趣味収集品

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記事作成日:2015/6/5
最終編集日:2022/10/21
ここでは、一定の評価が定まっている私の収集物を趣味収集品として記述している。

評価が定まっているとは、当該物品を収集する行為の認知度が高く相応な該当者があること、当該収集物についての金銭的価値や歴史的価値が認知されているものを意味する。それほどメジャーではない収集物についてはマニアックな収集品、更に収集者が希少で収集というよりは集積ないしは性癖に近いものをエキゾチックな収集物として別記事に作成している。

幼少期に行っていたものが多く、現在も続けているものは少ない。取り組み始めた時期の早い順に記述する。
《 切手と葉書 》
切手収集は現在も一つの価値あるコレクションとして広く認識されている。個人的に切手を集め始めたのがいつなのかは今となっては正確には分からない。背景としては昭和40年代の切手収集ブーム到来は疑いないことで、当時の学童の多くが実際に集めているか関心を持っていた。ただし殆どの場合、既に郵便局では売られていない切手を額面以上のお金を出して買うものであり、お小遣いが潤沢でなければ続かない趣味であった。

収集ブーム当時は自分に限らず、身の回りの殆どの学童の興味は専ら日本切手のみに向けられていた。外国の切手を集めている学童は誰も居なかった。これは国や種類があまりにも多いこと、学童は日本語以外まず読めないこと、手元にある一枚の外国切手がどれほど希少価値があるか調べる方法がなかったからである。
【 日本切手 】
切手収集ブームでは殆どの学童の目は日本切手に向けられていた。前述の理由に加えて一連の切手を紹介する雑誌や書籍の影響があった。関連する雑誌が月刊で販売されていた[a1]し、日本国内で今まで発行されたすべての切手類を網羅する「原色日本切手図鑑」はバイブル的存在で、その末尾には多くの切手商が広告を出していて通信販売もしていた。

当時、市内では宇部井筒屋の4階玩具売り場に切手コーナーがあった。魚シリーズと花シリーズは井筒屋で買ったものである。初期はシリーズを揃えることで征服感を味わい、更にはそれを友達へ見せびらかすことで優越感に浸った。お小遣いが続かなければできない趣味なのでお年玉などを貯めては欲しい切手を買った。小学5〜6年生の学童は男の子で半分くらいは切手を集めていたし、趣味を等しくする子どもたちとは切手だけでなく遊びもよく一緒になった。この収集は中学2年生頃まで続いた。

記念切手など多くのシリーズものは大抵の収集家が既に持っていて評価が一般に低かった。そこで収集年数が進むとあまり関心を持たれない古い切手や使用済みなどの切手付き封筒の収集にシフトした。中学生に入ってからは高額な切手を買い始めた。個人的に好きだったのは昭和初期の第一次とされるグループで、世界に冠たる国・日本をテーマに軍事的色彩もあるデザインが目立った。色は地味だったが偽造防止の透かしやアラビアゴムの糊引きなど、郵便局で普通に手に入る切手とは異なる部分に心惹かれた。

昭和後期になって普通切手の評価見直しが行われた。普通切手は記念切手に比べて発行年数が長いため、一見同じようなデザインに見えても途中で印刷手法を変えたり原版を更新することで発行年の判別が可能なものがある。それらは外見は同じ切手でも評価がまったく異なった。特に大蔵省印刷局製造のタブがくっついたもの(銘板付き)や色調整のカラーマーク印刷のタブがあるもの(CM付き)は、その稀少性から単体の切手の倍近い評価が出る場合もあった。
このことを見越して高校生になってからは投機的に普通切手を買い集めるようになった。頻繁に郵便局へ行くので、どの額面の切手が先でなくなりつつあるかを経験的に知った。80円と90円切手が減り始めたとき、それがまだ残っている特定郵便局を丹念に回って銘板付き・CM付きを買い漁ったことがある。これらは現在も額面の4倍近い評価が与えられており、ネットオークションでもその評価を反映した価格がつけられている。

