善和

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記事作成日:2015/5/17
最終編集日:2016/3/3
ここでは、善和という地名の背景を含めて善和に関する一般的な記述をまとめて掲載している。
《 概要 》
善和(よしわ)とは市の中北部、二俣瀬区に存在する地名である。後述するような歴史的背景により善和村として誕生したが、昭和29年に二俣瀬村が宇部市へ編入された後は大字となっている。住居表示改訂が行われていないので現在も登記簿のような正規の地番表示は大字善和字東吉原のようになるが、一般には他地区と同様字表記は省略し大字も略して宇部市善和xx番地のように表記される。[1]

校区としては二俣瀬区になり、小学校区は二俣瀬小学校、中学校区は厚東中学校である。[2] 班の単位では瀬戸原、吉原、井手ヶ原、城生原に分かれていて宮掃除など善和地区全体の行事以外は各班ごとに活動している。このうち国道沿いにある吉原地区のみが集会所を持っていない。(後述する)

地区を国道490号が縦貫しており、善和交差点では東に県道216号善和阿知須線、西には瀬戸原から善和までを国道部分と重用する県道219号西岐波吉見線がまみえる交通の要所となっている。現在も断続的に交差点改良および4車線拡幅工事が進められている。
写真は拡幅工事前の善和交差点


国道は市街地と市北部を連絡する市営バス路線になっていて、地区内には善和交差点付近に善和バス停、その400m程度北側の吉原に下善和バス停がある。
同地区内では山陽本線が国道と併走しているが、地区内に駅は存在せず、むしろ本由良〜厚東駅間は山陽本線の中でも有数の駅間が長い場所となっている。また、同地区には市内を通過する鉄道としては唯一の隧道を持ち、善和ずい道と命名されている。
地区内にはかつて善和および上清水という2ヶ所の信号場が存在していた
《 自然 》
地区内には瀬戸原方面で大谷川と合流する2級河川善和川が流れ、国道および山陽本線の間で位置関係を頻繁に入れ替えつつ北へ流れている。県の南部に面した宇部市は殆どの河川が必然的に南へ向いて流れる中、善和川はほぼ真北へ向いて流れる唯一の2級河川である。この特異な流下経路は明白に善和地区の気候に影響を与えている。河川は上流部において周辺大気の熱を奪い下流にて放出するという性質を持つ[3]ので、柿の木原川と会合する地点付近では水量の多さも手伝って周辺気温を押し下げている。このため夏場はやや涼しいものの、市街地からそれほど離れていないながら冬場の寒さは非常に厳しい。体感的には市街地よりも気温が3〜4度低く、市街部ではみぞれ状態でも善和地区では田畑にうっすらと雪を被りその後も暫く融雪しない状況が多い。この急激な変遷は国道490号を市街地から走った場合、白石交差点を過ぎた先から明白に残雪が目立つことにより体感される。善和地区の冬の寒さはかなり周知されており、善和のかつての呼称「間地」の絡みから「寒地」と表現されることもあった。[4]

周囲に急峻な山はないが、現在の善和交差点の南東側には間地論争終結を記念して設定された共有林を抱える青岳があり、西側は市民にも広く親しまれている霜降山が控える。現在は県道となっているもののこの道は元々霜降山の登山道であり、昭和40年代までは雨裂の目立つ未舗装路だった。持世寺まで車で抜ける道が整備されたのもそれ以降のことである。
善和地区は霜降山への登山口拠点の一つであり、この県道以外にもかつての登山道がいくつか知られる。数年前、国土地理院の三角点が設置されている付近の藪に鳥居の柱と台座のような石材が発見された。霜降山登山道の一つと考えられる経路途中の私有地内にあるため、遙か昔に登山口を示すものとして私設されたのではないかと思われるが、まだ詳しく調査されておらず詳細は不明である。
《 生活 》
かつて田畑における農業が主体であったが、高齢化の進行と後継者問題から農業を営む戸数が少なくなっている。昭和後期には殆どの田が作られていたが、その時点で善和地区内には子どもの絶対数が少なかった。かつて善和で生まれ育った世代も多くが地区外へ流出したか、あるいは居住地を構えていても殆どは農業以外の別の仕事を持っている。

