 近年の情報 】
永らく富朝に関して新規の情報がなかったが、2019年に銀天街アーケードで営業する山内静香園において中央町に富朝の店舗が存在していたことが示唆された。これらの成果は山内氏自身が店舗を利用していた当時の経験と顧客らによる情報集約の過程で得られている。判明した事実は逐次手書きマップにより可視化されている。また、富朝百貨店の位置を示すゼンリンの地図は昭和30年代後半のものという意見も得られた。

他方、母の証言によれば結婚して最初の居住地である松山町に移り住んだとき、最寄りの百貨店が富朝であったため利用するようになったという。したがって昭和30年代半ばには既に常盤通りに面した場所で営業していたことが明らかである。このことより昭和中期において富朝は単一店舗ではなく少なくとも2箇所の拠点で営業していたのではないかと思われる。現在のところ双方の店舗とも営業開始時期および閉店時期は明らかになっていない。

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