収集された切手は特に価値の高いものは後年劣化を防ぐためにハウイドマウントへ格納した状態でアルバムに整理されている。しかし管理が大変であり、湿気や黴で価値を失うリスクが高い[a2]ために、現在は熱心な収集家に譲るか売却したいと考えている。
【 切手付き封筒 】
切手収集時期よりやや遅く始めている。特に書留速達など特殊な差し出され方をされた郵便物は、特定郵便局の消印が押されるため数が少ないという理由があった。自分のところへ来る郵便物だけでは少ないので、サラリーマン時代は会社宛に来る切手付き封筒ももらい受けていた。当時は個人情報保護という概念がなく、個人名の入った封筒も問題なく入手できた。

切手が貼られ信書の送達など実際の目的で使用されたものを実逓便[a3]、切手が貼られたままの状態で保管されたものをエンタイア(entire)と呼ぶ。時代の古いものや使われ方が特殊で稀少なものは高値がつく。手元にあるもので一番価値のありそうなものは、菩薩像の普通10円切手が貼られたエンタイアである。切手自体はありふれているが、東京門司間の鉄郵印である。これはうちの親が若い頃に匿名で文通していたときの封筒で、中の手紙を取り除いた上で封筒だけもらい受けている。

抹消印が櫛形日付印から丸形印に変わった頃から、消印収集に興味がなくなり止めている。ただし当時収集目的で集めたものは(現在ではどれも既に存在しない陰影のため)すべて保存している。現在は機械印が多く切手自体もありふれており、切手が貼られていても棄てることが多い。
【 ハガキ 】
切手収集は管理が難しいことから、切手収集を止めた後に暫く続けていた。当時はまだ年賀状を書く習慣があり、多めに買って余った未使用の年賀ハガキを取っておくことから始まった。積極的にお金を出して収集したものとして、広告付きのハガキ(エコーはがき)がある。最初期のものは鳴り物入りで販売されたこともあり、それを買ってからは新しいものが出るたびに一枚ずつ買った。大学を卒業して就職するまで続けていて、その後は仕事が忙しく郵便局へ買いに行く暇がないことで自然消滅した。

郵便局で来客者用に展示される「みほん」字入りのものの収集に注力した時期もあった。
出典および編集追記:

a1. スタンプクラブとスタンプマガジンである。切手に関する月刊誌ではこの2社に限定されていて、いずれも末広書店をはじめとする本屋で買えたと思う。後年になると1社が恐らく廃刊となりスタンプクラブを発刊する日本郵趣協会のみとなった。読者数の減少からか店頭には置かれなくなり月単位で申し込むことで送付されるスタイルになった。

a2. 昭和中期の普通切手シリーズを完全に集めたもののアルバムを金庫に収納していたために湿気の溜まった金庫でカビだらけになりやむなく全部売却したことがある。二級品以下の扱いとして殆ど半値以下の評価になった。その後あらためて同じシリーズを買い直している。

a3. ある切手の発売初日に当該切手のデザインと同じ台紙に貼り、窓口で記念証印してもらうものは特に FDC と呼ばれ実逓便とは区別される。
【 切手・はがき 】
以下の項目は、切手はがき収集の独立記事を作成した折には分割する。

切手の収集は小学生時代に始めたもので、いわゆる「第一次切手ブーム」の時期である。当時は男の子の趣味と考えられていて、切手を集めている女の子を一人も知らなかった。他方、男児では兄貴も従兄弟も切手を集めていた。沖縄が日本に返還された1972年の後で琉球切手ブームが起き、一部の切手商が実態から離れた価格へ値を吊り上げる投棄事件を知っている世代である。もっとも個人的には日本切手以外を集めることはなく、外国切手を集めている男児は身の回りに誰も居なかった。

子どもの小遣いは限られているので、少しずつ貯めては宇部井筒屋4階にあった切手コーナーで購入していた。現在手元にある魚・鳥・花シリーズはすべてここで購入したものである。