水の得やすい沢地が殆ど田であったものが現在では休耕田から耕作放棄状態になって荒れている場所が目立つ。田よりは維持管理に手間がかからず多彩な作物を育てられる畑地への転用もみられる。善和川を中心とした沢地沿いの地勢で水が得やすく、水質も一部で金気のある水が出るも概ね良好である。この水質と前述のような気温差のためか産出されるお米は(特にブランド名は冠されていないものの)大変に美味しい。自給自足の必要性からも規模を縮小して自家用限定に米作を継続する家が多く、稲作が完全になくなってしまう可能性はこの先も当分ないと思われる。
【 懸念材料 】
人口が減少しているために維持管理や収益性の問題から商店や金融機関などが設置されず、その不便さから更に人口減を招く悪循環となっている。かつて現在の善和交差点には個人商店(庄賀商店)があったが、国道490号拡幅を前に閉店している。南方の瀬戸原にもかつて個人商店が存在したが、庄賀商店以前に閉店して現在はビデオレンタルの店となっている。現在の最寄りの店は田の小野に近い天重商店のみである。このため善和交差点を基準に考えても最寄りの金融機関や買い物場所など半径3km内にはなく、高齢者においても車が生活の足としての必需品となっている。

ネット関連のインフラの立ち後れも著しい。例えば私が野山へ越してきた平成初期ではADSLが標準、一部では光回線が普及し始めた状況でなお電話回線を用いた分単位の課金でしか利用できなかった。その後ほどなくして定額制のISDNとなったものの回線スピードは極めて遅く、ADSLの最寄り中継局が厚東駅付近で実効速度が出ないため実質的にサポートされていない。光回線は当然利用できず今後も光ファイバーが敷設される計画もない。このエリアにおける高速なネット環境を求めるならば携帯やスマホを利用したテザリングないしは数年前に漸く普及したケーブルインターネット以外ない。
なお、携帯は近年電波塔が各地に建てられ改善されたが、越して来た当時は会話中の回線切断が頻繁に起こり、キャリアを変えたものの同様の現象に見舞われている。当時のサポートエリアマップでは善和地区全体が白抜け状態になっていた。北側に面した台所では圏外になることもあったという。現在は携帯の電波問題に関してはすべて改善されている。

地区内の国道は将来にわたって拡幅整備される計画があるが、善和交差点周辺の要所が賑わう程度であり、近年の市街地回帰の傾向を見ても新規に居住開始する事例は考えられない。平成期に建てられた民家を残す程度で、いずれ地区全体が国道の通過点に過ぎない小集落となることがかなり明らかである。
《 地名としての善和について 》
善和という地名の発生は歴史的にも明確に分かっている。隣接する村から切り離され何処にも属さない間地(かんぢ)と呼ばれた時期異を経て一連の論争を終結させ和平を願って命名された地名である。この間地論争については善和八幡宮の記事を参照。
派生記事: 善和八幡宮
しかし間地論争が史実であるにしても、この善和という地名は純粋に「善く和す」という願いのみに基づいたものではなく、命名の背景となった前駆的地名が存在すると考えている。これは次のような理由による。
(1) 善和という地名が与えられる以前から人々の暮らしがあったこと。
(2) 歴史的事件や人々の所作のみに基づいて地名が発生する事例が稀少であること。
(3) 地域内に善和の読みと音感の酷似した中核的な字が存在すること。
論争期は村の境界が明確になっておらず、入会権に関するトラブルで刃傷沙汰まで起きている。そのことから論争の始まる前からこの地に暮らすか少なくとも薪などを採取しに入る形で人々の関わりがあった。人々の関わりがある場所にはかならず固有の地名が与えられるという観測的事実から、善和と命名される以前の先駆的な地名が存在していた筈である。
何処の村にも属さないという意味での間地という呼称は、この地に接する両側の村民がせめぎ合い始めることで生まれた呼称である。現在は「かんち」またはそれに類する読みをもった字が存在しないことからも、これは地名ではなく「論争地を指すための便宜上の呼称」とみるべきである。既に存在しないのは、争いを収めるためには遺す必要性を欠くからに他ならない。間地論争は比較的近世において騒擾の歴史であり、およそ郷土愛があるならば後世へ争いの地に関する名称を遺したくないという気持ちが働いたとも推測される。

新しい地名を作り出しそれが違和感なく受け入れられるために、佳い意味を含むことの他にそれ以前から存在していた先駆的地名の一部から文字や読みを採取するといったことがよく行われる。この意味で紛れもなく善和の先駆的地名の候補たり得るのは吉原である。吉原は時代によっては吉ヶ原と表記されたり、読み方も「よしはら・よしわら・よしがはら・よしがわら」などと幾分の揺らぎがあるが、音感的には明白に現在の善和に近い。現在は小字表記を行わないので登記簿以外在住民も殆ど口にすることはないが、下善和バス停付近から善和川の東側は字東吉原であり、善和八幡宮の所在地も含まれる。
善和八幡宮に向かう参道が山陽本線を横切る踏切名は東吉原第1踏切となっている