中学生になると切手ブームはやや下火になったものの小学校のとき同クラスだった級友と同じクラスで切手収集を続けていたので、交換や購入をしていた。生徒手帳の中に切手を入れてコッソリ学校へ持参し、昼休みなどに友達と”取引”をしている。宇部井筒屋で販売されていた切手の種類は限られていて値段も高かったので、その後はカタログを見て通信販売で買っている。

切手のカタログとしては、日本郵趣協会が発行する原色日本切手図鑑が著名だった。毎年購入して特に注目していたのは、発行された切手の実勢価格が変動することだった。この過程で記念切手は殆ど価値が上がらないのに対し、新しいデザインが発行されて旧来のものが販売されなくなった普通切手は軒並み値上がりしていることに気付いた。

このことから先で値上がりしそうな切手は早く買っておかないと後からは買えなくなるのではと感じた。そこで中学生になってからは記念切手を買い集めるのを完全に止めて、普通切手に限定して集め始めた。
今から思えば先で値上がりしそうな対象を先回りして買っておく初期の投資態度であった

高校受験が近づくまでに切手集めは止めていた。高校時代は男子校だったこともあり殺伐とした環境で、切手を集めているなどと言えばいじめの対象にされる状況だった。切手収集はどうしてもお金がかかる趣味だったので、もっと低コストで実行できる使用済み切手の消印に注目し始めた。

切手商ではキロウェアと称して封筒などから切り取った使用済み切手がグラム単位で売られていた。1kgで送料込みで2,000円程度だったと思う。興味のない人にとっては紙ゴミをお金払って買うようなものだが、夥しい枚数の使用済み切手の中には結構珍しいものが含まれていたり、中には封筒に貼ったものの使われることなくそのまま切り取られた紙付き未使用の切手もあった。8割方価値のない使用済み切手だったが、お宝を探し出す愉しみと未使用切手を含めれば元が取れた。10kg入りのものを買ったこともあったと思う。

この過程で価値の殆どない波消しや機械押印、局名の読み取れないものを除外してまとめて福祉会館へ持っていった。当時は公共施設でベルマークや古切手収集が行われていて、私からすれば無価値なのだが数百グラムの古切手を持っていって大変に喜ばれている。局名が鮮明に読み取れる切手は、五十音順に袋へ入れてリストしていた。

消印研究は大学時代まで続けていたが、対価を支払って購入するものは限定されていた。新規に始めたのは広告付きハガキ(エコーはがき)だけで、普通切手はデザインや価格改定があって古いものがなくなるとき銘版付き・CM(カラーマーク)付きを買い集めた。料金改定がない場合は古いデザインの切手もなくなるまで販売し続けるが、消費税改定で端数のついた切手は販売を取りやめるらしかった。このことを知ってからは、消費税改定のとき41円、62円切手を(慶弔用の切手を含めて)大量に買い集めている。

収集用に切手やはがきを購入したのは、消費税率改訂のときが最後だったと思う。現在は切手はストックブックないしはアルバムへ保管し、はがきは箱に入れて押し入れの奥へ眠っている。このうち未使用の切手については劣化しないように保管することが難しいので、希望者があれば譲渡・売却したいと考えている。
【 貨幣・紙幣 】
第一次切手ブームのときお世話になった宇部井筒屋4階の切手売り場には、同時に古銭なども販売されていた。しかし古銭は切手のようなシリーズ性や種類が少なく価格も二束三文か子どもの小遣いではとても手が届かない高額なものが多いので、身の回りに集めている学童は居なかった。切手と同時期に買ったと思われる古銭が数枚ある。


変わったところでは、中学校時代は登下校路である恩田運動公園のメタセコイア並木で、プール横を流れる用水路で何度も古銭を拾っている。富士山をデザインした一銭アルミ貨が多かった。何故そこで集中的に見つかるのか分からず、当時の日記でこの水路のことを「黄金用水路」と書いている。

現行貨幣では早くから希少な年号のものに注目し、お釣りで入手した貨幣の年号を調べている。いわゆるギザ十・フデ五は常時釣り銭をチェックし、含まれていたらかならず取り除いてガラス瓶に貯めていた。
昭和50年頃から既に始めているので、中学生以降はギザ十・フデ五を使ったことは一度もない。ギザ十の詰まったガラス瓶は今も保管されていて、手元の貨幣のチェックはなお続けられている。しかしここ数年まったく出会わないことから、流通量が極めて減っているようである。これにはキャッシュレス決済が多くなり、釣り銭を硬貨で受け取る機会が激減しているのも理由である。

よく知られているギザ十・フデ五の他に、現行貨幣で昭和62年は全体的に発行枚数が少なかったことから一部の貨幣に稀少性が見出される。特に昭和62年の50円硬貨はミントセットとしての流通に限られ、価格が高騰している。その直前の60年、61年も発行枚数が少ないことが知られている。

大学生時代、実際の流通量がどれ位であるかを確かめるために、銀行の両替機に一万円札を投入し、50円パック(50枚入り)4本に両替しての年号調査を数回やったことがある。昭和61年は10枚以上見つかったが昭和60年は数枚だけであり、発行枚数に呼応して少ないことが判明した。このときスクリーニングした年号の50円玉もそのまま保管されている。

かつては重要なイベントが開催されたとき、記念硬貨が発行された。この種の収集で手元にある最初期のものは沖縄海洋博の記念硬貨である。古くて価値のあるものとしては昭和39年の東京五輪が有名である。しかし身の回りに記念貨幣を集めている人が皆無であること、購入した後そのまま退蔵されるので稀少性が出る見込みが殆どない(額面のまま)ことからまったく関心を示していない。一旦郵便局で引き替えたもののその後お金に困って使ってしまったものすらある。

紙幣に関しては額面が高く、コレクションし続けると財政難に陥ることから初期は非常に限定されたもののみを手元に留めた。岩倉具視五百円札、伊藤博文千円札はそれ以前からたまたまミントをストックしておいたものである。千円札が夏目漱石に変わってからは、紙幣の状態もだが記番号に注目し始めた。ゾロ目番の稀少性はすぐに想像つくところで、実際切手コイン商でもプレミアムが付く。かつて日銀から地方銀行などへ納入された風袋付きの札束からゾロ目のような特札が抜き取られ問題となったことがある。

特殊な記番号の紙幣を入手するのは非常に難しい。硬貨なら50枚パックの両替を繰り返すことで可能だが、紙幣は束で入手できるほど資力がないし、近年は硬貨の両替も機械を通すことなく窓口で本人確認が要るようになっている。状態の良い紙幣を何枚か入手したとき記番号をチェックすることは毎回している。この最も著名で印象的だったのが旧五千円札の特番入手であった。当時私は高校生で、新聞の集金に来られたとき一万円札を出してお釣りとして戻ってきた五千円札にゾロ目番が含まれていたのだった。あり得ない偶然に当初私はニセ札ではないかと疑った程だった。お札は中央に軽い折り目が一筋ついているだけで状態も良好だった。お釣りなどからゾロ目の紙幣を入手できたのは、この他には野口英世石千円札で一度のみ(2箇所に軽い折り目あり)である。

非常に長期間にわたって現行紙幣の記番号を観察してきたものの、ゾロ目どころか実際には下4桁がゼロである紙幣に出会うことさえも難しい。これは十分多くの紙幣を観測してきた頻度と確率に照らし合わせて異様に低く、流通し始める初期の段階でこういった”特異な記番号”の紙幣は、最初に気付いた人によって留め置かれているのではないかと思う。
《 貨幣と紙幣 》
一般にコイン商と呼ばれる取扱業者は貨幣と紙幣を取り扱うので本項でも一つに含めている。
切手にジャンルやシリーズがあるのに対しコイン類にはそのような区分けが殆どなく専ら時系列に扱われる。
【 古銭 】
ここで言う古銭とは主に銭や厘の単位を含む現代では額面のままで行使することのできない日本のコインを指す。
宇部井筒屋の切手売場ではコインも扱っていた。切手ブーム期は別として後年になると切手のみの販売ではやっていけず切手とコインを取りそろえるのが通例だった。現在のコイン商は更に換金可能な金券やカード類も含めて取り扱っている。