以上の根拠より、善和という呼称および表記は、間地論争以前から存在していた吉原に倣って与えられた佳字と考えている。(吉原由来仮説)[5]

現在の字吉原が善和の命名を元に後発的に誕生したという逆順の可能性については考えていない。[6]によれば善和村は現在宇部市に編入されている他の村よりもずっと後ろの大小区制が当てられており、しかしながら善和村中には吉原小村が記載されている。また、吉原の由来はほぼ明白に「葦の生える原」であり、同様な背景から生まれた地名に対して「吉」の佳字を当てた他の地名がいくつか存在する(吉見、吉田など)が、「善」の字を当てた例は善和以外に見受けられないからである。

善和が音感的に殆ど同じ読みの吉原から造り上げられたことにより、元々は便宜上の地名に過ぎなかった間地という呼称よりは当時の在住民に違和感なく受け入れられたのではないかと想像される。こうして善和は本来の吉原を保ったまま他地区の小字を書き換えることなく、それらを含んだ地域名として市民においても高い知名度を持っている。現在では間地論争や善和という名の由来が語られることは殆どなくなったが、この地名が失われることは永遠にないだろう。
出典および編集追記:

1. 善和八幡宮の由来板でも所在地の記載からして大字善和829番地となっており小字表記が現れていない。

2. ただし牛明(うしあけ)地区は二俣瀬校区ではあるが川上校区に近いため学童は川上小中学校に通っている。

3.「Wikipedia - 河川|温度

4.「宇部ふるさと歴史散歩」p.205

5. この呼称は当サイトによる恣意的なものである。現在までのところ善和と吉原の地名由来について関係を指摘した文献に接していないため仮説として記述している。既に同趣旨の説が提出されているか、あるいは指摘するまでもなく自明なためにどの文献でも言及されていない可能性もある。

6.「山口県地名明細書」p.194
《 近年の変化 》
・2010年代より国道490号において善和交差点から市街地寄りの道路改良工事が始まった。改良に先立って善和川を付け替えて道路は交差点まで4車線化されている。
なお、4車線化は当面善和交差点までであり、北側の4車線化はまだ用地買収にも入っていない。この区間の4車線化は恐らく計画にも含まれないと思われる。

・2015年の終わりに善和交差点のすぐ北側にある植樹帯にあったアメリカフウが地元在住民との協議を破って恣意的に伐採される事件があった。
植樹帯が道路線形にかかることは以前から伝えられていて樹木をどうするかの地元協議があった。この段階で「全数を県道と善和川の間に移植する」という点で合意をみた。しかし実際には2本移植されただけで工事が長く停まっていた。
同年の12月、地元住民には何らの告知もされることなく突然残っていたアメリカフウがすべて伐採され当日中に残骸も搬出された。地元の意向を無視した証拠隠滅同然の暴挙であり、喪われたアメリカフウは戻らないので今更異議を唱えるつもりもないが、一連の経緯は詳細な記録を予定している。
派生記事: 善和の植樹帯
(記事が書き上がり次第リンクで案内します)

年が明けた2016年の3月には植樹帯部分の歩道化および舗装が完了している。

・2016年3月現在、地元管理の善和児童公園(後述リンク参照)に自治会館を設置する案が浮上している。
善和において特に吉原地区周辺には昔から自治会館のような寄り合い所がなく、話し合いは常に善和八幡宮を借りて行う異常な状況が常態化していた。詳細は「集会所の問題について」を参照。
《 個人的関わり 》
本項目の記述の多さから推察されるように、学童期しばしば遊びに来ていた親戚のある地であり、現在の市街地へ生活拠点を移す以前は十年近く暮らしていた地でもあった。
個人的関わりについて書き始めるときりがない程だが、大人になって生活していた期間よりも学童期遊びに来ていた想い出の方が鮮烈でより詳しい。一連の記述はここではなく各物件の個人的関わりとして書いている。
同地区内にかつて存在した地元管理の公園。幼少期の個人的関わりが強かった。
平成期以後は近づく人もなく遊具類はすべて藪に埋もれている。全2巻。2012/3/22作成。
派生記事: 善和児童公園

山陽本線善和ずい道の南側坑口に接近したときのレポート。
なお、当時はトンネル名が分からなかったので近くの字名(井手ヶ原)を元に仮称で記事を書いている。2008/11/5作成。
外部ブログ記事: 井手ヶ原トンネル(仮称)

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