国内の古銭を含めても際限ないほどあり、中には到底手が届かないほど高いものがあること、切手のようなシリーズ性がないことから切手ほど興奮を呼ぶものではなかった。学童の中でも店舗でお金を払って集める事例が殆どなく、私自身も実際にお金を出して買った古銭は数少ない。多くは友達との交換や祖母からの譲渡、拾得品[b1]である。
【 現行貨幣 】
現行貨幣と紙幣を収集するのは古銭類とは異なった特別の意図がある。まず現行貨幣の場合は発行枚数が少なくある程度の価値を持つと考えられるものがいくつかあり、丁寧に年号を調べて使わずにおくことから始まった。昭和32年の五円玉、昭和33年の十円玉は特によく知られ貨幣に興味を持つ学童にも知られていた。

高校生以降になって改めてこの種の情報を調べたところ現行50円硬貨で昭和60〜62年のものが稀少であることを知った。このうち62年のものは記念として製造された分にとどまり市中には殆ど流通していないと考えられている。しかし60年と61年はたまたま手元にあった硬貨にその年号のものを見つけたので、大学生時代に余剰金を使って銀行で50円硬貨のパックを何本も両替しては年号を調べることを繰り返した。この過程で60年と61年を数枚見つけだしている。
近年では平成期の一円玉でも稀少なものがあることが知られる。しかし製造の始まった昭和30年より一円玉は一定数製造され続けた背景があり、特に昭和期の年号で稀少なものはないのでまったくチェックしていない。

同じく現行貨幣としては記念硬貨の引き替えがある。この初期の例は沖縄海洋博で、宇部則貞郵便局で引き替えたものが今も存在する。その後も天皇陛下のご成婚記念や瀬戸大橋完成などの記念硬貨発行のニュースは把握はしていたが、その頃には収集することの意義を「価値が出るか否か」のみに置いていたためまったく交換に行っていない。このような貨幣は殆どが引き替えた人の手元に退蔵される。数が多いため今後数十年経っても額面以上の価値を持つことはないだろう。500円のような高額貨幣は使用するか通常の500円玉貯金へ移すことも考えている。

収集目的とは別に、お釣りとして返却された中でも比較的傷が少なく美麗な硬貨がある。そのようなものは一定枚数手元に置いている。通常の年号でも美麗な状態で手元に置く人が少ないなら、記念硬貨よりも価値が出るかも知れないという思惑からである。

この目的で早くから美麗な現行貨幣を貯め置いており、平成十年代ながらミント並みに傷が少なく美麗な貨幣がある。


この最も初期の事例は、中学1年生のときにうちへ集金に来る銀行マンに頼んで引き替えてもらった5円玉パッケージである。前述のように当時は5円玉集めをやっていて、穴に紐を通して部屋に飾りたいという目的から50枚パックを引き替えてもらっている。

この5円玉パックは全部が昭和50年であり、最後まで貯め置かれたせいかミントに近い状態である。しかし大気に晒されるだけで酸化するし指の脂が着くことでも汚れる。現在は特に美麗なものだけを少し手元に置いている。
【 現行紙幣 】
現行紙幣も硬貨と同様種類が少なく時系列的な扱いになるのだが、個別の記番号を持つためその特性に興味が集まっている。特にアルファベットがA1つで始まる特異な番号やゾロ目ものは珍重される。
この分野における初期の成果は聖徳太子五千円札の例がもっとも印象深い。たまたま集金に来た新聞配達人に差し出した一万円札のお釣りとして得られたもので、記番号はKR666666Nで中央部に軽い折り皺があるのみだった。これは手元に入る紙幣の記番号チェックを始めて一年程度のことであり衝撃を呼んだ。
どういう経緯だったか親が近所の人からお金を借りるときの担保として一度だけ私の手元を離れたことがあった。その紙幣がうっかり近所の人の手を離れて市中へ還ってしまうことを恐れたが、幸い担保としての役割を全うした後に現物が私の手元に戻っている。

ゾロ目と登り連番のような特殊な記番号はアルファベットにかかわらず一定の価値を持つことが知られている。五千円札の事例後も継続して手元に入る紙幣はすべてチェックしていたが、伊藤博文千円札で下り連番(比較的皺が少ない状態)のものが入手しただけでその後暫く成果がなかった。
この種の「特異な番号」を有する状態の良い紙幣がどれほど入手しづらいかは、番号の条件を緩めた場合(2種類の数字のみや下4桁がゼロなど)でも十数年かけてチェックされていながら条件を満たす紙幣が数点しか検出されなかったという事実で示される。確率的にみて異様に低いと体感されるものがあり、このことからかつては銀行員や紙幣を扱う内輪の人々によって価値のある特異な番号の紙幣が抜き取られているのではないかと考えていた。[b2]

平成期に入ってすべての紙幣のデザインが刷新され、古いデザインの紙幣はすべて日銀主導で回収された。伊藤博文千円札時代から記番号チェックを行っていたので、特別な番号でなくてもミントを数枚づつ保存している。昭和期に発行停止された板垣退助百円札は一枚のみ、岩倉具視五百円札は数枚しかない。これらの紙幣は現在まったく流通していない模様で過去十年近くにわたってお釣りで渡されたことがない。特異な例では、平成期に入っての紙幣発行における最大の無駄とも指摘される二千円札で、現行紙幣であるにもかかわらずお釣りとして渡されることは皆無である。[b3]収集用としては発行直後に当時担当だった銀行員に数枚持ってきてもらったものが存在するのみである。記番号の特異なものを頼んでいたが見つけることはできなかった。

記番号が尽きたときインクの色を変えて最初の番号から改めて刷ることが知られており、インクの色で概ねの発行時期を知ることができる。このため夏目漱石千円札時代になっても初期のインクから現行のものまで最低一枚ずつは保存している。
これらは収集として意義を持つとは言っても該当する紙幣が手元に入ったからと取り除き続けるのは強引な貯金も同然で、当然ながら生活が苦しくなる。したがって現行の五千円札や一万円札はよほど価値ある記番号でない限り取り置く予定はない。
【 ギザ十とフデ五 】
現行貨幣ではあるがギザ十は小学生時代から特別な興味をもって集められていた。大学生時代から後はスポーツ飲料のガラス瓶に貯め続けている。
写真は瓶の蓋を開けて内部を撮影。


現在も継続しているが最近は流通量自体が極めて少なく年に2〜3枚しか入手できない。フデ五も同様にチェックはしているが近年まったく目にしない。しかし2022年11月にセルフレジで小銭を投入しようとして財布にフデ五が入っていたのを発見し、使わずにセーブしている。現在は5円玉の流通自体がかなり少なくなっている気がする。

五円玉に関しては昭和23年と24年に穴の空かない国会議事堂の意匠のものが知られる。こちらは既に流通していないようで過去数十年に渡ってお釣りでの現物遭遇がない。おぼろげながらの記憶によれば、小学校高学年(昭和50年頃)のとき駄菓子屋でくじを引いたときのお釣りで受け取ったことがあり、それだけで珍しい体験だった。
【 小銭集め 】
学童期の小銭と言えば1円玉・5円玉のみを指す。十円玉は一般の学童においては小銭ではなく物品を買えるだけの価値がある貨幣扱いだった。それは十円玉一枚あればガムを買ったりくじを一回引くなどできたことによる。
集めてみたいと思った初期の体験としては小学3〜4年生のとき算数の授業で使われた1円玉が印象深い。昔から1円玉は直径1センチで1グラムということが広く知られる。担任の先生は1キログラムという重さがどれほどのものか実際に教室へ1円玉を千枚詰めたビニル袋を持ってきた。重さ云々よりも千枚の一円玉が欲しかったのを覚えている。ただしそれを契機に集め始めてはいなかった。

初期の小銭集めの例としては五円玉を紐に通しての収集がある。確か丸河内にある母の知り合いの家に行ったとき丈夫な紐に数百枚もの五円玉を通して壁にぶら下げていたのを見た。その時点で遊びを兼ねて紐を外して年号を分類し、価値のある昭和32年のものを一枚だけ見つけている。これを真似て自分も五円玉を紐に通して飾っていた。しかし大量に通した五円玉が壁から落ちて散乱してからは瓶に詰めるようになった。
従兄弟は十円玉で同じことをやっていた。叔父さんが飲んだ後に残ったサントリーウィスキーの大瓶に一杯になるまで貯め込んでいて、全部中身を出して枚数を数え年号を分類したことがある。

キチンと管理する形で小銭を集め始めたのは小学6年生卒業間際のことである。手元にお釣りとして渡される1円玉・5円玉をいっさい使わず瓶に入れて貯めるというもので、入金があった都度わざわざノートに日付と内訳付きで通帳のように記録していた。
最終的に収集をやめたのは高校生か大学生のときである。お金に困っていたからではなく貯め込んでも場所を取るし利息がつかないからと思う。このときすべてを使い果たすのではなく、すべての年号を一定枚数ずつ抜き取った後に使っている。このため現在でも特に稀少な年号を除いてありふれた年号のものも数枚ずつ取り分けている。記録していた通帳ノートは恐らく廃棄されている。

永年かけて貯めた大量の貨幣を金融機関へ持ち込むことは、機械を酷使し枚数チェックの手間もかかるため嫌がられている。近年では一度に使用できる貨幣の枚数に制限をかけたセルフレジが一般的であり、金融機関によっては枚数によって引き取り手数料が課せられる。例えば1円玉を500枚預けようとして手数料を取られ40円しか残らなかった事例が報告されている。[b4]

現在も1円玉・5円玉はすべての年号を一定枚数づつ保管している。しかしこれらの貨幣に額面以上の価値が出ることは殆どなく交換手数料の問題があることから、数枚ずつのみ保管して少しずつ使用している。
【 500円硬貨 】
これは収集と言うよりは預金に近いのだが、500円硬貨の収集は現在もなお継続されている。500円硬貨の発行は昭和50年代後半からで、収集は平成期に入ってからだった。

野山時代から数回行い、手持ちのキャッシュに難儀したとき郵便局へ持っていって2度ほど両替している。このため偽造事件が多発する前の古いバージョンの硬貨は、収集用として取り置いていたものしか存在しない。現在は3度目の収集開始で、大きめのガラス瓶に溜め込んでいる。非常用の手元資金も想定していて、セルフレジのあるスーパーで買い物するとき500円硬貨が含まれるように千円札と少額貨幣を混ぜて投入することも行われている。財布に数枚溜まったら取り除いてガラス瓶へ入れている。既に8割くらい一杯になっている。

前項のように大量の硬貨を両替するには手数料が必要となり、ATMで多くの貨幣を投入すると管理が大変なので忌避されている。将来預金することを考えて一時期は集積が鈍った。しかしすぐに使える現金の形で手元資金を確保しておく重要性と、500円硬貨は現行の最高額面でインフレが進行しても今すぐ処分に困ることはないので、結局従来通りの集積を行っている。一般のレジでは500円硬貨は払い出しの方が多いようで、分散すれば一定の需要が見込まれるから処分に困ることはないと予想している。
出典および編集追記:

b1. 恩田市営プールと陸上競技場の間のメタセコイア並木沿いにある水路で中学生時代に数回古銭を拾っている。このことから当時は「黄金水路」と勝手呼称していた。

b2. 過去には実際内部関係者がそのような価値ある紙幣を抜き取って額面以上での換金を試みた事例があり問題視された。

b3. 集金業務において個人の支払いで渡されたことは数回ある。

b4.「えっ?硬貨預け入れに手数料!? ”1円玉500枚超が残り60円に”|熊本日日新聞

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